幽霊犬の備忘録

某市の職員。政治学を齧りジェンダーや経済思想に関心。

SOGIの話の続きとか

0 前回のブログへ寄せられたコメント

 前回のブログに対して,知人(大学の後輩)がコメントをくれました。

 

ghost-dog.hatenablog.com

ある問題を「社会モデル」によって乗り越えるという点で障害者運動とウーメンリブが結びついたように、LGBTをめぐる議論もさまざまな運動と結びつく可能性が提示されているように読みました。さらにその先にSOGI――あらゆる人々をも巻き込むイメージは、自分も当事者研究についてその可能性を考えています。
上野千鶴子構築主義とは何か』を読み返したくなりました。 

 それについて返信をしようと思っていたら,どんどん長くなってきたので,独立して記事に起こすことにしました。後半は,返信ではなく,単に関連して思いついたこと(前から思っていたこと)を追加していっただけですが。

 

1 他の差別事象との比較について

他の差別事象との比較というのはずっと自分も考えていました。

例えば、黒人差別運動における“Black Is Beautiful”とか、水平社宣言の「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」とか、そういう被差別者「としての」解放運動が歴史の中で大きな役割を果たしてきた一方で、人種や出自による差異の本質性を否定し、被差別カテゴリー「からの」解放を目指す向きがあります。

※「としての」と「からの」の区別は、角岡伸彦氏の『ふしぎな部落問題』の影響を受けています。この本、かなりオススメです。

ふしぎな部落問題 (ちくま新書)

ふしぎな部落問題 (ちくま新書)

 

 

「としての」と「からの」という言葉を使って言い直すとすれば、性的マイノリティが連帯のためにLGBTという言葉を獲得して性的マイノリティ「としての」解放を目指しはじめたが、今は、被差別カテゴリー「からの」解放(究極的にはカミングアウトが不要になる社会を目指す)も同時に目指していくという過渡期にある、とでも説明できるでしょうか。

 

当事者研究のことは詳しくは全然知りませんが、まさしく典型的には「としての」の領域と言えるのかもしれません。ただ、差別に関わるあらゆるシステムが人為的、社会的なものであるという視点からすれば、当事者研究も同じく「からの」というアプローチが可能だし、有効なのでしょう。

上野千鶴子構築主義とは何か』は未読。機会があれば。

 

2 歴史や文化の継承

これまでは性的マイノリティの差別、人種差別、障害者差別、部落差別の共通点について言及してきました。それは要するに、短期的な「としての」解放と、長期的な「からの」解の両方が必要だ、ということに尽きるのかもしれません。

ただし、「からの」差別を目指すにあたり、その被差別カテゴリーで育まれた歴史や文化は残るし、残さねばならない、という課題があります。歴史や文化の継承は、さきほど紹介した角岡信彦さんも述べているし、元のブログで述べたマサキチトセさんも言及していました。

差別はあってはならないが、差別の歴史や文化はなかったことにしてはいけない。この両立は、難しいですね・・・。

 

3 承認と再配分のジレンマ

自分が問題関心を持って考えてきたテーマは、要するに、どうやって差別を解消するか(差別が解消されたとはどういうことか)というテーマだと言えると思います。

実はこの問題、ナンシーフレイザーという政治学者が90年代に「承認と再配分のジレンマ」として提起した問題ともろに符合するということに最近気づきました。

これについては、フレイザーの著作そのものを読めていないのですが、北大の政治学者の方がまとめた論文があって、とても参考になるので、興味がある方は是非読んでみて下さい。

https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/62951/1/lawreview_vol67no3_05.pdf

 

4 性的マイノリティや被差別部落の特殊性

角岡信彦氏は、部落差別が他と異なる点についてこう述べています。

下記は、以前角岡氏の講演を聞いたときの覚え書きです。

 

部落問題は「ふしぎ」である。

どういうことか。人には色々な属性がある。年齢、性別、血液型、出身地等。その中で、女という属性、B型という属性、同性愛者という属性などは「あってはならない」ものではない。そういう属性自体がなくなるべきというものではない。それに対して、「部落民」という属性は、それ自体が差別であり、「部落民」という属性は「あってはならない」ものであるはずだ。

女性や、性的少数者、障害者等、色々な差別を受ける人はいるが、たとえば女性は「男性になる」ことを目指している訳ではないし、障害者は「健常者になる」ことを目指している訳ではない。しかし、「被差別部落民であること」については、これ自体をなくさなければいけない。「部落は、差別されるから部落である。」一方、女性は、差別されるから女性ではない。障害者は、差別されるから障害者ではない。

差別を「媒介」にして存在しているのが、被差別部落という存在。ここが、他の差別問題と異なり、ややこしく、難しく、不思議なところ。

つまり、カテゴリーを抹消すること、上の整理で言えば「からの」解放の重要性が際立つことになります。

同じようなことは、『ふしぎな部落問題』にも書いてあります。

※本では、実際の解放運動の歴史は「としての」解放を目指すものであったこと、その功罪、これからのあり方等について述べてあります。

 

他方、性的マイノリティが闘ってきた差別は「いないことにされる」という圧力です。だからこそ、「自分はここにいる」と名乗るため、そして、団結するため、当事者たちは「LGBT」というカテゴリーを作りだすに至ったのだと思います。

 

※正確に言うと、当事者たちが形成してきたのは、「カテゴリー」ではなく「アイデンティティ」だったのだと思います。

まきむぅさんは、自分で選び取った名前は「アイデンティティ」となり、他人につけられた名前は「カテゴリ」となります。と『百合のリアル』の中で述べています。

百合のリアル (星海社新書)

百合のリアル (星海社新書)

 

 

 部落差別は、何の違いも全く無いはずなのに、「差異」を設けられたもの。

他方、性的マイノリティの差別は、一人一人違うのに、「差異」を無視して二分法に押しこめたもの。

 

このように、性的マイノリティの差別と、被差別部落の差別には、背景の大きな違いがあると思います。共通点も多くあるとはいえ、こういう違いについても心に留めておかねばならないだろうと思います。

 

5 「当事者/非当事者」を超えたい

こういう話の際にいつも思い浮かぶのが、子どもを産んでいないとか、結婚をしていないとかで、肩身が狭い思いをさせられている人のことです。中には、身体的な事情などで、望みはするものの子どもを産めなかった人もいれば、最初から産もうと思わなかった人もいます。色々です。

 

親たちと、そういう人たちとの間に、「育児の当事者/育児の非当事者」という悲しむべき分断が生じているのが現状です。

 

本当は、子どもは、親だけではなく「社会」で育てられるべきだと強く思っています。

そうである以上、「子どもがいない人」だって、「社会」の一員として、育児に関わったり、物申したりする資格はあるし、どんどん関わって欲しいと思います。

それなのに「子どもがいない人」が、政治家とかの「子供を産まない人が悪い」みたいな心無い言動によって不当に肩身を狭くさせられてしまうことで、育児や子どもから完全に遠ざかってしまう懸念があります。他方、「子どもがいる人」の方も、このままだと「社会」に開かれずに「子どもがいる人」同士だけの閉じたコミュニティで完結してしまいます。

 

子どもがいない人、特に女性の生きづらさは、恐らく想像以上です。近しい同僚にそういう方がいて、気付かされました。育児の都合で急な欠勤や定時帰りをする自分の皺寄せが、その同僚に行っていました。正直、良い気持ちはしていなかったと思います。

 

育児をしてようがしていまいが、どんな人も、好きなときに十分に休んだり、残業をしないで定時に帰ったりできるようになってほしい。

 

こういうことも、ここまで話してきたテーマと関連する話だろうと思います。