幽霊犬の備忘録

某市の職員。政治学を齧りジェンダーや経済思想に関心。

アニメ『一休さん』のハラスメント回を批判する

(2/22、ちょっと最後に追記有り)

 

0 前置き 

先日、とある宅飲みで『一休さん』のアニメを観る機会があった。

どうやらYouTubeで期間限定ではあるが公式配信されていたらしい。

(2/15までだったようで、もう観られない)

 

その第28回『つらい修業と鬼の和尚さん』が、美談っぽくまとめられているけど全然美談になりきれていない超胸糞ハラスメント回だったので、ちょっとレビューする。

 

1 話のまとめ

まずは、話を振り返ろう。

 

話は、寺に困っている人たちが詰めかけてくるところから始まる。

彼らが訴えるのは病気や金、仕事探しといった悩みだ。

たしかに「そんなこと寺に言っても」という相談ではある。

一休も「病気なんか治せませんよ~」と言ってる。そりゃそうだ。

ただ、訴える側としては、切実な悩みではある。

そこへ、和尚は「寺の仕事があるから引き取って欲しい」と言い、門を閉める。

 

一休「あの人たちを中へ入れてあげてください。」

和尚「ならん」

一休「でも困っている人を助けるのは僧侶として大事な勤めのはず」

和尚「僧侶の勤め?おぬしそれでも坊主のつもりか。未熟者め」 (喝×3)

 ※以下、「喝」は全て棒で肩を叩く打撃。

 

そんな会話の流れの中で、一休は、自分としては頑張っているつもりだったが、足りないのであれば、倍の修行を申し付けてほしい旨述べる。

それに対し「調子に乗るな、3倍だ」と返す和尚。

 

そこからは修行のターン。

2人1組でやるのが通常の「山作務(やまさむ)」、要は荷運び、を1人で行って来いという。

 

一休は、ここですでに反省している。

「未熟者と言われるのも無理はない。

事情があったにしろ、将軍様の招きに応じて何度となく寺を抜け出していった(とんちで問題を解決してきたこれまでのエピソードのことだと思われる)。そんなとき寺に残った先輩が自分の分まで辛い修行に耐えていた。頑張らなくちゃ。」

 

このツラい山作務をやっと終えたあと(しかも手伝うと言った先輩に対して、一休はこれは自分の仕事と断っている。一休エラい。)、ようやく水を飲んで少し休んでいるところ、「勝手に休むな」と喝

更に風呂炊きを命じられる。(先輩は手伝うと言ったが和尚が禁止)

 

そこでまた

薪にゴミが多い

鐘の音が小さい

・(風呂の準備ができた旨を和尚に伝えに行く際)頭の下げ方が足りない、正座の膝が崩れている

・風呂に入っている間は無駄話は禁止なのだが(それもどうなのよ)、先輩が喋っているのを聞いて(それも湯が熱いと叫んだだけ)、一休に対し監督が足りない

などと理屈をつけて何度も「喝」。

正直、イチャモンとしか思えないレベル。

 

風呂焚きが終わった一休は、背中が「喝」のせいで傷だらけで、風呂に入るのを嫌がっていた。それに対して、「これを塗っておけばいいのだ」と文字通り塩を塗り込む和尚。そのあと、結局風呂に入らされて激痛に苦しむ一休。

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傷が酷い。

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そりゃこんな顔なるわ。

 

で、翌朝。和尚は更に修行を課す(先輩は手伝うと言ったがやはり和尚が禁止)。

 

一休の様子を心配した女の子(さよちゃん)は、「和尚は鬼だ」と抗議する。

それに言い放つ和尚。

「儂の言いつけが聞けんものは今すぐこの寺から出ていくがいい」

 

場面代わって、和尚に「どういうつもりだ」と詰め寄る蜷川新右衛門

それに対して和尚。

「儂は同じ試練に耐えてきた儂に出来たことが一休に出来んはずはない。

一休は今さぞや辛く苦しい時であろう。

じゃがそれ以上に辛く苦しい思いをしているのはこの儂自身ですのじゃ。」

で、悟りとは誰にも教えられず自分自身で答えを見つける以外に途は無い云々。

ここで蜷川新右衛門は和尚の言うことに納得したらしい表情。

 

その後、寺の外に行って麦わらを集めてくる修行を言いつけられる一休。

 

やはり一休を手伝おうとする先輩に対して、蜷川新右衛門登場。

「誰も手伝ってはいかん

お前たちが手を貸したことが知れたら一休さんは寺から追い出されてしまうのだぞ」

と今度は先輩に諭す。

 

一休は何とかやっと寺に帰ってくるも、道中で雨が降り出し、濡れてしまう。

 

和尚「なぜ麦わらを濡らしたそれで使い道になるかこの未熟者

門をくぐるための作法にしたがって入れ

それができなくば、中には決して入れん

このままお前を寺から追放する」

(中略)

和尚「このひねくれ者」

一休「ひねくれておりません」

和尚「ひねくれていない証明をしてみせい」

 

ここで和尚の独り言

「儂はお前を立派な僧侶にするために寺に引き取ったのじゃ

毎日の厳しい修行に耐えていけるものこそ悟りの途が開けるのじゃ

少しばかりとんち小坊主の評判が高くなったとはいえ修行をおろそかにしてはならん

むごい仕打ちをするのはお前を憎む気持ちからではないぞ 分かってくれ一休」

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試行錯誤するも門を開けてもらえない一休。とうとう力尽きる。

「和尚様 お願いでございます

ちょっとここを通してくださいまし」

そして崩れ落ちる。


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そこで応える和尚。

「できたぞ一休

やっと素直な気持ちになった それこそ門をくぐりぬけるための作法じゃ

とんちとは世の中の常識をひねったところに生まれる

これに対し悟りは素直な心によって得られるものなんじゃ」

 

一休「素直な気持ちは苦しんで苦しみぬいた中から生まれる

だから私にあんなきつい仕事を言いつけたんですね」

 

蜷川新右衛門御師匠さんは鬼ではなかったという訳だ」

かよちゃん「はい和尚さんはとってもいい人です」

先輩「そうでーす」

蜷川新右衛門「現金なヤツらめ」

 

~終~

 

3 和尚の行為を肯定できない5つの理由

正直、ハラスメント和尚が肯定できないのは当然なんだが、一休自身や、周りの人間たちも素直過ぎて気持ちが悪い。大人がお膳立てしたご都合主義の描写そのもの。

 

ただ、このブログでは新右衛門などは置いておいて、とりあえず和尚に焦点を当て、以下、和尚の行為の許せない点について語っていく。

ポイントは以下の5つだ。

(1)理不尽を呑みこませる努力原理主義

(2)宗教者である和尚が「常識」を肯定

(3)「自分が苦労したから下の世代が同じ苦労をして当然」という価値観

(4)目的は手段を正当化しない

(5)過去のことをもちだして非難

 

順番に語っていこう。

 

(1)理不尽を呑みこませる努力原理主義

例えば

「なぜ麦わらを濡らしたそれで使い道になるかこの未熟者」というセリフ。

単純に「じゃあ、どうすりゃ良かったのよ」としか思えない。

終始、この回の和尚はそんな感じなのだ。

じゃあ、どうすりゃ良かったのよと問われても、和尚は答えなんか用意していないから絶対にそれに答えられない。

理不尽。その一言に尽きる。

 

ツラいことにも耐える力が必要。これは一般論としては分かる。

スポーツとか勉強とか楽器とか仕事とか、ツラいことに耐えてこそ、到達できる成果というものはたしかにある。それに向けた年長者や指導者からの指導も必要だろう。そこで耐えた経験が、他の分野で活きることもあるだろう。

 

しかし、ツラいけど必要なことと、ただツラいだけで不必要なことは違う。

後者はただの理不尽でしかない。

 

例えばダルビッシュはこんな風に言ってる。

ダルビッシュ有(Yu Darvish) on Twitter: "練習は嘘をつかないって言葉があるけど、頭を使って練習しないと普通に嘘つくよ。"

 

ハードル走の為末大も、同じように、努力原理主義についての懐疑的なスタンスを一貫して取っている。

 

自分自身、高校時代、部活の監督に、何度も何度も「考えろ」と言われた。

進学校で閉門が早く、部活の練習時間が短かったということもあり、キツい練習ではあったけど、無意味な練習は無かった。

(その先生は、国体でチームを全国制覇に導いた経験もあるガチで凄い方)

 

要するに、和尚に対して違和感を覚える点は、和尚が課しているのが、不要なこと、理不尽なことであり、それは努力原理主義である、ということだ。

 

(2)宗教者である和尚が「常識」を肯定

「不要なこと」とは言ったが、これに対して、「悟り」のために必要なんだ、人間社会の常識を宗教に持ち込んだって無効だと批判する向きがあるかもしれない。

 

たしかに、人間同士がつくった社会のルールに対して、宗教の超越性はある意味無敵だ。

以前、ウガンダという国の同性愛者のドキュメンタリー映画を観たことがある。

映画『Call Me Kuchu』を日本でも!

 

その国では、キリスト教が同性愛否定の強力な論拠になっていて、「神が同性愛を否定している」という主張に「人権」の論理はあまりにも無力だ、と痛感させられた。

 

そもそも、自分は仏教徒でも何でもない。「悟りって何?」レベルだ。

むしろ、小さい頃は親に連れられて日曜日は教会に行っていた。

だから仏教のことを詳しく語れる立場ではない。

 

しかし、それでも、自分は和尚を批判する。

 

和尚はこう言う。

「とんちとは世の中の常識をひねったところに生まれる

これに対し悟りは素直な心によって得られるものなんじゃ」

 

ここは、和尚が自分がなぜむごい仕打ちをしてきたのかを一休に説明するところで、いわば、和尚の狙いの核心だ。

だが、ここにこそ、問題がギュギュっと凝縮されている。

 

まずハッキリ言う。

不当で理不尽で暴力的で個人の権利を侵害する常識を無批判に受け入れ、考えることを放棄し、常識を変えていくことを諦めることが「素直な心」であり「悟り」であるなら、そんな「素直な心」や「悟り」なんか要らない。

自分には3歳のムスメがいるが、ムスメにもそんな素直な心は身に付けてほしくない。

 

ただ、宗教という超越性を前にして、この反論では反論たり得ないかもしれない。

だから、更に、もう1つ重要な点を付け加えたい。

 

それは、そもそも、「常識」に迎合せず、それにたいして普遍的な「真理」を追究し、 人間存在や世界の意味を問い直していくことこそ、宗教のあり方なのではないか、ということだ。

 

だが、この和尚は「常識」の側に立っている

「常識」に対して「素直」であれ、と言っている。

宗教者として、果たしてそれでいいのか。

 

理不尽な常識を受け入れるということは、処世術としてはあり得るだろう。

ただ、そんなことを宗教者に言ってほしくはない。

あの和尚は、ただの社会適合者でしかないのではないか。

 

和尚が言う「素直な心」は本当に「悟り」の本質なのだろうか。

そうではなく社会適合者が説く処世術にしか過ぎないのではないだろうか。

 

ていうか、上で

「悟り」のために必要なんだ、人間社会の常識を宗教に持ち込んだって無効だと批判する向きがあるかもしれない

って書いたが、そもそも、このアニメって、当然、別に仏教っていう特定の宗教を推すアニメじゃない。このアニメ、冒頭に中央児童福祉審議会推薦と出てくる。ちょっとググったところ、これは旧厚生省内の審議会らしい(現在は廃止)。公的機関が特定の宗教の教義を推薦、ということはないだろう。このアニメは、一休という小坊主が主人公で、寺が舞台ではあるものの、宗教そのものをテーマにしたものではなく、子供の「健全育成」のために、大人が作って見せようとしたものであって、この和尚が発するメッセージは、宗教者ではなく、社会の常識の側からのものだと理解するのがやはり正しい。

 

(3)「自分が苦労したから下の世代が同じ苦労をして当然」という価値観

「儂は同じ試練に耐えてきた儂に出来たことが一休に出来んはずはない」

これは言うまでもないが典型的なパワハラ上司の理屈である。

まさに生存者バイアスに捉われた思考。

生存者バイアスについては、自分も心理学の専門家ではないけど、知らない方は色々とググってみて下さい。

和尚は耐えられたかもしれないが、それを苦に自ら命を絶った者や、仏門を去って身を窶して生きていかねばならなかった者など、いたかもしれない。

 

百歩譲って、その試練が意味あるものであれば良い。

しかし、何の意味もない理不尽なものであったということは、さっき確認した。

 

洗濯機が出始めたときに、洗濯板で洗濯してた世代は「洗濯機は甘え」と批判したというエピソードを聞いたことがある(どこで読んだか覚えていないからソースは不確か)。

 

こういう「自分が苦労したから下の世代が同じ苦労をして当然」という価値観は、マジで滅せばいいと思う。

 

それよりも、まきむぅさんが言うように自分は

「ショートカットの道を作って消えていく人になりたい」。

 

www.e-aidem.com

 

(4)目的は手段を正当化しない

和尚はこう言う。

「一休は今さぞや辛く苦しい時であろう。

じゃがそれ以上に辛く苦しい思いをしているのはこの儂自身ですのじゃ。

むごい仕打ちをするのはお前を憎む気持ちからではないぞ 分かってくれ一休」

 

これについては、先日、明石市長のパワハラ事件についてFacebookで見かけたこの言葉を投げかけたい。

それは、「目的は手段を正当化しない」である。

この言葉は、友達の友達の友達、要するにアカの他人の言葉なんだが、とてもストレートで説得的で良い言葉だなぁ、と思った。

 

明石市長は「市民の為に汗をかくのが役所の仕事」という目的意識を言い、それ自体は正論で正しかったのかもしれない。ただ、職員へのパワハラという手段はやはりまずかった。いわば、情状酌量の余地はあるのかもしれないが、それでも、その目的(市民の為)は、手段(パワハラ)を正当化はしない。

 

和尚も全く一緒。

「一休を立派に育てたい」という和尚の意図、目的は間違っていないのかもしれない。しかし、それでも、理不尽を強要することは正当化されない。

 

いや、そもそも、和尚は「立派に育つこと=理不尽を我慢すること」と捉えていると言えるだろうか。その目的設定自体が誤っていることは、上の努力原理主義の批判で確認した。

 

(5)過去のことをもちだして非難

冒頭を思い出してほしい。

一休は、何か悪いことしたのか?

別に自分は仏教のことに詳しいわけではないが、

「でも困っている人を助けるのは僧侶として大事な勤めのはず」

ってそんなに間違ったこと言っているか?

正直、ここでキレる和尚は、一休の正論にまともに言い返せなかった小物にしか見えない

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そのときの顔がこれ↑である。

 

困っている人を放置して「修行に励んで悟りに至ったオレすごい」ってされてもサムいだけだと思うが、どうでしょう、皆さん。

 

結局、和尚がこの会で厳しい指導を始めたのに、これというキッカケがあった訳ではない。

彼は、一休の、これまでの振る舞いを叱責したのだ。

たださぁ・・・。

「前から思ってたんだけど」、「だいたいいつもアンタは」みたいに、<過去のことをもちだして非難する>って、やっちゃいけない叱り方として有名だよね。

 

自分は3歳の子供の親だが、子供にはそういう叱り方はしないように気を付けているつもりだ。

また、自分が今後部下をもつことがあれば、気を付けようと思っている。

 

さて一休だが、もし一休が調子に乗った、ナメた言動をやって、それを受けてあの指導ならまだしも、でも、そうじゃないんだよ、今回の一休は。

 

繰り返すけど、一休は「でも困っている人を助けるのは僧侶として大事な勤めのはず」って言っただけ。それに対して、一休は「喝」を入れられ背中をボロボロにされて、あまつさえ、そこに塩を塗られたんだよ。

これが理不尽でなくて何なんだと。

 

 

4 「嫌ならやめろ」を本気にしなくてもよかった時代

※ここからは、和尚のハラスメント批判とは直接関係が無いし、これまでより一層、抽象的と言うか小難しいので、それでも良いという方はお読みください。

 

(1)違和感の所在

和尚は「儂の言いつけが聞けんものは今すぐこの寺から出ていくがいい」と言った。

このセリフだけは、「和尚はヒドイ」で片づけられなかったので、6つ目の理由として書くのではなく、独立させた。

 

最初は、直感的に「そんなこと言うなんてヒドイ」とまず思った。「幼い子供が、出て行って生きていけるはずなんて無いのに」と。

 

次に、冷静になって考えた。

和尚も、一休も、このアニメを当時見ていた視聴者も、「一休が追い出される」とは本気で思っていないよな、この和尚の発言に目くじら立てて反論しなくてもいいかな、と。

 

しかし、それでもなお、違和感が残っていたから、その違和感の正体をずっと考え続けた。そして、一応、暫定的な結論にたどり着いた。

 

その結論とは、(幸いにも?)当時の視聴者が生きたのは「嫌ならやめろ」というメッセージを本気にしなくてもよかった時代だったが、今は違うということだ。現代の我々が置かれた文脈、価値観では「嫌ならやめろ」というメッセージは、かつてとは違った鋭さ、重みがあるのだ。

 

きちんとした説明になっているかどうかは疑問があるが、以下、少し語りたい。

 

(2)ソリッド・モダニティからリキッド・モダニティへ

かつての右肩上がりの成長の時代ならば、新入社員は、会社や先輩からのシゴキがツラかったとしても、それに耐えさえすれば、その後の出世や、年功序列型の給与制度に従った昇給を期待できた。そもそも、新入社員を育成するのは、企業自身の役割だった。そのシゴキは、一人前の社員を育成するためのものであったがゆえに、搾取には一定の限界があったはずだ。搾り取り過ぎては、一人前になるまでに枯渇してしまうからだ。何より、労働者は(多少の不自由はあるとはいえ)ライフコースを思い描き、人生の計画を建てることができた。

 

しかし、そんな時代はとうに終わりを告げた。大卒で即戦力が求められる時代。企業は、新入社員育成にコストをかけるのをとうに放棄した。定期昇給どころか、終身雇用の保証もいつしか特権と化した。派遣やパート、アルバイトといった非正規はなし崩し的に拡大され、ついには外国人単純労働者の受入にも手を付けようとしている。そこで非正規労働者に対して実行される搾取には持続可能性を考慮に入れる必要が無いぶん、限界が無い。搾り取れるだけ搾り取り、枯れたらポイだ。人は容易に使い捨てられる。かたや、正規雇用の地位を得られた者も、そこに安住ばかりはしていられない。その地位にしがみつくために、無理や理不尽を甘んじて受け入れざるを得ないケースも往々にしてあるだろう。彼らも搾取される存在である。

※10年くらい前に読んだこの小説の登場人物の一人は、念願の「正社員」の地位にすがりつくために死に物狂いで働き、過労死寸前にまで追い込まれていた。 七十歳死亡法案、可決 (幻冬舎文庫)

 

さんざん言われてきたことだが、労働者は、正規と非正規で二極化されている。 

ここ最近は「組織」に縛られずに自由市場で自身の付加価値を「生産」に結び付けられる第三局として「社会適合者」の台頭が見られるが、誰もが彼らのようにはなれないだろう。「自由」になるこということは、残念ながら失敗のリスクを個人で引き受けることと表裏一体だ。誰もが、やめたいときにやめられる訳ではない。というか、やめたあとの保証が無い。

t.co

 

ここまでの分析は、バウマンという社会学者の著作にかなり影響を受けている。

例えば、彼は『コミュニティ』の中で、古い近代(ソリッド・モダニティ)から我々が生きる現代(リキッド・モダニティ)への移行を指して、「かつて存在した固い岩盤の迷路は消失し、現在は、道路もなく、すぐさま道標も消え去る砂漠がメタファーとなる。」という趣旨のことを述べた。 

コミュニティ 安全と自由の戦場

コミュニティ 安全と自由の戦場

 

  何も仕事や組織に関する話ばかりではない。例えば「お見合い」は、ドラマ作品などでは未婚者に対してのお節介な年長者からのプレッシャーの代名詞として描かれるが「自由恋愛市場」で自身の付加価値を表現できないオクテの恋愛下手にとっては一方では救いになっていたことだろう。

 

要するにだ。

かつては「何か大きなもの」は抑圧の装置としての側面を持っていたとはいえ、それと同時に、剥き出しの「個人」を守ってくれていたということだ。かたや今は、そういった「何か大きなもの」の機能は衰退、変容してしまった。

 

(3)改めて「一休さん」について

一休さんの寺も、かつての終身雇用の企業も、究極的には、そこに属する人間を(多少の抑圧はあるとはいえ)一定程度守ってくれる「何か大きなもの」としての存在だった。「嫌ならやめろ」「嫌なら出ていけ」というのは、言う側にとっても、言われる側にとっても、今ほど本気の恫喝にはなりえなかったはずだ。何しろ、この時のアニメと同じく、本当にやめるとはどちらも思っていないのだから。それは、いわば、「売り言葉に買い言葉」というレベルに留まるコミュニケーションとして了解されるもので、当時の視聴者も、そう受け取ったことだろう。

 

しかし、今は事情が違う。

 

 ー非正規にとっては「嫌ならやめろ」と言われることは死活問題だ。露骨な派遣切りは減ったのかもしれないが、いまだ過去の問題ではない。「嫌ならやめろ」と言われることすらなく、首を切られるなんてこともあるだろう。

  ーかたや「嫌ならやめろ」という恫喝に脅えて、容赦のない搾取に甘んじる正社員がいる。

 

 -もっと言えば、自身が「社会適合者」であるという自覚が無いままで、「嫌ならやめればいいのに」といけしゃあしゃあと言う輩がSNSなどで幅を利かせはじめていて、無慈悲な格差社会の新たな側面が見え隠れしている。嫌ならやめられる社会、いったんライフコースを外れても違ったかたちで復帰が容易な社会になってほしいし、そうあるべきだと思うが、それが出来る人ばかりではないし、ライフコースをいったん外れた人間にとって這い上がることが容易な社会ではまだまだない。

 

という訳で、複雑な気持ちの正体は、ジェネレーションギャップによる「戸惑い」だったのだろうと思う。「嫌ならやめろ」という言葉が「売り言葉に買い言葉」というレベルに留まるコミュニケーションとして了解されていた時代、それ自体への戸惑い。

 

ここで語ってきたことは、和尚や、和尚の口を借りて視聴者(子ども)にメッセージを届けようとした製作者の責任ではないし、彼らへの批判ではない。この砂漠の時代に、過ぎた時代を想って、少し悲しく、そしてほんのちょっぴり羨ましく思ってしまったのかもしれない。

 

(4)「嫌ならやめられる」こと自体は良いことである・・・が・・・

ここまで読んだ方は、ブログ主がノスタルジックな懐古趣味に走り過ぎていると思われたかもしれないが、それは本意ではない。「ソリッド・モダニティ」の時代は、「何か大きなもの」が剥き出しの個人を守ってくれたのかもしれないが、それらはたしかに同時に個人を抑圧する側面があっただろうし、それを過小評価するつもりはない。

 

端的に言って、「嫌ならやめられる」こと自体は良いことだと思っている。

ただし、やめたあとの社会のバックアップがまだ足りていない。

 

具体的に言えば、転職のハードルは昔に比べれば下がったのだろうし、人口減で人手不足の今、ブラック企業が前よりも淘汰されやすくなったのかもしれない。だが、十分ではない。今はまだ、メンバーシップ型社会からジョブ型社会への移行の過渡期だ。

日本がメンバーシップ型社会であるという分析は、この『働く女子の運命』が見事だった。

*1" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51H3lH2BfaL._SL160_.jpg" alt="働く女子の運命 *2" />

働く女子の運命 *3

 

まだまだ、日本型雇用システムの慣習が持つ力は強力だし、それを前提にしてあらゆるシステムは回っている。転職支援等の公的なバックアップも足りていない。

(下記の本では、大学というシステムが日本型雇用システムという相対的に大きなシステムの影響を多大に受けていることが分析されていた)

「大学改革」という病――学問の自由・財政基盤・競争主義から検証する

「大学改革」という病――学問の自由・財政基盤・競争主義から検証する

 

雇用問題だけではない。例えば、離婚したいと思っているが、養育費をもらえる保証が無いから、望まぬ結婚生活を続けている女性だっているかもしれない。もし、社会が、シングルマザーになっても困らないような仕組み(養育費を確実に集める仕組みとか)を作れば、彼女たちだって、「嫌ならやめられる」。

ベーシックインカムが実現すれば、離婚率が増えると思う。それは、デメリットなんかではなく、望まぬ結婚生活を強いられている女性を救うのであれば、良いことなのではないか、と下記の本では述べられていた)

AI時代の新・ベーシックインカム論 (光文社新書)

AI時代の新・ベーシックインカム論 (光文社新書)

 

ブログの本筋から離れるためここまでにしておくが、少なくとも「嫌ならやめればいいじゃん」と呑気に言える状況ではまだ無い、と思っている。本当に「嫌ならやめられる」社会になるように、これから更に社会をアップデートさせていかないといけない。

 

 

(5)(追記)バウマンのメタファーをアレンジ
自分は、①切り捨てられる者、②切り捨てを怖れてしがみつく者、③そういったことからそもそも自由な者。現在の状況は大きくこの3極に分かれるのでは、という趣旨のことを書いた。


これをバウマンのメタファーをアレンジして表現するなら、①砂漠で放浪する者、②ようやく見つけた残り少ない固い岩盤の迷路にしがみつく者、そして、③快適なオアシスを作り、迷路にしがみつく者を嗤う社会適合者、とでもなろうか。この③を拡張し、オアシスをコモン的なものとして捉え直し、社会適合者=強者以外も広く恩恵に預かれるようなオルタナティブがつくれれば望ましい。

 

昔、広井良典が『コミュニティを問い直す』で、日本のコミュニティは農村型であり、ヨーロッパのような「都市型コミュニティ」が育っていないと述べていたが、それにも通じる話かもしれない。

*1:文春新書

*2:文春新書

*3:文春新書