幽霊犬の備忘録

某市の職員。政治学を齧りジェンダーや経済思想に関心。

「父親の育児は仕事にも活きて生産性も上がる」なんて言わなくていい

2016年8月にFacebookで書いていた記事だが、こっちにも転記しておく。

 

●最近、ワークライフバランスとか、父親の育児とかの話題で「父親が育児に参加した方が、仕事の生産性が上がる!」みたいな議論をときどき目にする。

 

こういう話は、確かに一見良いと思う。どちらかを犠牲にしなければいけないのではなく、どっちも出来るんだ、と勇気をもらえる。

 

でも、実はどこかで違和感を覚えていた。

 

そして、つい最近、その違和感の原因は何だったのか、例の相模原の障害者施設連続殺傷事件の報道をきっかけに分かった気がしたので、覚書として書いてみる。

 

 

●自分が違和感を覚えたのは、「生産性」とか「効率」とか、そういうこととセットでしか、「子供を産み育てる」という営みが承認されない社会になってはイヤだな、と感じたからだと思う。


「育児しても生産性は下がらない、きちんと労働力として役立つ。だから、育児に積極的に」という議論が力を持ちすぎて、変な受け取られ方をされて、間違った方向に行くことを危惧している。

「生産性」が確保されなければ、育児が評価されない、という間違った方向に行くことを。

 

子どもを産み育てることに、生産性が上がるとか、他の何かの条件、プラス要素は本来必要ない。


「権利は権利として」尊重されなければいけない。


仮に、どんなに生産性が落ちようと、どんなに周りに迷惑をかけようと、どんなに育児に社会的なコストがかかろうと、「子供を産み育てる」ことが【権利】である限り、それは尊重されなければならないはずだ。

 

 

●ひっくり返して考えてみよう。
子どもを産んだら、育児をしていたら、本当は生産性が下がるという研究結果が仮に出てしまったとして、それを理由に出産、育児を否定されたとしたら。。。出産、育児は否定されなくても、逆に「二流の労働者」として職場で冷遇されたら。。

 

納得できるだろうか?親は申し訳ない気持ちで、肩身狭く子供を産み育てなければいけないんだろうか。

 

また、人口減、少子高齢化の時代だから、という背景で「子供を産み育てることは素晴らしい」と称賛することも違うと思う。

 

前にFacebookでも書いたけど、国家とか、人口とか関係ない。その子、その親の権利の問題として、出産・育児は支えられなければいけない。


国の人口が増えすぎていて、それを理由に出産、育児を否定されるのはおかしいのと一緒で、国の人口が減ってることを理由に、出産育児が称賛されることもおかしい。

 

 

育児出産が称賛されることがおかしい、のではなく、その理由として、生産性とか、国家とか人口が持ってこられるのが、おかしいということが言いたい。生産性とか、人口とか、関係ない。  

 


子どもを産み育てるという営み、それ自体を認められるような社会にならなければいけない。

 

●「生産性は下がらない、むしろ上がる」という声に期待してしまうのはある程度仕方がないんだろう。自分もそうだ。感情として、迷惑をかけたくない、迷惑をかけていて申し訳ない、という気持ちから、「その分、こうやって役立ちますよ!」と言いたい気持ちになるんだろう。それで、自分がかけた迷惑の罪悪感が少し拭える気がするから。


でも、そういう「迷惑をかけてはいけない」、「どこかで取り戻したい、取り戻さなければいけない」、という圧力が強迫観念になってはいないだろうか。また、それが、他人に、社会に、押し付けられてはいないだろうか。

そして、その行き着く果てが、相模原の殺傷事件だったんではないだろうか。

誰かに貢献するとか、生産性とか、そういうことが出来る人はもちろん素晴らしい。
でも、【権利】は、そういったことの対価ではない。権利は、権利としてある。特に、生存権は、本来何の条件も要らないはずだ。

 

今回は、育児の話を起点にしたが、問題は育児だけに留まらない。

経済効率とかそういうことを抜きに、何かとの引き換えでなくてもいい、純粋な【権利】の主張が出来る社会でないと、生きにくい。

 

色々グダグダ言ったけれど、結局、違和感の正体は「もしもこう間違って捉えられたら嫌だな」っていう、「もしも」の話なので、実際は「育児も仕事もどちらも諦めずに欲張りに楽しもうぜ!」っていう意見はどんどん広まってほしいな、というのが本心

 

 

●(余談)
こんなことをモヤモヤ考えているときに奇しくも、先日、映画『海猿』がテレビであっていて、気になる、というか残念なシーンがあった。

 

主人公を含めた要救助者を助けるには、国家プロジェクトで1500億円かけて作った重要施設を沈めなければいけない、という状況。


人命救助を第一とし、施設を沈める必要性を説く海上保安庁の下川課長(主人公の先崎潜水士の元上司。人格者キャラ。演じるのは俳優の時任三郎さん)に対し、内閣参事官が「あそこに残っている5人は、1500億を沈めてまで助ける価値のある人間なのか?」と問うた。

それに対し、海上保安庁の課長は毅然と「私にはその質問の意味が全くわかりません」と答えた。

 

このシーン、「価値があります」ではなく、「質問の意味が分からない」と答えたことが、素晴らしいところ。人名と金銭をそもそも天秤にかけること自体がおかしい、のだと。この返しは、すごく良かったと思う。

 

だが、何故か、これで終わらなかった。

救助後、内閣参事官が、施設を沈めた経緯について、電話で責任を追及されているシーンがある(相手は政治家?)。彼は、「様々な条件が重なって」的な弁明をしていたところ、ふと目をやったテレビニュースで、救助された主人公先崎潜水士が、妻子と再会し笑顔を浮かべている様子を目にする。彼は、それを見て表情を変え、「沈めたのは私の責任です(キリッ)」と批判の矢面に立つことを覚悟した。
そして、その後、下川課長のもとへ行き、一言。「報告をすぐに上げなければいけないが、単に人命がかかってたから、では納得されない。彼らが救助に値する人間だと強調して報告書を書こうと思う(キリッ」(うろ覚え、大意)

・・・いやいや、このくだり、要るか?

下川課長の「質問の意味が全く解りません」で終わりでいいやん。
正直、この内閣参事官のセリフを聞いたとき、「こいつ、なんも分かってねぇ・・・」ってあきれてしまった。
要救助者がどういう人なのかはどうでもいい。社会に貢献出来ない人でも、どんなに迷惑な人間だとしても、人命は優先されんとおかしい。

命に勝手に序列をつけるんじゃねぇよ。

 

●この投稿をするかどうか、相当迷った。
自分の書きぶりが、「育児中なんだから迷惑をかけさせろ」って開き直って我儘を言っているように読まれるかもしれない、と思って。
それは本意というか、一番言いたいことではない。
人に迷惑はかけたくない。迷惑、負担をかけて申し訳なくて辛い。自分なりに、育児をしながら仕事をしている身として、本当に周りの人に迷惑とか負担をかけて申し訳ないという気持ちを抱きながら、それを悔しく思いながら、そして何より、周りのいろんな方に感謝しながら、毎日を生きているつもり。そして、育児をしていれば何でも許される、というものではないということも分かっているつもり。急に仕事を休まないといけなくなったときのために、仕事の優先順位をきちんと考えるとか、出来ることはしていかなければいけない、と思っている。

でも、やっぱり、権利を、条件付きではなく、ただ権利としてシンプルに主張することができる社会になってほしい、と思ったから、今回こうやって投稿させてもらいました。