「「潜在的差別主義者」を「正しさ(あるいはポリコレ棒)」でぶん殴って一体どうなるの?」へのアンサー(?)ブログ

http://mistclast.hatenablog.com/entry/2018/04/14/210505

似てる。本当に、Mistir氏は自分とよく似ている。


Mistir氏のブログを読むと、どうしても自分も語りたくなってしまう。

当初、Mistir氏のブログに、コメントしようと思ってたが、ボリュームがヤバくなってしまい、独立してブログを開設した(元々、完全クローズのブログとFacebookの2つを持ってたが、今回を機に増設)。


「差別はいけないと思います!」と言うことは簡単だ。

しかし、そのように「正しく」振る舞うことや、「正しく」振る舞うよう他者に圧力をかけることが、本当に、差別をなくすことにつながってくれるのか、ということを考えてしまう。そのあたりが、本当に良く似ている。


ここでは、Misir氏の議論に、「感情の対象化」、「共感できない人とでも、共存していく必要性」という視点を補足すべく、筆を執りたい。


自分たちは、たしかに、Mistir氏が言うように「「正しさ」に疲れている」のだろう。

大塚英志は、『感情化する社会』のなかで、社会が「感情化」していると述べたが、それは、「振りかざされる」正しさへの反動なのだと思う。

「そうは言っても、気持ち悪いと感じることは自由じゃないか」、「嫌いなものを嫌いと言えないのは言論の自由の侵害だ」と。

今の社会は、むしろ、「感情」の吐露が特権的な地位を占めている。

なぜ、特権化されるのか。思うに、それは、感情というのが、論理や思考とはちがう、不可避の「反応」として一般に見られているからだ(※実際は「感情」は不可避の反応とは言い切れないと思うが、単純化するためにあえて本稿ではそう記す)。だからこそ、「感情の否定」は、内心の自由言論の自由、全人格的な否定として認識されてしまう。ゆえに、差別主義者は「「嫌い」と“思う”内心の自由をお前たちが奪う権利は無い」と、思考や論理ではなく、感情をよりどころにして、自身を強く、意固地に肯定する。そう、排外主義者たちの醜悪なデモは、文字通り「ヘイト」スピーチなのだ。


しかし、例えば、大塚英志はこのように言い、感情化する社会に対して警鐘を鳴らす。

>「共感」できない感情や行動(つまりは「他者」)をどう理解していくかという手続きを放棄して、「共感」が直接「大きな感情」(とでもひとまず呼ぶ)に結びついてしまうと、そこに出来上がるのは私たちが本来設計すべきだった「社会」なり「国家」とは異質のものとなる。それは社会や国家ではなく、「感情」が共振し、あるいは融解した何ものかである


この「感情化する社会」のことを考察する際、必ず、以前、Twitterで見たこんなポストを思い出す。https://twitter.com/yusai00/status/846342228544909312

この中の「共感できない人とでも、共存していく必要性」というのが超重要。これは、大塚英志の問題関心と、完全に符合している。ここまで見事に、過不足なく核心をついたフレーズというのは、めったに見ない。本当に凄い。


このツイッターのポストは、「感情」や「共感できない」こと自体は否定していない。「感情」を否定はしないが、その「感情」が無批判のままで、コントロールされずに他者を傷つけることを問題視している。


よくある「道徳」のセオリーでは、「仲良くしましょう」とか「好きになりましょう」とか「相手の好きなところを見つけましょう」とか、そういうことを教わる。実は、結局、これでは、「嫌い」ということが「不可避の反応」である問題点は克服できない。(もちろん、ものの見方や知識によって、「嫌い」が「好き」になることもあるだろう。特に、素朴な子どものうちは。だから、既存のアプローチが全て悪いと言うつもりはない。)


他方、「共感できない人とでも、共存していく」ということは、「嫌い」であることを前提に、それでも一歩先へ歩みを進めようとする態度だ。

言うなれば、「皆が皆のことを「好きになれ」とは言わない。だが、「好きではない」、「嫌い」だからといって、その人を不当に攻撃してはいけない、傷つけてはいけない」

という感じだろうか。


「共存していく」というのは、これはこれで理想論的なのかもしれないが、「感情論」と「ポリコレ棒」の不毛な争いに、特効薬ではなくても、漢方薬くらいには効いてくれないだろうか、と思う。


改めてこの一件を振り返ると、炎上したB氏は、「共感できない」自分自身を愛でるあまり、また、B氏を取材した記者は、「共感できない」B氏の素直すぎる感情的な反応を素朴に受け止めようとするあまり、「共存していく」必要性に気付けないでいる、ということになろう。かれらの言動は、たしかに、当事者たちを深く傷つけうるものだ。

(あわせて言うなら、B氏は、「理解不能」と言っているが、これは、誤りで、正しくは、「共感不能」だ。理解しようともしないヤツが「理解不能」などと言う資格は無い)


しかし、記事をよく読むと、B氏自身も、実はきちんと、模索している。

炎上した記事の中で、自分がこの論点に引きつけて重要だと思うのはこの部分だ。


>「もっとナヨナヨしていると思っていたんです。(性行為で)女性的な立場の方は、女性っぽいのかな、とか。ゲイだと明かしている人に会ったのは初めてで、興味があって。初めて外国人を見る子どものようなものです。でも、仕事中にそんなことを考えるのは相手に失礼だと思って、やめました」


 Bさんは、苦笑します。

 とても正直に、見栄をはらずに話してくれていることが、伝わってきます。


 ちなみに、すぐに「性的な興味」をもたれてしまうのは、セクシュアルマイノリティの人たちがウンザリすることのひとつだそうです。「普通、他人にそんなこと聞かないでしょう?」と。

 Bさんの名誉のために言うと、言葉にして聞いたわけではないそうです。


もちろん、ゲイの人は「ナヨナヨ」している、という単純な事実誤認による「偏見」は問題ではある。

しかし、それでも、B氏は、目の前に座ったゲイ男性について「事中にそんなことを考えるのは相手に失礼だと思って、やめ」、「性的な興味」をもって「言葉にして聞いたわけではない」のだ。


B氏のこの振る舞いは、まさしく、「共感できないひとと、共存していく」ことの実践そのものではないだろうか。


 このように不十分ながらも実践しているB氏は、他方で、「ポリコレ棒」によって、「感情を否定」されたように感じており、それに抑圧を感じているのだ。「感情」という不可避の「反応」を否定されたB氏は、きっと、B氏自身が全人格的に否定されたように感じるのだろう。

 こうして分析していくと、結局、真に悪いのは、やはり、B氏の素朴な「感情」をそのまま無批判に衆目に触れるように記事にした、記者なのだという結論にいたる。 


 繰り返しになるが、(B氏にとって、)「感情」はどうしようもない反応だ。しかし、B氏は、知識は不足しているものの、不十分ながらも、当事者を傷つけないよう、共存できるよう、振る舞おうとしている。

 にも関わらず、宇野氏のブログに代表されるような「ポリコレ棒」は、不可避の反応である「感情を否定」してしまっている(ように,差別者は理解している)。


ここで、Mistir氏のブログの冒頭を引用したい。観点や言葉は少し違うが、この意見について、自分は、概ね同意している。


>筆者の宇野ゆうか氏のことを僕はよく知らないのだけれど、この記事に関しては確かに「正しい」と思う。

そう、とても「正しい」。

だけど、同時にとても「危険」だ。

もっと言えば「マイナスが大きすぎる」。


この記事が語っていることは「正しい」、故にそれを批判する僕も大いに批判されるかもしれない。

けれど、これは絶対に語らなければならないと思った。

「正しさ」を目的とすると、結果が良いものになるとは限らない。


結論を言えば宇野ゆうか氏の記事がやっていることはまさにこれなのだ。

「ポリコレ棒で裁かれるのを恐れる人を、『正しさ』で裁いている」。 


・公正な社会を目指すための「ツール」としてのPC=「ポリティカル・コレクトネス」が「ポリコレ棒」に変容してしまうのは、どういうケースなのか。

 ここで、PCを「ツール」と言ったが、これは、何もPCを貶めているわけではない。「共感できないものとの共存」の1つの形は、「合意形成」だ。しかし、現実社会において、この「合意形成」ほど難しいものは無い。民意は多様だし、何より、時間の経過で合意は変わり得るからだ。

 実際、真の合意形成はフィクションだ。フィクションというのがイヤなら、擬制と言ってもいい。現実には、正しい「ことになっている」基準が、どこかで「政治的」に線引きされ、合意が形成されたもの「として」提示されることになる。だからこそ、「ポリティカル」なのだ。

この合意形成のプロセス自体は、正当性の強度が違うとはいえ、俯瞰してみれば,結局、「法」ができていくプロセスと全く一緒だ。例えば、殺人者にどれくらいの刑を科すべきなのかという問題。これは、本来、社会の構成員による「合意形成」の結果として、決められるべきで事柄であるが、実際、そんなことを殺人が起こるたびに全国民で話し合う訳にはいかない。だからこそ、あらかじめ、正しいものとして、社会的合意として、制度化された「法」が全国民の代表によって定められ、それが全国民に提示されて、社会を円滑に駆動させている。そういう意味で、「法」とは社会を円滑に駆動させる「ツール」なのだ。

結局、自分が、PCが「ツール」であると言う意味合いもここにある。数多の議論や衝突、軋轢や交渉を乗り越えた末、あらかじめ共有しておけるように提示された「ツール」こそが、PCなのだろう。


 さて、PCが「ツール」であるということ認識を明らかにしたうえで、あらためて、PCが「ポリコレ棒」と変容してしまう現象について考えてみる、

 

 ここでは、先ほど述べたPCが「法」に類似している、という考察が助けになる。


 一つの重要な要素は、当事者性だろう。今回の宇野氏のブログでの反論は、あまりにも客観的すぎて、あまりにも「正しすぎる」。こうしたものに、B氏やMistir氏は拒否反応を示したわけだが、こうした「正しさ」への拒否反応は、役所や大企業の窓口で「規則ですので」と、冷たく告げられる際に起きる嫌悪感と相似形なのではないだろうか。

当事者の切実な悩みや告発が、最大公倍数的にPCとなったとき、その正しさの訴えは、「振りかざされた」かのように感じさせてしまうのではないだろうか。

(もちろん、反差別は、当事者のみで実現するものではないし、「当事者」という概念自体が本質的なものではないという点は留意する必要があるが,本稿では,あえて,当事者/非当事者を二項対立的に論じる。また、PCがポリコレ棒に変容してしまうのは、差別者の責任、具体的には、知識や想像力の欠如等によっても左右されるということも自覚はしているつもりだ。端的に、「LGBTは気持ち悪いと思うのは仕方ないじゃないか」という言葉が、当の本人たちに届いてしまったときに何が起こるのか、ということについて、B氏や記者は「想像力」をもつ必要があったはずだ。)


・結局のところ、PCを振りかざす人も、PCを「ポリコレ棒」と言って嫌悪する人も、どちらも、PCが「ツール」であり、可変的であるというということを、自覚するべきなのだ。


昨年、とんねるず石橋貴明扮する「保毛尾田保毛男」が炎上した。誤解を恐れずに言えば、かつてリアルタイムで放送されていた当時の「保毛尾田保毛男」については、容認していい、差別ではない、という「社会的」合意が確かにあったのだ。「保毛尾田保毛男」が本質的に差別的ではなかった、ということではない。当時の多数の人の認識、 「社会的」な合意として、受け入れられていたのだ。ただし、この「社会的合意」は間違い得るし、だからこそ更新されうる。そして、2017年には、現代の「社会的」合意に合致しなかったため、炎上した。


様々な抗議が寄せられたわけだが、それらの抗議が正しかったとはいえ、お笑いの「本質」のような語りで批判する識者が多くて、正直かなりウンザリしていた。例えば、コメディは、権力者を対象にしてこそ、とか、アメリカのコメディは風刺的でどうの、的な奴。はっきり言って嘘くさい。「お前ら、そんなこと言ってバラエティを批判してるけど、弱者を揶揄して笑ったこと一度もないの?」と思ってしまう。何もお笑い番組の話だけではない。クラスメート、同僚、隣人、そういった人たちへの「陰口」で盛り上がる、というのも同様だ。そういう行為が許されるべき、ということではない。「悪意なく」、「過って」やってしまった行為を糾弾できるのは、そういう「過ち」を犯したことが無い人だけだ、ということだ。


「かつてお前がしてきたことは、差別だ!」と強く糾弾することは、実はとてつもなく恐ろしいことだ。当の糾弾者だって、いつか、時代が変われば、「お前がしてきたことは、差別だ!」と逆に糾弾されるかもしれない。以前、Facebookにも書いたが、自分は、全く弁解の余地もなく、同性愛者を差別していたのだ。

誰もが、ひょっとしたら、どこかで誰かを差別してきたかもしれないし、今もまだ、知らず、差別をしているのかもしれない。それにも関わらず、そんな自分を棚にあげて、「過去に悪意なく結果的に差別をしてしまった」人を糾弾しているように人はいる。そういう人に対して、B氏や、Mistir氏は、そこには不快感を覚えているのではないだろうか。自分も一緒だ。


ただ、宇野氏自身は、ブログ中で、きちんと自身の過去の差別行為についても言及している。この点をMistir氏は過小評価している気がする。

>さて、私自身はどうなのかというと、子供の頃は、私も無邪気に同性愛差別をしていた。男同士でいちゃついてるのは「おかしい」し「笑える」ことなんだと思ってた。


とはいえ、Mistir氏の下記の提起ついては自分も同意する。


「『過去の自分が批判されるのが嫌だ』、そんな他人の甘ったるさを断罪して、残るものはいったいなんなんだ?」

(略)

宇野ゆうか氏の目線に立てば、簡単な話でこれは「ポリコレ云々以前に『正しいこと』」なのだから、断罪(という言葉が大げさなら「批判」)して当然だろう。

だがB氏の立場に立てばどうなる?

「ああ、やっぱりポリコレ棒で『断罪』された。こんな思いをするなら、俺は正しくなくていい」


そう、「過去」を断罪することが目的なのではない。

その先で、これから先、差別によって傷つく人がなくなることこそが目的なのだ。

PCが受け入れられることも目的ではない。あくまでPCはツールであり、手段だ。


理想としては、B氏が、このような認識になることが必要なのだと思う。

「私の過去の言動は、当事者を傷つけるものだった。また、私の認識は、誤っていた。今後は同じようなことはしない。改める。」と。


こういう言い方をすると、加害者たるマジョリティ側が、「もっと伝わるような言い方で」と要求し、被害者たるマイノリティ側にマウンティングすることを容認するように聞こえるかもしれない。そういう行為の問題点は理解しているつもりだ。

例えば、宇野氏のこのコメントには、自分も同意する。

>ちなみに、反差別運動の歴史的に見ると、マジョリティは、大抵、マイノリティが「冷静に、伝わるように、優しく」言ってるうちは、マイノリティの訴えを聞かず、痺れを切らしたマイノリティが「冷静に、伝わるように、優しく言い続けても、埒があかない!」と思って、怒りを表明するようになると、マジョリティは「過激派」というレッテルを貼るということが繰り返されている。


「マジョリティが話を聞かないのは、マイノリティの言い方が攻撃的だからであって、冷静に、伝わるように、優しく言えば聞いてもらえるはずだ」と思うのは、マジョリティ側のある種ロマンチックな想像であり、現実は、マジョリティは「過激派」に揺さぶりをかけられない限りは「穏健派」の言うことすら聞かないという傾向がある。


ただ、ここで、先ほど言及した「当事者性」という論点をもう一度思い出してほしい。宇野氏は、当事者ではないのだ。当事者ではなく、宇野氏のような「非当事者」が、最大公約数的にPCとして合意形成されいわば完成された「客観的な」ルールを振りかざし、宇野氏が言うような「過激派」となることは、戦略的に正しいのだろうか、ということを自分はいつも考えるのだ。