幽霊犬の備忘録

某市の職員。政治学を齧りジェンダーや経済思想に関心。

育休について(その3) 育児は「イベント」ではなく「ルーティン」と捉えたなら、2人目が産まれた際は育休よりも時短勤務が望ましいか?

久しぶりの投稿。

 

異動してから通勤時間が減って、あんまりブログのネタを考える暇がなく、更新が少ないな。

 

それはさておき、タイトルのとおり、今回は育休について、また考えてみる。

今回はもうすぐ産まれる2人目の子どもについてだ。

実はこの記事は5月に書いてたが、2人目のことをあまり広く言う時期じゃなかったので、今まで寝かせていた。そろそろ良い頃合いかな。

 

さて、本題。

 

 

二人目の子供が産まれた場合、育休などの制度をどう使うか、という課題がある。
仕事との兼ね合いだけではなく、1人目の育児との兼ね合いもある。
有限なリソースの最適な配分はどうするべきか。

 

具体的には育休、時短、早出遅出勤務など色々な選択肢があるが、正直、タイトルに書いたように、短期間(1、2か月?それ以上は業務的に厳しい)でガッツリ育休を取るよりも、長いスパン(次年度終わりくらいまで)で時短等を活用した方がむしろ良いのかもしれない、という気もしている。

 

育児は「イベント」ではなく「ルーティン」であると強く感じたのは、かつて4か月育休を取って、そのあと職場復帰した経験からだ。

 

育休期間は、ガッツリ家事育児をすることになった。
妻も育休を同時に取っていたので、「ツーオペ」で育児をしていた状態。
今思うと、この期間は正直結構“ラク”だった。
そのあと、自分が先んじて職場復帰して、昼間は妻がワンオペという状態で半年過ごした。
この期間も、自分としては、そんなに大変ではなかった(妻はどう感じていたかは分からないが)。
そのあと、妻も職場復帰(フルタイム)して、子供は保育園に入った。
本当にキツかったのは、そうやって共働きになったばかりの2、3か月のところだ。
保育園の送迎や家事育児、保育園から大量に日々持って帰ってくる洗濯物などなど・・・。
(保護者の負担がトビキリ重い保育園に通わせているから、平均的な家庭よりもそこは厳しいと思う)
子どもはすぐに熱を出すから、急遽仕事を休まなければいけないこともあった。

 

もう一つ事情を加えると、妻の職場が比較的ブラックだったということもある。

育休明けで1歳児をフルタイム共働きで育ててるのに、月50時間レベルの残業があった。

突発的な残業もあった。

 

そんなこんなで、端的に言って、育休という「イベント」期間が終わっても、育児という「ルーティン」はそのまま続いたのだ。当たり前だ。

 

当たり前すぎることだが、「育休を取ること」は父親による子育てのごく一部でしかない、ということは改めてここで強調したい。

 

 

●もちろん、初めての育児というのは人生における「一大イベント」であることは間違いない。
育休を取ることで、ここで、家事育児のスキルをグンとアップさせることが可能だ。

意識も変わる。
その期間で「父親になる」というのが、育休の大きな意味の一つだろうと思う。
(育休取ったのに家事をやらないヤツは、育休を取った意味がないと思う)

例えば『フランスはどう少子化を克服したか』という本には、下記のようなことも書いてあった。

フランスはどう少子化を克服したか (新潮新書)

フランスはどう少子化を克服したか (新潮新書)

 


(一部要約)


第1章 男を2週間で父親にする
・フランスの父親は、産後14日間、「産休」を取るのが当たり前になっている。7割ほどの父親がこの制度を利用している。
・この2週間は「赤ちゃんと知り合う時間」とされ、ここで助産師さんなどから徹底的に育児のイロハなどを身に着けることになる

ただ、そう考えると、一度スキルアップした育休取得経験者は、もう、そのあたりの「伸びしろ」が少ないということになる。つまり、「スキルアップ」というイベント的側面からすると、2人目の育休は、1人目の育休より、「コスパ」が悪いのかもしれない。

 

●そうは言っても、4歳児を育てながらの新生児の子育てがどれだけ大変なのか、想像がつかない、というのが正直なところ。「スキルアップ」という側面でのコスパ云々の前に、目の前のキツい育児に専念できる環境を整えたほうがいい、ということも考えられる。「赤ちゃんがえり」とかもきっとするんだろうなぁ(苦笑)。

 

●そもそも、短期間の集中的な育休と、長期間の時短を両方すればいいじゃないか、という考え方もある。それが一番良い。ただ、仕事との兼ね合いもあるし、「育休は取らない。代わりに、時短を向こう1年半取らせてくれ」という「交渉」も考えられるかもしれない。

タダの弊害の続きと『地域再生の失敗学』の違和感

「タダ」の弊害についての呟き - ghost_dog’s blog

この前の記事の続き。

 

地域再生の失敗学 (光文社新書)

地域再生の失敗学 (光文社新書)

 

 

この前、自治体職員有志の読書会でコレを読んだ。

 

この本での指摘には概ね賛同で、特に、木下斉さんへの自分の誤解が解けて良かった。

正直、「稼ぐ」ことを強調されると「さもしい」と感じてしまっていた。しかし、木下さんは、「黒字」経営を目指すことが持続可能な生業(なりわい)のためには必須だ、というとても当たり前のことを言っているに過ぎなかった。

当たり前のことを言ってるんだが、その当たり前が駆逐され、補助金が地域経済を歪めているが大きな問題。

 

さて、ただ、気になる点もやはりあった。

当初は言語化出来なかったが、少しは違和感の所在が掴めたので、書き留めておく。

ここからが本題。

 

木下斉さんは、地域再生では薄利多売ではなく高付加価値のビジネスで黒字で稼げという。

商店街では、アサヒスーパードライではなく、そこでしか買えないクラフトビールを売れ、単価を上げろ、と。

(訂正:本で挙げてあったのはウイスキーだった)

ただ、それに消費者がついてこれない、という問題はどう考えればいいのか。

 

アサヒスーパードライどころか、大手資本は格安でプライベートブランド商品を出してくる時代。

それらを買う人の中には、経済的にそれしか買えない人もいるだろう。

「買えない」は言い過ぎかもしれないが、クラフトビールどころか、第3ではない「普通」のビールについて「贅沢品」と認識している人も少なくはないだろう。

 

年金受給世代の格安トンカツ屋を問題視するのであれば、資本にものを言わせて廉価なプライベートブランドを打っていく大企業の方こそ、よっぽど問題視するべきではないだろうか。

 

もっと言えば、件のツイートの老店主のトンカツ屋は、主観的には、ボランタリー精神によるものだ。他方、大手資本のプライベートブランド販売は、単なる経済合理性の世界だ。

 

木下斉さんへの違和感はここにある。

イオンやアマゾンなどには勝てないし、どうしようもない、と切り捨てたその姿勢への違和感だ。

 

木下さんの真意はあの本だけでは分からない。

ただ、木下氏のスタンスが、商店街に対して「今のままじゃ稼げない。ダメだ。変われ。」と言い、老店主のトンカツ屋には「退場しろ」と言う一方で、イオンやアマゾン自身は変わらなくていい、と言うものであれば、その意見には賛同は出来ない。

 

ただ、もちろん、木下さんは学者でも政治家でも無い実践家ゆえ、そういうマクロの提言は守備範囲ではなく、言及しなかったというだけかもしれない。

また、善悪の問題は置いておいて、現実的にはアマゾンを退場させることは不可能なので、その前提に立ったうえで、それでも地域が戦っていく方法を考えたのがあの本、ということかもしれない。

 

木下さんが「アマゾンやイオンの経営も自己努力の結果で何ら非難されるべきところや変わるべきところは無い」なんて明言している訳でもないし。

 

 

 

「タダ」の弊害についての呟き

 

 

こういうTwitterの投稿を見つけた。

 

「タダ」って怖い。熊本か東日本か忘れたけど、避難所で無料でみんなの髪を切ってあげた美容師ボランティアがいたことで、その後営業出来るようになった美容師が普通に金を取ろうとしたときに「なんで金取るんや」と責められた、というエピソードを前に見たことがある。詳細は言えんが、今の自分の仕事でも、民業圧迫という観点が必要な部分がある。

 

で、上のように呟いたところ、友人Sと少し議論になった。

それをせっかくなので、ブログに残しておく。

 

友人S

トンカツ屋の話はまさにその通りで、年金というベーシックインカムがありながら、趣味的に営業するお店は圧倒的有利。不動産所得とかも同様。買い物する側としても、意識して選びたいなとは思うけど、所得なんて見えないしなぁ

 

それについて、自分はこう返した

 

ただし、ここで更に疑問がある。本当にその格安トンカツ屋で命を繋ぎ止めている(と言ったら大袈裟かもしれんけど)層がいたとしたら。例えば、老夫婦が営む(と言っていいかは分からんが)のが子ども食堂だったら。老夫婦の行動は必ずしも悪なんだろうか。

 

友人S

子ども食堂のみということなら、客層が被らないからいいのでは。 

 

自分

Sの店選びの観点は、いわば応能負担とも言えるんだろうか?ユニクロ等の薄利多売型のファストファッション批判の問題も近い議論かもしれん。

 老夫婦のトンカツ屋が他業を駆逐するのはけしからんとして、何かしらの政策などで「新陳代謝」を働かせて、老夫婦を「退場」させたとする。働き盛りのトンカツ屋は潤うのかもしれんが、その老夫婦のところでしかトンカツを食べられなかった層は救われない。うーん。

薄利多売モデルの大企業、多国籍企業、チェーン店は、「訓練されたゴリラ」にでも可能な労働環境の整備でもって労働者の尊厳を奪い、人件費を抑え、雇用の流動化を進めてワープアを産むけれども、その薄利多売モデルの恩恵に一番預かるのがワープアだ、というのは割とよく聞く分析。袋小路感ある。

悪いかたちでの「ニワトリタマゴ問題」とも言えるかもしれん。

仮にBI導入されれば、老夫婦のトンカツ屋のようなスタイルが増えるだろうか。

 

友人S

応能負担というより、お店を営業している人を単なるサービス提供者としてだけではなく、生活者として見て、買い支え(?)するって発想かなぁ。ただ、それを言い出すと、トンカツ屋が仕入れている肉が誰が生産したものか、とかまで考えなきゃならぬ。まさに、君たちはどう生きるか、の世界

 

自分 

上記にも絡むけど、そういう「善い」消費行動を取れる層ばかりじゃないよね。端的にワープアフェアトレード商品は買えない。そういう意味で、応能と感じた。

『負債論』第4章 残酷さと贖い 要約

・貨幣は商品でもあり,借用証書でもある。コインの表には硬貨の鋳造者である政治的権威の象徴があり,裏には交換における支払価格がある。
・物々交換の神話と,原初的負債論の神話は,隔たっているように思えるが,実際はコインの裏表であり,一方は他方を前提にしている。つまり,人間存在を宇宙からの負債と把握するのは,人間生活を商取引からみることによって可能になるということだ。ニーチェが分析するように,世界を商業的観点から想像すると,必然的に原初的負債論の系譜にたどり着くことになる。
・これらは全て,人間は合理的な計算機であり,商業的な自己利益が社会に先立っており,「社会」自体がそこから帰結する紛争にまにあわせにふたをかぶせる方法でしかない,という誤った人間本性の前提から出発している。しかし,狩猟社会についての人類学文献では,賃借計算の拒絶に人間であることのしるしがある,という狩猟民の思想が見いだされる。彼らにとってそれをすることは,負債と通じてたがいを奴隷あるいは犬に還元し始める世界を形成してしまうことだ。
ニーチェは,贖い/救済(redemption)という概念の理解にも有益だ。自由(freedom)とは,負債よりの解放を意味する。贖い/救済とは,歴史の終焉における恩赦,すなわち計算システム総体の破壊である。
・ここで,1つの疑問が浮かぶ。最終的な贖い/救済の到来する前に,とりあえずなにが可能なのか?キリストのたとえ話の中に,こういうものがある。王から借金を帳消しにされたしもべが,今度は自分が他人に貸している借金を無情に取り立てをしたことで,王の怒りにふれ,投獄されたという話だ。信者は「われらが免除するごとく,われらの負債も免除してください」と懇願する。しかし,祈る信者のほとんどは,自らが免除などしていないのを承知の上で祈っている。であれば,神が赦す理由はあるのか?
・この喩え以外にもキリストの発言は二重に読める両義性がある。われらが借金を免除することを,はたして本当にキリストは期待しているのか?それとも,それが無理なのは明らかなので,救済はあの世においてのみだと思い知らせたいのか?
・ほかの宗教にも両義性はみられる。商取引への還元を糾弾する一方,その異議を商業的な観点から枠づけているのだ。
・とはいえ,これまでの考察から,芋と靴を交換する近隣者のエピソードは無邪気すぎることがわかる。貨幣のことを考えるとき,思い描かれていたのは,友好的な交換ではなく,奴隷売買,徴税,抵当や利子,略奪,盗み,復讐,懲罰などのことだ。
・階級間の政治的抗争は,負債解消の申し立てとして出現し,聖書等の宗教にはそのモラル上の議論の痕跡が残っている。その中には,市場の言語が取り込まれている。

育休について(その2) 思考実験ー生活保護受給者が育休を取れるのか?

過去のFacebookの非公開グループでの投稿。

この非公開グループは、「女性活躍」をテーマにした役所の同僚中心のもの。

非公開グループなのでコピペしていいか迷ったが、まぁ、匿名だから良いでしょう。

 

という訳で、以下コピペ(一部編集あり)。

 

【質問】
 今回は、皆さんの意見を伺いたいと思っています。いきなりで申し訳ないですが、率直な意見をお聞きしたいです。

 質問はずばり【生活保護受給者の父親が「育休」を理由に仕事や求職活動をしないと主張してきた場合、どのように考えるのか】です。
※子供が保育園に入るまでの時期を想定してます。

(誤解が無いように予め明言しますが、これは、実際の業務で起こっていることの悩みではなく、単なる思考実験的な問題提起です)

 私は、区役所の保護課でケースワーカーをしていました(その保護課にいるときに、職場の同僚や上司の協力を得て、育児休暇を4か月半取ることができました。)
ご存じのとおり、生活保護受給者は、病気や年齢などの就労阻害要因が無い限り、就労指導を受けることを余儀なくされます。妊婦であっても、出産後、可能な範囲で保育所に子供を預け、就労するよう指導されます。夫婦がどちらも病気等しておらず働けるなら、専業主婦(夫)は許されず、やはり働くよう指導されます。

 では、夫婦そろって生活保護を受けている場合、健康上の問題もない夫が、子供が産まれたからと仕事を休んだり、やめたり、就職活動をしないと宣言したりしたら、どうするのでしょうか。やはり、仕事や求職活動をするよう指導することになるのでしょうか。
 こういう実例は未だお目にかかったことがありませんが、子供が産まれたばかりの家庭で、夫について就労指導を行っている事例は、何度も目の当たりにしてきました。かたや、市の職員たる自分は、育児休業を取ると申請しても、拒否されることはありませんでした。この差異をどう考えるべきなんでしょうか。男性の育児休業を推進したいという気持ちはあるものの、この差異のことを考えると、自分がダブルスタンダード的な振る舞いをしてしまっているんではないかという気持ちになるのです。

 取り得る考えの選択肢は単純化する下記の3つの項目に絞れてしまうと思われるんですが、みなさまの考えはいかがでしょうか。

生活保護受給者も育児に専念していいと考える(生活保護の制度(運用?)のほうがおかしい)
生活保護受給者が働くことを余儀なくされているのだから、市の職員も、可能な限り働くべきと考える(育児休業を取れる市の職員のほうがおかしい)
生活保護受給者と、市の職員は、事情が違う。生活保護受給者は働くべきだが、市の職員は育児休業を取ってよい。その異なる事情とは○○。(現状のままでいい)
④その他

 

友人Sのコメント

俺は③だと思う。違いの根拠は「民主的正当性」

市職員は、労働条件として育児休暇を取得することを認められている。この労働条件は議決されて民主的正当性を獲得しているはず。一方で生活保護が、子どもを預けても働くようにという制度設計なのであれば、育児のために仕事を休む/やめる(ことによって収入を減少させる)ことは民主的に正当だと認められていない。つまりそんな税金の使い道は認めてないということ。で、ここまで書いて思ったけど、上記はあくまでも現行制度を前提とした上での回答であって、そもそもの制度自体の在り方とか思想について答えてないので、●●が問おうとしたこととズレてるかも、、、?

親が働きに出る際に保育所に子どもを預けると、その保育所の運営にも税金は投入されているので、結局保護費と保育所運営費を天秤にかけて、どっちが財政上良いのかという観点とか、そもそも家事や育児や介護も「労働」じゃないのかとかいろんな論点が含まれる思考実験だと思う。ちなみに、親の介護してる受給者に対しても、施設に預けて仕事しろって指導することになるの?あと一つの問題は、夫婦同時取得を認めるのかということ。妻が育児休暇取得あるいは専業主婦をしている間に、夫が育児休暇を取る(あるいはその逆)ことの是非。それと関連して、①については、夫婦のどちらかは認めてもいいんじゃないかという気は、個人的にはしている。財政上の云々は置いといて。

 

先輩Aのコメント

●●さん、初めまして。●●さん、問題提起ありがとうございます😊

ワークライフバランスが未だに福利厚生的な制度に留まっている現在では、③の、制度が違うので育休が取れる取れないは立場が違えば利用の可否は別れると思います。だからと言って、我々がワークライフバランスや育休を取るのを萎縮すべきではないと思います。

我々が目指すは、制度が社会全体に行き渡って、男女の別なく、また、子どもの有無なく、すべての人が自分のライフの割合や優先順位を自分で選択できるようになることなのです。制度が利用できる我々が率先して取得して、社会全体へのロールモデルになるのが、今できる精一杯のことじゃないかなと思います^_^ すると、制度が風土となり、文化となって生活に根付いていくのだと思います。これは、世代を超えた長い年月が必要ですけど、一歩ずつですね。

 

先輩Iのコメント

●●さんの問いかけ、すごくいいですね。突き詰めると育児休業を取得する権利は、憲法で定めた「健康で文化的な最低限度の生活」として保障すべき権利か、という問い。これは、時代の変遷で変わっていくでしょう。昔は生活保護世帯には自家用車やクーラーの保有は認めていませんでした。高校進学も原則認めず、例外として高校進学が将来の就労、被保護世帯の自立につながるものとして認めていました。育児休業も、世間一般で誰でもが権利行使するようになった暁には、生活保護世帯でも認められる権利になると思います。ただ現段階では、我々公務員のように、▲▲(上記友人S)さんのおっしゃる「民主的正当性」を持ってしか存立しえない、いわば発展途上の権利(?)ですので、生活保護世帯にそれを認めることは、「パチンコ」や「飲酒」を認めること以上に、民主的正当性についての疑義が生じるかもしれませんね。ということで、私は③です。

 

先輩M

●●さん、まずはグループへようこそ!一度一緒にSIMをプレイしただけの間柄でしたが、FBで繋がらせていただき、時折の投稿内容を拝見していた中で、こちらのグループに誘ってはどうかと思い立ち、最近招待をさせていただいたところです(*^^*)そして話題提供もありがとうございます(^0^)/ やはり新しい風が入ると動きが出ていいですね(笑) 今回のようなハッキリした切り口でなくてもいいと思うんです、皆さん、これを機にまたいろいろ思い付いたところでワイワイお話ししていきましょうね。ちなみに今回のテーマで言うと、正直そこまで思いを巡らしたことがなく、逆に言えば、無意識のうちに③の立場を取っていたのではないか、とハッとさせられたところです『誰もが「いい(良い)加減」で大事なものを選び取れる社会』を理想に掲げていたはずなのに…(>д<) Aさんのコメントに大変共感しています!そう、それでも我々はできることを一歩一歩やっていくのであります!( ̄^ ̄)ゞ

 

続けて、自分のコメント。 


Iさんが、
>突き詰めると育児休業を取得する権利は、憲法で定めた「健康で文化的な最低限度の生活」として保障すべき権利か、という問い。
とまとめて下さいました。
これは、元ケースワーカーとして、もちろん意識していた問いです。

ただ、自分が投げかけたかったのはむしろ、育児休業を取得する権利を認める理由、理念、思想、理論は何なのかという問いでした。言い換えれば、「なぜ育休を取っていいのか」「なぜ仕事をしなくても許されるのか」という問いであり、生存権生活保護というよりは、育休を取った自分自身を顧みるための問いでした。

この問いについて、皆さんのコメントを読んだり、本を読んだり、妻と議論したりする中で、自分の中で少し考えがまとまりました。少し長いですが、自分がどう考えたのか書くことで、皆さんのコメントへの返答としたいと思います。

現時点でたどり着いた仮説は、現状では育児休業(残念ながら)「子どもを育てる権利」をではなく、単に雇用主に対して「退職しなくてもよい権利」を主張する為の制度でしかないということです。そして、それこそが生活保護受給者と自分たち職員との間で「育休」の可否に差がつく理由の一つなのだろうと考えています。

かつてはOLという働き方や、M字カーブが当たり前でした。結婚するまでは「お茶くみ」として働き、結婚したらやめる。(そして、家事育児がひと段落ついたあとは、非熟練のパートとして、夫の家計を補助的に支えることになる。)女性たちは、そういった「二流の労働者」としての働き方を余儀なくされ、働く権利を限定的にしか実現できない状況におかれた(もちろん現在進行形でもありますが)。

そんな彼女たちにとって、育児休業制度はあくまで「結婚して子供を産んだとしても、仕事をやめなくても済む権利」を実現するための制度として誕生し、そう受け入れられたのでしょう。一言で言えば「退職しなくてもよい権利」。働くことが当たり前になっている自分たちは忘れがちですが、働くことが「権利」だということから「育児休業」は出発したのだと思います
(世代によっては、こんなことは当たり前の事実で、取り立てて言うほどのことではないのかもしれませんが、「育児休業」が当たり前の制度になりつつある自分たちの世代にとってはあまり共有されていない気がします。このあたりは本を読むことで、気付いたことです)

一方、生活保護受給者は、働く権利があるのは勿論だとしても、強調されるのは働く「義務」。まずここでズレがある。そして、育休というのがあくまで雇用主に対して「退職しない権利」を主張するための制度だとすれば、その権利を雇用主ではない行政に主張されても、残念ながらお門違いということになってしまうのでしょう。

以上のように、生活保護受給者と賃労働者との間で「育休」に関して差異が生まれる理由を、自分なりに考えてみました。

ここで少し話題は変わりますが、育児休業が「退職しなくてもよい権利」の為の制度でしかないということは、男性の育児休業が進みにくい理由にもなっているのではないでしょうか。

不当に退職を余儀なくされていた女性たちにとっては、「退職しなくてもよい権利」は闘う武器になったのでしょう。一方、仕事を辞めることをはじめから想定されない男性は、「退職しなくてもよい権利」をもらったところで、あまりありがたみが無い。男性たちに必要なのはむしろ「子育てをする権利」だったり、「家庭の為に仕事を休む権利」を正面から認めるものなんだと思います。

こうしたことを踏まえて育児休業が「退職しなくてもよい権利」ではなく「子供を育てる権利」のための制度としてアップデートされればいいな、と私は考えています。

将来的に、育児休業が「子供を育てる権利」にアップデートされたとして、それが「健康で文化的な最低限度の生活」が保証されるという生存権の枠内に収まるものなのかどうかは、また別の議論が必要になると思いますが・・・

現状③と回答いただいたみなさんが、法改正や制度変更も含めて、生活保護受給者の育休について<将来的にどうあるべきか>と問われたら、どのようにお考えになるのかも、気になりますね。

長文、乱文大変失礼いたしました。


ちなみに、参考にしたのはこの本です。
非常に面白いので、興味のある方は是非お読みください。

 

*1" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51H3lH2BfaL._SL160_.jpg" alt="働く女子の運命 *2" />

働く女子の運命 *3

 

 

 それから、 ご覧になってる方も多いと思いますが、上記の自分の問題提起と繋がるように思えます。情報提供のためにリンクを貼っておきます。

www.facebook.com

 

▲▲(友人S)ののコメントも非常に興味深いと思います


非常に差別的な言い方に聞こえてしまうので注意が必要ですが、単に費用面だけで考えた場合、生活保護受給者の子どもを保育園に登園させるのはコスパが悪い気がします。
求職活動中で保育料や税金の徴収も期待できない生活保護受給者の子どもを保育園に入れて、ガンガン働いて保育料や税金を納めてくれるところの子どもが待機児童になるのは、財政的には損なのかも。

もちろん、金銭勘定だけで考えていい問題ではないので、あくまで一つの論点ですね。

 

友人Sのコメント

俺も、育児休業の制度の趣旨は「退職しない権利」だなと思ってた。
ただ、なぜ「退職しない権利」を主張する必要があったかまで考えると、●●も一部指摘したように、「新卒一括採用&終身雇用&年功序列型賃金」の雇用慣習のもとでは、いったん離職してしまうと、また正規雇用として採用されるのは相当に狭き門だから。
そういう理由で、正規雇用のまま「退職しない/復職する」権利を叫ぶ必要があった。(その理由だけじゃないかもしれんが)
「中途でも正規職員になれる/非正規でも一定の収入が保証されている/失業(子育て)期間でも、雇用保険等で十分に生活できる」社会の仕組みがあれば、子育てしたいときにいったん退職すればいいから、育児休暇という「企業福祉」(福祉と呼ぶかどうかも議論があると思うが)ではなくて、「社会福祉」として育児の権利が保障されるんだと思う。

つらつらと書いて思いついたけど、いくら「育児休業」を「子育てをする権利」にアップデートしても、企業の負担の中で行われる以上、「労働者としての権利」の枠組みから抜け出して、「人としての権利」に転換しないんじゃなかろうか、、、

*1:文春新書

*2:文春新書

*3:文春新書

「そこでしか出来ない仕事」があるのに「イヤならやめればいい」は無いだろ、という話

●今まで考えてきたこと
日本は、メンバーシップ型雇用システムからジョブ型雇用システムへ転換していく過渡期にあるのかもしれない。
経団連が「終身雇用もうムリ」と言っちゃったというニュースも大きく報じられた。

そういう文脈もあって、ブラック企業や劣悪な労働環境などの話題になった時に「転職なり、起業するなりしてイヤならやめればいい」という意見を言う人がいて、それに対する不満をブログに書いたことがある。

 

 これの 4「嫌ならやめろ」を本気にしなくてもよかった時代 の部分。

ghost-dog.hatenablog.com

 


もちろん、いやならやめられる、という社会が望ましいのは言うまでもない。
だが、それをできる能力がある人ばかりではない、という視点は同時に持っておかねばならない。これまで書いてきたブログの趣旨はそこだ。

 

ちなみに,それと似たような話で、はるかぜちゃんのこのツィートも感動的だった。

これに勇気付けられた「中で努力している人」は大勢いるだろう。

 


●今回書きたいこと・・・そこでしか出来ない仕事
「能力」だけではなく、もっと根本的な問題がある、というのが今回書きたい話題だ。

何も難しい話ではない。この社会には「そこ(その組織)でしかできない仕事」というものがある、ということだ。


例えば、「A市の市民のために働きたい」と思ってA市役所に入った地方公務員はまさにそれだ。「市民の安全を守りたい」と思って警察官や消防官になった人も同様だろう。

 

「ブラックな職場なら、やめればいい」というソリューションは、確かに存在するのだろう。しかし、そうすると「こういう仕事をしたかった」という思いを諦めないといけない。 

 

もちろん、民間へ転職し、民間の立場から自分が住んでいるまちを盛り上げるということも当然あるだろう。そういうこと自体は否定しない。(木下斉さんが推す方向)
しかし、公でしか成しえない仕事というのは存在するだろう。例えば、今井照氏が言うような「ディフェンダー」の役割だ。

 

●労組の役割
当然だが「イヤならやめる」という選択肢が採りえないということは、多少のイヤなことも甘受しなければいけない、ということだ。
ゆえに、公共労組が果たすべき役割は、そこで働くことを前提にしつつ、労働条件の改善を図り、その「イヤなこと」そのものを減らすこと、だろうと思う。当然だが、転職を支援することは想定し得ない。

 

他方、民間労組の場合、「いやならやめられる」という状況をつくりだし、転職を支援したり援護したりすることこそが、今後のジョブ型における組合の役割として重要になるのではないか。それは、企業別から産業別へ転換しなければいけない、ということにほかならない。それによって初めて、ブラックな職場を適切に「駆逐」していくことが可能になる。


これまでの方向を踏襲して、終身雇用(長期雇用)の死守という考え方も完全には否定しない。安定した雇用というのは、それそのものが重要な権利だ。そして、そこで働くことを前提にした労働条件の改善も必要だろう。しかし、それには限界がある。

 

そもそも、特定のライフコースが想定されていたメンバーシップ型は、そのライフコースからの離脱者が少なかったからこそ成立したのだし、少数の離脱者の犠牲のもとで回っていたともいえる。しかし、今や、特定のライフコースなぞ過去のものだ(『ライフシフト』の議論)。

 

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)

 

 

かつての企業別労働組合は実際のところ、メンバーシップ型雇用システムとの関連でこそ、うまく機能してきたのだろう。いや、その企業別組合の在り方も含めて、「メンバーシップ型雇用システム」だったと言えるのかもしれない。メンバーシップ型雇用システムは崩壊しつつあるが、かといって、今のままではジョブ型雇用システムは訪れない。このままだと「かつてメンバーシップ型だった何か」という地獄絵図が待っている。

 

●ジョブ型は本当に可能か?
とは言うものの、本当にジョブ型への移行は可能なのだろうか。

上では、メンバーシップ型雇用システム、とか、ジョブ型雇用システムと書いてきたが、実際は、「日本型福祉」とも言われる福祉制度や税制、大学システムなどを広く包含した「メンバーシップ型社会」とでも言うべきものが形成されている。

ジョブ型社会は、組合や福祉、再就職・雇用を支援する公的なシステムなど、広く色々なパッチがあって初めて成立するものだ。パッチというよりは,広範なクッションのようなイメージか?端的に言って、高負担、高福祉、であって初めて「やめる」というリスクを社会化することが可能になるのかもしれない。

完全に脱線してしまったので、この辺にしておこう。

ジョブ型,メンバーシップ型ということについては,ぜひ,この2つの本を。

 

*1" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51H3lH2BfaL._SL160_.jpg" alt="働く女子の運命 *2" />

働く女子の運命 *3

 

 

 

「大学改革」という病――学問の自由・財政基盤・競争主義から検証する

「大学改革」という病――学問の自由・財政基盤・競争主義から検証する

 

 

*1:文春新書

*2:文春新書

*3:文春新書

『負債論』第3章 原初的負債 要約

●貨幣の国家理論と貨幣の信用理論
・ミッチェル・イネス等が提唱し、周縁的地位に追いやられてしまった貨幣信用理論というものがある。それは貨幣を信用とみなす理論で、貨幣は商品ではなく計算手段であり、抽象的な尺度単位に過ぎない、とした。尺度とは、すなわち負債の尺度である。銀行券は(金や銀等の)「実質貨幣」による支払いの約束ではなく、なにものかを支払う約束に過ぎない。
・例えば、私はAから靴をもらい、借りを作った(負債を負った)とする。それについて、「いつかAに靴相当のものを与える」という約束を暗黙の了解で済ませたのが第2章の話だ。そこから一歩進めて、私が約束を示すものとして「借用証書」を作り、Aに渡したとする。それがAの手から、B、C、Dへと渡り続け、それが向こう50年間、効果を持ち続ける。それが貨幣の起こりだ。この借用証書は、金でも紙切れでもなんでも良い。ある対象物の価値の尺度ではなく、人間によせる信頼(トラスト)の尺度なのだ。
・問題は、人々が紙切れを信用し続ける理由を立証すること。借用証書の偽装が起こりうるし、「私」は成熟した社会で数百万もの証書を作り出すことはできない。だが、国家ならばそれらを解決する。『貨幣国家理論(貨幣国定学説)』では、貨幣が尺度単位に過ぎないのなら、そこに皇帝や国王が介入していなければならない、とした。なお、実際の取引では規格が揃った硬貨が必ずしもなかったばかりか、帝国瓦解後も、通貨制度は維持された(イマジナリー貨幣=想像貨幣と呼ばれた!)。重要なのは貨幣という物理的な「もの」の存在ではなく、システムの存在なのである。
・実は、借用証書が有効なのは「私」が負債を返済しない限りにおいて、だ。歴史的には、イングランド銀行は、もともと、国王に融資(ローン)を行っていたのだ。銀行家は、国王の負債を流通させる、ないし「貨幣化」する権利を得たということになる。この融資は現代まで消滅していない。
・アダムスミスが言うように国や政府と関係ないところで貨幣が誕生したならば、政府が民衆から金銭を集めるのに金山や銀山を占領すれば事足りたはずだ。しかし、実際、政府が納税を求めたのはなぜか。それは、それが市場を生み出す簡単で効果的な方法だったからだ。領民に対し、大規模行軍の兵站を供給させることは容易ではないが、兵士に金銭を渡し、領民に納税義務を課せば、あとは市場が解決する。実際、古代においては軍隊の周辺に市場が起こったことが多く、反対に、国家なき社会は市場をもたない傾向があった。
マダガスカル等の植民地では、征服後に、税と貨幣と市場が創設された。人頭税廃止後も、市場の論理は残ることになった。
イングランド銀行の興りのような、国家が負う負債が貨幣の根源であるという話は、『AI時代の新ベーシックインカム論』でも同じようなことが書いてあった気がする。

 

●神話を求めて
・実際は「神話」であるにも関わらず、主流派経済学の物々交換のストーリーが広く常識になったのは、一つには、文化人類学の側が、魅力的な「神話」を提示して来れなかった、という側面がある。それは無理からぬことで、「貨幣」とは「もの」ではなく、多種多様な習慣や実践、手段だからだ。
・「神話」の1つとして、貨幣国家理論(貨幣国定学説)に宗教に関する研究もふまえた「原初的負債論」というものがある。論者は、例えばサンスクリット語ヴェーダを分析している。曰く、人間の存在自体がひとつの負債である。しかし、この負債は完済しえない(完済=死?)。そこで、貢物が死を延期するもの、利子の支払いとしてみなされるようになった。そして民衆は、神への負債に対する供犠を払うのと同じように、神、もしくは、神と民衆の媒介者である王に対して、納税の義務を負うのである。事実、興味深いことに、牛や金銀のように、神々への供物だった物品が貨幣となった例は少なくない。
・問題は、神(や王)に対する負債が、具体的な計量交換手段たる貨幣に転換する過程だ。これに対し、原初的負債論者は、罪業(sin)や罪責性(guilt)により罰金や手数料が発生し、それを計算する必要性が産まれた際に、貨幣が創造されるとする。中世ウェールズの法典で、当時市場で購入不可能だった品物まで詳細な分類がされていたことも、確かにこの理屈で説明がつく。
・しかし、実のところ、原初的負債論者は、神話を記述、発見したのではなく、発明したのだ。まず、支払いとしての供犠という観念は自明のものではない。そもそも、交換は平等を含意しているものであり、すべてを持つ神や宇宙を取引することなど不可能で、ばかげているとみなされていた。また、神々への負債が税制の基礎となったという考えも、貢納が被征服民のみだったという事実と矛盾する。そして、原初的負債論者が言及しないメソポタミアについて検討してみると、支配者が臣下の生に干渉するときは、負債を課すよりも、民間の負債を帳
消しにするという手段を彼らがとっていたことがわかる。これは、原初的負債論者の想像からかけはなれている。
・そもそも、歴史上の大部分の人間にとって、じぶんがどの政府に属しているか明白だったことはなかった。原初的負債論者は、国家=社会という現代の概念を過去に投影している。この理念は19世紀初頭の社会学者コントに見出すことができ、そしてそれらは多くの思想に影響を与えている(デュルケームもその1つ)。負債の守護者、社会的総体の正当な代理人が国家であるという想定こそが問題であり、原初的負債という思想のうちには、究極のナショナリズム神話をみてとることができる。
・お互いにまじりあうことのない「負債なき場所としての市場」、と「原初的負債の場所としての国家」という二分法は、20世の罠であり、実際は、市場と国家は不可分なのである。