五輪反対についてとか

昨日、『福岡はすごい』についての感想を書く中で、自分が何故「○○はスゴイ」というものにネガティブなイメージ持つのか、ということを自問自答して整理していた。
その中の理由の1つが、これ。
>「すごい」ことを強調することで、解決すべき欠点や課題が覆い隠されて、見えなくなってしまうことへの危惧。更には、そういう欠点や課題を指摘する「異論」が、和を乱すものとして排除されてしまうことへの危惧。

 

そんな中、西日本新聞のこの評を読んだ。全体的に納得。

東京五輪が待ち遠しくない|【西日本新聞】

 

オリンピック否定論については「既に開催が決まってるんだから、反対するより、どうせなら良いものになるように建設的な意見を出して協力した方がいいんじゃないの」的な意見がある。自分自身、そう考えることもあったが、やはり、それでも異論を唱えることは必要だと改めて考えている。

 

以前、小熊英二の『社会を変えるには』を読んだ。
https://www.amazon.co.jp/%25E7%25A4%25BE%25E4%25BC%259A%25E3%2582%2592%25E5%25A4%2589%25E3%2581%2588%25E3%2582%258B%25E3%2581%25AB%25E3%2581%25AF-%25E8%25AC%259B%25E8%25AB%2587%25E7%25A4%25BE%25E7%258F%25BE%25E4%25BB%25A3%25E6%2596%25B0%25E6%259B%25B8-%25E5%25B0%258F%25E7%2586%258A-%25E8%258B%25B1%25E4%25BA%258C/dp/4062881683

 

本の内容は、自分でもビックリするほど覚えていないんだが(やはり、読記はつけないとダメだなぁ)、1つ強烈に覚えていることがある。
「デモをやって何が変わるのか」という疑問に対し、小熊氏は、「デモができる社会になること」という答えを提示していた。

 

そのときは、「何じゃそれ」と正直思った。デモ自体が目的化してどうすんねん、と。
今は、何となくだが、分かる気がする。「おかしいやん」と言い続けないと、「おかしいやん」と言うことすらできなくなる。そんな未来を望まないから、声を上げ続けないといけない。

 

ふだん、ほとんどテレビを観ないようになって久しい。それでも、W杯などの大規模イベントがある際の、「お祭り騒ぎ」の「熱さ」は感じられるし、あれほどの「熱さ」が日本中を覆えば、不都合な真実があったとしても、それが見えにくくなるということは容易に想像がつく。
だから、「しらける」とか「うざい」とか言われるとしても、異論を唱える声というのは必要だと思う。日本語では、そういうのを「水を差す」と言う(英語でも似たような表現があるらしい)。言い得て妙。まさしく、熱を冷まさせないと。

 

 

それに、大事なことは、オリンピックにしろ、他のイベントにしろ、終わった後、当たり前だが、悪かったことが「無かったこと」にはならないということ。
そこで抱えることになったあらゆる意味での「負債」や、そこでの失敗から得られる「教訓」に向き合わなければ、未来の発展は無い。

 

以前、Twiterで、航空業界の「二度と同じ失敗を繰り返さない」ための取組について呟いている人がいた。「失敗」を直視することは、本当に大事だと思う。
「航空業界が失敗から学ぶ仕組みを構築している」話 - Togetter

 

最近、木下斉さんも、失敗について言及していた。
木下斉/HitoshiKinoshita on Twitter: "けど、絶対地方若手議員の会で、墓標シリーズ勉強会はやったほうがいいし、地元の失敗事例データベースは作れると思う。おかしい事業を繰り返さない工夫が大切。"


そういえば、未読だが『地域再生の失敗学』という本もあったな。読みたい。

プレイヤーとして一流だった人は先生やコーチとしての能力が低い、逆に、プレーヤーとして振るわなかった人にこそ、コーチとして超一流の人がいる、という話がある。これも、同じような話だろう。本当に一流の人=「天才」は、「なぜ、それができるようなったのか」の「説明」が出来ない。アインシュタイン長嶋茂雄がそうだ。だから、人に教えることは上手ではない。


高校時代の数学の先生は、自分が知る先生の中でもダントツTOPで教えるのが上手な先生だったんだが、その先生も、高校時代、伸び悩んだ経験があったと聞いた。たしか、浪人中に理転したんだったかな。


自分が塾の講師でバイトしているときも、「あのとき、こういう風に教えてくれれば分かったのに」ということを教えるということで、自分自身の失敗を繰り返させず、ショートカットさせる、ということを意識していた。特に、中学生の時に苦手だった数学や、大学入試直前まで苦手だったが、東進で超飛躍的に伸びた現代文。

ただ、悩ましいのは「自身の失敗を繰り返させずショートカットさせる」ことで、その生徒自身の「失敗の経験」を奪うことになりはしないだろうか、という問題。
これは、非常に悩んだ。
実際は、あの塾では、伸び悩んだ子、勉強が嫌いな子たちに教える必要がった。だから、まずは「成功体験」=「やればできるようになる」ということを重視した。また、受験が近く「結果」をまず出さねばならないという側面もあったから、背に腹は代えられない、という事情もあった。でも、自分の教え方は正しかったんだろうか、と今でも自問自答する。

 

全然取り留めもない話になってしまった。

塾講師、またやりたいなぁ。

「差別のことを考えたくない」へのアンサー(?)ブログ

差別のことを考えたくない - MistiRoom

 

Mistir氏のブログへの勝手なアンサー2回目。

 

私自身は、世間から見たら「イクメン」と呼ばれるタイプの生き方をしていますが、子供がいない(持たなかったのか、持てなかったのかは分からない)同僚女性を目の前にして、無邪気に育児礼賛的な話題での会話ができない環境に置かれて、日々悶々としていた経験があります。


そんな風に、一般的には「良い」とされていることが、状況次第で、当事者にとっては「差別」となり得るという経験をしているので、ブログの趣旨は非常によく分かるつもりです。

ただ、私は、「自分は差別をし得る人間である」という認識こそが、まさに重要だと思います。自身を差別主義者と呼ぶことができる人間は、むしろ、ある意味誠実なのではないか、とすら思います。

他方で、自分は、道徳の授業とかで「正しい知識が必要」という常套句を言うような優等生が好きではないのです。その言葉が「万能」であるかのような雰囲気というか、「正しい知識が必要」って言っておけばいいんでしょ、的なノリが。

「正しい知識が必要」って念仏のようだな、と思うことがあります。
南無阿弥陀仏」って唱えておけば、極楽に行けるという浄土宗の教えのよう。
「正しい知識が必要」と言っておきさえすれば、「差別をしない人」という称号が与えられるかのような、もしくは、「正しい知識が必要」と言えば、「正しい知識」が身に付くかのような、マジックワード感。
そして、念仏のように「正しい知識が必要」と唱えて、それで万事OKとするような雰囲気は、「私は差別をしない人間」というぬるま湯のような認識につながってしまうような気がするのです。

「自分は差別なんかしない」という生ぬるい認識は、むしろ、無自覚な差別の温床になってしまいます。この本の序章でもそのようなことを言っています。

 

「偏見がない」では差別はなくならない理由|ちくま新書|webちくま

 

更に言えば、「正しい知識」として求められる水準が、量・質ともに膨れ上がって、「正しい知識」を自分は持っています、ということが本当に難しくなってきました。そんな中で、「物言えば唇寒し」状態になって「ポリコレ疲れ」の不満を持ってしまいたくなる、というのは、非常に分かります。

でも、そこで感じる「疲れ」は、差別にきちんと向き合っている証拠であり、望ましいことなのではないか、と私は思うのです。

 

「自虐」については、自分も頭を悩ませています。
NHKの「バリバラ」や芸人のあそどっぐを観るたびに、頭が混乱します。

少し脱線しますが、「お笑い」と差別は、いつも頭を悩ませます。
浜田のブラックフェイスや保毛尾田保毛男が差別であるならば、宴会での女装は差別ではないのか。ステレオタイプへの偏見を駆使して笑いを取る綾小路きみまろの漫談は差別にはならないのか。
色々考えていくと、無限に語るべきことがあり過ぎて、ドツボにはまってしまいそうで、たしかに疲弊してしまいます。

 

しかし、繰り返しになりますが、「では、どこまで許されるのか?」とか「では、何が許されないのか?」と疑問をもつ姿勢は、「差別はいけないと思います!(キリッ)」という優等生より、よっぽど誠実だと思うのです。

 

 

取りとめもなく、ブログを読んで思ったことを書きましたが、最後に1つだけ。

 

「もうこのことについて考えることは無いだろう。僕には考える資格がないのだ、多分。」


とのことですが、 

考える資格がない、なんてことはないと思います。
イチ読者の勝手な願望ですが、止めないでほしいのです。

私は九州在住ですが、正直、もし自分が関東在住だったら、サシでオフ会して喋りまくりたいくらいの気持ちです。ですが、それは叶わないので、せめて、ブログの更新を楽しみにしています。

読書会とオフサイトミーティング「A」

※匿名のブログなので、イニシャルトークにしています。読みにくいですが、ご容赦を。

 

「読書会」のイベントを、オフサイトミーティング「A」のイベントとコラボするかどうか、この1週間実はずっと悩んでいます。


というか、「読書会」と「A」の関係については、実はず〜〜〜っと前から考えています。

 

正直、当初は「あのグループとは違う」という変なプライドがありつつ、正直、嫉妬や羨望が入り混じった変な気持ちでした。今は、達観して、それぞれに良いところがある、と割と素直(?)に考えるようになっています。
他の常連の皆さんがどうお考えかは分かりませんが・・・笑。

 

今回は、ちょっと長いですが、今の自分の考えを書いてみます。

実は、自分自身は、「A」には参加したことはないんですが、それでもこうやって語ることについては、まぁ、ご容赦下さい笑

 

読書会は、その在り方については、当初から結構議論がありました。せっかくだから、市役所職員にフルオープンにしてはどうか、とか。結局、現状は、メンバーを狭く限定し、口コミでしか広げていない状態です。お互いに狭く見知った関係で、こじんまりとした「読書会」の良いトコロは、それはそれで色々とあります。アイスブレイクも不要だし、「ここだけの話」が出来る安心感でタブーなく色んな話が出来るし、過去の読書会の積み上げと絡めて、より「深い」話が出来るのもいいことだと思います。
ただ、その分、排他的だし、硬直的になってしまう危惧を自分は持っていました。

 

そんなとき、『大学改革という病』という本を読みました。


その本の読書記録をちょっとここで引用します。

 


「さまざまな問題について、その背景を知り、前提を疑い、合理的な解決を考察し、反対する立場の他人と意見のすり合わせや共有を行う能力」
これは、本書のなかで、もっとも重要と言えるフレーズであり、何度も繰り返し、繰り返し、言及されている。

私見だが、このフレーズの前半部分の「その背景を知り、前提を疑い、合理的な解決を考察し」というのは、「専門性」についての領域だ。まさに大学での学問がそうであるように、常識に捉われず、真理を追究すること。筆者は「専門知」の重要性を説き、他方で、民主主義の原理を多数決に矮小化し、大衆に迎合することを良しとしない。

しかし、これだけでは、大学を含む「社会」というシステムは機能しない。後半で「反対する立場の他人と意見のすり合わせや共有を行う能力」というものが強調されるが、これは、いわば「合意形成」。大学が「大学の自治」などを理念的に振りかざすことに終始することを、筆者は良しとはしない。

この「専門性」と「合意形成」は、非常に危ういバランスで、両立は容易ではないだろう。しかし、どちらが欠けても、望ましい民主主義社会は維持できない。

 

 この読書記録を付けたとき、念頭にあったのは、自分のこれまでの勉強(Iゼミや読書会)と、その対極にあるものとしての「A」的なものでした。

Iゼミや読書会でこれまで自分が取り組んできたのは、前者の「専門性」に関わる領域が中心的だったと言えるかもしれません。その分、「合意形成」については、ないがしろにしてきたきらいがあります。
(きっと、I先生は、「他者」との「合意形成」を学ぶ機会を色々と与えようとして下さっていたんですが、「自分が」、そこを汲み取れていなかった、という話です。Iゼミ自体を否定する意図ではありません)
 
 反面、「A」的なものは、「反対する立場の他人と意見のすり合わせや共有を行う能力」を磨く場となっているだろうと思います(「A」は、何かを決めたり提言したりする場ではないので、「合意形成」という言葉は大げさであてはまらないとは思いますが)。
何しろ、何でもアリ、誰にでもオープンの「対話」の場であり、全てが参加者に委ねられています。それこそ、人が集まらなかったら開催すらされない、それでも、いや、だからこそ、もう何年も続いているという凄さ。「専門性」とはある意味無縁(対局)の空間と言えるかもしれません。何でもアリだから何でもできるし、誰でも来れる。正直、この「場」やその持つ「引力」に嫉妬していないと言えば嘘になります。

 以前は、正直、「A」の「何でもアリ」的なあり方が、あんまり好きではありませんでした(参加もしてないのに言うなと言われそうですが)。かつての考えでは、言葉は悪いですが、積みあがることもなく、「浅く」、「薄く」の対話しかできず、「楽しかった」で終って次につながらない、というイメージを持っていました。もしくは、突き詰めて深く「考える」というのではなく、直感的に「思う」ことで満足しているというようなイメージ。自分が何となく敬遠していたのはそんなところです。いわゆる意識高い系、というイメージに少し合致するかもしれません。
 

 しかし・・・
「A」の立役者のI部長は、よくこう言っています。
「1人の1000歩よりも、1000人の一歩」と。

この言葉が、ボディーブローのようにずっと自分に効いてるんですよね。

悔しいけど、その通りだよな、と。
いや、別に悔しがる必要もないんですけど。

自分の人生のテーマである「社会を変える」ことに近いのは、「1人の1000歩よりも、1000人の一歩」に違いないと思うんです。

確かに、その場で各人の思いつきで交される「対話」から得られるものは、「専門家」が本気で世に伝えようとした「本」に載っているものよりも、浅くて薄いかもしれない。「本」で5歩進めるのに対して、対話では1歩しか進めないかもしれない。でも、そこで、その場にいる当事者10人がそれぞれ1歩を進めることで、全体として10歩進めるかもしれない。
 
昨年9月頃には、自分はこんなこともツイッターで呟いていました(連ツイ)。


この数か月、勉強することの虚しさを覚える経験が何度かあった。
それを乗り越えるためのものとして、アウトプット、発信、対話が自分の新たなテーマになっている感がある。
例えば、人口減少、空き家問題、公契約、アセットマネジメント問題、LGBT問題云々。
時流より数年くらい早く、こうした問題を勉強する機会を幸運にも得てきた。しかし、時流は追いつく。自分が既に知ってた問題について、次第に、公知の課題として、研修になったりする。
そこで、ちょっと、ほくそえむのだ。「あー、あれね、知ってる知ってる」と。
いわば、ちょっと進研ゼミで予習してかじっていた小学生が、ちょっと優越感を感じるみたいな状況。
でも、これって、結構虚しいということに、最近気づいてしまった。
もちろん、勉強の意義はこれだけではない。
勉強の意義を知っているからこそ、予習していた小学生のようにほくそえむだけの段階から、もう一歩踏み出したいと思うのだ。

結局、社会なんて、一人では変えられない。
思い、考えを共有して、一人では変えられないものを集団として変えていくプロセスが決定的に必要。
個人の不可能性を克服するのが政治、と『魂の労働』で渋谷望も書いていました。
(『魂の労働』では、政治が喪失し、宿命論が回帰している、という分析でしたが)

 

 

もう1つ言うなら、個人的には、Iゼミでの「合同ゼミ」への向き合い方について、後悔があって、読書会と「A」の関係に重ねてしまうのです。
「合同ゼミ」とは、1つのテーマ(ダム建設事業とか、農業とか、旧産炭地とか)に沿って、5つの大学が共同してゼミをやるという試みで、大学時代、自分は2か年にわたって参加したんですが、うちの大学のIゼミは、普段から絡むことも多いS大学のTゼミとは仲良くやる一方で、他の3大学とはあまり良い関係を築けてなかったんですよね、正直なところ。
他の大学が、準備不足だったり、議論には消極的なくせに宴会で酒飲んで騒いでばかりいるような調子だったり、幹事校(持ち回り)としての仕切りがグダグダだったりと、いうことがあったので、当時、その不真面目さを内輪で批判ばかりしていました。ぶっちゃけ、あれは今思うと陰口でしたね。愚痴や批判を繰り返すことにばかり終始して、他大学との「対話」をきちんとできていなかったように思います。自分が卒業後も、数年はその「合同ゼミ」はやっていたようですが、15年くらい続いたその合同ゼミは、ある年から取りやめになったと後輩から聞きました。

政治やマイノリティ、社会的包摂などを学ぶIゼミでこそ、他大学との「違い」乗り越え、彼らとともに何かを為すための方法について、真剣に向き合うべきではなかったのだろうか、と今は思います。
彼らは、Iゼミとはもちろん「違う」部分もあったとはいえ、大学で社会科学を学ぶ大学生ということで、むしろ「社会」全体で見れば、むしろ「同じ」部分も多かっただろうに、そんな彼らとすら合意形成が出来ずに、どうして、より広く多様性に開かれた「社会」と向き合うことができるだろう、と。

 別に「A」を他の3大学と同じように不真面目な集団だとは思っていないんですが、この3大学と「A」とは、自分の中ではダブって見えてしまう存在なんですよね。

「他集団」との接点を避け、「自集団」のみで完結するのはラクですが、それでは多様性から新たな価値を生むことも出来ず、「包摂」や「合意形成」には到達できないと思います。

こうした経緯から、安易に「読書会」を「身内」だけの会にして、排他的にすることへの抵抗があるのです。

今回の7月のイベントは、参加人数が多すぎるとやりにくい、というリアルな課題をどうするか、ということで、フルオープンにはしないという方向で考えていますが、これも正直なところ、相当悩んでいます。
フルオープンにするべきではないか、という思いもいまだにあります。正直、読書会の他の常連メンバーがどう思うかということもあって、板挟みのような気持です。
常連メンバーの皆さんとは、本当に腹を割って話せるので、皆さんと一緒に深く掘り下げていくことは本当に楽しいんです。
皆さんはどう思うでしょうか。

あぁ、語りたい。

「平成」が終わろうとしているこの時代、今更ではあるが、自分は、そして、役所は「かんばん方式」に学ばねばならないのだろうか。

誰か、書籍など、知っている情報があれば提供してもらえませんでしょうか。

 

トヨタの「かんばん方式」といえば、業務改善の代表事例だ。

かんばん方式」とは何ぞや、ということについては、ググったら結構出てくるので、それぞれ自身で調べてみてもらえれば。

トヨタのHPにも載っている。

www.toyota.co.jp

 

 

予断だが、経済学においては、供給が需要を作る(大量生産、そして、その結果としての大量消費!)というパラダイムから、いつしか、需要が供給を作る、というパラダイムが支配的になったのだ、とどこかで聞いたことがある(経済学史はド素人だが)。かんばん方式は、需要による生産管理と言う点で、このパラダイムシフトの1つの典型例とも言えるかもしれない。

 

さて、自分がこの「かんばん方式」という言葉を知ったのは、大学4年のときだ。『魂の労働』という本(の第1章)で、そこでは、比較的、この「かんばん方式」に代表される、顧客による経営管理、いわゆる「日本的経営」などについては、批判的に考察されていた。それは、「感情労働」が工場による生産にまで及んだことの証左であると。ゆえに、

労働者は、<感情労働者>と同じようにもはや自分の労働を自己の全人格から切り離すことは困難となる。(p.36)

 

かんばん方式」という言葉自体が使われていたかどうかは覚えていないが、同じような問題関心に合致するものとして、2年ほど前に『働く女子の運命』という本を読んだ。そこでは、日本は、具体的な「ジョブ」における能力やスキルで評価されるジョブ型社会ではなく、抽象的で全人格的な会社組織への貢献度、忠誠度(実態は、無理が効くこと、使い勝手が良いこと)が重視されるメンバーシップ型社会であることが論じられていた。それゆえ、日本は「能力」はあっても、家事や育児などで、会社にとっては使い勝手が悪い女性が、冷遇されてきたと言う。そして、反面、かつての「日本的経営」は、事実、成功してきたのだということも知った。教科書にも載っている「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は、「日本的経営」の成果だと。

 

こういった分析を読んできた自分にとって、正直、「かんばん方式」は【過去のもの】だった。

 

だが、最近、「かんばん方式」という言葉を相次いで目にした。

かんばん方式」とは、全く過去の遺物などではなく、「働き方改革」が謳われている今にこそ、(今更ながら)必要なものなのではないか。

 

悲しいかな、平成が終わろうとしているこの時代、80年代の日本の経営のエンジンになったという「かんばん方式」についてその弊害を論じる以前に、自身が所属している役所の仕事には、信じられない非効率な部分が未だに温存されているのではないか。

 

ということで、自分は、「かんばん方式」に代表されるような、業務の効率化の手法を学びたい。研究したい。

という訳で、繰り返しになりますが、誰か、書籍など、知っている情報があれば提供してもらえませんでしょうか。

 

80年代の後半に生まれた自分が、80年代にとどまっている場合ではない。

「仕事のための仕事」なんて願い下げだ。

「市民のための仕事」がしたい。

「自然派」と「エビデンス」の狭間で

「自然派」というスタンス(思想?)があるようだ。
「マクロビ」とか,まさしくそういうヤツ。
うちの保育園が,結構そういうのに傾倒している。
玄米が最高とか,梅醤番茶,発熱したときにキャベツを頭に巻くとか。
こういうのは,いわば「おばあちゃんの知恵」的な雰囲気もあって,「なんかよく分からんが,健康に良さそう」という感じで,受け入れられそうなものもある。
例えば,「発酵食品は良い」とか,「夏(冬)は体を冷やす(暖める)食べ物が良い」とか,そういうのは,「まぁ,そうやろね。」と思う。ちなみに,バナナは,南国の食べ物で,体を冷やすから,朝はあんまり食べない方がいいんだとか。うーん。バナナくらい良いやん,と思うけど。

ただ,園からの「お便り」や園長の話(小言)からは,ときには怪しげな雰囲気も漂ってくる。
例えば,とにかく,「和食イチバン」というゴリ押し加減(栄養価的な科学的な根拠ではなく,変にナショナリズム的な匂いを感じることも)。

他にも,例えば,卵や牛乳は基本ダメ,魚が良い,という話。
以前,こんな話を園長がしてた。
>最近の子供を見てると,ヒヨコみたいに「ピーーーッ!!」って甲高い声を出している子っていますよね。ああいうのを見ていると,「あぁ,あの子卵食べ過ぎたのかな」って思うんですよね。イワシとかの魚はですね,集団行動するんですよ(だから良い)。

え~っと。どこから突っ込んだらいいか分からんけど,マジレスすると,園長の理解だと,「人間の行動は食べたものに似てくる」ってことでいいのか?
この話,他のひとに紹介するたびにドン引きされるんだが,フィクションじゃなくてマジだからね。

マクロビって,だいたいこんなもんなのか?と思って,「イワシ 集団行動 マクロビ」で検索したら,こんなすごいサイトを見つけた。
うん,園長とかぶるなぁ。
http://wellness7755.com/macrobi/cat133/cat226/post_10.html

私たちは食べ物を食べると、その食べ物が持つ気質をとり込んでいきます。

魚を多く食べる人は、理路整然として対立を好まず、あたかも魚が群れをなして泳ぐように、集団を作ったり、また、コミュニティ意識が強くなります。


ただ,まぁ,このくらいまでであれば,実害は無いかな,とも思う。
「そこまで拘る意味はあんのか?」という気はするし,親側にそういう拘りを押し付けてくる鬱陶しさはあるし,動機は何であれ健康的な食事を食べさせてくれる分には,それで健康を損なったりすることは無いだろう。

それが,「民間療法」信仰のレベルにまで行くと,一気にヤバくなってくる気がする。

「キャベツ 発熱」というキーワードで調べると,どこの誰だか分からないような「ママ」が書いた,「香ばしい」記事がズラズラ出てくる。「キャベツ枕」は効果があるというようなことを,ペラッペラの根拠で書いていて,しかも,似たり寄ったりなテイストの記事が山ほど出てきて,相当怪しい。DeNAがキュレーションサイトでデマを拡散しまくって炎上したことも,のど元過ぎれば熱さ忘れる,てな感じで,すっかり過去の話。
そんな中で,「医師監修」として,小児科医が実名で書いている記事が1つあり,それだけが「根拠なんてないよ」とバッサリ切っていた。
https://select.mamastar.jp/220531

こういう「民間療法」を変にこじらせてしまうと,「薬を飲ませず,病院に連れて行かず,キャベツを巻いて熱に対処する」という間違った対処をしてしまうリスクがある。
(なお,ウチが通わせている保育園の名誉の為に言うと,保育園では,熱が出れば病院に連れて行くように言われる。キャベツを頭に巻いているのは,あくまで,親が早引きして迎えにくるまでの間だし,アイスノンを脇とかに挟んで熱を下げる,という処置もしてくれている。)

このあたりのことを検索していると,「ホメオパシー」という言葉を知った。
Wiki引用なのでソースの確かさは微妙なんだが,代替医療というか,エセ医学らしい。
「火傷をしたら,暖める」的なヤバいことをしている自称「自然派」ママもいるようだ。
  「自然派ママが好きそうな単語だけ組み合わせて科学的根拠のある記事を書いてみた」
http://toianna.hatenablog.com/entry/2016/09/09/015916
>ちなみに,この記事,めっちゃ面白いので,読んでみてほしい。最後の締めは,結構シリアスな話ではあるが。

と,ここまで,「自然派」とか「民間療法」の話をツラツラ並べてみたわけだが,こういったものの対極が,近現代の統計学(疫学)や医学だろう。

こういう本が話題らしい。
『世界一シンプルで科学的に証明された究極の食事』
https://www.amazon.co.jp/世界一シンプルで科学的に証明された究極の食事-津川-友介-ebook/dp/B07BNFS5PP
読んでないけど,Amazonレビューを見ると,こう書いてある。

>なぜ健康に良いか・悪いかのメカニズムの話はほぼなく、基本的に統計的な事実として、各食品を食べた人の病気の罹患率の推移が列挙されている。

本当に「すげぇ本が出たなぁ」と思った。
「理屈」はどうでもいい,「結果」が全て,という世界。
統計学が最強の学問である』という本にも,同じようなことが書いてあった。
結構前に読んだのでうろ覚えだが,確か,ペスト流行時,感染拡大の原因が上水道にあるのか,下水道にあるのか,という分析の話だったと思う。
ペスト感染の病理学的(?)メカニズムは分からないが,とにかく,下水道の環境の差で,感染率が違うということが,統計的に推認できた,と。結局,そのメカニズムの解明は,数十年(うろ覚え)を待たなければいけなかったが,それを待たずして,下水道の環境改善という「対処法」を導くことが出来たんだと。
https://www.amazon.co.jp/統計学が最強の学問である-西内-啓-ebook/dp/B00B42SXH0/ref=sr_1_4?s=digital-text&ie=UTF8&qid=1525663430&sr=1-4&keywords=統計学が 最強の

これが,統計学(疫学)の凄さ。「健康」や「疾病原因」のように,多用で複雑な要素,変数が絡んでくる事象に対して,理屈抜きで,因果関係の相関を突きつけることができる。

これを読んだときに,本当に,統計学は(最強かは分からんけども)凄いなぁ,と感心した覚えがある。

※ちなみに,学習指導要領の改訂で,数学ではベクトルではなく,統計が必修になるとか・・・。
反発の声が一部で結構出ているようだが,ほとんど熟読できていない・・・。
暇だったら,きちんと調べてみたいが,そんな日は来るだろうか・・・。

しかし,エビデンスは,本当に万能なのだろうか。
いつも,立ち止まって考えてしまう。

以前,「水俣展」に行ったことがある。
水俣病というものの実態がまだ明らかになっていない初期の段階の映像だったと思うが,役所だったか,企業だったかの偉い人が,原因物質の有害性や発症との因果関係について否定的なことを述べているものだった(水俣展に行ったのは,かなり前のことなのでうろ覚えだが)。それが誤りであり,工場からの汚染物質が水俣病の原因だったことは,のちの調査や歴史が証明している。
このように水俣病などの「公害」の歴史の多くは,「発症(症状)と物質の因果関係は認められない」という「エビデンス」との闘いの歴史だったのではないか。「その時点で明らかになっているレベルでは正しい」ことが,のちの研究で覆されるということは,これまでの科学史の中で,きっと何度も起こったことなのではないか。
水俣のことを考えると,いつも,原発事故や放射能汚染のことが頭をよぎる。「低線量被ばく」が健康にどれくらい悪影響を及ぼすのか,ということについても,「問題ない」という専門家と,「問題だ」という専門家がいる。「問題ない」,「安全だ」という「専門家」の見解は,それはそれでデータに裏付けられた「エビデンス」なのかもしれないが,どうしても,真に信用できない。「水俣のときと同じことが起きるのではないか」という漠然とした不安が払しょくできないのだ。しかし,この漠然とした不安で,被災地を差別することはしたくない。この板挟みの状態に,自分は何ら有効な解決策を見出すことができない。誰か助けてほしい。

1つの見方としては,国策の不都合な真実を隠ぺいしようとするような「御用学者」の説は,正しい科学的な作法(?)によらず,歪められた知見なのであり,「エビデンス」と呼ぶものに値しなかったのだ,「エビデンス」自体の有効性は揺るぎないものなのだ,という反論があり得ると思う。
 実際,「エビデンス」に依拠すること自体を止めてしまっては,それこそ「何でもアリ」になってしまう。それは,まさしく「反知性主義」とでも言うべきもので,「エビデンス」を全て疑え,という態度を自分は採らない。そういうことをやっていると,「自然派原理主義」みたいなことになってしまう。
 ただ,結局のところ,専門家以外の常人にとっては,それが歪められたエビデンスなのか,真正の(?)エビデンスなのかなんてことは,分かりようがないことなのだ。それは間違いない。
 さっき言及した『世界一シンプルで科学的に証明された究極の食事』のレビューすら,こんなことが書いてある。引用している論文の解釈がこれでいいのか疑問に感じるところがかなりあります。主な主張として、茶色い炭水化物が健康に良い影響を与えるというものがありますが、そもそも健康的な生活習慣を好む人が茶色い炭水化物をとるのですから、茶色い炭水化物をとる人がより健康なのは当たり前な気がします。このような擬似相関の可能性について、引用しているメタアナリシスの論文でも指摘しています。また、バターが健康に悪いという記述がありますが、引用文献によるとエビデンスレベルは低いですね。いろんなエビデンスレベルの主張が混ざった本ですので、注意深く読み進めるのが良いと思います。

 もうね,どうしろと。
 一体,何を信じればいいんだ。
 
ここまで書いてきて,それでもサッパリ分からない。一体,自分はどうすればいいんだ?

 こういうテーマについて掘り下げてみたいので,ぜひ,一度出身ゼミのI先生に,「健康とエビデンスのポリティクス」というテーマでゼミをやってもらいたい(ウソ)。

※追記
疫学の件、ペストではなく、コレラのことだった。
Wikipediaで「疫学」を調べると載ってる。
 

「「潜在的差別主義者」を「正しさ(あるいはポリコレ棒)」でぶん殴って一体どうなるの?」へのアンサー(?)ブログ

http://mistclast.hatenablog.com/entry/2018/04/14/210505

似てる。本当に、Mistir氏は自分とよく似ている。


Mistir氏のブログを読むと、どうしても自分も語りたくなってしまう。

当初、Mistir氏のブログに、コメントしようと思ってたが、ボリュームがヤバくなってしまい、独立してブログを開設した(元々、完全クローズのブログとFacebookの2つを持ってたが、今回を機に増設)。


「差別はいけないと思います!」と言うことは簡単だ。

しかし、そのように「正しく」振る舞うことや、「正しく」振る舞うよう他者に圧力をかけることが、本当に、差別をなくすことにつながってくれるのか、ということを考えてしまう。そのあたりが、本当に良く似ている。


ここでは、Misir氏の議論に、「感情の対象化」、「共感できない人とでも、共存していく必要性」という視点を補足すべく、筆を執りたい。


自分たちは、たしかに、Mistir氏が言うように「「正しさ」に疲れている」のだろう。

大塚英志は、『感情化する社会』のなかで、社会が「感情化」していると述べたが、それは、「振りかざされる」正しさへの反動なのだと思う。

「そうは言っても、気持ち悪いと感じることは自由じゃないか」、「嫌いなものを嫌いと言えないのは言論の自由の侵害だ」と。

今の社会は、むしろ、「感情」の吐露が特権的な地位を占めている。

なぜ、特権化されるのか。思うに、それは、感情というのが、論理や思考とはちがう、不可避の「反応」として一般に見られているからだ(※実際は「感情」は不可避の反応とは言い切れないと思うが、単純化するためにあえて本稿ではそう記す)。だからこそ、「感情の否定」は、内心の自由言論の自由、全人格的な否定として認識されてしまう。ゆえに、差別主義者は「「嫌い」と“思う”内心の自由をお前たちが奪う権利は無い」と、思考や論理ではなく、感情をよりどころにして、自身を強く、意固地に肯定する。そう、排外主義者たちの醜悪なデモは、文字通り「ヘイト」スピーチなのだ。


しかし、例えば、大塚英志はこのように言い、感情化する社会に対して警鐘を鳴らす。

>「共感」できない感情や行動(つまりは「他者」)をどう理解していくかという手続きを放棄して、「共感」が直接「大きな感情」(とでもひとまず呼ぶ)に結びついてしまうと、そこに出来上がるのは私たちが本来設計すべきだった「社会」なり「国家」とは異質のものとなる。それは社会や国家ではなく、「感情」が共振し、あるいは融解した何ものかである


この「感情化する社会」のことを考察する際、必ず、以前、Twitterで見たこんなポストを思い出す。https://twitter.com/yusai00/status/846342228544909312

この中の「共感できない人とでも、共存していく必要性」というのが超重要。これは、大塚英志の問題関心と、完全に符合している。ここまで見事に、過不足なく核心をついたフレーズというのは、めったに見ない。本当に凄い。


このツイッターのポストは、「感情」や「共感できない」こと自体は否定していない。「感情」を否定はしないが、その「感情」が無批判のままで、コントロールされずに他者を傷つけることを問題視している。


よくある「道徳」のセオリーでは、「仲良くしましょう」とか「好きになりましょう」とか「相手の好きなところを見つけましょう」とか、そういうことを教わる。実は、結局、これでは、「嫌い」ということが「不可避の反応」である問題点は克服できない。(もちろん、ものの見方や知識によって、「嫌い」が「好き」になることもあるだろう。特に、素朴な子どものうちは。だから、既存のアプローチが全て悪いと言うつもりはない。)


他方、「共感できない人とでも、共存していく」ということは、「嫌い」であることを前提に、それでも一歩先へ歩みを進めようとする態度だ。

言うなれば、「皆が皆のことを「好きになれ」とは言わない。だが、「好きではない」、「嫌い」だからといって、その人を不当に攻撃してはいけない、傷つけてはいけない」

という感じだろうか。


「共存していく」というのは、これはこれで理想論的なのかもしれないが、「感情論」と「ポリコレ棒」の不毛な争いに、特効薬ではなくても、漢方薬くらいには効いてくれないだろうか、と思う。


改めてこの一件を振り返ると、炎上したB氏は、「共感できない」自分自身を愛でるあまり、また、B氏を取材した記者は、「共感できない」B氏の素直すぎる感情的な反応を素朴に受け止めようとするあまり、「共存していく」必要性に気付けないでいる、ということになろう。かれらの言動は、たしかに、当事者たちを深く傷つけうるものだ。

(あわせて言うなら、B氏は、「理解不能」と言っているが、これは、誤りで、正しくは、「共感不能」だ。理解しようともしないヤツが「理解不能」などと言う資格は無い)


しかし、記事をよく読むと、B氏自身も、実はきちんと、模索している。

炎上した記事の中で、自分がこの論点に引きつけて重要だと思うのはこの部分だ。


>「もっとナヨナヨしていると思っていたんです。(性行為で)女性的な立場の方は、女性っぽいのかな、とか。ゲイだと明かしている人に会ったのは初めてで、興味があって。初めて外国人を見る子どものようなものです。でも、仕事中にそんなことを考えるのは相手に失礼だと思って、やめました」


 Bさんは、苦笑します。

 とても正直に、見栄をはらずに話してくれていることが、伝わってきます。


 ちなみに、すぐに「性的な興味」をもたれてしまうのは、セクシュアルマイノリティの人たちがウンザリすることのひとつだそうです。「普通、他人にそんなこと聞かないでしょう?」と。

 Bさんの名誉のために言うと、言葉にして聞いたわけではないそうです。


もちろん、ゲイの人は「ナヨナヨ」している、という単純な事実誤認による「偏見」は問題ではある。

しかし、それでも、B氏は、目の前に座ったゲイ男性について「事中にそんなことを考えるのは相手に失礼だと思って、やめ」、「性的な興味」をもって「言葉にして聞いたわけではない」のだ。


B氏のこの振る舞いは、まさしく、「共感できないひとと、共存していく」ことの実践そのものではないだろうか。


 このように不十分ながらも実践しているB氏は、他方で、「ポリコレ棒」によって、「感情を否定」されたように感じており、それに抑圧を感じているのだ。「感情」という不可避の「反応」を否定されたB氏は、きっと、B氏自身が全人格的に否定されたように感じるのだろう。

 こうして分析していくと、結局、真に悪いのは、やはり、B氏の素朴な「感情」をそのまま無批判に衆目に触れるように記事にした、記者なのだという結論にいたる。 


 繰り返しになるが、(B氏にとって、)「感情」はどうしようもない反応だ。しかし、B氏は、知識は不足しているものの、不十分ながらも、当事者を傷つけないよう、共存できるよう、振る舞おうとしている。

 にも関わらず、宇野氏のブログに代表されるような「ポリコレ棒」は、不可避の反応である「感情を否定」してしまっている(ように,差別者は理解している)。


ここで、Mistir氏のブログの冒頭を引用したい。観点や言葉は少し違うが、この意見について、自分は、概ね同意している。


>筆者の宇野ゆうか氏のことを僕はよく知らないのだけれど、この記事に関しては確かに「正しい」と思う。

そう、とても「正しい」。

だけど、同時にとても「危険」だ。

もっと言えば「マイナスが大きすぎる」。


この記事が語っていることは「正しい」、故にそれを批判する僕も大いに批判されるかもしれない。

けれど、これは絶対に語らなければならないと思った。

「正しさ」を目的とすると、結果が良いものになるとは限らない。


結論を言えば宇野ゆうか氏の記事がやっていることはまさにこれなのだ。

「ポリコレ棒で裁かれるのを恐れる人を、『正しさ』で裁いている」。 


・公正な社会を目指すための「ツール」としてのPC=「ポリティカル・コレクトネス」が「ポリコレ棒」に変容してしまうのは、どういうケースなのか。

 ここで、PCを「ツール」と言ったが、これは、何もPCを貶めているわけではない。「共感できないものとの共存」の1つの形は、「合意形成」だ。しかし、現実社会において、この「合意形成」ほど難しいものは無い。民意は多様だし、何より、時間の経過で合意は変わり得るからだ。

 実際、真の合意形成はフィクションだ。フィクションというのがイヤなら、擬制と言ってもいい。現実には、正しい「ことになっている」基準が、どこかで「政治的」に線引きされ、合意が形成されたもの「として」提示されることになる。だからこそ、「ポリティカル」なのだ。

この合意形成のプロセス自体は、正当性の強度が違うとはいえ、俯瞰してみれば,結局、「法」ができていくプロセスと全く一緒だ。例えば、殺人者にどれくらいの刑を科すべきなのかという問題。これは、本来、社会の構成員による「合意形成」の結果として、決められるべきで事柄であるが、実際、そんなことを殺人が起こるたびに全国民で話し合う訳にはいかない。だからこそ、あらかじめ、正しいものとして、社会的合意として、制度化された「法」が全国民の代表によって定められ、それが全国民に提示されて、社会を円滑に駆動させている。そういう意味で、「法」とは社会を円滑に駆動させる「ツール」なのだ。

結局、自分が、PCが「ツール」であると言う意味合いもここにある。数多の議論や衝突、軋轢や交渉を乗り越えた末、あらかじめ共有しておけるように提示された「ツール」こそが、PCなのだろう。


 さて、PCが「ツール」であるということ認識を明らかにしたうえで、あらためて、PCが「ポリコレ棒」と変容してしまう現象について考えてみる、

 

 ここでは、先ほど述べたPCが「法」に類似している、という考察が助けになる。


 一つの重要な要素は、当事者性だろう。今回の宇野氏のブログでの反論は、あまりにも客観的すぎて、あまりにも「正しすぎる」。こうしたものに、B氏やMistir氏は拒否反応を示したわけだが、こうした「正しさ」への拒否反応は、役所や大企業の窓口で「規則ですので」と、冷たく告げられる際に起きる嫌悪感と相似形なのではないだろうか。

当事者の切実な悩みや告発が、最大公倍数的にPCとなったとき、その正しさの訴えは、「振りかざされた」かのように感じさせてしまうのではないだろうか。

(もちろん、反差別は、当事者のみで実現するものではないし、「当事者」という概念自体が本質的なものではないという点は留意する必要があるが,本稿では,あえて,当事者/非当事者を二項対立的に論じる。また、PCがポリコレ棒に変容してしまうのは、差別者の責任、具体的には、知識や想像力の欠如等によっても左右されるということも自覚はしているつもりだ。端的に、「LGBTは気持ち悪いと思うのは仕方ないじゃないか」という言葉が、当の本人たちに届いてしまったときに何が起こるのか、ということについて、B氏や記者は「想像力」をもつ必要があったはずだ。)


・結局のところ、PCを振りかざす人も、PCを「ポリコレ棒」と言って嫌悪する人も、どちらも、PCが「ツール」であり、可変的であるというということを、自覚するべきなのだ。


昨年、とんねるず石橋貴明扮する「保毛尾田保毛男」が炎上した。誤解を恐れずに言えば、かつてリアルタイムで放送されていた当時の「保毛尾田保毛男」については、容認していい、差別ではない、という「社会的」合意が確かにあったのだ。「保毛尾田保毛男」が本質的に差別的ではなかった、ということではない。当時の多数の人の認識、 「社会的」な合意として、受け入れられていたのだ。ただし、この「社会的合意」は間違い得るし、だからこそ更新されうる。そして、2017年には、現代の「社会的」合意に合致しなかったため、炎上した。


様々な抗議が寄せられたわけだが、それらの抗議が正しかったとはいえ、お笑いの「本質」のような語りで批判する識者が多くて、正直かなりウンザリしていた。例えば、コメディは、権力者を対象にしてこそ、とか、アメリカのコメディは風刺的でどうの、的な奴。はっきり言って嘘くさい。「お前ら、そんなこと言ってバラエティを批判してるけど、弱者を揶揄して笑ったこと一度もないの?」と思ってしまう。何もお笑い番組の話だけではない。クラスメート、同僚、隣人、そういった人たちへの「陰口」で盛り上がる、というのも同様だ。そういう行為が許されるべき、ということではない。「悪意なく」、「過って」やってしまった行為を糾弾できるのは、そういう「過ち」を犯したことが無い人だけだ、ということだ。


「かつてお前がしてきたことは、差別だ!」と強く糾弾することは、実はとてつもなく恐ろしいことだ。当の糾弾者だって、いつか、時代が変われば、「お前がしてきたことは、差別だ!」と逆に糾弾されるかもしれない。以前、Facebookにも書いたが、自分は、全く弁解の余地もなく、同性愛者を差別していたのだ。

誰もが、ひょっとしたら、どこかで誰かを差別してきたかもしれないし、今もまだ、知らず、差別をしているのかもしれない。それにも関わらず、そんな自分を棚にあげて、「過去に悪意なく結果的に差別をしてしまった」人を糾弾しているように人はいる。そういう人に対して、B氏や、Mistir氏は、そこには不快感を覚えているのではないだろうか。自分も一緒だ。


ただ、宇野氏自身は、ブログ中で、きちんと自身の過去の差別行為についても言及している。この点をMistir氏は過小評価している気がする。

>さて、私自身はどうなのかというと、子供の頃は、私も無邪気に同性愛差別をしていた。男同士でいちゃついてるのは「おかしい」し「笑える」ことなんだと思ってた。


とはいえ、Mistir氏の下記の提起ついては自分も同意する。


「『過去の自分が批判されるのが嫌だ』、そんな他人の甘ったるさを断罪して、残るものはいったいなんなんだ?」

(略)

宇野ゆうか氏の目線に立てば、簡単な話でこれは「ポリコレ云々以前に『正しいこと』」なのだから、断罪(という言葉が大げさなら「批判」)して当然だろう。

だがB氏の立場に立てばどうなる?

「ああ、やっぱりポリコレ棒で『断罪』された。こんな思いをするなら、俺は正しくなくていい」


そう、「過去」を断罪することが目的なのではない。

その先で、これから先、差別によって傷つく人がなくなることこそが目的なのだ。

PCが受け入れられることも目的ではない。あくまでPCはツールであり、手段だ。


理想としては、B氏が、このような認識になることが必要なのだと思う。

「私の過去の言動は、当事者を傷つけるものだった。また、私の認識は、誤っていた。今後は同じようなことはしない。改める。」と。


こういう言い方をすると、加害者たるマジョリティ側が、「もっと伝わるような言い方で」と要求し、被害者たるマイノリティ側にマウンティングすることを容認するように聞こえるかもしれない。そういう行為の問題点は理解しているつもりだ。

例えば、宇野氏のこのコメントには、自分も同意する。

>ちなみに、反差別運動の歴史的に見ると、マジョリティは、大抵、マイノリティが「冷静に、伝わるように、優しく」言ってるうちは、マイノリティの訴えを聞かず、痺れを切らしたマイノリティが「冷静に、伝わるように、優しく言い続けても、埒があかない!」と思って、怒りを表明するようになると、マジョリティは「過激派」というレッテルを貼るということが繰り返されている。


「マジョリティが話を聞かないのは、マイノリティの言い方が攻撃的だからであって、冷静に、伝わるように、優しく言えば聞いてもらえるはずだ」と思うのは、マジョリティ側のある種ロマンチックな想像であり、現実は、マジョリティは「過激派」に揺さぶりをかけられない限りは「穏健派」の言うことすら聞かないという傾向がある。


ただ、ここで、先ほど言及した「当事者性」という論点をもう一度思い出してほしい。宇野氏は、当事者ではないのだ。当事者ではなく、宇野氏のような「非当事者」が、最大公約数的にPCとして合意形成されいわば完成された「客観的な」ルールを振りかざし、宇野氏が言うような「過激派」となることは、戦略的に正しいのだろうか、ということを自分はいつも考えるのだ。