幽霊犬の備忘録

某市の職員。政治学を齧りジェンダーや経済思想に関心。

反差別の3つの方向性

約半年前にTwitterでフォロワー(後輩)のテルマとした差別に関する議論。

 

何となくこれは残しておく甲斐がありそうだからブログにしておこうと思いつつ、忘れてた。

今更ながら書き留めておく。

 

以下、当時の議論。

青がテルマtweet

黒が自分。

東浩紀 Hiroki Azuma on Twitter: "ぼくたちはみな、ひとそれぞれの「ふつう」をもっている。だからひとそれぞれ「ふつうでない」という感覚をもっている。それが個性ということでもある。大事なのは、そんな判断が集積し制度的差別や強制につながらない仕組みを作ることであって、みなにすべてをふつうに思えと強制することではない。"

 

これは非常に同感。ノーマライゼーションってのは、「ふつう」でなくても「ふつう」の人と共に、特別な不都合なく過ごせるようにすることなのであって、「ふつう」の定義をいきなり拡大すれば解決する話ではない。時間をかけて、やがて拡張に気付くものだ。

だから、ハイハイ差別はダメですね、みんな一緒でok、その代わりこれからはそれを理由にはできないからな?逆差別だからな?という居直り方は本来ナンセンスなはずなのに、この社会ではよく見かける光景だ。

 

①「ふつう」を求めるのではなく、②「ふつう」でなくても差別されないことを目指す、というのは理解できる。ただ、もう一つの方向性として③「ふつう」という概念自体の虚構性や暴力性を暴くことはやはり必要だし有効だと思う。②だけでは足りない。

 

もちろん③は必要だと思いますが、僕のイメージではその③は②に包含されるのですよね

というより、②を目指すべき目標としたら、③はそのための過程で必要なことというか。

ここで「もう一つの方向性」とされる意図がイマイチ掴めません。

 

①例えば「障害者」は純粋に「少数」であるのは事実かと思う。障害者が「ふつう」扱いさることは、何らアファーマティブアクションもなく「放置」される危険性を孕む。

②ゆえに「障害者」【として】、その権利が擁護されるべき、という視点も必要。

③ただし、例えばメガネが無ければ生活できない近視の人は、メガネが無い社会だったとすれば、実質的に「障害者」に限りなく接近する。というか、この地点でやっと「障害者」という枠組が、個人ではなく社会の側が規定するものである、という視座に辿り着く。一言で言えば、いわゆる社会モデル。熊谷さんの「依存」と「自立」についての議論にも繋がる。

 

元ツイと僕のRTの意図は、ご指摘いただいたようなことを人々に広める過程で、短略的に受け止められ理解されることについての危惧にあると思います。

 

それはとてもとても重要でオレも強く同意する懸念。

マサキチトセさんのこの論考を思い出した。

LGBTの次はSOGI? 看板を入れかえるだけでは失われてしまうSOGIの本当の意味と意義(wezzy掲載記事) | 包帯のような嘘

このまま「LGBTの代わりにSOGI」という安易な言葉の入れ替えが起きてしまって、SOGI概念を使う意義としてのノーマティビティへの批判という側面を私たちが忘れてしまったら、どうなるか。

そこに残るのは、「みんな多様だよね」という、それ自体は確かに事実だけれど、そんなこと言ってても何も解決しないという事態でしょう。さらにそこには、差別を受けてきた歴史やそれによって皮肉にも生まれてしまった豊かな文化の記憶は、受け継がれないでしょう。

「みんな多様、LもGもBもTも異性愛者もシスジェンダーもみんな色々あるよね、みんな当事者、みんな今のままでいい、個性だもん、社会なんて関係ない、互いに個人的に寛容になって、それぞれハッピーに生きよう!」

そんな風に、批判の力を失ったSOGI概念は、いとも簡単に社会の問題を「個人の問題」に矮小化し、差別の構造や仕組みを温存する方向に行ってしまう気がします。

 

ただ、東の件のツィートからは、

「ふつう/ふつうでない」という線引きの「/」を自明視してる印象を受ける。

たぶん、東は決して単純な①②の二項対立を想定しておらず、③の視点も持ってるだろうけど。

 

昔ブログに書いたけど、反差別には「として」の解放と、「から」の解放があると思ってる。

この場合、「として」が②で、「から」が③かな。

少し単純化した例を出すなら、「black is beautiful」が②で、「人種とかくだらない」が③かと。

 

その意味では確かに「もう一つの方向性」と言い得ますね!

女性として振舞わなければならないことからの解放、そもそも女性という性別によるカテゴライズからの解放

 

>カテゴライズからの解放

まさに

 

念のため、②と③に優劣は無いと思ってる。

概ね、②を経て、初めて③に辿り着けると思う。

障害者差別の分野は、「バリアフリー」から「社会モデル」への展開という点で、建前的、思想的には③が浸透してる。

性的マイノリティは「LGBT」から「sogi」への過渡期。

 

③は②を実現していく中で、誰もが夢見ることだからこそ②に含まれると思った。

現に、毎年毎年、新しいマイノリティの存在を知るし、普段目にしている光景の中にもまだ知らない被差別があったりして、③を達成するにはとてもとても時間が掛かるんだってこと、それをもっと知ってほしい。

 

たしかに当事者が必死に②を戦っているところに、お利口様の③が冷水をかける構図が残念ながらある。正直、③は思考方法を理解してしまえば、感覚としては綺麗事として受け入れやすい。他方、②は分断、逆差別というリスクを抱えていて、時に共感を得にくい。でも②も絶対に必要。

 

②も必要、という言い方自体が、嫌な語り口だな、と自分で思った。上手く言葉を紡げなくて申し訳ない。

前に青い芝の件でテルマ自身から言われたことだったと思うが、彼らにとっては「それしかない」という世界だもんなぁ。

 

いえいえ、そんな謝られるようなことは何も。むしろ、いつもTwitterで(短文だから難しい側面もあるのに)議論していただけてありがたいです