「父親の育児は仕事にも活きて生産性も上がる」なんて言わなくていい

2016年8月にFacebookで書いていた記事だが、こっちにも転記しておく。

 

●最近、ワークライフバランスとか、父親の育児とかの話題で「父親が育児に参加した方が、仕事の生産性が上がる!」みたいな議論をときどき目にする。

 

こういう話は、確かに一見良いと思う。どちらかを犠牲にしなければいけないのではなく、どっちも出来るんだ、と勇気をもらえる。

 

でも、実はどこかで違和感を覚えていた。

 

そして、つい最近、その違和感の原因は何だったのか、例の相模原の障害者施設連続殺傷事件の報道をきっかけに分かった気がしたので、覚書として書いてみる。

 

 

●自分が違和感を覚えたのは、「生産性」とか「効率」とか、そういうこととセットでしか、「子供を産み育てる」という営みが承認されない社会になってはイヤだな、と感じたからだと思う。


「育児しても生産性は下がらない、きちんと労働力として役立つ。だから、育児に積極的に」という議論が力を持ちすぎて、変な受け取られ方をされて、間違った方向に行くことを危惧している。

「生産性」が確保されなければ、育児が評価されない、という間違った方向に行くことを。

 

子どもを産み育てることに、生産性が上がるとか、他の何かの条件、プラス要素は本来必要ない。


「権利は権利として」尊重されなければいけない。


仮に、どんなに生産性が落ちようと、どんなに周りに迷惑をかけようと、どんなに育児に社会的なコストがかかろうと、「子供を産み育てる」ことが【権利】である限り、それは尊重されなければならないはずだ。

 

 

●ひっくり返して考えてみよう。
子どもを産んだら、育児をしていたら、本当は生産性が下がるという研究結果が仮に出てしまったとして、それを理由に出産、育児を否定されたとしたら。。。出産、育児は否定されなくても、逆に「二流の労働者」として職場で冷遇されたら。。

 

納得できるだろうか?親は申し訳ない気持ちで、肩身狭く子供を産み育てなければいけないんだろうか。

 

また、人口減、少子高齢化の時代だから、という背景で「子供を産み育てることは素晴らしい」と称賛することも違うと思う。

 

前にFacebookでも書いたけど、国家とか、人口とか関係ない。その子、その親の権利の問題として、出産・育児は支えられなければいけない。


国の人口が増えすぎていて、それを理由に出産、育児を否定されるのはおかしいのと一緒で、国の人口が減ってることを理由に、出産育児が称賛されることもおかしい。

 

 

育児出産が称賛されることがおかしい、のではなく、その理由として、生産性とか、国家とか人口が持ってこられるのが、おかしいということが言いたい。生産性とか、人口とか、関係ない。  

 


子どもを産み育てるという営み、それ自体を認められるような社会にならなければいけない。

 

●「生産性は下がらない、むしろ上がる」という声に期待してしまうのはある程度仕方がないんだろう。自分もそうだ。感情として、迷惑をかけたくない、迷惑をかけていて申し訳ない、という気持ちから、「その分、こうやって役立ちますよ!」と言いたい気持ちになるんだろう。それで、自分がかけた迷惑の罪悪感が少し拭える気がするから。


でも、そういう「迷惑をかけてはいけない」、「どこかで取り戻したい、取り戻さなければいけない」、という圧力が強迫観念になってはいないだろうか。また、それが、他人に、社会に、押し付けられてはいないだろうか。

そして、その行き着く果てが、相模原の殺傷事件だったんではないだろうか。

誰かに貢献するとか、生産性とか、そういうことが出来る人はもちろん素晴らしい。
でも、【権利】は、そういったことの対価ではない。権利は、権利としてある。特に、生存権は、本来何の条件も要らないはずだ。

 

今回は、育児の話を起点にしたが、問題は育児だけに留まらない。

経済効率とかそういうことを抜きに、何かとの引き換えでなくてもいい、純粋な【権利】の主張が出来る社会でないと、生きにくい。

 

色々グダグダ言ったけれど、結局、違和感の正体は「もしもこう間違って捉えられたら嫌だな」っていう、「もしも」の話なので、実際は「育児も仕事もどちらも諦めずに欲張りに楽しもうぜ!」っていう意見はどんどん広まってほしいな、というのが本心

 

 

●(余談)
こんなことをモヤモヤ考えているときに奇しくも、先日、映画『海猿』がテレビであっていて、気になる、というか残念なシーンがあった。

 

主人公を含めた要救助者を助けるには、国家プロジェクトで1500億円かけて作った重要施設を沈めなければいけない、という状況。


人命救助を第一とし、施設を沈める必要性を説く海上保安庁の下川課長(主人公の先崎潜水士の元上司。人格者キャラ。演じるのは俳優の時任三郎さん)に対し、内閣参事官が「あそこに残っている5人は、1500億を沈めてまで助ける価値のある人間なのか?」と問うた。

それに対し、海上保安庁の課長は毅然と「私にはその質問の意味が全くわかりません」と答えた。

 

このシーン、「価値があります」ではなく、「質問の意味が分からない」と答えたことが、素晴らしいところ。人名と金銭をそもそも天秤にかけること自体がおかしい、のだと。この返しは、すごく良かったと思う。

 

だが、何故か、これで終わらなかった。

救助後、内閣参事官が、施設を沈めた経緯について、電話で責任を追及されているシーンがある(相手は政治家?)。彼は、「様々な条件が重なって」的な弁明をしていたところ、ふと目をやったテレビニュースで、救助された主人公先崎潜水士が、妻子と再会し笑顔を浮かべている様子を目にする。彼は、それを見て表情を変え、「沈めたのは私の責任です(キリッ)」と批判の矢面に立つことを覚悟した。
そして、その後、下川課長のもとへ行き、一言。「報告をすぐに上げなければいけないが、単に人命がかかってたから、では納得されない。彼らが救助に値する人間だと強調して報告書を書こうと思う(キリッ」(うろ覚え、大意)

・・・いやいや、このくだり、要るか?

下川課長の「質問の意味が全く解りません」で終わりでいいやん。
正直、この内閣参事官のセリフを聞いたとき、「こいつ、なんも分かってねぇ・・・」ってあきれてしまった。
要救助者がどういう人なのかはどうでもいい。社会に貢献出来ない人でも、どんなに迷惑な人間だとしても、人命は優先されんとおかしい。

命に勝手に序列をつけるんじゃねぇよ。

 

●この投稿をするかどうか、相当迷った。
自分の書きぶりが、「育児中なんだから迷惑をかけさせろ」って開き直って我儘を言っているように読まれるかもしれない、と思って。
それは本意というか、一番言いたいことではない。
人に迷惑はかけたくない。迷惑、負担をかけて申し訳なくて辛い。自分なりに、育児をしながら仕事をしている身として、本当に周りの人に迷惑とか負担をかけて申し訳ないという気持ちを抱きながら、それを悔しく思いながら、そして何より、周りのいろんな方に感謝しながら、毎日を生きているつもり。そして、育児をしていれば何でも許される、というものではないということも分かっているつもり。急に仕事を休まないといけなくなったときのために、仕事の優先順位をきちんと考えるとか、出来ることはしていかなければいけない、と思っている。

でも、やっぱり、権利を、条件付きではなく、ただ権利としてシンプルに主張することができる社会になってほしい、と思ったから、今回こうやって投稿させてもらいました。

育児=権利の時代 【#もっと一緒にいたかった 男性育休100%プロジェクト】

①平成11年、「育児をしない男を父とは呼ばない」というポスターが厚労省によって作られた。

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こんなポスターを作る必要があるほど、当時の日本人にとって、育児は、母親に偏った義務だった訳だ。


何しろ、イクメンという言葉もまだ存在しない時代だ(少なくとも広まってない)。

 

だからこそ、厚労省が広めようとしたのは「育児=父親の義務」という認識であった。

 

約20年経ち、この認識は多くの日本人に、ある程度は共有されて来ているものと思う。もちろん今の状況はまだまだ多分に改善の余地はあるが、建前論レベルとしては認識(認知?)が普及して来たと言えるのではないだろうか。

 

道半ばだし、緩慢な歩みだが、男性の育児は社会に浸透し始めているのかもしれない。

 

②しかし、「育児=父親の義務」という認識自体、決して普遍的なものではないし、強いて言えば「遅れた」ものなのかもしれない。

 

このマンガを見て欲しい。4ページ分なので、1分ほどで読める。


れいちゃ on Twitter: "子育てコーチングなんかより、この漫画の方がよっぽどいい事言ってると思う😇 田村由美先生の「ミステリという勿れ」1巻から。https://t.co/A0f9eCBaMs… "

 

シンプルだが、とても重い指摘だ。
アメリカ人にとっては育児は権利だが、日本人にとっては義務で、そこには天と地ほどの開きがある、と。

 

③やらなきゃいけない、だけじゃない。
やりたいから、やる。


育児って、そういう「権利」の側面もあるんだと思う。
というか、その側面を強化していかなくてはいけない。

 

ファザーリングジャパンの安藤哲也さんが、「よい父親」ではなく「笑っている父親」を目指そう、と言っていることもこれに関連する。育児は楽しいことで、それに関わるのは権利だ。

 

そんなことを思っていた中、
【#もっと一緒にいたかった 男性育休100%プロジェクト】というのを知った。

メルカリ、大和証券、アイシン精機、JALなど73社が賛同する男性の育児休業 5つのメリットとは  #もっと一緒にいたかった | Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン)


この記事の最後の方に、わずか3分ばかりの動画があるので、それを見てほしい。


記事そのものはどうでもいい(どうでもいいというか、こんなメリットがなくても「権利」として認められるべき)

 

これは、まさしく育児の「権利」を謳うプロジェクトだ。

 

④さて、先ほどのマンガを読んで、「ギクッ」と耳が痛いと感じるか、「そーだそーだ!」と感じるかは、同じ男性でも世代によって随分異なるんではないだろうか。

 

プロジェクトの動画によれば、新卒男性社員の8割が育休取得を希望しているとのこと。

 

時代は変わりつつある。
この流れを止めてはいけないし、シニア層は、若者がこういう感覚を持っているということを是非理解して欲しい。

 

⑤そして、父親が育児をする「権利」を獲得していくことは、コインの裏表の問題として、母親(女性)が働く「権利」を獲得していくことにも繋がる。

 

男だって、仕事も育児もやりたいし、やれる。
それなら、
女だって、育児も仕事もやりたいし、やれるはずだ。

SOGIについて

   職場の人権研修のテーマが性的マイノリティの人権で,グループで対話する形式だったんだが,言い足りないことがあるので、補足の文章を書こうと思っていた。

  ところが,とても長くなったので,もうここまで書くなら全庁職員が見れる掲示板に投稿しようと思った。

  ということで,以下はその文章の案。

 

  友人の皆さんに置かれましては,是非読んでいただき,指摘や感想を頂きたいと思います。

 

  週明けに投稿する予定です。

 

↓以下,本文

 

   ほとんどの方,初めまして。
 
 今回は,いわゆる性的マイノリティに関すること,特に,SOGIという言葉について,ちょっと思うことを書きたいと思います。
 実は私は,ジェンダーセクシャリティについて大学時代に学ぶ機会を幸いにも得まして、それ以来このテーマについては強い関心を持ってきました。

  人権研修は毎年あっておりますが,1時間という短い時間では,やはり限界もあろうかと思います(人権研修を批判しているものではありません)。
 そこで,この場をお借りして,私自身が考えていることを述べたいと思います。
 性的マイノリティについてもっと知りたい,という方に,読んでいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

※この投稿は,人権啓発課とは一切関係がないもので,あくまで私個人の私見となっております。当然,市の考えを代表するものではありませんので,その点ご留意ください。
 また,私自身もまだ勉強中の身であり,誤った点や不適切な表記等があるかもしれません。何卒ご容赦頂き,お気づきの点がございましたらご指摘ください。何卒宜しくお願い致します。


●LGBTという言葉が必要だった背景
かつて性的マイノリティは「いないことにされた」人たちでした。「いてはならない」と思われていた,とも言えます。仮に見つかった場合は「普通」ではない,すなわち「異常」とされ,ゆえに,矯正,治療,隔離,嘲笑,攻撃,迫害の対象になってきました(牧村朝子著『同性愛は「病気」なの? 僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断法」クロニクル』に詳しいです)。「かつて」と言いましたが,同性愛が法律で禁止され,むち打ちや死刑にされる国もまだあります。
だからこそ,当事者たちは,自身のことを隠して生きることを選んできました。
自分のことを隠して生きることは,同性愛者の間では「押入れ(クローゼット)の中にいる」と暗喩されていました。そこから「(真の自分を押し込んでいた)クローゼットの中から出て真の姿を開放する」という意味でクローゼットからの「カミングアウト」という用語がアメリカのゲイ社会で生まれたのです。そのあと,紆余曲折を経て,ゲイ(G)以外の当事者たちを指す言葉としてLGBTという言葉が次第に定着してきました。
つまり,LGBTという言葉は,当事者たちが「あなたたちとは違う自分たちがここに確かに存在している」と示すために産まれた,と言えます。このような歴史,文脈の中では「自分は他と違う」ということを示すためのLGBTという言葉は有効だし,不可欠なものだったのでしょう。

●LGBTという言葉のデメリット その1(マイノリティを取りこぼす)
しかし,このLGBTという言葉には,2つのデメリットがあります。
1つは,LGBTという言葉は,この4つの括りに入らないマイノリティの存在を取りこぼしてしまうということです(LGBTの他に,この手の言葉はQとかAとかIとか様々あります。恐らくどんどん増えていくでしょうし,名前の付けようがないものも,あるかもしれません)。
それは,「障害者」というカテゴリーでは,最近話題になっている発達障害の方をカバーしきれないことに似ています。では,そういう言葉を全て並べて覚えればいいのかというと,そうではありません。人の性に関わるバリエーションは,それこそ無限にあるからです。

●LGBTという言葉のデメリット その2(「普通」ではないという誤解)
もう1つのデメリットは,1つ目の点も関連しますが,LGBTという言葉が独り歩きしてしまうと,「ジェンダーセクシャリティに関する話は,LGBTと呼ばれている「普通」ではない,ちょっと異質な人たちについての配慮の話である」という誤った捉え方に繋がってしまうということです。
上に書いたように,当初「いないことにされた」方たちは「自分は他と違う」と叫ぶ必要があったのでしょう。しかし,LGBTと言われる人たちは,「普通」の人と違った,別のよく分からない生き物なんかではありません。誰を好きになるのかとか,自身の性別をどう認識するかとか,そういう点においては多数の人と違う属性をたまたま持っているだけで,それ以外の点は,他の人と同じ人間なのです。
障害者の方が,腫れ物扱いされ,変に特別扱いされることで傷つくケースは多いと聞きます。それと似たような話と言えるでしょう。

●そもそも「普通」って何なのか。
私は,ふだんはメガネをかけて生活し,「障害者」のような苦労はせずに生活していますが,もしもメガネが無い社会であれば,視力に障害がある方と(程度は違うものの)似たような苦労を強いられていたでしょう。「障害はグラデーション」とよく言われますが,「障害者」と「普通」の人の違いもグラデーションだし,「普通」の人の中にも,無限のグラデーションがあります。多くの人が,意識はしていないけれど,生きづらさを感じないようにちょっとずつ社会に依存し,社会に生かされている,といえるでしょう。

ここで,熊谷晋一郎さんという脳性麻痺の方のインタビュー記事を引用します
「自立は,依存先を増やすこと 希望は,絶望を分かち合うこと」
 https://www.tokyo-jinken.or.jp/publication/tj_56_interview.html
“一般的に「自立」の反対語は「依存」だと勘違いされていますが,人間は物であったり人であったり,さまざまなものに依存しないと生きていけないんですよ。
 東日本大震災のとき,私は職場である5階の研究室から逃げ遅れてしまいました。なぜかというと簡単で,エレベーターが止まってしまったからです。そのとき,逃げるということを可能にする“依存先”が,自分には少なかったことを知りました。エレベーターが止まっても,他の人は階段やはしごで逃げられます。5階から逃げるという行為に対して三つも依存先があります。ところが私にはエレベーターしかなかった。
 これが障害の本質だと思うんです。つまり,“障害者”というのは,「依存先が限られてしまっている人たち」のこと。健常者は何にも頼らずに自立していて,障害者はいろいろなものに頼らないと生きていけない人だと勘違いされている。けれども真実は逆で,健常者はさまざまなものに依存できていて,障害者は限られたものにしか依存できていない。依存先を増やして,一つひとつへの依存度を浅くすると,何にも依存してないかのように錯覚できます。“健常者である”というのはまさにそういうことなのです。世の中のほとんどのものが健常者
向けにデザインされていて,その便利さに依存していることを忘れているわけです。
 実は膨大なものに依存しているのに,「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが,“自立”といわれる状態なのだろうと思います。だから,自立を目指すなら,むしろ依存先を増やさないといけない。障害者の多くは親か施設しか頼るものがなく,依存先が集中している状態です。だから,障害者の自立生活運動は「依存先を親や施設以外に広げる運動」だと言い換えることができると思います。”

●LGBTからSOGIへ
このようなLGBTという言葉のデメリットを踏まえ,SOGIという言葉(観点)が要るよね,という動きが出始めています。

牧村朝子さんのインタビュー記事を引用します
「「LGBTのショートカットの道を作って消えていく人になりたい」牧村朝子さんの生き方,働き方」
https://www.e-aidem.com/ch/listen/entry/2017/01/25/
(牧村)今国際的に大きな転換点として,LGBTという言葉から,「SOGI(ソギ)」という言葉へだんだん変わりつつあります。国連人権理事会でも扱っていますし,国際レズビアン・ゲイ協会(略称:ILGA)やアメリカ・スプリングフィールドの条例でも「SOGI」という言い方が入ってきています。
これはどういうことかというと,「LGBT」という言葉がなかったころって,「普通はみんなシス(異性愛者)でしょう」という考え方だったんですよね。生まれたときに言われた性別をみんなそのまま生きてきて,「異性を好きになるのが普通,それ以外のあり方は例外で矯正すべきもの」と考えられていたんです。でもそうじゃない,私たちはレズビアンだ,ゲイだ,バイセクシュアルだ,トランスジェンダーだと,「私たちをいないことにするな」とみんなが声を上げて,「普通」ということが揺らいだ。見ないことにしてきた人たちを「いない」
ということにできなくなってきた。そういうステップで使われたのが「LGBT」でした。
でも実は,「みんなが尊重されるべき」なんです。全員,ひとりひとり,「性のあり方」は違うはずです。例えば私は,ひとことで「異性愛者です」と言う人に,話を聞いたことがあるんですね。「なぜ異性愛者なんですか?」って尋ねてみると,答えはみんな違うんですよ。
「子どもが欲しいから」
「今のところ異性としか付き合ったことがないから」
「なんかそういうものだと思うから」 
「今好きな人が異性だから」
……って。全員が細かく考えてみると,違う。それらが一つ一つ平等に尊重されるべきでしょう,ということで,今「SOGI」という言い方をしています。「SO」はセクシュアルオリエンテーション(Sexual Orientation)の略で,性的指向。同性愛・両性愛異性愛・無性愛などのことですね。「GI」はジェンダーアイデンティティ(Gender Identity)の略で,性自認。女性・男性・中性・無性など,本人が自分の性別をなんだと思っているかということです。
(聞き手)「LGBT」という言い方だと,マイノリティの中でさらにそれ以外のマイノリティがそこからこぼれ落ちてしまう,それがさらにマイノリティになってしまうこともあり得ると思うんですが,「SOGI」という考え方なら異性愛者も同性愛者もとにかく全員が含まれるわけですよね。
(牧村)そうですね。それぞれの性的指向がある,それぞれの性自認がある,それはみんな一緒だよね,ってことですね。
(聞き手)すべての性自認のあり方が「普通」であると……うーん,「普通」って難しいですね。みんなそれぞれ違うのに「普通」でくくるのは難しいですよね。
(牧村)個人個人が違うのであって,「同性愛がクール」とか「異性愛が普通で生産的」とかの上下関係はない。平等,優劣がない,ってことですよね。私は「普通」という言葉はかぎかっこ付きで使ったりします。

●SOGIとノーマライゼーションは似ている
似たような発想の転換は,障害者福祉の分野で既にあります。「障害者」という狭義の「当事者」を対象にした「バリアフリー」という観点から,その社会に暮らす全員を当事者として捉えなおす「ノーマライゼーション」という観点で社会を組み立てよう,という発想です。
関連して,「障害」の定義が「個人モデル」から「社会モデル」に変化してきたという点もここで押さえておきたいと思います。かつての「個人モデル」の考え方では,障害者が困難に直面するのは「その人に障害があるから」であり,克服するのはその人の責任だとされました。それに対して「社会モデル」は,「社会こそが『障害(障壁)』をつくっており,それを取り除くのは社会の責務だ」という考えです。
 これらの障害者福祉の考え方を参考にすると,性的マイノリティ方の現在の生きづらさは,その当事者ではなく,「社会」の側の至らなさにある,とも考えられるでしょう。例えば,同性婚が可能で,何ら差別もない状況ならば同性愛者は同性愛者であることの生きづらさとは無縁で,「普通」に生きられるでしょう。
 考えようによっては,「普通」のマジョリティは何の配慮も要らない一方,マイノリティには配慮が必要,ということではなく,マジョリティがむしろ「優遇」されている,と捉えた方が適切なのかもしれません(例えば,なぜ異性愛者だけが「結婚」できるのか・・・?)。
 
●SOGIという言葉を誤解なく使うために
この「みなが当事者である」という言い方は「みな平等」で「何ら配慮はしなくていい」という誤解を招きかねませんが,決してそうではありません。
例えば,ノーマライゼーションという言葉は,障害者の方への「合理的な配慮」を求める障害者差別解消法の思想と両立します。両立どころか,「社会モデル」の考え方からすれば,当事者たちの生きづらさを解消する義務は社会の側にこそあると言えるでしょう。
異質なものとしてマイノリティだけに名前を付け,自分たちマジョリティを「普通」とみなして,自分たちが優遇されている事実に目を背ける,そんな姿勢は望ましくありません。SOGIというのは,「普通」を疑い,あらゆる個人の生きづらさを解消していくための言葉なのです。

最後に,マサキチトセさんという方の言葉を引用します
LGBTの次はSOGI? 看板を入れかえるだけでは失われてしまうSOGIの本当の意味と意義」
https://wezz-y.com/archives/46730
“SOGIは,一見中立な基準です。
全ての人を横並びにし,分類する概念です。
しかし実際には,一部だけを優遇するようなノーマティビティの力が社会全体に働いています。
このまま「LGBTの代わりにSOGI」という安易な言葉の入れ替えが起きてしまって,SOGI概念を使う意義としてのノーマティビティへの批判という側面を私たちが忘れてしまったら,どうなるか。
そこに残るのは,「みんな多様だよね」という,それ自体は確かに事実だけれど,そんなこと言ってても何も解決しないという事態でしょう。さらにそこには,差別を受けてきた歴史やそれによって皮肉にも生まれてしまった豊かな文化の記憶は,受け継がれないでしょう。
「みんな多様,LもGもBもTも異性愛者もシスジェンダーもみんな色々あるよね,みんな当事者,みんな今のままでいい,個性だもん,社会なんて関係ない,互いに個人的に寛容になって,それぞれハッピーに生きよう!」
そんな風に,批判の力を失ったSOGI概念は,いとも簡単に社会の問題を「個人の問題」に矮小化し,差別の構造や仕組みを温存する方向に行ってしまう気がします。“

●補足1
性的マイノリティの差別の問題を考えるために,障害者福祉の分野の考え方を拝借しました。ただし,同性愛は病気でも障害でもありませんので,そこは間違えないようにしてください。現在では,WHO(世界保健機関)や米国精神医学会,日本精神神経学会などが同性愛を「異常」「倒錯」「精神疾患」とはみなさず,治療の対象から除外しています。 
ただし,当然ですが,仮に同性愛が病気や障害であったとしても,病気や障害であることを理由に差別していいことにはなりません。

●補足2
性同一性障害が障害,病気なのか,という点は,実は非常にデリケートで難しい問題です。この点については,是非,下記の記事を読んでください。全部読んでもらいたいので,引用は致しません。
「だれの性別も病気じゃありません GENKINGの投稿が示す「性同一性障害」という枠」
https://wezz-y.com/archives/41710?fbclid=IwAR3FLjM6H4twPMKnU2qhFiqMavjoAPdTlsq2OPBZ5xQsKkR9ynxjrsBp1cU
 関連して,性同一性障害ではなく,「性別違和」という表現を使おうという考え方が,最近出てきていることをご紹介します。簡単に言うと,「病気」や「障害」というと,どうしても,「普通」に比べて非健康的で,治療しなければいけないもの,というイメージがついてきてしまうので,そうではなく「違和」という言葉を使おう,という発想です。

 

『負債論』第6章 性と死のゲーム 要約

第6章はなかなか読みにくかった。
何より、ティブ族のエピソードの理解が難しい。要約も非常に長ったらしくなってしまったが、あえてこのままで(2300字超え)。

 

雑にまとめると、要するに、ここでの主張は、「負債の根本には文字通りの「暴力」の存在がある」ということだと言って差し支えないだろう。

 

(なお、章題が「生と死」ではなく「性と死」なのは誤記ではない)

 

 

<以下、要約>
・全てを交換に還元して歴史を語るとき、成人男性以外の、交換が相対的に困難な人間の存在は抹消される。
例えば、蛮民法典で賠償単位として規定されているポンドメイド(女性奴隷)やネヘミヤの逸話で父の借金にかたで売られていく娘などについては、経済史の領域外だ。そして、事態は5000年ほどの間、さほど変わっていない。
・「原始貨幣」というものは、ものの売り買いではなく、人間関係の形成、維持、再組織の為に使用される。このような通貨を、ここでは「社会的通貨」と呼び、それらを使用する経済を「人間経済」と呼ぶことにする。歴史上、支配的だったのは人間経済で、商業経済は比較的新しいものだ。続く2章で、前者から後者への移行を確認する中で「たんなる義務がどのようにして負債に転嫁するのか?」を問うていく。

●不適切な代替物としての貨幣
・フランスの経済学者(元人類学者)のロスパベによれば、「花嫁代価」等の「原始貨幣」は、支払い不可能な、それよりもはるかに価値のある何かを負っていることの承認、認知のための手段だった。女性に代わるものは、別の女性しかあり得ない。そこで、双方は、いつの日か返礼がある(妹等、別の女性が花嫁として交換される)ことを儀礼的なフィクションとして維持しようとする。殺害された者の親族へ送られる贖罪金、血資もまた同様である。
 なお、これは、二者間のネットワークであり、個人—社会(宇宙)との負債関係をイメージする原初的負債論とは異なる。「社会」に負債があるのではない。もし、「社会」についての観念があるとすれば、社会とはわたしたちの負債そのものだ。

●血債(レレ族)
・返済不可能な負債の承認のしるし(トークン)が、負債を消滅し得る支払い形態へ転嫁するのはいかにしてか、という疑問には、アフリカの事例が答えを示してくれる。
・アフリカの伝統的な認識では、人間が死ぬのには必ず有責者の存在があるとされていた。この犯人は、自分の家族から若い女性を譲渡し、「人間質草(pawn)」とする必要があった。誰もが血債の当事者になり得、女性たちは交換の対象となった。
・重要な点の1つ目は、取引対象がひとの生命であったこと。もう1つは、人間の生命の価値は絶対で、なにもののその代替物とはなりえない、ということ。もっとも重要な3つ目は、「人間の生命」とはすなわち「若い女性の生命」であったこと。債権者ないし債務者になれるのは男性のみで、女性は人質(pawn)になるしかなかった。
・なお、人質制度≠奴隷制度である(戦争捕虜という奴隷は別途いた)。女性には、夫を代えたり、村妻(village-wife)になったりする選択肢があった。一夫多妻制においては、若年男性は結婚相手を見つけにくいが、村妻は、村落と結婚しているという原則のもと、次第にこうした男性たちの夫となった。いわば村落は法人で、人質の債権者や債務者たり得たのである。
・しかし、村落には武力行使という強制手段があり、個人男性には無い、という決定的な差がある。この暴力の出現において、「人間の生命は人間の生命とのみ交換可能」というルールが乗り越えられる。

●人肉負債(ティブ族)、奴隷売買
・ティブ族の場合、親族や被後見人を差し出せない代わりに貨幣で得た妻は、通常、真に彼のものとはみなされないが、奴隷の場合は例外的だった。人間経済においてなにかを売るさいには、文脈から切り離される必要があるということだ。
・ティブ族では、魅力とエネルギーと説得力の源である「ツァヴ」というものが存在し、それを強化する術は人肉を食べることのみだと信じられていた。実際にカニバリズムが実践されていた訳ではないが、彼らは、男性指導者が実は食人鬼ではないかという強迫観念を抱いていた。ムバツァヴ(妖術師の結社)から騙され、人肉を食べさせられた者は、人肉負債を負うことになり、その返済のためには、かれの家族を差し出すほかないのである。
・このような幻惑、強迫観念に脅かされていたのは、実際に、奴隷売買というかたちで同じようなことが起こっていたからである。奴隷貿易は、信用協定のネットワークだったが、奴隷商人たちは信用に足らない者たちなので、負債担保の手段としての人質(pawn)の制度が形成された。奴隷商人たちは、犠牲者たちから、ひとをして一個の人間たらしめているもの、そのすべてを失わせ、肉体そのものへ還元した。その過程では、アロ連合やエクぺといった組織が、債務の取り立てを行った。
・注目すべきは、人間の生命は代替不可能性という人間経済の原理が、反転し、人間存在の破壊へと転化したということである。
・ここで記していることは、アフリカの特異例ではない。

●暴力についての考察
・ロスパベが指摘したように、人間経済における社会的通貨は決して人間と等価にはならず、負債を支払うことは不可能であるという事実を承認するためのものである。しかし、一定の暴力によって、ある人間が存在する文脈からはく奪されることで、彼女はほかの人間との交換の対象になる。
・戦争や奴隷制によって暴力の水準がはなはだしく上昇すれば、彼女は、別の人間ですらなく、物品や貨幣との交換されることになる。たしかにアフリカの奴隷売買は前代未聞のカタストロフではあったが、商業経済は何千年にもわたり人間経済から奴隷を抽出してきている。
わたしたちが負債社会を形成してしまったのは、まさに戦争と征服と奴隷制の遺産が完全に消え去っていないゆえである。遺産はまだそこにある。わたしたちが元も慣れ親しんでいる諸観念、すなわち名誉や所有、そして自由のうちにさえ、その遺産は宿っている。わたしたちはもはや、その遺産を直視することができないだけなのだ。

反差別の3つの方向性

約半年前にTwitterでフォロワー(後輩)のテルマとした差別に関する議論。

 

何となくこれは残しておく甲斐がありそうだからブログにしておこうと思いつつ、忘れてた。

今更ながら書き留めておく。

 

以下、当時の議論。

青がテルマtweet

黒が自分。

東浩紀 Hiroki Azuma on Twitter: "ぼくたちはみな、ひとそれぞれの「ふつう」をもっている。だからひとそれぞれ「ふつうでない」という感覚をもっている。それが個性ということでもある。大事なのは、そんな判断が集積し制度的差別や強制につながらない仕組みを作ることであって、みなにすべてをふつうに思えと強制することではない。"

 

これは非常に同感。ノーマライゼーションってのは、「ふつう」でなくても「ふつう」の人と共に、特別な不都合なく過ごせるようにすることなのであって、「ふつう」の定義をいきなり拡大すれば解決する話ではない。時間をかけて、やがて拡張に気付くものだ。

だから、ハイハイ差別はダメですね、みんな一緒でok、その代わりこれからはそれを理由にはできないからな?逆差別だからな?という居直り方は本来ナンセンスなはずなのに、この社会ではよく見かける光景だ。

 

①「ふつう」を求めるのではなく、②「ふつう」でなくても差別されないことを目指す、というのは理解できる。ただ、もう一つの方向性として③「ふつう」という概念自体の虚構性や暴力性を暴くことはやはり必要だし有効だと思う。②だけでは足りない。

 

もちろん③は必要だと思いますが、僕のイメージではその③は②に包含されるのですよね

というより、②を目指すべき目標としたら、③はそのための過程で必要なことというか。

ここで「もう一つの方向性」とされる意図がイマイチ掴めません。

 

①例えば「障害者」は純粋に「少数」であるのは事実かと思う。障害者が「ふつう」扱いさることは、何らアファーマティブアクションもなく「放置」される危険性を孕む。

②ゆえに「障害者」【として】、その権利が擁護されるべき、という視点も必要。

③ただし、例えばメガネが無ければ生活できない近視の人は、メガネが無い社会だったとすれば、実質的に「障害者」に限りなく接近する。というか、この地点でやっと「障害者」という枠組が、個人ではなく社会の側が規定するものである、という視座に辿り着く。一言で言えば、いわゆる社会モデル。熊谷さんの「依存」と「自立」についての議論にも繋がる。

 

元ツイと僕のRTの意図は、ご指摘いただいたようなことを人々に広める過程で、短略的に受け止められ理解されることについての危惧にあると思います。

 

それはとてもとても重要でオレも強く同意する懸念。

マサキチトセさんのこの論考を思い出した。

LGBTの次はSOGI? 看板を入れかえるだけでは失われてしまうSOGIの本当の意味と意義(wezzy掲載記事) | 包帯のような嘘

このまま「LGBTの代わりにSOGI」という安易な言葉の入れ替えが起きてしまって、SOGI概念を使う意義としてのノーマティビティへの批判という側面を私たちが忘れてしまったら、どうなるか。

そこに残るのは、「みんな多様だよね」という、それ自体は確かに事実だけれど、そんなこと言ってても何も解決しないという事態でしょう。さらにそこには、差別を受けてきた歴史やそれによって皮肉にも生まれてしまった豊かな文化の記憶は、受け継がれないでしょう。

「みんな多様、LもGもBもTも異性愛者もシスジェンダーもみんな色々あるよね、みんな当事者、みんな今のままでいい、個性だもん、社会なんて関係ない、互いに個人的に寛容になって、それぞれハッピーに生きよう!」

そんな風に、批判の力を失ったSOGI概念は、いとも簡単に社会の問題を「個人の問題」に矮小化し、差別の構造や仕組みを温存する方向に行ってしまう気がします。

 

ただ、東の件のツィートからは、

「ふつう/ふつうでない」という線引きの「/」を自明視してる印象を受ける。

たぶん、東は決して単純な①②の二項対立を想定しておらず、③の視点も持ってるだろうけど。

 

昔ブログに書いたけど、反差別には「として」の解放と、「から」の解放があると思ってる。

この場合、「として」が②で、「から」が③かな。

少し単純化した例を出すなら、「black is beautiful」が②で、「人種とかくだらない」が③かと。

 

その意味では確かに「もう一つの方向性」と言い得ますね!

女性として振舞わなければならないことからの解放、そもそも女性という性別によるカテゴライズからの解放

 

>カテゴライズからの解放

まさに

 

念のため、②と③に優劣は無いと思ってる。

概ね、②を経て、初めて③に辿り着けると思う。

障害者差別の分野は、「バリアフリー」から「社会モデル」への展開という点で、建前的、思想的には③が浸透してる。

性的マイノリティは「LGBT」から「sogi」への過渡期。

 

③は②を実現していく中で、誰もが夢見ることだからこそ②に含まれると思った。

現に、毎年毎年、新しいマイノリティの存在を知るし、普段目にしている光景の中にもまだ知らない被差別があったりして、③を達成するにはとてもとても時間が掛かるんだってこと、それをもっと知ってほしい。

 

たしかに当事者が必死に②を戦っているところに、お利口様の③が冷水をかける構図が残念ながらある。正直、③は思考方法を理解してしまえば、感覚としては綺麗事として受け入れやすい。他方、②は分断、逆差別というリスクを抱えていて、時に共感を得にくい。でも②も絶対に必要。

 

②も必要、という言い方自体が、嫌な語り口だな、と自分で思った。上手く言葉を紡げなくて申し訳ない。

前に青い芝の件でテルマ自身から言われたことだったと思うが、彼らにとっては「それしかない」という世界だもんなぁ。

 

いえいえ、そんな謝られるようなことは何も。むしろ、いつもTwitterで(短文だから難しい側面もあるのに)議論していただけてありがたいです

 

 

 

制裁的公表について(明石市の養育費不払の氏名公表について)

養育費不払いは氏名公表 兵庫・明石市、条例検討 | 共同通信

 

養育費不払いは氏名公表
兵庫・明石市、条例検討
2019/9/17 18:31 (JST)©一般社団法人共同通信社

 

離婚相手から養育費を受け取れないひとり親家庭が困窮するのを防ごうと、兵庫県明石市が養育費の支払い命令に応じない離婚相手の氏名を公表できる条例の制定を検討していることが17日、分かった。市によると、養育費支払いを巡り、条例に基づいて罰則として氏名を公表する制度は全国初。

厚生労働省の2016年度調査では、母子家庭の場合、離婚相手から養育費を受け取っている割合は24%程度。明石市は昨年11月から、養育費が滞っているひとり親家庭が最大月5万円の援助を受けられる制度を試験導入し対策を進めている。

 

以前、制裁的公表を可能とする条例の執行担当だったことがある。結局、活用はせずに異動したが。

 

また、以前参加した法務の勉強会で、その関係の話題が取り上げられたこともあって、結構このテーマは気になっている。

 

さて、制裁的公表の処分性は法的には否定されるのするのが標準的な見解だろう。

明石市は法務に力を入れているし、法的にも「イケる」と踏んだのだろう。

 

ただ、政策的にどうなのかは議論が分かれるだろう。

 

一口に公表と言っても、公表の精度?でレベルは大きく変わる。誰も見てないような公告なのか、はたまた、ネットで名前が検索されるようなHPでの公表なのか。

 

PDFでの公表か、ベタ文での公表なのかでも、アクセスの容易さが変わる。後者なら、ググればすぐに出てくることにもなろう。

そうなれば、就職においてに氏名公表者は採用されない、などの不利益に直結し得る。

 

氏名公表がどれだけ効果的か(侵害的か)というのは、かように、やり方次第の側面がある。

明石市はどれくらい詰めてるんだろうか。

 

ネットでの公表だと、転載への対処も問題になり得るだろう。

行政側が情報を削除しても、「魚拓」が取らられば半永久的に情報はネットの海で泳ぎ続ける。

 

養育費不払に対して何か実効的な策が欲しいというのは分かるが、この手法がほかの色々な場面で安易に乱用されなければいいな、とも思う。

 

ちなみに、北九州市の森幸二さんは制裁的公表に否定的だった。

自治体法務の基礎と実践

自治体法務の基礎と実践

 

 

なお、制裁的公表は行政法の中でも研究の蓄積が少ないようだ。

以前探したとき、論文と呼べるものは、これくらいしか見当たらなかった。

https://stars.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=253&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1

 

法律レベルでもほとんど想定されてない。行手法には規定はなく、個別法ではいくつか規定がある(消費者安全法とか)。

 

行政処分にはあたらないとしても、制裁的要素はあるし、住民の権利侵害になる可能性は十分ある。行政処分にあたらず取消訴訟の対象にはならなくても、国賠の対象になることは否定されない。

 

ちなみに、消費者庁特定商取引法の執行担当者も言ってたが、営業停止の処分よりも、処分の公表の方が業者には「効く」。

 

駒崎弘樹 ( Hiroki Komazaki )@病児保育入会受付中 on Twitter: "まさに養育費を支払わない恥知らずには限定的な効果しか持ちませんが、養育費不払いが社会悪なんだ、という意識の醸成には寄与するので、明石市に賛同します。 将来的には国による徴収と不払いへの罰則適用を求めたいと思います。… "

 

養育費不払いが社会悪なんだ、という意識の醸成には寄与する

これ、偽らざる本音なんだろうけど、まさしく私刑の世界だよなぁ。

手放しで賛成出来ない。

 

目的は手段を正当化しない。

というか、比例原則に反する。

 

『負債論』第5章 経済的諸関係のモラル的基盤についての小論 要約

・交換、負債のモラル的論理は人類学が明らかにしてきた根本的なモラルの原理の1つに過ぎない。
(『贈与論』ですら市場経済の論理が侵食しており、現代の社会理論は役に立たない。特に、経済学の占める位置は非常に大きい。)
・「互酬性」をキーワードとした「交換理論」というものがある。例えば、レヴィストロースは、人間生活は言語、親族、経済という3つの領域の交換から成り立つとした。
しかし、すべてを互酬性には還元できはしない。
例えば、親子関係。また、時折見られる、助けられた側(病人や溺れた人)がむしろ贈り物を要求するような風習。これは、徹底した平等によるものだ(救助を機に二人は兄弟になり全てを共有するべきとなる)。
他方、治癒者=政治的有力者が、支持者の繋ぎとめるべく寛大な振る舞いが期待される場合のように、徹底した不平等によるものもある。

コミュニズム
・「各人はその能力に応じて貢献し、各人はその必要に応じて与えられる」という原理にもとづいて機能する、あらゆる人間関係のこと。
コミュニズムは生産手段の所有とは無関係で、あらゆる人間社会に存在するもの。資本主義でさえ、コミュニズムの基盤のうえにある。
・この原理のうえでは、「効率」を理由に私的所有権の問題は無視される。河川の修理中に「スパナ取って。」と言われた同僚は「代わりに何をくれる?」と言ったりしない。即興の必要性が高まれば高まるほど、協働はより民主主義的になっていく傾向がある(ex.災害)。コミュニズムこそが人間の社会的交通可能性の基盤なのである。
・共有(シェアリング)にはモラルのみならず快楽も関係(宴=コンヴィヴィリテ)。
・これは互酬性ではない。永遠の想定があり、収支決算が不要になっている。また、コミュニズムを財産所有権ではなくモラルの問題と捉えると、商業含むあらゆるやり取りで、このコミュニズムが機能していることが分かる。
●交換
・交換とは、等価性にまつわるやりとりのプロセスである。そこには収支や損得の計算があり、いつでも関係が解消されるという自覚がある。
・自己利益の最大化(経済学の想定)に向かう場合もあれば、寛大さの競い合い(文化人類学者の想定)に向かう場合もある。
・商業的交換の特徴は、その「非人格性」。
・交換は負債をチャラにする手段である。関係解消を望まれない場合、負債は返済されない。「終わりなき贈与の循環」は継続的な社会の形成につながっている。

ヒエラルキー
ヒエラルキーは互酬性とは正反対体の原則に従って機能する。優劣の線はハッキリ引かれ、関係の枠組みが関係者に受け入れられ、関係が継続しているかぎり、関係は習慣と慣習の網の目で統制されている。
・不平等から開始する関係、慣習はカーストの論理へと転化し、これはアイデンティティ形成にも関連している。
・優位者と劣位者の間のやりとりでは、物品の質が根本的に異なり、相対的価値の数量化、勘定の清算は不可能である。

●様相間の移動
・誰もが、これら異なるモラルの体系の間を、日常的に行き来している(親しい友人に対してはコミュニストで、幼い子供に対しては封建領主)。なぜこのことに気づかず、全てを互酬と捉えてしまうのか。
・それは、抽象的な思考で理念的社会像を作ろうとし、公正な社会を想像しようとするとき、全てが均衡している優雅な幾何学を喚起してしまうからだ。それは「市場」の存在という考えにも近い。市場は現実ではなく戯画化された数学的モデルである。モデル自体は悪くないが、そのモデルが振り回されるのが問題だ。
・諸原理はもつれあっており、互酬性は、どんな状況でも可能性として存在している。また、コミュニズム的関係とヒエラルキー的不平等は、互いに転化、変容する可能性がある。また、「贈与」は無償で与えられるものではなく、義務と負債の感覚、すなわち劣位を生み出すものである(エスキモーの例)。対照的に、コミュニズムのシェアリングは、交換関係へは移行しにくく、むしろ関係解消に向かいがち(しつこく贈与を求める者は支払いを求められるのではなく殺される)。
・人類学者ロレーヌの論考では、フランス・ピレネー山脈の共同体においては相互扶助が機能している。しかし、とある社長が失業者の男に仕事を与え、男がその返報ができない場合、相互扶助は不平等に転化する。もはや対等ではないとする対等な者たち(equals)のあいだの合意こそ、わたしたちが「負債」と呼ぶものの本質である。
・負債は、潜在的、本質的に対等だが、当面対等ではなく、その事態を回復する何らかの方法がある、という関係において生じる。よって、純粋に返済不可能な負債などは存在しない。負債が返済されていない間には、ヒエラルキーの論理が支配的になり、互酬性は存在しない。
・負債の潜在的な返済可能性、対等性の返済可能性は、翻って、債務者が返済できない場合、債務者側に問題があるとされる。
・かくして負債とは完遂に至らぬ交換にすぎないのである。それは互酬性の産物であり、コミュニズムヒエラルキーといったモラリティとは無関係である。すべての人間の相互作用が交換の諸形式であるという前提こそ誤っているのである。
・始終”please”や”thank you”と言い合う習慣には暗黙の負債計算法がある。頼む側は依頼という形式だが、実際は、社会的義務の順守を求める命令、すなわち「借り」の表明で、他方で応じた側の返答は、「貸し」とみなしたわけではないことの表明だ。これは基盤的コミュニズム的な身振りを、本当は交換の一形態であるかのように扱うもので、それはまるでただちに帳消しにされるつかのまの債務関係の果てしなき交差である。それらは、世界中に広く深く浸透してしまい不可視になったが、実は16・17世紀の商業革命のさなか、中産階級において定着したものに過ぎない。

 

(呟き)

●全然要約になってないな、これ笑。

長い!

 

●第1章で「すべての人間関係を交換へと還元してしまうというのが、誤った見方であるということをみていく。」と書いていたが、この第5章はまさにこの部分を書いたところだった。

 

全てを交換と捉える向きとして思い出すのは柄谷行人の『世界史の構造』のこと。

あの本で書かれていたのは、この章での3つのモラルにかなり合致するように思えるが、そもそも柄谷は「交換」様式A,B,Cという名付け方をしていた。

それだけ、「交換」というモラルの規定力は強いということだろうか。強いというか、グレーバーの表現に従えば、自明視され過ぎて、不可視化されている、というところか。

 

●そういえば、大学時代に知的財産法のK先生は「あなたたちが稼ぐようになったら逆に後輩とかに奢ってあげれば良いんですよ!」と奢ってくれるときはいつも言っていたんだが、あれはどういうモラルの原理が駆動してたんだろうか。

 

教授から生徒へ奢るという行為は、一見するとヒエラルキー的関係と捉えたくなる。

しかし、K先生のセリフは「あなたの負債は、私ではなく代わりに次世代へ返済せよ」と読み換えられる。

このセリフはまず負債そのものの存在は否定していない。返済相手をすげ替えただけである。

つまり、このセリフを字義のまま解すれば、ヒエラルキー的関係が交換関係へ変容させられたと理解できるだろうか。

 

グレーバーによれば、負債の返済は関係の解消である。ということは、奢ってもらった生徒としては、教授との関係解消が可能になり、その代わりに次世代との関係が生まれることになる、とも説明可能だろう。

 

しかし、当然、疑問が湧く。

その負債の返済が達成されるのは、いついかなる時なのか、ということだ。

教授が奢ったのと同額を、学生が将来奢るべきなのか?それは違う。

教授とそんな意図はきっと持っていない。

この負債は実際のところ、返済不可能なのだ。

しかし、グレーバーの分析では、返済可能なものこそが負債なのではなかったか?

では、学生が教授から負っているものとは何なのだ?

 

この存在している負債めいたものとその返済不可能性の矛盾はどう解消できるのか。

こう説明が可能だろう。

 

すなわち、この奢りの関係は、そもそも交換関係ではないのだ、と。

 

奢る際「これは上の世代から下の世代へ受け継がれるべき負債である」と「説明」されるが、それは「実態」ではない。あくまでもレトリックだ。

 

要約を一部引用する。

なぜ全てを互酬と捉えてしまうのか、についてのグレーバーの説明はこうだ(上の要約から)

それは、抽象的な思考で理念的社会像を作ろうとし、公正な社会を想像しようとするとき、全てが均衡している優雅な幾何学を喚起してしまうからだ。それは「市場」の存在という考えにも近い。市場は現実ではなく戯画化された数学的モデルである。

 

経済学者が「市場」というモデルで現実を説明したように、教授は交換関係のレトリックをもって自らの振る舞いを説明した、と言えるだろう。

それは、ヒエラルキー的関係をコミュニズム的関係へ転化(昇華?)させる高度に洗練された見事なレトリックだ。