アニメ『一休さん』のハラスメント回を批判する

(2/22、ちょっと最後に追記有り)

 

0 前置き 

先日、とある宅飲みで『一休さん』のアニメを観る機会があった。

どうやらYouTubeで期間限定ではあるが公式配信されていたらしい。

(2/15までだったようで、もう観られない)

 

その第28回『つらい修業と鬼の和尚さん』が、美談っぽくまとめられているけど全然美談になりきれていない超胸糞ハラスメント回だったので、ちょっとレビューする。

 

1 話のまとめ

まずは、話を振り返ろう。

 

話は、寺に困っている人たちが詰めかけてくるところから始まる。

彼らが訴えるのは病気や金、仕事探しといった悩みだ。

たしかに「そんなこと寺に言っても」という相談ではある。

一休も「病気なんか治せませんよ~」と言ってる。そりゃそうだ。

ただ、訴える側としては、切実な悩みではある。

そこへ、和尚は「寺の仕事があるから引き取って欲しい」と言い、門を閉める。

 

一休「あの人たちを中へ入れてあげてください。」

和尚「ならん」

一休「でも困っている人を助けるのは僧侶として大事な勤めのはず」

和尚「僧侶の勤め?おぬしそれでも坊主のつもりか。未熟者め」 (喝×3)

 ※以下、「喝」は全て棒で肩を叩く打撃。

 

そんな会話の流れの中で、一休は、自分としては頑張っているつもりだったが、足りないのであれば、倍の修行を申し付けてほしい旨述べる。

それに対し「調子に乗るな、3倍だ」と返す和尚。

 

そこからは修行のターン。

2人1組でやるのが通常の「山作務(やまさむ)」、要は荷運び、を1人で行って来いという。

 

一休は、ここですでに反省している。

「未熟者と言われるのも無理はない。

事情があったにしろ、将軍様の招きに応じて何度となく寺を抜け出していった(とんちで問題を解決してきたこれまでのエピソードのことだと思われる)。そんなとき寺に残った先輩が自分の分まで辛い修行に耐えていた。頑張らなくちゃ。」

 

このツラい山作務をやっと終えたあと(しかも手伝うと言った先輩に対して、一休はこれは自分の仕事と断っている。一休エラい。)、ようやく水を飲んで少し休んでいるところ、「勝手に休むな」と喝

更に風呂炊きを命じられる。(先輩は手伝うと言ったが和尚が禁止)

 

そこでまた

薪にゴミが多い

鐘の音が小さい

・(風呂の準備ができた旨を和尚に伝えに行く際)頭の下げ方が足りない、正座の膝が崩れている

・風呂に入っている間は無駄話は禁止なのだが(それもどうなのよ)、先輩が喋っているのを聞いて(それも湯が熱いと叫んだだけ)、一休に対し監督が足りない

などと理屈をつけて何度も「喝」。

正直、イチャモンとしか思えないレベル。

 

風呂焚きが終わった一休は、背中が「喝」のせいで傷だらけで、風呂に入るのを嫌がっていた。それに対して、「これを塗っておけばいいのだ」と文字通り塩を塗り込む和尚。そのあと、結局風呂に入らされて激痛に苦しむ一休。

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傷が酷い。

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そりゃこんな顔なるわ。

 

で、翌朝。和尚は更に修行を課す(先輩は手伝うと言ったがやはり和尚が禁止)。

 

一休の様子を心配した女の子(さよちゃん)は、「和尚は鬼だ」と抗議する。

それに言い放つ和尚。

「儂の言いつけが聞けんものは今すぐこの寺から出ていくがいい」

 

場面代わって、和尚に「どういうつもりだ」と詰め寄る蜷川新右衛門

それに対して和尚。

「儂は同じ試練に耐えてきた儂に出来たことが一休に出来んはずはない。

一休は今さぞや辛く苦しい時であろう。

じゃがそれ以上に辛く苦しい思いをしているのはこの儂自身ですのじゃ。」

で、悟りとは誰にも教えられず自分自身で答えを見つける以外に途は無い云々。

ここで蜷川新右衛門は和尚の言うことに納得したらしい表情。

 

その後、寺の外に行って麦わらを集めてくる修行を言いつけられる一休。

 

やはり一休を手伝おうとする先輩に対して、蜷川新右衛門登場。

「誰も手伝ってはいかん

お前たちが手を貸したことが知れたら一休さんは寺から追い出されてしまうのだぞ」

と今後は先輩に諭す。

 

一休は何とかやっと寺に帰ってくるも、道中で雨が降り出し、濡れてしまう。

 

和尚「なぜ麦わらを濡らしたそれで使い道になるかこの未熟者

門をくぐるための作法にしたがって入れ

それができなくば、中には決して入れん

このままお前を寺から追放する」

(中略)

和尚「このひねくれ者」

一休「ひねくれておりません」

和尚「ひねくれていない証明をしてみせい」

 

ここで和尚の独り言

「儂はお前を立派な僧侶にするために寺に引き取ったのじゃ

毎日の厳しい修行に耐えていけるものこそ悟りの途が開けるのじゃ

少しばかりとんち小坊主の評判が高くなったとはいえ修行をおろそかにしてはならん

むごい仕打ちをするのはお前を憎む気持ちからではないぞ 分かってくれ一休」

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試行錯誤するも門を開けてもらえない一休。とうとう力尽きる。

「和尚様 お願いでございます

ちょっとここを通してくださいまし」

そして崩れ落ちる。


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そこで応える和尚。

「できたぞ一休

やっと素直な気持ちになった それこそ門をくぐりぬけるための作法じゃ

とんちとは世の中の常識をひねったところに生まれる

これに対し悟りは素直な心によって得られるものなんじゃ」

 

一休「素直な気持ちは苦しんで苦しみぬいた中から生まれる

だから私にあんなきつい仕事を言いつけたんですね」

 

蜷川新右衛門御師匠さんは鬼ではなかったという訳だ」

かよちゃん「はい和尚さんはとってもいい人です」

先輩「そうでーす」

蜷川新右衛門「現金なヤツらめ」

 

~終~

 

3 和尚の行為を肯定できない5つの理由

正直、ハラスメント和尚が肯定できないのは当然なんだが、一休自身や、周りの人間たちも素直過ぎて気持ちが悪い。大人がお膳立てしたご都合主義の描写そのもの。

 

ただ、このブログでは新右衛門などは置いておいて、とりあえず和尚に焦点を当て、以下、和尚の行為の許せない点について語っていく。

ポイントは以下の5つだ。

(1)理不尽を呑みこませる努力原理主義

(2)宗教者である和尚が「常識」を肯定

(3)「自分が苦労したから下の世代が同じ苦労をして当然」という価値観

(4)目的は手段を正当化しない

(5)過去のことをもちだして非難

 

順番に語っていこう。

 

(1)理不尽を呑みこませる努力原理主義

例えば

「なぜ麦わらを濡らしたそれで使い道になるかこの未熟者」というセリフ。

単純に「じゃあ、どうすりゃ良かったのよ」としか思えない。

終始、この回の和尚はそんな感じなのだ。

じゃあ、どうすりゃ良かったのよと問われても、和尚は答えなんか用意していないから絶対にそれに答えられない。

理不尽。その一言に尽きる。

 

ツラいことにも耐える力が必要。これは一般論としては分かる。

スポーツとか勉強とか楽器とか仕事とか、ツラいことに耐えてこそ、到達できる成果というものはたしかにある。それに向けた年長者や指導者からの指導も必要だろう。そこで耐えた経験が、他の分野で活きることもあるだろう。

 

しかし、ツラいけど必要なことと、ただツラいだけで不必要なことは違う。

後者はただの理不尽でしかない。

 

例えばダルビッシュはこんな風に言ってる。

ダルビッシュ有(Yu Darvish) on Twitter: "練習は嘘をつかないって言葉があるけど、頭を使って練習しないと普通に嘘つくよ。"

 

ハードル走の為末大も、同じように、努力原理主義についての懐疑的なスタンスを一貫して取っている。

 

自分自身、高校時代、部活の監督に、何度も何度も「考えろ」と言われた。

進学校で閉門が早く、部活の練習時間が短かったということもあり、キツい練習ではあったけど、無意味な練習は無かった。

(その先生は、国体でチームを全国制覇に導いた経験もあるガチで凄い方)

 

要するに、和尚に対して違和感を覚える点は、和尚が課しているのが、不要なこと、理不尽なことであり、それは努力原理主義である、ということだ。

 

(2)宗教者である和尚が「常識」を肯定

「不要なこと」とは言ったが、これに対して、「悟り」のために必要なんだ、人間社会の常識を宗教に持ち込んだって無効だと批判する向きがあるかもしれない。

 

たしかに、人間同士がつくった社会のルールに対して、宗教の超越性はある意味無敵だ。

以前、ウガンダという国の同性愛者のドキュメンタリー映画を観たことがある。

映画『Call Me Kuchu』を日本でも!

 

その国では、キリスト教が同性愛否定の強力な論拠になっていて、「神が同性愛を否定している」という主張に「人権」の論理はあまりにも無力だ、と痛感させられた。

 

そもそも、自分は仏教徒でも何でもない。「悟りって何?」レベルだ。

むしろ、小さい頃は親に連れられて日曜日は教会に行っていた。

だから仏教のことを詳しく語れる立場ではない。

 

しかし、それでも、自分は和尚を批判する。

 

和尚はこう言う。

「とんちとは世の中の常識をひねったところに生まれる

これに対し悟りは素直な心によって得られるものなんじゃ」

 

ここは、和尚が自分がなぜむごい仕打ちをしてきたのかを一休に説明するところで、いわば、和尚の狙いの核心だ。

だが、ここにこそ、問題がギュギュっと凝縮されている。

 

まずハッキリ言う。

不当で理不尽で暴力的で個人の権利を侵害する常識を無批判に受け入れ、考えることを放棄し、常識を変えていくことを諦めることが「素直な心」であり「悟り」であるなら、そんな「素直な心」や「悟り」なんか要らない。

自分には3歳のムスメがいるが、ムスメにもそんな素直な心は身に付けてほしくない。

 

ただ、宗教という超越性を前にして、この反論では反論たり得ないかもしれない。

だから、更に、もう1つ重要な点を付け加えたい。

 

それは、そもそも、「常識」に迎合せず、それにたいして普遍的な「真理」を追究し、 人間存在や世界の意味を問い直していくことこそ、宗教のあり方なのではないか、ということだ。

 

だが、この和尚は「常識」の側に立っている

「常識」に対して「素直」であれ、と言っている。

宗教者として、果たしてそれでいいのか。

 

理不尽な常識を受け入れるということは、処世術としてはあり得るだろう。

ただ、そんなことを宗教者に言ってほしくはない。

あの和尚は、ただの社会適合者でしかないのではないか。

 

和尚が言う「素直な心」は本当に「悟り」の本質なのだろうか。

そうではなく社会適合者が説く処世術にしか過ぎないのではないだろうか。

 

ていうか、上で

「悟り」のために必要なんだ、人間社会の常識を宗教に持ち込んだって無効だと批判する向きがあるかもしれない

って書いたが、そもそも、このアニメって、当然、別に仏教っていう特定の宗教を推すアニメじゃない。このアニメ、冒頭に中央児童福祉審議会推薦と出てくる。ちょっとググったところ、これは旧厚生省内の審議会らしい(現在は廃止)。公的機関が特定の宗教の教義を推薦、ということはないだろう。このアニメは、一休という小坊主が主人公で、寺が舞台ではあるものの、宗教そのものをテーマにしたものではなく、子供の「健全育成」のために、大人が作って見せようとしたものであって、この和尚が発するメッセージは、宗教者ではなく、社会の常識の側からのものだと理解するのがやはり正しい。

 

(3)「自分が苦労したから下の世代が同じ苦労をして当然」という価値観

「儂は同じ試練に耐えてきた儂に出来たことが一休に出来んはずはない」

これは言うまでもないが典型的なパワハラ上司の理屈である。

まさに生存者バイアスに捉われた思考。

生存者バイアスについては、自分も心理学の専門家ではないけど、知らない方は色々とググってみて下さい。

和尚は耐えられたかもしれないが、それを苦に自ら命を絶った者や、仏門を去って身を窶して生きていかねばならなかった者など、いたかもしれない。

 

百歩譲って、その試練が意味あるものであれば良い。

しかし、何の意味もない理不尽なものであったということは、さっき確認した。

 

洗濯機が出始めたときに、洗濯板で洗濯してた世代は「洗濯機は甘え」と批判したというエピソードを聞いたことがある(どこで読んだか覚えていないからソースは不確か)。

 

こういう「自分が苦労したから下の世代が同じ苦労をして当然」という価値観は、マジで滅せばいいと思う。

 

それよりも、まきむぅさんが言うように自分は

「ショートカットの道を作って消えていく人になりたい」。

 

www.e-aidem.com

 

(4)目的は手段を正当化しない

和尚はこう言う。

「一休は今さぞや辛く苦しい時であろう。

じゃがそれ以上に辛く苦しい思いをしているのはこの儂自身ですのじゃ。

むごい仕打ちをするのはお前を憎む気持ちからではないぞ 分かってくれ一休」

 

これについては、先日、明石市長のパワハラ事件についてFacebookで見かけたこの言葉を投げかけたい。

それは、「目的は手段を正当化しない」である。

この言葉は、友達の友達の友達、要するにアカの他人の言葉なんだが、とてもストレートで説得的で良い言葉だなぁ、と思った。

 

明石市長は「市民の為に汗をかくのが役所の仕事」という目的意識を言い、それ自体は正論で正しかったのかもしれない。ただ、職員へのパワハラという手段はやはりまずかった。いわば、情状酌量の余地はあるのかもしれないが、それでも、その目的(市民の為)は、手段(パワハラ)を正当化はしない。

 

和尚も全く一緒。

「一休を立派に育てたい」という和尚の意図、目的は間違っていないのかもしれない。しかし、それでも、理不尽を強要することは正当化されない。

 

いや、そもそも、和尚は「立派に育つこと=理不尽を我慢すること」と捉えていると言えるだろうか。その目的設定自体が誤っていることは、上の努力原理主義の批判で確認した。

 

(5)過去のことをもちだして非難

冒頭を思い出してほしい。

一休は、何か悪いことしたのか?

別に自分は仏教のことに詳しいわけではないが、

「でも困っている人を助けるのは僧侶として大事な勤めのはず」

ってそんなに間違ったこと言っているか?

正直、ここでキレる和尚は、一休の正論にまともに言い返せなかった小物にしか見えない

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そのときの顔がこれ↑である。

 

困っている人を放置して「修行に励んで悟りに至ったオレすごい」ってされてもサムいだけだと思うが、どうでしょう、皆さん。

 

結局、和尚がこの会で厳しい指導を始めたのに、これというキッカケがあった訳ではない。

彼は、一休の、これまでの振る舞いを叱責したのだ。

たださぁ・・・。

「前から思ってたんだけど」、「だいたいいつもアンタは」みたいに、<過去のことをもちだして非難する>って、やっちゃいけない叱り方として有名だよね。

 

自分は3歳の子供の親だが、子供にはそういう叱り方はしないように気を付けているつもりだ。

また、自分が今後部下をもつことがあれば、気を付けようと思っている。

 

さて一休だが、もし一休が調子に乗った、ナメた言動をやって、それを受けてあの指導ならまだしも、でも、そうじゃないんだよ、今回の一休は。

 

繰り返すけど、一休は「でも困っている人を助けるのは僧侶として大事な勤めのはず」って言っただけ。それに対して、一休は「喝」を入れられ背中をボロボロにされて、あまつさえ、そこに塩を塗られたんだよ。

これが理不尽でなくて何なんだと。

 

 

4 「嫌ならやめろ」を本気にしなくてもよかった時代

※ここからは、和尚のハラスメント批判とは直接関係が無いし、これまでより一層、抽象的と言うか小難しいので、それでも良いという方はお読みください。

 

(1)違和感の所在

和尚は「儂の言いつけが聞けんものは今すぐこの寺から出ていくがいい」と言った。

このセリフだけは、「和尚はヒドイ」で片づけられなかったので、6つ目の理由として書くのではなく、独立させた。

 

最初は、直感的に「そんなこと言うなんてヒドイ」とまず思った。「幼い子供が、出て行って生きていけるはずなんて無いのに」と。

 

次に、冷静になって考えた。

和尚も、一休も、このアニメを当時見ていた視聴者も、「一休が追い出される」とは本気で思っていないよな、この和尚の発言に目くじら立てて反論しなくてもいいかな、と。

 

しかし、それでもなお、違和感が残っていたから、その違和感の正体をずっと考え続けた。そして、一応、暫定的な結論にたどり着いた。

 

その結論とは、(幸いにも?)当時の視聴者が生きたのは「嫌ならやめろ」というメッセージを本気にしなくてもよかった時代だったが、今は違うということだ。現代の我々が置かれた文脈、価値観では「嫌ならやめろ」というメッセージは、かつてとは違った鋭さ、重みがあるのだ。

 

きちんとした説明になっているかどうかは疑問があるが、以下、少し語りたい。

 

(2)ソリッド・モダニティからリキッド・モダニティへ

かつての右肩上がりの成長の時代ならば、新入社員は、会社や先輩からのシゴキがツラかったとしても、それに耐えさえすれば、その後の出世や、年功序列型の給与制度に従った昇給を期待できた。そもそも、新入社員を育成するのは、企業自身の役割だった。そのシゴキは、一人前の社員を育成するためのものであったがゆえに、搾取には一定の限界があったはずだ。搾り取り過ぎては、一人前になるまでに枯渇してしまうからだ。何より、労働者は(多少の不自由はあるとはいえ)ライフコースを思い描き、人生の計画を建てることができた。

 

しかし、そんな時代はとうに終わりを告げた。大卒で即戦力が求められる時代。企業は、新入社員育成にコストをかけるのをとうに放棄した。定期昇給どころか、終身雇用の保証もいつしか特権と化した。派遣やパート、アルバイトといった非正規はなし崩し的に拡大され、ついには外国人単純労働者の受入にも手を付けようとしている。そこで非正規労働者に対して実行される搾取には持続可能性を考慮に入れる必要が無いぶん、限界が無い。搾り取れるだけ搾り取り、枯れたらポイだ。人は容易に使い捨てられる。かたや、正規雇用の地位を得られた者も、そこに安住ばかりはしていられない。その地位にしがみつくために、無理や理不尽を甘んじて受け入れざるを得ないケースも往々にしてあるだろう。彼らも搾取される存在である。

※10年くらい前に読んだこの小説の登場人物の一人は、念願の「正社員」の地位にすがりつくために死に物狂いで働き、過労死寸前にまで追い込まれていた。 七十歳死亡法案、可決 (幻冬舎文庫)

 

さんざん言われてきたことだが、労働者は、正規と非正規で二極化されている。 

ここ最近は「組織」に縛られずに自由市場で自身の付加価値を「生産」に結び付けられる第三局として「社会適合者」の台頭が見られるが、誰もが彼らのようにはなれないだろう。「自由」になるこということは、残念ながら失敗のリスクを個人で引き受けることと表裏一体だ。誰もが、やめたいときにやめられる訳ではない。というか、やめたあとの保証が無い。

t.co

 

ここまでの分析は、バウマンという社会学者の著作にかなり影響を受けている。

例えば、彼は『コミュニティ』の中で、古い近代(ソリッド・モダニティ)から我々が生きる現代(リキッド・モダニティ)への移行を指して、「かつて存在した固い岩盤の迷路は消失し、現在は、道路もなく、すぐさま道標も消え去る砂漠がメタファーとなる。」という趣旨のことを述べた。 

コミュニティ 安全と自由の戦場

コミュニティ 安全と自由の戦場

 

  何も仕事や組織に関する話ばかりではない。例えば「お見合い」は、ドラマ作品などでは未婚者に対してのお節介な年長者からのプレッシャーの代名詞として描かれるが「自由恋愛市場」で自身の付加価値を表現できないオクテの恋愛下手にとっては一方では救いになっていたことだろう。

 

要するにだ。

かつては「何か大きなもの」は抑圧の装置としての側面を持っていたとはいえ、それと同時に、剥き出しの「個人」を守ってくれていたということだ。かたや今は、そういった「何か大きなもの」の機能は衰退、変容してしまった。

 

(3)改めて「一休さん」について

一休さんの寺も、かつての終身雇用の企業も、究極的には、そこに属する人間を(多少の抑圧はあるとはいえ)一定程度守ってくれる「何か大きなもの」としての存在だった。「嫌ならやめろ」「嫌なら出ていけ」というのは、言う側にとっても、言われる側にとっても、今ほど本気の恫喝にはなりえなかったはずだ。何しろ、この時のアニメと同じく、本当にやめるとはどちらも思っていないのだから。それは、いわば、「売り言葉に買い言葉」というレベルに留まるコミュニケーションとして了解されるもので、当時の視聴者も、そう受け取ったことだろう。

 

しかし、今は事情が違う。

 

 ー非正規にとっては「嫌ならやめろ」と言われることは死活問題だ。露骨な派遣切りは減ったのかもしれないが、いまだ過去の問題ではない。「嫌ならやめろ」と言われることすらなく、首を切られるなんてこともあるだろう。

  ーかたや「嫌ならやめろ」という恫喝に脅えて、容赦のない搾取に甘んじる正社員がいる。

 

 -もっと言えば、自身が「社会適合者」であるという自覚が無いままで、「嫌ならやめればいいのに」といけしゃあしゃあと言う輩がSNSなどで幅を利かせはじめていて、無慈悲な格差社会の新たな側面が見え隠れしている。嫌ならやめられる社会、いったんライフコースを外れても違ったかたちで復帰が容易な社会になってほしいし、そうあるべきだと思うが、それが出来る人ばかりではないし、ライフコースをいったん外れた人間にとって這い上がることが容易な社会ではまだまだない。

 

という訳で、複雑な気持ちの正体は、ジェネレーションギャップによる「戸惑い」だったのだろうと思う。「嫌ならやめろ」という言葉が「売り言葉に買い言葉」というレベルに留まるコミュニケーションとして了解されていた時代、それ自体への戸惑い。

 

ここで語ってきたことは、和尚や、和尚の口を借りて視聴者(子ども)にメッセージを届けようとした製作者の責任ではないし、彼らへの批判ではない。この砂漠の時代に、過ぎた時代を想って、少し悲しく、そしてほんのちょっぴり羨ましく思ってしまったのかもしれない。

 

(4)「嫌ならやめられる」こと自体は良いことである・・・が・・・

ここまで読んだ方は、ブログ主がノスタルジックな懐古趣味に走り過ぎていると思われたかもしれないが、それは本意ではない。「ソリッド・モダニティ」の時代は、「何か大きなもの」が剥き出しの個人を守ってくれたのかもしれないが、それらはたしかに同時に個人を抑圧する側面があっただろうし、それを過小評価するつもりはない。

 

端的に言って、「嫌ならやめられる」こと自体は良いことだと思っている。

ただし、やめたあとの社会のバックアップがまだ足りていない。

 

具体的に言えば、転職のハードルは昔に比べれば下がったのだろうし、人口減で人手不足の今、ブラック企業が前よりも淘汰されやすくなったのかもしれない。だが、十分ではない。今はまだ、メンバーシップ型社会からジョブ型社会への移行の過渡期だ。

日本がメンバーシップ型社会であるという分析は、この『働く女子の運命』が見事だった。

*1" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51H3lH2BfaL._SL160_.jpg" alt="働く女子の運命 *2" />

働く女子の運命 *3

 

まだまだ、日本型雇用システムの慣習が持つ力は強力だし、それを前提にしてあらゆるシステムは回っている。転職支援等の公的なバックアップも足りていない。

(下記の本では、大学というシステムが日本型雇用システムという相対的に大きなシステムの影響を多大に受けていることが分析されていた)

「大学改革」という病――学問の自由・財政基盤・競争主義から検証する

「大学改革」という病――学問の自由・財政基盤・競争主義から検証する

 

雇用問題だけではない。例えば、離婚したいと思っているが、養育費をもらえる保証が無いから、望まぬ結婚生活を続けている女性だっているかもしれない。もし、社会が、シングルマザーになっても困らないような仕組み(養育費を確実に集める仕組みとか)を作れば、彼女たちだって、「嫌ならやめられる」。

ベーシックインカムが実現すれば、離婚率が増えると思う。それは、デメリットなんかではなく、望まぬ結婚生活を強いられている女性を救うのであれば、良いことなのではないか、と下記の本では述べられていた)

AI時代の新・ベーシックインカム論 (光文社新書)

AI時代の新・ベーシックインカム論 (光文社新書)

 

ブログの本筋から離れるためここまでにしておくが、少なくとも「嫌ならやめればいいじゃん」と呑気に言える状況ではまだ無い、と思っている。本当に「嫌ならやめられる」社会になるように、これから更に社会をアップデートさせていかないといけない。

 

 

(5)(追記)バウマンのメタファーをアレンジ
自分は、①切り捨てられる者、②切り捨てを怖れてしがみつく者、③そういったことからそもそも自由な者。現在の状況は大きくこの3極に分かれるのでは、という趣旨のことを書いた。


これをバウマンのメタファーをアレンジして表現するなら、①砂漠で放浪する者、②ようやく見つけた残り少ない固い岩盤の迷路にしがみつく者、そして、③快適なオアシスを作り、迷路にしがみつく者を嗤う社会適合者、とでもなろうか。この③を拡張し、オアシスをコモン的なものとして捉え直し、社会適合者=強者以外も広く恩恵に預かれるようなオルタナティブがつくれれば望ましい。

 

昔、広井良典が『コミュニティを問い直す』で、日本のコミュニティは農村型であり、ヨーロッパのような「都市型コミュニティ」が育っていないと述べていたが、それにも通じる話かもしれない。

*1:文春新書

*2:文春新書

*3:文春新書

SOGIの話の続きとか

0 前回のブログへ寄せられたコメント

 前回のブログに対して,知人(大学の後輩)がコメントをくれました。

 

ghost-dog.hatenablog.com

ある問題を「社会モデル」によって乗り越えるという点で障害者運動とウーメンリブが結びついたように、LGBTをめぐる議論もさまざまな運動と結びつく可能性が提示されているように読みました。さらにその先にSOGI――あらゆる人々をも巻き込むイメージは、自分も当事者研究についてその可能性を考えています。
上野千鶴子構築主義とは何か』を読み返したくなりました。 

 それについて返信をしようと思っていたら,どんどん長くなってきたので,独立して記事に起こすことにしました。後半は,返信ではなく,単に関連して思いついたこと(前から思っていたこと)を追加していっただけですが。

 

1 他の差別事象との比較について

他の差別事象との比較というのはずっと自分も考えていました。

例えば、黒人差別運動における“Black Is Beautiful”とか、水平社宣言の「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」とか、そういう被差別者「としての」解放運動が歴史の中で大きな役割を果たしてきた一方で、人種や出自による差異の本質性を否定し、被差別カテゴリー「からの」解放を目指す向きがあります。

※「としての」と「からの」の区別は、角岡伸彦氏の『ふしぎな部落問題』の影響を受けています。この本、かなりオススメです。

ふしぎな部落問題 (ちくま新書)

ふしぎな部落問題 (ちくま新書)

 

 

「としての」と「からの」という言葉を使って言い直すとすれば、性的マイノリティが連帯のためにLGBTという言葉を獲得して性的マイノリティ「としての」解放を目指しはじめたが、今は、被差別カテゴリー「からの」解放(究極的にはカミングアウトが不要になる社会を目指す)も同時に目指していくという過渡期にある、とでも説明できるでしょうか。

 

当事者研究のことは詳しくは全然知りませんが、まさしく典型的には「としての」の領域と言えるのかもしれません。ただ、差別に関わるあらゆるシステムが人為的、社会的なものであるという視点からすれば、当事者研究も同じく「からの」というアプローチが可能だし、有効なのでしょう。

上野千鶴子構築主義とは何か』は未読。機会があれば。

 

2 歴史や文化の継承

これまでは性的マイノリティの差別、人種差別、障害者差別、部落差別の共通点について言及してきました。それは要するに、短期的な「としての」解放と、長期的な「からの」解の両方が必要だ、ということに尽きるのかもしれません。

ただし、「からの」差別を目指すにあたり、その被差別カテゴリーで育まれた歴史や文化は残るし、残さねばならない、という課題があります。歴史や文化の継承は、さきほど紹介した角岡信彦さんも述べているし、元のブログで述べたマサキチトセさんも言及していました。

差別はあってはならないが、差別の歴史や文化はなかったことにしてはいけない。この両立は、難しいですね・・・。

 

3 承認と再配分のジレンマ

自分が問題関心を持って考えてきたテーマは、要するに、どうやって差別を解消するか(差別が解消されたとはどういうことか)というテーマだと言えると思います。

実はこの問題、ナンシーフレイザーという政治学者が90年代に「承認と再配分のジレンマ」として提起した問題ともろに符合するということに最近気づきました。

これについては、フレイザーの著作そのものを読めていないのですが、北大の政治学者の方がまとめた論文があって、とても参考になるので、興味がある方は是非読んでみて下さい。

https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/62951/1/lawreview_vol67no3_05.pdf

 

4 性的マイノリティや被差別部落の特殊性

角岡信彦氏は、部落差別が他と異なる点についてこう述べています。

下記は、以前角岡氏の講演を聞いたときの覚え書きです。

 

部落問題は「ふしぎ」である。

どういうことか。人には色々な属性がある。年齢、性別、血液型、出身地等。その中で、女という属性、B型という属性、同性愛者という属性などは「あってはならない」ものではない。そういう属性自体がなくなるべきというものではない。それに対して、「部落民」という属性は、それ自体が差別であり、「部落民」という属性は「あってはならない」ものであるはずだ。

女性や、性的少数者、障害者等、色々な差別を受ける人はいるが、たとえば女性は「男性になる」ことを目指している訳ではないし、障害者は「健常者になる」ことを目指している訳ではない。しかし、「被差別部落民であること」については、これ自体をなくさなければいけない。「部落は、差別されるから部落である。」一方、女性は、差別されるから女性ではない。障害者は、差別されるから障害者ではない。

差別を「媒介」にして存在しているのが、被差別部落という存在。ここが、他の差別問題と異なり、ややこしく、難しく、不思議なところ。

つまり、カテゴリーを抹消すること、上の整理で言えば「からの」解放の重要性が際立つことになります。

同じようなことは、『ふしぎな部落問題』にも書いてあります。

※本では、実際の解放運動の歴史は「としての」解放を目指すものであったこと、その功罪、これからのあり方等について述べてあります。

 

他方、性的マイノリティが闘ってきた差別は「いないことにされる」という圧力です。だからこそ、「自分はここにいる」と名乗るため、そして、団結するため、当事者たちは「LGBT」というカテゴリーを作りだすに至ったのだと思います。

 

※正確に言うと、当事者たちが形成してきたのは、「カテゴリー」ではなく「アイデンティティ」だったのだと思います。

まきむぅさんは、自分で選び取った名前は「アイデンティティ」となり、他人につけられた名前は「カテゴリ」となります。と『百合のリアル』の中で述べています。

百合のリアル (星海社新書)

百合のリアル (星海社新書)

 

 

 部落差別は、何の違いも全く無いはずなのに、「差異」を設けられたもの。

他方、性的マイノリティの差別は、一人一人違うのに、「差異」を無視して二分法に押しこめたもの。

 

このように、性的マイノリティの差別と、被差別部落の差別には、背景の大きな違いがあると思います。共通点も多くあるとはいえ、こういう違いについても心に留めておかねばならないだろうと思います。

 

5 「当事者/非当事者」を超えたい

こういう話の際にいつも思い浮かぶのが、子どもを産んでいないとか、結婚をしていないとかで、肩身が狭い思いをさせられている人のことです。中には、身体的な事情などで、望みはするものの子どもを産めなかった人もいれば、最初から産もうと思わなかった人もいます。色々です。

 

親たちと、そういう人たちとの間に、「育児の当事者/育児の非当事者」という悲しむべき分断が生じているのが現状です。

 

本当は、子どもは、親だけではなく「社会」で育てられるべきだと強く思っています。

そうである以上、「子どもがいない人」だって、「社会」の一員として、育児に関わったり、物申したりする資格はあるし、どんどん関わって欲しいと思います。

それなのに「子どもがいない人」が、政治化とかの「子供を産まない人が悪い」みたいな心無い言動によって不当に肩身を狭くさせられてしまうことで、育児や子どもから完全に遠ざかってしまう懸念があります。他方、「子どもがいる人」の方も、このままだと「社会」に開かれずに「子どもがいる人」同士だけの閉じたコミュニティで完結してしまいます。

 

子どもがいない人、特に女性の生きづらさは、恐らく想像以上です。近しい同僚にそういう方がいて、気付かされました。育児の都合で急な欠勤や定時帰りをする自分の皺寄せが、その同僚に行っていました。正直、良い気持ちはしていなかったと思います。

 

育児をしてようがしていまいが、どんな人も、好きなときに十分に休んだり、残業をしないで定時に帰ったりできるようになってほしい。

 

こういうことも、ここまで話してきたテーマと関連する話だろうと思います。

LGBTからSOGIへ/バリアフリーからノーマライゼーション・ユニバーサルデザインへ

5千文字以上の長文ですが、是非読んでもらいたいです。
かなり頑張って書きました。

 

1 LGBTとSOGI
SOGIという言葉について、とりあえずこれを読んでください。
コンパクトに要点をまとめた良い記事だと思います。
あと、手書きのイラストが分かりやすくて、かつ可愛らしい。

www.2chopo.com

 

(2/22 追記

上の記事、リンクが消えてるようです。残念。

代わりにこのあたりの記事が良さそう。

第28話 今年は「SOGI」が流行る? : yomiDr. / ヨミドクター(読売新聞)

 

追記終わり)

 

 

SOGIという言葉は非常に重要です。
この言葉のおかげで「LGBTというフツウじゃない人/フツウの人」という暴力的な二分論を克服して「みんなが当事者」という見方が出来ます。

いわゆる「性的マイノリティ」と言われている人たちを変に特別視したり、アブノーマルで異質な人だとみなしたりして「特別扱い」するのは、本当はおかしなことです。
また、誰もがSOGIを尊重されるべきという考え方は、例えば「早く結婚しろ」とか「早く子供を産め」とか「女なのに特撮が好きなんて」とかみたいなことを言われてツラい思いをしている人、つまり「LGBTではないけど性について抑圧されている人」に寄り添うことも可能にしてくれると思います。
NHKドラマの『特撮ガガガ』は中々面白い!)

 

2 SOGIが生みかねない誤解
ただ「みんなが当事者」というのは諸刃でもあります。
それ自体は決して間違ってはいないのですが、「同じなのだから何の配慮や取組も要らない」という誤解を生みかねません。


「みんなが当事者」というのは「みんな一緒」ではないはずです。

例えば「カミングアウトが不要になる時代が来るべき」という意見があります。
「オレ、ショートヘアーの人が好きなんだー」、「へー、そうなんだー。」
「私は細マッチョくらいの人が好きなんだー」、「へー、そうなんだー。」
くらいな感じで、
「オレ、ゲイなんだー。」、「へー、そうなんだー。」
と話せるようになるのが本来望ましい、と。

 

この考え方は、ある意味間違ってはいません。
まきむぅさん自身も、将来の夢は「幸せそうな女の子カップルに“レズビアンって何?”って言われること」と語っています。

 

ただ、あえて言えば、それは目の前の現実に対して、まだ理想論過ぎます。
現に、性的マイノリティの人たちは、リアルな問題として、差別を受け、生き辛さを感じています。例えば、同性婚の問題など、法的な問題もあります。同性愛者を差別、揶揄するような言動もあります。

 

つまり、「みんなSOGIの当事者」というのは大事なことで押さえておかないといけないものの、「LGBTの人たちへの差別を解消するための配慮や取組は必要」ということになります。

 

・・・さて、ここまで読んで、どう思います?
正直、ややこしいと思いませんか?
ややこしいと思った人、多分いると思うんですよね。

 

「特別扱いするな!」と言われ、かといって何もしないでいいかというとそうではなくて「配慮は必要」と言われる。なんというか、どっちつかずな感じ。

 

ある意味仕方がないんです。性的マイノリティの問題は、本当は歴史を抜きには語れません。長くなるのでここでは書きませんが、少なくとも、今は過渡期にあるということは言えると思います。

 

(歴史が気になる人には、例えばこの本などがオススメ)

 

 

3 ノーマライゼーションユニバーサルデザイン、そして合理的配慮
自分自身「ややこしい」と思って混乱していました。
ただ、あるとき次のことに気付いたんです。

 

LGBTという言葉では足りない点があり、SOGIという理念が登場。それでもLGBTの人たちへの差別を解消するための配慮や取組は必要。
・障害者福祉の分野では「バリアフリー」が「ノーマライゼーション」や「ユニバーサルデザイン」に発展。それでも「合理的配慮」の提供は必要。
この2つが似ている!

 

このことに気付いたとき、少し、この「ややこしい」状況に向き合うスタンスが分かった気がしました。

 

ノーマライゼーションユニバーサルデザインへの発展をSOGIと比較することで、性的マイノリティの「ややこしい」ところが少しでも解消して、理解が深まって欲しい。この記事を書くことにした意図は、まさにそこにあります。

 

バリアフリーと、ノーマライゼーションユニバーサルデザインの違いが何となく分かっているという方で、既に言わんとしていることは分かった、という人もいると思いますが、ピンと来ないという方もいるだろうと思いますので、少し詳しく買きます。

 

ノーマライゼーションについては、Wikipediaに以下のような説明があります。

ノーマライゼーションまたはノーマリゼーション(英語: normalization)とは、1960年代に北欧諸国から始まった社会福祉をめぐる社会理念の一つで、障害者も、健常者と同様の生活が出来る様に支援するべき、という考え方である。また、そこから発展して、障害者と健常者とは、お互いが特別に区別されることなく、社会生活を共にするのが正常なことであり、本来の望ましい姿であるとする考え方としても使われることがある。またそれに向けた運動や施策なども含まれる。

 また、ユニバーサルデザインについては、Wikipediaに以下のような説明があります。

ユニバーサルデザイン(Universal Design/UD)とは、文化・言語・国籍や年齢・性別などの違い、障害の有無や能力差などを問わずに利用できることを目指した建築(設備)・製品・情報などの設計(デザイン)のことである。「できるだけ多くの人が利用可能であるようなデザインにすること」が基本コンセプトである。デザイン対象を障害者に限定していない点が「バリアフリー」とは異なる。これは、バリアフリーが「障害者のための特別扱い」という新たな心理的障壁を生んでいると考えたロナルド・メイス自身の批判的態度が反映されたことによっている。

 以前は、バリアフリーという言葉が主流でしたが、最近は、このノーマライゼーションユニバーサルデザインという言葉を目にする機会が増えてきました。

 

バリアフリーからノーマライゼーションユニバーサルデザインへの転換(発展)は、上記にもあるように、障害者の「特別扱い」の問題を乗り越えようとしたものと言えると思います。「障害者」であったとしても、「自分たちとは全く違う異質な人」と変に特別扱いするべきではありません。また、例えば、公共施設のエレベーターは、身体障害者だけではなく、妊婦や高齢者、病人など、あらゆる人にとって必要なものですよね。

 

ただし、当然ですが、「特別扱い」をやめることは、障害者差別解消の為の配慮・取組が不要になることを意味しません。例えば、障害者差別解消法では、合理的配慮の提供が求められています。

障害者差別解消法(第7条第2項、第8条第2項)は、行政機関等及び事業者に対し、(略)社会的障壁の除去の実施について、必要かつ合理的な配慮を行うこと(合理的配慮の提供)を求めています。これは、障害者が受ける制限は、障害のみに起因するものではなく、社会における様々な障壁と相対することによって生ずるものとのいわゆる「社会モデル」の考え方を踏まえたものであり、障害者の権利利益を侵害することとならないよう、障害者が個々の場面において必要としている社会的障壁を除去するための必要かつ合理的な取組であり、その実施に伴う負担が過重でないものです。

  厚生労働省HP「合理的配慮の提供等事例集」より引用

 

2点重要な点があります。
1つは「社会モデル」の考え方。
「障害」はその人(だけ)ではなく「社会」の側にあるという考え方。
同じように、「性」に関する様々な言説や制度は社会が形作ったものです。一例を挙げれば、「結婚」というものはまさに「社会」に生きる人間がつくった「制度」です。この点、SOGIの問題は障害者福祉分野における「社会モデル」との共通点が見出せます。

もう1つは「個々の場面において必要としている」とあるように個別具体性が重要だということ。障害者だけに限定しない、障害者を「特別扱い」しない、ということは、「みんな一緒」を意味しないのです。そうではなく、むしろ「みんなそれぞれ違う」ということが重要なのです。そのうえで、その人に必要な配慮は提供されるべきだし、差別を解消する取組も必要なのです。

 

現状では、LGBTの人たちは、そうではない人たちに比べて相対的に「社会的障壁」が多く、配慮や取組が必要になる場面が多いと思います。しかし、それは「全員がSOGIの当事者である」ということと何ら矛盾するものではありません。

 

4 まとめ
最後に簡単にまとめます。
LGBTの誤解(SOGIという言葉が必要な背景)
LGBTという「普通ではない」人/「普通」の人 という誤った捉え方がある。
「あの人たちは違う」=差別的な「特別扱い」につながる。
②SOGIの誤解
「みんな一緒」=同じなのだから何の配慮や取組も要らない。
③本来SOGIという言葉が目指すもの
「みんなそれぞれ違う」=ノーマライゼーションユニバーサルデザインという理念と合理的配慮の必要性が両立するように、「SOGI」の尊重という理念と「LGBT当事者」の為の差別解消の取組の必要性は両立する。
 

5 おまけ その1 (おまけだけど重要)
・性的マイノリティの差別の問題を考えるために、障害者福祉の分野の考え方を拝借しました。ただし、同性愛は病気でも障害でもありませんので、そこは間違えないようにしてください。

現在では、WHO(世界保健機関)や米国精神医学会、日本精神神経学会などが同性愛を「異常」「倒錯」「精神疾患」とはみなさず、治療の対象から除外しています。 

Q. 同性愛者は病気なのではないですか?- So homosexuality is not a disease? | EMA日本 より引用

 

なお、当然ですが、仮に同性愛が病気や障害であったとしても、病気や障害であることを理由に差別していいことにはなりません。

 

性同一性障害が障害、病気なのか、という点は、非常にデリケートで難しい問題です。
これについては、自分もまだ勉強中だし、「当事者」の方たちも模索しているところだし、社会における捉え方もまだ変化の途中です。
考える参考として、2つの記事を紹介します。

 

wezz-y.com

wezz-y.com

 


6 おまけ その2 (おまけだけど重要)
トランスジェンダー」という言葉を名詞として使うと「自分とは違う、異質な人」という乱暴な「カテゴライズ」になってしまうので、名詞ではなくて形容詞として使おう、という動きがあるそうです(まきむぅさんの本で知りました)。
上記で述べてきた「自分たち/トランスジェンダー」という二分論から「みんな違う(それぞれ配慮が必要)」への転換ですね。
この点について、自分にも反省すべき点があることに最近気づきました。
それは、精神疾患の方を「セイシン」と呼ぶ習慣です。
同僚がこう言う場面を少なからず目にしてきましたし、それに倣って自分自身も最近までそのように呼んでいました。この言葉の背景には、「自分たち/セイシン」という境界を引き、彼らを「自分たちとは全く異質の存在」と捉える無意識の考え方があったように思います。細かいことですが、今は、「精神疾患の方」等と呼ぶように気を付けているつもりです。「セイシン」という呼び方をしていた方、これを機に、言葉遣いを変えてみてはいかがでしょうか?

 

7 おまけ その3
 上で引用したまきむぅさんの記事を探そうと思ってググっていると、このマサキチトセさんという人が、まさに自分と全く同じ問題意識を持った記事を結構前に書いているのを見つけて、ちょっとビックリしました。

 前半はSOGIの説明で、さっきのまきむぅさんの記事と似たような趣旨なんですが、後半の「批判力の無いSOGI概念」というところが、自分の問題意識とバッチリ同じでした。是非読んで下さい。強く賛同します。

ja.gimmeaqueereye.org

 

少し長いですが、最後の部分を引用します。

このまま「LGBTの代わりにSOGI」という安易な言葉の入れ替えが起きてしまって、SOGI概念を使う意義としてのノーマティビティへの批判という側面を私たちが忘れてしまったら、どうなるか。

そこに残るのは、「みんな多様だよね」という、それ自体は確かに事実だけれど、そんなこと言ってても何も解決しないという事態でしょう。さらにそこには、差別を受けてきた歴史やそれによって皮肉にも生まれてしまった豊かな文化の記憶は、受け継がれないでしょう。

「みんな多様、LもGもBもTも異性愛者もシスジェンダーもみんな色々あるよね、みんな当事者、みんな今のままでいい、個性だもん、社会なんて関係ない、互いに個人的に寛容になって、それぞれハッピーに生きよう!」

そんな風に、批判の力を失ったSOGI概念は、いとも簡単に社会の問題を「個人の問題」に矮小化し、差別の構造や仕組みを温存する方向に行ってしまう気がします。

 それから、自分はLGBTの人たちが「社会的障壁」に苦しんでいるというイメージで上では書きましたが、マサキさんが書いている通り、むしろ、「普通」とされている人たち(異性愛者、シスジェンダー)が優遇されているという理解が正確だと言えると思います。

虐待する親を完全には他人事とは思えない

鴻上尚史 on Twitter: "僕は作家なので想像力はそれなりにあると思っていたのだが、子供を持って初めて「虐待によって殺された子供のニュース」がつらすぎて、なるべくなら見たり聞いたりしたくないという気持ちになる。子供を持つまでこんな気持ちになるなんて夢にも思わなかった。自分の想像力なんて大したことないと思った"

 

これ、正直、自分の場合は逆の部分もあって・・・

 

元々は、虐待する親の気持ちなんて全く信じられない、自分は絶対にそんなことはしない、と理由もなく確信があったんだけど、いざ実際育児やってると「ヤバい」と思う瞬間がいくつもあって、日々反省してるんだよな・・・。

 

映画『万引き家族』でもっとも印象に残った、残り過ぎた、けれど、忘れようとしたシーンというのがある。
(以下、なるべくネタバレ無しで書きます)

そのシーンは、安藤サクラの取り調べのシーンでもなく、リリー・フランキーのバスを追いかけるシーンでもなく、海水浴のシーンでもなく、実は、女の子が「実の母親」から怒られて、その「実の母親」から「『ごめんなさい』は?」と詰問されるシーンだったりする。

 

もちろん「『ごめんなさい』は?」という言葉が、「子どもに善悪を教える」という目的での、子どもの為の言葉であったのなら何の問題も無い。
ただ、観た人は分かると思うが、そのシーンでのそれは、親の鬱憤を晴らすためのものであり、自分が親という優位にあることを(言葉は悪いが)利用して子どもを押さえつけるものであり、とても自己中心的で、正直、醜いものだった。あのシーンを観て「悪いのは、子どもではなく親」だと誰もが思うだろう、そういうシーンだった。

 

何故、そのシーンの印象が強烈だったか。


それは、その「実の母親」と全く同じような振る舞いを自分自身がしてしまった経験があり、他人事として観れなかったからに他ならない。
あの目つき、居住まい、声の調子、「ごめんなさい」を言った子どもへの冷たい反応・・・その全てが、まるで自分自身をスクリーンに映されているかのごとく、自分の振る舞いに余りにもソックリだった。正直、寒気がするくらいに。

 

アタマでは、
「叱る」と「怒る」は違うとか、
「叱らねばならない悪いこと」と「親が困ること」は違うとか、
そういうことは分かっているつもりだ。

でも、体調が悪いときとか、気持ちに余裕がないときに、感情的に理不尽な怒り方をしてしまう。

 

それこそ、昨日の朝も、そういう理不尽な怒り方をしてしまった。
(ずっと風邪が治らなくて、イライラしてた)

 

そして、すぐに、「やっちまった・・・」と後悔して、出勤中に心の中で子どもに謝ることになる。
後悔するくらいなら、やめときゃいいのに。

 

「イライラしてるな」と思ったら、あの「実の母親」のことを思い出すようにして、なるべく心を落ち着けないといけない。
自分にとってイヤな経験だから思い出さないようにしてたけど、反面教師として、あの「実の母親」のことを思い出すにしよう。
そして、「やっちまった」と思ったあとは、せめてフォローをしてあげよう。

 

※いずれ、自分に後輩や部下が出来たときにパワハラをしてしまわないか、ということも考えてしまって正直怖い。自省、自制。

 

それと、育児の件に限らず、自分の想像力には限界があるということを常に心に留めねばなるまい、と改めて思う。

 

ただ「想像力や立場の互換性には限界がある」とはいえ、それでも、想像力は持たねばならない。

生き方の不平等――お互いさまの社会に向けて (岩波新書)

生き方の不平等――お互いさまの社会に向けて (岩波新書)

 

前に書いた書評を引用する。

著者は、不平等の解消を実現する為、「お互いさま」という考え方を提唱した。
データに依拠し、これでもか、と不平等の「実態」を丁寧に緻密に提示してきた各章の熱量に比べて、一見、この「お互いさま」という考え方は、凡庸に見える。
なぜなら、「お互いさま」というのは、ある意味、福祉社会、福祉国家の駆動原理そのものであり、その言葉には「何を今さら」というイメージをどうしても持ってしまうからだ。
いざリスクを被った際に、個人では抱えきれないものを、集団で備えることで、「万が一」に備えるという営み。言葉を代えれば保険原理。社会保障は、こういった文脈、目的で制度化、正当化されるのが常だ。
実際、既に駆動している多くの社会保障はこの原理で説明できる。
例えば、医療保険、失業保険、生活保護等々。
いわば、「いつか、自分も○○になるかもしれない」「いつか、自分も○○するかもしれない」、つまり、「いつか自分も当事者になるかもしれない」という怖れに対応するために、近代以降、人間社会は福祉というものを形作ってきたといえる。
(もちろん、軍国政策のための手段として、福祉が活用されてきたという側面はあるので、話はもう少し複雑になる。年金は、かつては「恩給」として機能していた。平たく言えば、「死んでも(怪我をしても)家族は国が面倒見てやるから、安心して死んで来い」という感じか。)
・しかし、本書で、著者が提示した「お互いさま」というのは、この「いつか、自分も」という「リスク」を媒介とした社会保障原理に留まらない。そこが、本書の終章から読み解くべき要点の一つだと思う。
ゼミの時にも話したが、例えば、生物学的な「男」として生きている自分は、「妊娠というライフコースによって、出世が閉ざされる女性」という「当事者」にはなりえない。
「リスク」を媒介とした保険原理では、「いつか失業するかも」、「いつか障害者になるかも」、「いつか高齢者になる」という考え方から、福祉を正当化することが出来る。
しかし、これでは、「当事者ではないから関係ない」という問題は克服できない。男性として産まれれば「いつか妊娠して出世が閉ざされるかもしれない」という「リスク」に直面しようがないからだ。
そのような「当事者にはなり得ない自身」の限界を知ってなお、「想像力」によって、「他者」との共存を図っていくこと、それが、著者が言う「お互いさま」の論理だと言える。
そもそも、例えば、男性が賃労働社会で「特権的」な地位を占めているのは、男性に都合がいいような社会構造を、自ら再生産してきたからに他ならない(上野千鶴子とか濱口桂一郎とかを参照。1つのキーワードは「メンバーシップ型雇用」。)。そういう意味で、「女性」の問題は、「女性」だけに還元されるのではなく、その反対当事者としての「男性」の問題でもある。まさしく、「他者」の存在を前提に「自己」が存在する、という相対的な認識論の世界。
こうした問題意識からすれば、「自分は当事者ではないから関係ない」という物言いは、許されないことになる。
著者が「他者感覚」などの言葉を引いてきて説明をしようとしていたのは、こうした問題意識からだ。
とはいえ、実際、こうした「他者感覚」を学ぶきっかけになる「他者」との交流の機会は、限定されている。特に、子供は。
だからこそ、「教育」の役割が必要なのだ、と著者は言う。
・もう一つ、「何故、2010年という段階で、改めてこのような提起が必要だったのか。当時(今も)の社会に欠けていたものは何か」という視点も確認しておきたい(当日のゼミでは時間がなくて言及しなかったが)。
端的に言えば、1つは、「日本型福祉」の変容と、「自己責任論」の台頭の2つだろう。
まず、特定のライフコースが想定され、「家族」や「世帯」による共助の仕組が、福祉という「公助」の領域を補完していたのが、かつての「日本型福祉社会」だった。それが、ライフコースの変容、多様化など様々な要因で、機能しなくなってきたということ(単に少子高齢化や不景気で総額ベースで足りなくなってきたという側面もあるが)。各章で、これでもかと「世帯」という切り口で、不平等の実態を分析してきたことは、ここに繋がる。
(本書ではそこまで紙幅を割いていなかったが、雇用における人材育成のパラダイムの変容という論点も広い意味での「日本型福祉」の議論に関連していると言える。一言で言えば、かつては「即戦力」なんてものが求められず、企業が若手を育成してきた文化がもはや崩れたということだ。企業という私集団における「共助」の仕組が壊れ、今、「公助」の領域での職業訓練などの措置が必要になってきたということ。)
2つめの「自己責任論」の台頭は、おそらく、1つめの論点とも関連があるのだろう。もっと広い文脈で言えば「ネオリベ」の台頭という論点。
要するに、家族や企業といった「共助」の領域でのリスクの平準化機能が失われ、「個人」が剥き出しになっているのが、現在の日本なのだろう。
生き残るためには、よく分からない他人のことを考えるよりも、自分自身をスキルアップさせて、自己啓発をしていく方がいい。そういうメンタリティに陥りがちなのが悲しいかな、現状だ。
でも、本当は、「社会」に生きる我々は、そこで歩みを止めるわけにはいかない。
「他者」とは、結局「共感」できない。それでも、なお、「共存」していく必要性があるのだと思う。これは、『感情化する社会』を読んだゼミ生なら理解できると思う。
『魂の労働』のある部分で、「政治」とは、「個人」による不可能性を克服することだ、ということが書いてあったと記憶している。そして、それが失われている今、「宿命論」が回帰しているのだ、と。
そういうことを想起すると、本書で、筆者が述べた「お互いさま」の社会の実現ということは、「政治」の営みそのものに他ならないのではないか、とも思う。
大塚英志も、このようなことを言っていた。
・「共感」できない「他者」をどう理解していくかという手続きを放棄して「共感」が「大きな感情」に結びついてしまったものは、本来設計すべきだった「社会」や「国家」とは別物(『感情化する社会』p.15)

 

 

 

アンサーブログ その3 生産性と社会適合者

1 前置き

 

Mistir氏のブログを受けてのブログ(3回目)。

ちょっとネットストーカーみがあって、気持ち悪いなオレ。

ただ、今回のブログに限らず、氏の問題意識には凄く共感できるところがあって、氏のブログを読むと自分も書きたくなるんだよな。

本題に入ろう。

まずは氏のブログを読んでほしい。

僕は落合陽一 (的な価値観)と戦うことにした - MistiRoom

 

お読みいただけただろうか。


当初このブログに対して、以前オレが書いたこのブログの論点との共通点があるのでは、とコメントした。

 

落合・古市氏の対談に関する考察―「トリアージ」という例えの不適切さについて - ghost_dog’s blog

 

だが、ちょっと、的を外しているような気がしていた。

(という訳で、上のトリアージの件のブログは、読まなくても先には進めます)


それに対して、Mistir氏から、このようなコメントを貰った。

 

とにかく「生きるためのコスト(努力等含む)」を著しく軽視している気がします。

 

なるほど違和感の正体はこれだ、と感じた。

自分が漠然と覚えたいた違和感を、氏は的確に言語化してくれた気がする。

という訳で、今回は改めて、落合氏の言及に感じた違和感の所在について語る。


というものの、実は、このテーマはここ数年燻っていたもので、どこかで一度書きたいとずっと思っていたものではある。

 

2 「細切れ時間に仕事ができるか」問題


改めてMistir氏が問題視していた落合氏の発言を引用したい(孫引きは本来禁じ手なんだが、私的なブログなので勘弁されたい。)


今でも僕は、都内ではタクシーでしか移動しませんが、タクシー代は大体月に20万円くらいです。タクシーを使うことで時間を捻出していて、車中ではずっと仕事をするか仮眠しています。そう考えると、1日2時間を捻出でき、単純計算で月に3日分くらい人より長いことになります。労働時間に換算すると5日くらい人より長いことになります。それで1日4万円くらいの仕事ができるなら採算に合います。


こういう「タクシー利用はもったいなくない、何故なら、それで生まれた時間で、自分は更に生産性を上げられるからだ」というような意見、時折目にする。

タクシー利用とまでは言わないけど、こういうのも同じ。

 

駒崎弘樹 ( Hiroki Komazaki ) on Twitter: "これは本当にそう。食洗機導入は、家事の生産性を大きく高めます。 日本の場合、妻に家事負担が極端に寄っていて、妻の時間は無料だと思っている夫が多いこと。また、妻自身も「手をかけないと」と過剰品質を志向してしまいがちなことが要因では。… "

 

これ、ちょっと自分自身に置き換えて考えてみたらすぐに直感的に分かるんだが、彼らが言うほど、上手くはいかないものだ。


一般人、例えばいわゆるサラリーマン(賃労働者)とか家事従事者が、タクシー利用とか食洗機利用とかで5分とか10分とか1時間とかの細切れ時間を貰ったらどうするか。

タクシー内なら、SNS、ソシャゲ、よくて読書ってところか?何もせずに車窓を眺めるなんてこともあるだろう。

家なら、それに加えて、ボーっとテレビやYouTubeでも観るとか、ちょっとオヤツを食べるとか、当たるかどうかわからない懸賞目当てにクロスワードパズルを解いてみるとか、スマブラするとか、そんな感じ?

そういう行為が悪いとは 毛頭言うつもりはない。

そういう行為をやって、その人が豊かに幸せに生きられるならどんどんやればいい。

だが、こういう行為にはいわゆる「生産性」が無い。

 

「生産性」厨だ!燃やせ!・・・と怒ってブラウザバックするのをちょっと待って、続きを聞いてほしい。


自分が言いたいのは、そういう「細切れ時間に仕事ができるか」という単純なことだ。結論を言えば、当然できないこともある。

 

研究者、経営者、フリーランサーノマドワーカーなど、生活の時間全てが仕事、生産に繋がり得る人はいるのだろう。

 

だが、賃労働者の多くは「決まった時間に決まった場所に出勤している」ことでしか賃金を得られない。社用のPCや電話が無いと仕事が出来ないとか(雇われSEやコールセンター)、店舗スタッフだと店にいないと当然仕事にならないとか、そういうことは容易に考えられる。家事従事者とか無職の場合だって、時間があっても金は稼げない。

自分は、副業が事実上禁止されている公務員だから特にそうだ。持ち帰り仕事は基本的にNGだ。(守秘義務に抵触しない範囲で持って帰るのはアリなんだろうが、その分は当然給料は出ない)。

 

こうした層にとっては、いくら時間があったとしてもその時間=「コスト」は生産=「パフォーマンス」に繋がらない。そもそも「コスト」にすらならない。いわば時間の「コスパ」が悪いということだ。

 

そもそも、総額では確かに得するかもしれなくても、庶民はその費用を簡単には捻出できない。電気代が節約できるエコなハイテク家電を変えるのは高所得者で、低所得者は電気代を食う安い家電しか買えない、というジレンマ。


※「スマホだけで簡単副業」みたいなヤツあるじゃん、という意見もあるだろうが、一般的ではないだろう。そもそも、そういう手合いのヤツは詐欺的なものも少なくない。消費生活センターの中の人としては、あまり勧めたくない。

 

※「一見無駄なことをしてリフレッシュするのも、生産性を上げることにつながりますよ」というのは趣旨とは違うクソリプなので、一旦脇に置く。

 

アンペイドワークが過重で,女性に偏っているのは何とかしないといけない、という駒崎さんの意図には120%同意していて、駒崎さんの意見を否定したい訳ではないので、あしからず。ただ、そこで「生産性」という言葉を使うことへの違和感はある。


3 落合氏は「社会適合者」である

 

そもそも「生産性」とは何だ?

ここで大事な事実をおさえておきたい。

そもそも「生産」という営み自体が、社会の関係性の中でしか成立しないものであるということだ。「生産」の定義は社会が決めると言い換えてもいい。

 

例えば、天才物理学者と言われた故・ホーキンス氏が身分が固定化されていた時代(中世)に、農家の子供として生まれていたとしたら。健康な肉体こそが働くのに必要な時代、環境だったなら、彼は、ただの麻痺者として何らの「貢献」も「生産」もすることなく人生が終わっていたかもしれない。

例えば、世界恐慌後、野菜が売られることなく、畑で腐っていった、という歴史なども自分たちは知っている。ちょっとだけ齧ったマルクス経済学流に言うならば、農民たちは、使用価値を備えた野菜は生産したのに、交換価値は生産できなかったのだ。

杉田議員のように「生産」という言葉を「子供を産む」という意味合いで捉えたとしても、やはり話は同じだ。人口減少時代の日本では子どもを産むことは生産的と思われるかもしれない。「子供を産むことは人類にとって普遍の素晴らしいことだ」という価値観も確かにあろう(自分個人はこれを推したい)。しかし、人口増が課題の国では実際に産児制限が行われていて「生産的」どころか、社会にとっての負荷とみなされることもある(日本における優生保護法の時代、中国における一人っ子政策etc.)。

このブログそのものも、昔なら何の「価値」も無かっただろうが、今は自分がこうしてブログを書いて、このツールを利用しているということそれ自体が、ブログ管理会社の利益につながっている。オレは今、この瞬間にも価値を生産している!?(他にもYoutubeしかり、ニコ動しかり、pixivしかり・・・)。

この点について大塚英志は『感情化する社会』でこう述べた。Web利用者は「フリーレイバー」として消費すると同時に労働をさせられている。そういった「創作」に限らず、自覚はされないが、消費行動でビッグデータという価値や価値基準を提供し続ける限り「消費」すらすなわち「労働」となっている。

感情化する社会

感情化する社会

 


こうした状況を指して、アントニオ・ネグリという思想家は<生>=労働とも述べている(らしい)。ネグリは難解なのでほとんどちゃんと読めてないのだが。

“帝国”―グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性

“帝国”―グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性

 

 

だが、その「対価」をオレらは必ずしも貰っていない(アフィリエイトで稼ぐこともあり得るだろうが、自分自身はしていない。そもそもアフィリエイトは対価とは言えない)。これは自分自身の行為が「社会的」に「無価値」とみなされているということだ。少なくとも、市場における交換価値は無い。ある意味で搾取されていると言えるのかもしれない。


このように「価値」や「生産」とは何かということは結構難しい。少なくとも「価値」の源泉は思った以上に不明瞭である、ということは言えるだろう。

だからこそ「生産」という営み自体が社会の関係性の中でしか成立しないものである、という先ほどの結論に至るわけだ。

ゆえに「生産性」を内在的、本質論的に捉えようとすることは誤りか、少なくとも視野狭窄的なのである。


さて、それを踏まえた上で、落合氏のような人物のことを考えてみよう。

落合氏のような人物は、自分が持つ「時間」を自分一人の裁量で生産に結び付けられている。

「コスト」を全て「パフォーマンス」に結びつけると言う意味で、最強のコスパとも言える。

もっと言えば「時間」をコントロールできるということは、すなわち「人生」をコントロール出来ることだとすら言えるだろう。

 

そういう落合氏みたいな人を、強者、勝ち組、と言わずして何と言う。

いや、正確に問題意識の所在を言語化するなら「社会適合者」とでも言えばいいだろうか。

 

※「社会適合者」という言葉は、奈須きのこ氏の伝奇小説『空の境界』で、浅上藤乃というキャラクターが「社会不適合者」と特徴づけられていたことから着想。

【追記】浅上藤乃は、社会不適合者じゃなくて、存在不適合者だった。。。訂正します。存在不適合の方がエグいな。

 

落合氏が社会適合者であること、それ自体を批判したい訳ではない。

人間は様々である以上、適合者、不適合者はそれぞれ絶対に生じるだろう。

持っている才能が社会に求められることと幸運にも一致するのであれば、それを活かしてはいけないという道理もないだろう(金が金を生み出すような仕組みを全肯定していいのか、という問題意識はあるとはいえ)。

だが、それでも、オピニオンリーダーたる人物には「自分が社会適合者である(でしかない)」という自覚を持っていて欲しいのだ。 

 

社会にバッチリと適合している人が、

社会に何とかしてしがみついて適合しようとする一般人を嗤うこと。

これこそがオレやMistir氏が覚えた嫌悪感なのではないだろうか。

 

4 後発者の悲壮なクレーム

 

今回覚えた違和感は、日本におけるシニア世代の左派が語る「脱成長」に対する苛立ちと同根かもしれない。

社会にバッチリと適合している人が、その社会を批判し、変えようと主張することに対する苛立ち。

例えばこれ。(Mistir氏も痛烈に批判していた)

Mistir on Twitter: "ガチでこのツイート100万RTくらいされないかなぁ。この内田樹って人が「安倍政権は間違いなく過去最悪の政権」って断言してることも含めて、資産のある層の若年世代への無理解をあまりに象徴し過ぎてる。 https://t.co/38AllJ3oCu"

 

Mistir氏は以前ブログでも書いていた(前半部分)。

 

上野千鶴子氏の発言に、僕らはどう向き合えばいいのか - MistiRoom

 

既存のシステムの中で優位に立ち、さんざん利益を享受してきた先発者が「そのシステム自体がこのままだともたない」と説いたとしても、既存のシステムの中でその利益を享受して来れなかった後発者は「まずはお前らが得てきた利益を俺らにも享受させろ」と思って足掻いてしまうのだ。それは俯瞰して見れば「浅ましい」のかもしれない。だが、後発者は必死なのだ。後発者が叫ぶのは、悲壮なクレームなのだ。

 

これは環境問題における南北の断絶と同じ構図でもある。

散々CO2を排出して経済的に成功して先進国になった列強が「もうこのままじゃ地球ヤバいからCO2出さないでね」と言ったとして、後進国が素直に納得できるか。

 

 

・・・かといって、そのままにしていては崩壊するかもしれないシステムを後発者のために変えずに維持していくことが正しいわけではない。

 

この問題についてどうすればいいのか、自分もよく分からない。

だが、一つだけ言えることがある。

 

繰り返しになるが、せめて、自分が「自分が社会適合者(勝ち組、先発者、強者)である」という自覚を持っていて欲しい、ということだ。

嗤わないで欲しい、「浅ましい」なんて言わないで欲しい。

 

無力なオレらが高層マンションの上階を見上げて思うのは、つまるところ、そういうことだ。

 


5 おまけ 「溜め」と逃げ切れた自分

小学高学年のとき親父が鬱になった。

元々転勤族だったんだが、子どもの学校への影響を考慮して、親父は初めて単身赴任を選択して、そこでちょっと病気(腸閉塞だったかな)を患い、それが一つのきっかけになったものと思う(大人になって母親から聞いて初めて知ったんだが、元々親父は精神科に通院していたらしいが)。


その後、鬱が悪化し、中学生くらいのときには休職・復職を繰り返した挙句で結局退職し、別居を経て、高校生のときには両親が離婚した。


しかし幸い、不自由をほとんど感じずに、大学にも行かせてもらったりして、ここまで育ててもらった。母親には頭が上がらない。

そして、今思うと、本当の意味での窮地に立たされることが無かったのは、幸いにも形成されていたあらゆる「溜め」のおかげだと思う。

「溜め」についてはここで簡単にだが解説されている。

 

https://haken-news.com/3%25E3%2581%25A4%25E3%2581%25AE%25E6%25BA%259C%25E3%2582%2581/

 

親父は公務員だったから即クビになる訳ではなく、休職扱いでしばらくは休業保障が受けられたし、住宅ローンも支払中だったとはいえ持ち家もあった。母親はクリスチャンで教会での親しい人間関係もあったし、実家の親戚にも色々と相談できていたようで、辛かったとはいえ、精神的な支え、逃げ場があった。オレ自身も元々学校の勉強は出来たほうで、高校受験を機に勉強が楽しくなって、高校では高成績を維持して、部活も楽しくて、大きな喪失感やストレスもなく、むしろ良い学生生活を送ることが出来た(彼女もできず、童貞だったけど)。大学も費用が安い国立に無事に受かることができた(ペーパーテストは昔から得意だった)。


ただ、そういった「溜め」が足りず、親父の病気をきっかけに全てが崩壊していた可能性だって当然ある。

発病があと5年早かったら。

親父が民間企業だったり、自営業だったりで、病気が致命的な減収に即座に繋がっていたとしたら。

母親が相談できるコミュニティーが無かったら。

勉強が苦手で、熱中できる部活にも出会えず、学校生活に充足感を得られず、グレていたら。

そういった境遇に陥らなかったというのは,「幸運」なのだ。


こういうことは途中までは全く意識してなかったんだが、大学4年の時に、政治学のゼミの中で生活保護について勉強していたときに「自分は運が良かったんだ・・・」と初めて身につまされた。


そんなこんなで、自分が無事に就職先を決めた(役所の最終試験に合格した)ときには、正直「逃げ切った・・・!」という感覚を覚えた。嬉しさというより、安堵感。


何が言いたいかというと、公務員になれたオレだって、落合氏などと同様に「社会適合者」だということだ。適合の度合いは違うかもしれないが。

 

だからこそ、オレだって、自省、自制をしなければいけないと思うのだ。

何度も繰り返すが、自分がここまでたどり着けたのは、幸運でしかない。

それを肝に銘じて、謙虚さを心に刻みつけておかなければならない。


自分は「社会」に生かされた。だから、狭量な「自己責任論」には反対するし、「溜め」が多い社会を望む。


全ての人が適合する社会なんてものは理想論かもしれないが、適合できない人がなるべく減るように、適合しようともがく人を嗤わないように、そして、適合できない人の存在を忘れないように、と心に留めておかねばならないと思う。

 

記事感想 WIRED『経済学者・岩井克人、「23年後の貨幣論」を語る』

一時期,WiredのTwitterをフォローしていた時期があって,記事の積読が膨大になってしまっている。
気が向いたときに積読を読んでるのだが,かなり面白い記事があった。

wired.jp

 

これまで読んできた本を受けて,貨幣について関心を持つようになった。
貨幣論』も気になってるんだよなぁ。

例えば,この辺の本をこれまで読んできた。↓

マルクス主義者として,資本主義エンジンがあらゆるものを商品化することを指摘し,疎外に対抗するために非貨幣経済の可能性を論じるハーヴェイ。 

資本主義の終焉――資本の17 の矛盾とグローバル経済の未来

資本主義の終焉――資本の17 の矛盾とグローバル経済の未来

 

脱成長論者の代表格のラトゥーシュ。

貨幣の起源を文化人類学の知見で問い直すグレーバー(未読)。

負債論 貨幣と暴力の5000年

負債論 貨幣と暴力の5000年

 

マクロ経済学の知見から「貨幣発行益」を原資にベーシックインカム導入をすべきと述べる井上智洋。 

AI時代の新・ベーシックインカム論 (光文社新書)

AI時代の新・ベーシックインカム論 (光文社新書)

 

実践レベルも含めて新しい「豊かさ」の指標を模索する藻谷浩介。

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く (角川oneテーマ21)

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く (角川oneテーマ21)

 

和食を初期化する,ということで「一汁一菜で良い」を提唱する土井善春(もちろん,貨幣を論じた本ではないが,根本の思想には共通点がありそう)。 

一汁一菜でよいという提案

一汁一菜でよいという提案

 

 

それはさておき,個人的に,記事中で一番面白いと思ったところはココ。
この部分を書き留めておくために,このブログを書いたと言える。

世の中の多くの部分は,利潤追求をする資本主義と,法のもとにつくられた国家システムで占められています。しかしそれらに組み込まれない領域がある──それが「市民社会」だと思うのです。(略)市民社会とは,社会がそれに向かって行く理想郷ではありません。いつかは資本主義や国家に吸収されるかもしれないけれど,新しい問題を解決するための「アドホック(臨時的)な実験場」として捉えてみるといいのではと考えています。その市民社会フレームワークを考えるときに,信任論というのが役に立つと思っているんですね。そういうことを,いつか書き上げたいと思っています。 

資本に対抗するとか,革命とかというと仰々しくて何となく敬遠してしまうが,これくらいの考え方なら,けっこう共有されやすいのかもしれない。改良主義だ,とか言われるかもしれないが。

 

 ●ついでにもう1つ。手前味噌だが,岩井氏の下記の言及は,昔,メディア・リテラシーについて自分がFacebookに書いたことと関連がありそう。

重要なことは,現在のような高度情報化社会では,人間は誰でもある分野では専門家として振る舞わざるをえないということです。その部分では,自分の利益を抑えて倫理的に振る舞わざるをえない。そして,実際に,多くの人がそう振る舞っているからこそ,われわれの生きている社会は成り立っているわけです。

自分は,昔こう書いた。

 複数の情報源とか一次資料に当たるということが大事だと言われる。そんなことを言われるたびに自分は思う。「無理だろ」と。
そんなことをやっていたら,日が暮れるどころか,人間やめないといけない。
一人の人間がアクセスできる情報量には限りがあるし,専門知識がいることもあるだろう。
だからこそ,そういうことは,メディアや研究者などの「発信」を担う専門家の「作法」の問題だと割り切った方がいいのではないだろうか。
いや,さすがにそれでは狭すぎか。ただ,もう少し範囲を広げるとしても,仕事や研究など,【自身の生活に直接影響する範囲における必要な情報】の「扱い方」の問題と捉えるくらいがいいのではないだろうか。
言葉を替えれば,一般市民に求められるメディア・リテラシーとは,良質な情報を「受信」しようとする以上に,手に入る情報の有限性や不確実性を前提とした上で,間違った「振る舞い」をしないようにするという現実的かつ能動的な場面での戦略なのではないだろうか。

 岩井氏が言う「倫理」と,自分が言う「作法」は,似ている気がする。
散々指摘されて手垢がつきまくった言及だが,SNS時代とは,非専門家が発信者となれることで,「倫理」の歯止めが利かなくなった時代なのだと思う。

途中まで読んでる今井照の『地方自治講義』に書いてあった「市民」像もこれに関連するものと考えられるかもしれない。今井氏曰く,都市化した社会では,あらゆる生活が制度や政治に影響を受ける,だから,市民は政策の当事者として,公的な存在なのである,と。

 

地方自治講義 (ちくま新書 1238)

地方自治講義 (ちくま新書 1238)

 

 ●さて,集合知的なものへの期待を寄せている「運動」の理論家(?)はいる。マルチチュードへの期待が強いネグリ=ハートはもちろん,たしか『負債論』のグレーバーも”We are the 99%”,”Occupy Wall Street”運動の理論的当事者だった。恩師のI先生も,その系譜にあると言えるだろうか。 
だが,集団がかえって残虐になる,という指摘もある。難しい問題。
これもWiredだが,興味深い記事。

wired.jp

 

 

 

落合・古市氏の対談に関する考察―「トリアージ」という例えの不適切さについて

1 前置き

落合陽一氏と古市憲寿氏の対談が、議論を読んでいるようだ。

bunshun.jp

 各論者の批判記事はまだほとんど全く読めていない。

荻上 チキ氏の議論のTogetterまとめだけ、とりあえずごくごく簡単に流し読みした状況。

togetter.com

そんな状態だが、とりあえず、自分の思うところを書いてみる。

 

なお、落合氏、古市氏については、正直、どちらも名前は結構前から知っていたものの、その思想についてはよく知らない。著書もいずれ読んでみたいが、まだ読んだことは無い。

落合氏が、髙島市長の著書(これも未読)の帯に推薦文を書いていたのは知っている。

福岡市を経営する

福岡市を経営する

 

 古市氏については、上野千鶴子の弟子だったとか、「ハーフは劣化が早い」発言で炎上したとか、Twitterを見てる限りだとリベラル界隈(?)からの評判が何か悪そうとか、そういう断片的な知識やイメージがあるが、やはり古市氏の考えそのものはあまり知らない。

 

そういった未熟な前提で語るので、早とちり等があるかもしれない。

その点、ご容赦頂き、ご指摘いただければと思う。

 

さて、この対談については、様々な論点があると思うが、このブログでは、個人的に最も引っ掛かりを覚えた「トリアージ」に関する部分のみ、自身の備忘として書きたいと思う。

 

まずは、対談記事から該当箇所を引用しておく。

落合 終末期医療の延命治療を保険適用外にするとある程度効果が出るかもしれない。たとえば、災害時のトリアージで、黒いタグをつけられると治療してもらえないでしょう。それと同じように、あといくばくかで死んでしまうほど重度の段階になった人も同様に考える、治療をしてもらえない――というのはさすがに問題なので、コスト負担を上げればある程度解決するんじゃないか。延命治療をして欲しい人は自分でお金を払えばいいし、子供世代が延命を望むなら子供世代が払えばいい。今までもこういう議論はされてきましたよね。

 

古市 自費で払えない人は、もう治療してもらえないっていうことだ。それ、論理的にはわかるんだけど、この国で実現できると思う?

 

落合 災害時に関してはもうご納得いただいているわけだから、国がそう決めてしまえば実現できそうな気もするけれど。そういったことも視野に入れないといけない程度に今、切羽つまっているのでは。今の政権は長期で強いしやれるとは思うけど。論理的には。

 

2 論点

気になったのは、タイトルにあるとおり、トリアージという例えを、終末医療の議論の中で持ち出すことが果たして適切なのか、という点だ。

結論を先に言えば、 適切ではない、というのが私見だ。

 

落合氏の議論では、

福祉予算逼迫の時代における「終末期医療の自己負担増」は、

緊急医療における「トリアージ」に相当するものだ。

しかし、これらには、余りにも異なる点があり過ぎると思う。

 

具体的な論点は以下の3つだ。

①正当化する「制限」が「物理的」か「社会的」か

②目指す「目的」が「より多くの患者を救う」ことか否か

③最適解と納得解

 

なお、私は、トリアージという行為については、全くの素人である。

昔、NHKの番組で、そういうものがあるということを観て知っていたという程度。

また、下記で引用するトリアージに関する記述のソースはWikipediaで、情報の確かさは微妙なんだが、大学のレポートや仕事用の文書ではなく私的な覚書なので、その点もご容赦いただきたい。

そういう意味でも、誤っている点、見落としている点等あれば、ご指摘いただければ幸甚である。

 

3 論点①と②

まず、①②の論点については、関連しているので、まとめて述べていきたい。

 

トリアージについて、Wikipediaに、このように書いてある。いくつか引用する。

トリアージ - Wikipedia

トリアージとは、患者の重症度に基づいて、治療の優先度を決定して選別を行うこと。

その判断基準は使用者・資格・対象と使用者の人数バランス・緊急度・対象場所の面積など、各要因によって異なってくる。

医療体制・設備を考慮しつつ、傷病者の重症度と緊急度によって分別し、治療や搬送先の順位を決定することである。

   下線:ブログ主

 

これはつまり、人員や資源、時間といった「物理的」な「制限」がある中で、緊急的に治療の優先順位を決めていく行為であると言えるだろう。

 

そして、Wikiにはこうもある。

 助かる見込みのない患者あるいは軽傷の患者よりも、処置を施すことで命を救える患者を優先するというものである。

そう、その「目的」「より多くの患者を救う」ということである。

 

反対に、トリアージを仮に実施しなかった場合の「崩壊」の絵図は描きやすい。

Wikiでは更に、こう書いてある。 

トリアージは言わば、「小の虫を殺して大の虫を助ける」発想であり、「全ての患者を救う」という医療の原則から見れば例外中の例外である。そのため、大地震や航空機・鉄道事故テロリズムなどにより、大量負傷者が発生し、医療のキャパシティが足りない、すなわち「医療を施すことが出来ない患者が必ず発生してしまう」ことが明らかな極限状況でのみ是認されるべきものである。

要するに、「崩壊」の絵図は、助かる見込みが低い1人に医療キャパを振り分けてしまい、救えるはずの複数の命が救えない、という事態だ。繰り返しになるが「より多くの患者を救う」という目的の為に、トリアージは正当化される。極端な話、1人の命を捨てて5人の命を救うことを目指すということだ。

 

※もちろん、「より多くの患者を救う」は特効薬のように全てを正当化できる論理ではない。「トロッコをこのまま走らせると5人が轢き殺される。向きを変えると1人だけ轢き殺される。向きを変えるべきか?」という思考実験をしてみるといい。

トロッコ問題 - Wikipedia

Fate/Zero』での衛宮切嗣は「ヒーロー」にはなり得なかった(分かる人には分かる)。

Fate/Zero(1) 第四次聖杯戦争秘話 (星海社文庫)

だが、ひとまず、ここではトリアージがそのような論理や目的で一応は正当化されているということを確認しておきたい。

 

一方、医療制度についてはどうなのだろう。

例えば、落合氏はこのように言っている。

背に腹はかえられないから削ろうという動きは出てますよね。実際に、このままだと社会保障制度が崩壊しかねないから、後期高齢者の医療費を2割負担にしようという政策もある。

  ※強調はブログ主

 

さて、社会保障制度が崩壊」ということの意味は、いったい何なんだろうか。

対談ではその絵図が必ずしも明確に示されてはいない。

 落合氏は、トリアージにおける状況と同じく、「助かる見込みが低い1人に医療キャパを振り分けてしまい、救えるはずの複数の命が救えない」という事態を懸念しているのだろうか。

 

それとも、何か別の事態を指しているのだろうか。

 

落合氏が持つのが前者の「救えるはずの複数の命が救えない」という問題意識であれば、トリアージと共通するものであり、(もちろん様々な点で議論の余地はあるものの)一定の理解は出来る。少なくとも、トリアージの例は、終末期の医療についての重要な参考として採用し得る。

 

しかし、どうも、彼らの議論は、そうではなく後者のような気がしてならない。

実際、対談の後段では「国家の寿命と自分の寿命、どっちが先に尽きるか」という議論がなされている。「国家の寿命が尽きる」ということは一体どういう事態なのかやはり明言はされないが、いずれにしろ、天秤に掛けられているのは、「少数の命と多数の命」ではなく、「国家と自分(個人)」だ。例えば、他施策(安全保障、防災、経済振興、インフラ維持、文化政策、科学技術振興etc.)が実行できなくなり、国が成り立たなくなるということなのだろうか。

 

仮に、直面するのが他施策との優先順位という「制限」なら、それは「物理的」な「制限」ではなく、「社会的」な「制限」なのではないか。そして、そうである以上、その「目的」は抽象的には「財政負担減」となり、「より多くの患者を救う」というトリアージの目的とは乖離していく。

 

私は「社会的」とか「物理的」というワードに対して、厳密な定義を持っているわけではないが、その代わりに、ここで1つの文を紹介したい。

 

紹介したいのは、文筆家のまきむぅさん(牧村朝子さん)の言葉だ。

twitter.com

 

彼女は、著書『ハッピーエンドに殺されない』の中で、こう述べた(私は、この言葉が心底好きなのである!)。

 

www.seikyusha.co.jp

 

「世の中、「決まっていること」なんかない。「決めていること」があるだけなのよ。」

 

この言葉は、「親族」に恋愛感情を抱いてしまうという悩みを持つ読者に対し、「いとことの結婚」が許されるかどうかも国や時代で違う(決まっていない!)ということなどを紐解きながら、その読者を励ますべく投げかけた回答の一部だ。

 

この考えは、人間が作る「制度」や「社会」における問題について遍く言えることなのではないだろうか。

 

悲しいかな、人智を越えて「物理的」に「決まっていること」は実際は多くあるだろう。

災害や事故、病気やケガなどはそうだ。まさしく、緊急医療の現場で、救助不能で、トリアージで黒のタグをつけられる人も残念ながらいるだろう。

 

しかし、福祉費用増の問題への対処方法は、人智を越えて「物理的」に「決まっている」ことなのだろうか。それは、「社会的」に「決めていく」事柄なのではないだろうか。

 有限な財源が足りなくなることによって、何かを諦めなければいけなくなることは確かにあるのかもしれない。しかし、そこで、何を、どの程度諦めるのか、ということは、トリアージのそれのように「物理的」に「決まっている」ことなのではなく、「社会的」に「決めていく」ことなのではないだろうか。

 

落合氏は、

災害時に関してはもうご納得いただいている

とも述べているが、これも同様に間違いだろうと思う。

災害時では「物理的な制限」のもと、従わざるを得ないだけだ。それは、真の「納得」、つまり「社会的な納得」とはほど遠い。

 

4 論点③

ここでは、改めて、

災害時に関してはもうご納得いただいているわけだから、国がそう決めてしまえば実現できそうな気もするけれど

という部分に焦点を当てる。

 

私は、「答え」や「解」というものについて、少なくとも「最適解」「納得解」の2つがあると思っている。また、議論の際は、問題としているのがどちらなのか、意識しなければならないと考えている。

 

トリアージにおいては、各人が好き勝手に勘や好みで優先順位を決めるわけではなく、当然、客観的な「判定基準」がある。これは、つまり「最適解」だ。

判定基準は専門知(この場合は医学)に基づいた基準であり、究極的には合意は要らず、独りで最適解に到達することすら可能だ。国が決定したことではない。

 

他方、終末医療という問題に関して、少なくとも「何にいくらの費用支出を許すか」については、究極のところ「最適解」なぞ無いはずだ。制度や社会は「決まっている」のではなく「決めている」ことであることに言及したが、こういうものは、まさしく最適解ではなく「納得解」の領域だ。

(もちろん、例えばAIやロボットなど「テック」の導入で、よりよい福祉供給を可能にすることは可能で、そういう模索については「最適解」の領域もあるだろうとは思う)

 

では、納得解にはどうやって到達できるか・・・それは個人レベルでは文字通り「納得」であり、集団的には「合意」しかない。

しかし、「国がそうきめてしまう」という方法では、絶対に「合意」には到達できないはずである。

 

落合氏の発言は、災害時のトリアージについて、国がそう決めたとしている点でそもそも誤りだ(その最適解を決めているのは国ではなく専門知)。

また、最適解の領域のトリアージの議論を、納得解の領域の終末医療に援用している点も問題がある。

そして、「国がそう決めてしまえば実現できそう」としている点も、まぁ、実現できるかどうかって点では確かに間違ってはいないんだろうが、それを無批判に受け入れていい訳ではない。この言明は為政者目線では都合が良いのだろうが、民主主義の理念を重視するのであれば、看過はできないもののはずだ。

(落合氏は、最後に「論理的には」と留保を付け、「そうすべき」規範的な議論ではないということを示してはいるものの、それでも、全体的に、「国が決めてしまう」ということの問題をあまりにも小さく捉えているように思える)

 

※最適解と納得解の言葉の使い分けは、この本の冒頭で書かれていたことのパクリである。まだ冒頭しか読んでないんだが。

勉強するのは何のため?―僕らの「答え」のつくり方

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5 おまけ

 さきほど言及したTogetterの中で、古市氏の興味深いツィートがあった。

 

私は、終末期医療に限らず、社会保障の議論は(というか、民主主義という営みは)どこまで突き詰めても「最適解」を導き出すことは出来ず、「納得解」を不断に模索していくことが必要だと信じている(恩師の言葉を借りれば、ベストではなくベターを目指すということ)。

これに対して、「連立方程式」という言葉を使う彼は、私の言う「最適解」を信じているということだろうか。

 

彼らの対談を読んで全体的に覚えていた違和感の原因が、このツィートを読んで、少し分かったような気がした。そもそも、思考の枠組みというか、視座が違うのかもしれない。

 

実は、個人的には、民意の表明であれば全てが是となる、という立場には与しない。

wired.jp

専門知の力を信じるし、ニーズや人気、支持がなくとも手放すべきではない価値や規範が存在すると信じる。例えば、その一つの形が、実質的な意味での憲法であり、立憲主義だったりする。例えば、大多数が受け入れた「納得解」であったとしても、それが少数者の犠牲の上に成り立つものであったならば、それは受け入れられない。

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

 

自由主義は個人の欲望の体系だが、そうではなく、引き算の論理で「共通善」が導かれる回路が実現できないか、脱成長という途があるのではないか、という考察もこれまでしてきた。

自由主義の再検討 (岩波新書)

自由主義の再検討 (岩波新書)

 

そういう意味では、合成の誤謬を問題視し、「専門家」として「最適解」を追い求めようとする古市氏の立場には、一定以上の共感を覚える部分がある。

 

とはいえ、2人の対談では、「納得解」の模索や合意形成という視点からの言及が、あまりにも感じ取れなかった気がする。要は、バランスがとても悪いのだ。

その点で、荻上チキ氏のこのツィートの「技術と介護をとりまく議論全体が、常に統治や介護する側、あるいは技術者からの視点で、当事者の目線(想像力)が抜け落ちている」という点には自分も同意する。