幽霊犬の備忘録

某市の職員。政治学を齧りジェンダーや経済思想に関心。

『負債論』第3章 原初的負債 要約

●貨幣の国家理論と貨幣の信用理論
・ミッチェル・イネス等が提唱し、周縁的地位に追いやられてしまった貨幣信用理論というものがある。それは貨幣を信用とみなす理論で、貨幣は商品ではなく計算手段であり、抽象的な尺度単位に過ぎない、とした。尺度とは、すなわち負債の尺度である。銀行券は(金や銀等の)「実質貨幣」による支払いの約束ではなく、なにものかを支払う約束に過ぎない。
・例えば、私はAから靴をもらい、借りを作った(負債を負った)とする。それについて、「いつかAに靴相当のものを与える」という約束を暗黙の了解で済ませたのが第2章の話だ。そこから一歩進めて、私が約束を示すものとして「借用証書」を作り、Aに渡したとする。それがAの手から、B、C、Dへと渡り続け、それが向こう50年間、効果を持ち続ける。それが貨幣の起こりだ。この借用証書は、金でも紙切れでもなんでも良い。ある対象物の価値の尺度ではなく、人間によせる信頼(トラスト)の尺度なのだ。
・問題は、人々が紙切れを信用し続ける理由を立証すること。借用証書の偽装が起こりうるし、「私」は成熟した社会で数百万もの証書を作り出すことはできない。だが、国家ならばそれらを解決する。『貨幣国家理論(貨幣国定学説)』では、貨幣が尺度単位に過ぎないのなら、そこに皇帝や国王が介入していなければならない、とした。なお、実際の取引では規格が揃った硬貨が必ずしもなかったばかりか、帝国瓦解後も、通貨制度は維持された(イマジナリー貨幣=想像貨幣と呼ばれた!)。重要なのは貨幣という物理的な「もの」の存在ではなく、システムの存在なのである。
・実は、借用証書が有効なのは「私」が負債を返済しない限りにおいて、だ。歴史的には、イングランド銀行は、もともと、国王に融資(ローン)を行っていたのだ。銀行家は、国王の負債を流通させる、ないし「貨幣化」する権利を得たということになる。この融資は現代まで消滅していない。
・アダムスミスが言うように国や政府と関係ないところで貨幣が誕生したならば、政府が民衆から金銭を集めるのに金山や銀山を占領すれば事足りたはずだ。しかし、実際、政府が納税を求めたのはなぜか。それは、それが市場を生み出す簡単で効果的な方法だったからだ。領民に対し、大規模行軍の兵站を供給させることは容易ではないが、兵士に金銭を渡し、領民に納税義務を課せば、あとは市場が解決する。実際、古代においては軍隊の周辺に市場が起こったことが多く、反対に、国家なき社会は市場をもたない傾向があった。
マダガスカル等の植民地では、征服後に、税と貨幣と市場が創設された。人頭税廃止後も、市場の論理は残ることになった。
イングランド銀行の興りのような、国家が負う負債が貨幣の根源であるという話は、『AI時代の新ベーシックインカム論』でも同じようなことが書いてあった気がする。

 

●神話を求めて
・実際は「神話」であるにも関わらず、主流派経済学の物々交換のストーリーが広く常識になったのは、一つには、文化人類学の側が、魅力的な「神話」を提示して来れなかった、という側面がある。それは無理からぬことで、「貨幣」とは「もの」ではなく、多種多様な習慣や実践、手段だからだ。
・「神話」の1つとして、貨幣国家理論(貨幣国定学説)に宗教に関する研究もふまえた「原初的負債論」というものがある。論者は、例えばサンスクリット語ヴェーダを分析している。曰く、人間の存在自体がひとつの負債である。しかし、この負債は完済しえない(完済=死?)。そこで、貢物が死を延期するもの、利子の支払いとしてみなされるようになった。そして民衆は、神への負債に対する供犠を払うのと同じように、神、もしくは、神と民衆の媒介者である王に対して、納税の義務を負うのである。事実、興味深いことに、牛や金銀のように、神々への供物だった物品が貨幣となった例は少なくない。
・問題は、神(や王)に対する負債が、具体的な計量交換手段たる貨幣に転換する過程だ。これに対し、原初的負債論者は、罪業(sin)や罪責性(guilt)により罰金や手数料が発生し、それを計算する必要性が産まれた際に、貨幣が創造されるとする。中世ウェールズの法典で、当時市場で購入不可能だった品物まで詳細な分類がされていたことも、確かにこの理屈で説明がつく。
・しかし、実のところ、原初的負債論者は、神話を記述、発見したのではなく、発明したのだ。まず、支払いとしての供犠という観念は自明のものではない。そもそも、交換は平等を含意しているものであり、すべてを持つ神や宇宙を取引することなど不可能で、ばかげているとみなされていた。また、神々への負債が税制の基礎となったという考えも、貢納が被征服民のみだったという事実と矛盾する。そして、原初的負債論者が言及しないメソポタミアについて検討してみると、支配者が臣下の生に干渉するときは、負債を課すよりも、民間の負債を帳
消しにするという手段を彼らがとっていたことがわかる。これは、原初的負債論者の想像からかけはなれている。
・そもそも、歴史上の大部分の人間にとって、じぶんがどの政府に属しているか明白だったことはなかった。原初的負債論者は、国家=社会という現代の概念を過去に投影している。この理念は19世紀初頭の社会学者コントに見出すことができ、そしてそれらは多くの思想に影響を与えている(デュルケームもその1つ)。負債の守護者、社会的総体の正当な代理人が国家であるという想定こそが問題であり、原初的負債という思想のうちには、究極のナショナリズム神話をみてとることができる。
・お互いにまじりあうことのない「負債なき場所としての市場」、と「原初的負債の場所としての国家」という二分法は、20世の罠であり、実際は、市場と国家は不可分なのである。