映画『Suffragette』(邦題『未来を花束にして』)の感想

AmazonPrimeビデオで配信されていたので、観た。

邦題がクソだという前評判を知っていたが、たしかに、この邦題はミスリード過ぎるので、こういうタイトルにした。

未来を花束にして [DVD]

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『未来を花束にして』は、2015年制作のイギリスの歴史映画。 1910年代のイギリスで婦人参政権を求めて闘った女性たちの姿を描いた作品。原題のSuffragetteとは、20世紀初頭のイギリスの参政権拡張論者、特に婦人参政権論者を指す言葉(Wikipediaより)

以下、若干のネタバレあり。

謎解きや伏線、奇想天外なストーリーを楽しむタイプの映画ではないものの、どうしてもネタバレが許せないという方は、ブラウザバックをお勧めします。

多少はいいかな、という方は、読み進めてください。

1 訪れないカタストロフ


例えば、『ボヘミアン・ラプソディ』は、完全にストーリーがキレイな起承転結になっている。

 

起・・・クイーン結成~飛躍

承・・・メンバー不和等の予兆

転・・・フレディどん底

結・・・ライブエイドで奇跡の復活

『セッション』や『ブラック・スワン』も一緒だ。

主人公は、どん底を味わったあと、圧倒的なクライマックスを迎え、観る者はそれによってカタストロフを感じるのだ。

ブラック・スワン (字幕版)

セッション(字幕版)


しかし、この『サフラジェット』は、そのようなクライマックスではなく、カタストロフは訪れない。主人公たちの行動で、運動が一歩、歩みを進めたところで映画は終わり、実際の参政権獲得は、後日談として文章で説明されるのみだった。

ゆえに、自分は、観終わったあとは「スッキリしなかった」という感想を正直抱いた。

ストーリーとして「面白く」はなかったのだ。

 

だが、そこで「スッキリ」させてくれないことこそが、この映画の狙いなのかもしれない、とあとから考えた。

「スッキリ」するはずもないのだ。

その成功を見る前に、散っていった女性たちがいる。

そして、まだ女性たちの戦いは終わっていない。

後日談では、イギリスの参政権獲得に留まらず、現在に至るまでの女性参政権獲得の軌跡が挙げられている(直近では、2015年!のサウジアラビア)。


主人公のモードはこう言った。
私たちが勝つわ」


この「私たち」は、彼女の仲間である運動員のみを指しているのではない。

現在に生きる視聴者までも含めて、「私たち」と言っているのだ。

そう、この映画は歴史を描いたものであるとともに、「スッキリ」させて終わらせてはいけない「現在進行形」の物語なのだ。


2 彼女たちの行動は「正しかった」のか?
<以下、特にネタバレ注意。>
 劇中、某邸宅を爆破するという計画が実行に移された。

 これは、それまでに実行されたショーウィンドウのガラスへの投石破壊や早朝の郵便ポストの爆破などに比べて、規模も大きく過激度が高い計画で、活動家の中でも、やり過ぎだとして、消極的な意見が出ていたものだった。

 結局、「その時間は人がいない」ということで、計画は実行に移されたんだが、その後、主人公は警察に逮捕され、取調べを受けることになった。

 そのやり取りを以下に引用したい。


刑「爆破の時家政婦が邸内にいた

  忘れ物を取りに

  あと2分遅かったら・・・

  何のための爆破だ

  爆弾は相手の区別などできないんだ

  お前に命を奪う権利が?」

主「あんたには女性への殴打を傍観する権利でも?

  偽善者」
刑「法に従う」

主「男の法など無意味よ

刑「逃げ口上だ

主「窓を割り爆破しないと男は耳を傾けないから

  殴られ裏切られた女の最後の手段よ

刑「止めてやる」

主「どうやって?全員刑務所に入れる?

  人類の半分は女よ?止められる?」

刑「それまで体がもつか?」

主「私たちが勝つわ」

引用ココまで。

 

ここは、まさしく映画のメッセージの核心に迫った部分だろう。
Twitterの自分のタイムラインを見ていた限りでは、この映画は、いわゆるリベラルな界隈からの絶大な支持を得ていたように思う。
社会運動、活動に対しての冷ややかな目線に対し、権利を獲得するための「闘争」をあくまで肯定する論調が多く聞かれた。

 

しかし、自分は、未遂に終わったものの、故なく爆破されかけた家政婦のことを考えざるを得ない。


極論かもしれないが、「目的」のための第三者を犠牲にすることが許されるのならば、どうやって、イスラム過激派のテロを否定できる?

 

以前、下記のブログで

手段は目的を正当化しない

という主張をした。 

ghost-dog.hatenablog.com

 

彼女たちがいなければ、女性の参政権獲得という「正しい」未来は訪れなかったのかもしれない。

 

しかし、その未来の「正しさ」は、彼女たちの行動そのものを正当化しうるのだろうか。

手段が目的を正当化しないのであれば、彼女たちがとった手段はやはり正当化されないのだろうか。
しかし、彼女たちが平和的に言葉のみを紡いでいたら、今の女性たちはやはり参政権獲得に至っていなかったかもしれず、それもやはり「正しさ」を欠いてしまう。

この映画の製作者は、どのような意図で映画を作ったのだろう。

「彼女たちが正しかったのは歴史が証明している!」と述べたかったのではないのではないだろうか。

映画を観た人は分かると思うが、上の問答をした刑事は、捜査当局が行った不当な「治療」への苦言を呈するなど、割とまとも(?)な人物として描かれていた。少なくとも、法を振りかざして、男の既得権益を固守しようとするような人物ではなく、彼なりの「正義」を行おうとしている人物だった。本当にクソヤローだったのは、使用者のオッサン。問答の相手があの使用者のオッサンだったなら、主人公のモードの自己弁護は、もっとストレートに納得と共感に繋がったかもしれない。

しかし、あの刑事とモードの問答は、まさに「正しさ」の衝突だったのだ。


まきむぅさんは、あの映画を観たのだろうか。そして、彼女ならどう思うのだろうか。
聴いてみたい。

行政法の勉強 行政行為の取消についての疑問

先日,法務の勉強会があった。そのうち,行政行為の取り消しという論点があった。
判例は,本来の土地所有者Aと,瑕疵ある行政手続きによって土地を取得するに至ってしまったBとの利害が鋭く衝突する事例だった。(最判昭和43年11月7日)

 

判旨の要点の1つとして,取り消しが許容されるか否かは,取り消した場合と取り消さなかった場合の比較考量をすべき,という考え方が示された。

 

ここで,1つ疑問がある。比較考量を行政内部でやった結果,50:50にしか思えないような状態で,判断に悩む場合はどうすればいいのだろうか。更に言えば,取り消した場合も,取り消さなかった場合も,どちらの当事者も訴訟を辞さない,という態度だった場合はどうすればいいのだろうか。


AもしくはBのいずれかから訴訟が提起されるということが分かっておきながら,それでも,取り消すか,取り消さないか,ゼロサムでどちらかの判断(行政処分)をしなければいけないのだろうか。そのうえで,訴訟が提起されるのを座して待たなければいけないのだろうか。

 

それとも,何かしら,ADR的なものを活用して,ゼロサムにならない解決に導くということはあり得るのだろうか。

 

本来,行政処分は法に則って画一的に実施しなければいけないだろうから,安易に,当事者の意を汲んだりする決定は行うべきではない。それは,恣意的な行政運用につながる危険をはらむ。恣意的な運用を排除することによって,法的安定性が担保され,法制度,統治システムへの信頼につながる。
しかし,判旨では,取り消すかどうかという判断に「比較考量」というある意味法外の要素(?)を考慮すべき,されているのだから,そこに至ってしまっては,杓子定規に法的基準をあてはめず,ADR的なものを導入してもいいのではないだろうか。

 

更に問題は,仮に,そういう当事者同士の合意にたどり着いたとして,それを紛争を終局的に解決する決定,判決と同じ効力と位置付ける方法があるかどうか。【合意→行政処分→取り消し訴訟→いやいや,お前,合意したやん!→あれは口約束で,紛争を提起する権利は失われない】なんてことになったらイヤだな。合意→裁判上の和解,的なルートはあるんだろうか。このへんは,民事訴訟法の論点なのかな。超苦手分野(大学でも選択しなかった)。

 

 

時間があれば,調べるかなぁ(と言いつつ,多分調べないパターン)。

ケースワークでの「訪問」についての持論

2012年度から2015年度までの3年間、ケースワーカー生活保護給付業務)を経験した。

 

あまたの論点や思うところはあるが、今回は、CWの中心業務である「訪問」を効率的、効果的に行うやり方について、持論を書いておきたい。

 

3年目に、自分自身が課したルールというか、考え方がある。
それは

「訪問は基本的に短くして3分を目標とする」ということだ。

 

もともと、自分は、仕事を効率的に進められておらず、残業も多かった。
記録を書くのも遅かったし、訪問率も高くはなかった。
それを打開するための方策が、上記の「訪問は3分」だった。

一言で言うと「訪問は3分」なんだが、ちょっと言葉として乱暴なので、細かく意図を書いておく。

 

 

そもそも、この目標は、1・2年目のときの失敗、反省が元になっているので、そこから書くことにしよう。

1・2年目は訪問件数が増やせずに、残業も多く苦しんでいた。
その原因の一つとして、知識不足や、冗長な記録を書いていたことなどがあるが、1件あたりの訪問時間が長かったことも大きな要因だった。
特に課題もないCケースの訪問でも、30分くらいかかることも少なくなかった。

なぜ長くなっていたかといえば、それは「訪問が短かったら失礼」とか「話の切り方がわからない」と思っていたからだ。初めて訪問する世帯や、なかなか会えていない世帯は、特に長くなる傾向にあった。いつ終わるとも分からない世間話に延々付き合うことも多かった。

しかし、これは悪循環を生んだ。

訪問が長い→件数が稼げない→なかなか会えてない世帯が増える→その世帯の訪問時間が長くなる。

最も悪かったのが、スキマ時間の訪問ができなかったことだ。
例えば、4時には帰りのバスに乗りたいが、あと10分ある、というとき。そういうスキマ時間も、「10分では訪問は終わらないな」と思って、訪問できてなかった。

こういうやり方を、3年目からやめた。

まず、訪問を短くしようと決めた。具体的には3分を目標とした。
意図せず長い訪問とならないよう「長い時間は話せないですが、近くに来たので顔を見に来ました!」とか、「4時から別の人のアポがあるので(4時のバスに乗らないといけないので)、2、3分しか話せないんですけど、まだお顔を見れてなかったので、とりあえずお会いしたいと思ってきました!」と先に言うようにした。

 

短い訪問だと、相手に失礼では?
→また、会いに行けばいい。そういう風に考えを切り替えた。実際、「短い時間でも、会おうとしてくれる」という印象を向こうに持ってもらえれば、失礼にはならない。長い訪問が数少ないより、短い訪問が数多いほうが、信頼関係はつくれる。そして、そうやって顔を見せる習慣をつくっていれば、その次行くときにも、「あんまり会ってないから、すぐに帰るのは失礼かな」と思わなくて済む。

 

2、3分で、確認事項すべて聞けないのでは?
→それでもいい。なんなら、「さっき聞き損ねたんですけど」とあとから電話で聞いたっていい。「訪問で聞くべきことを整理できてないなぁ」と思って訪問しない、というのが一番ダメ。不完全でもいいから、とにかく訪問する。例えば,親族との交流が活発で問題もない、ってことが分かっていれば、毎回その話はしなくてもいいし。

 

一回一回の訪問のハードルを上げすぎないことで、記録を書くのも楽になる。こういう訪問であれば、訪問したその日に速攻で記録が書ける。

 

ただし、もちろん、なんでもかんでも3分にしていい訳ではない。
むしろ、こだわるところにはこだわる。

その時間を捻出するために、メリハリをつけることが重要。
例えば、福祉業種の人たちでのカンファレンスも積極的に顔を出す。
呼ばれたら行く、にとどまらず、資料をつくって臨んだこともある。
(全てではないが)手続きのために「〇課に行ってきて下さい」だけではなく、そこまで同行して担当者に引き継ぐ、という一手間もときにはかける。

公共サービスのアウトシーシングについて 雑感

 

先日、水道民営化について「読書会」で議論する機会があった。
本自体は未読だが、下記2冊の本について報告があり、要約を聞くことができた。

水道の民営化・広域化を考える [改訂版]

水道の民営化・広域化を考える [改訂版]

 
日本が売られる (幻冬舎新書)

日本が売られる (幻冬舎新書)

 

 

これを機に、思うところを備忘的に書いておきたい。

 

1.よくある批判―アウトソーシングで公共サービスのクオリティが下がる?

公共サービスのアウトシーシング(民営化や委託等)については数多の論点があるが、反対派の側からは、アウトシーシングによってサービスのクオリティが下がるという批判はやはり根強い。

 

クオリティが下がる原因としては色々あるのだろうが、

例えば

①利益重視の為のコストカットや、

②ノウハウが公共セクションに蓄積されずマネジメントが機能しないことから業者への丸投げが常態化する、といったものなどが挙げられる。

 

①としては、学校給食事業の民営化によって、安い食材を安易に使ったり、手抜きをしたりしてまともな給食が供給されなくなる、といった批判が代表的だろう(組合にありがちな意見)。

②としては、施設管理の問題があるだろうか。公共施設の指定管理が当たり前になって久しいが、丸投げの実体を問題視する意見を時折耳にする。

 

2.民間だとクオリティは本当に下がるのか?
だが、こういう話題の時に、いつも「上手くいっているアウトソーシングもあるのではないか」、「民間で上手くやっている領域もある」という疑問が湧く。

 

例えば①の問題。

公共工事は基本的にアウトソーシングだ。発注者は仕様を定めて発注するが、実際に施工するのは当然、建設会社や土木業者だ。公務員自身が鉄骨を組んだり、コンクリートを固めたりすることは無い。では、そういう工事で業者の手抜きやピンハネが横行しているのかというと、そうではない。門外漢なので実務はあまり知らないのだが、仕様書や監督、検査の仕組み、入札制度など色々な手法で、適切なクオリティの維持が図られているはずだ。

また②の問題。当然だが、あまたある建物のうち、そもそも大多数は民間のもので、公共施設なんて僅かだ。だが、そういった公共施設以外の建物の管理自体が不適切かというと、そうではないだろう。例えば、デパートの建物管理が、区役所のそれに比べて劣っているかといえば、そうではない(ユニバーサルデザインの配慮辺りで温度差はあるかもしれないが)。また、例えば、JRや飛行機などの現場は言うまでもなく民間だが、監督官庁である国交省のマネジメントが著しく機能不全を起こしている、という批判は見たことが無い。

 

もちろん、公共工事にしろ、公共交通にしろ、残念ながら時折不正事案が発生する。しかし、素朴に「民間だから不正が起きる」と捉えることは誤りだろう。悲しいかな、公務員だって不正に手を染めることはある。

 

3.何をやるか(政策判断)/どうやるか(経営判断
ゆえに、水道民営化についても、こう考える余地は無いだろうか、とそのとき問題提起した。

 

例えば国土交通省の監督でJRが機能しているように、事業者を適切に規制できる個別の制度や枠組みが敷かれていれば、水道事業の民間運用も不可能ではないのではないか、と。

 

この発想は、今井照氏の『地方自治講義』の影響もある。
彼は、「公権力の行使」といった大ぶりで形式的な議論に終始しているうちになし崩し的にアウトソーシングが既成事実化し、住民の権利が侵害されてしまうのは問題だ、個別の法規制を検討すべき、という趣旨のことを述べていた。

地方自治講義 (ちくま新書 1238)

地方自治講義 (ちくま新書 1238)

 

 

ただ、そこでMさんから、国鉄民営化の際、JRは不採算路線を切り捨てたが、それは国交省には止められなかった」という指摘を受けた。

 

なるほど、「どうやるか」ということについては個別の規制が可能だが、「何をやるか」ということは規制が困難なのかもしれない。そもそも「規制」という言葉がなじまないか。

(↑ここを書き留めておきたかったので、ブログを書いた)

 

水道民営化についての反対意見の一つに、採算が取れない過疎地の水道供給が切り捨てられる、という懸念がある。さすがに、生存権保障との兼ね合いから明確な切り捨てにはならないとは信じたいが、不採算エリアについて手薄になる懸念はある。

 

公共交通は、市民のニーズ的にも「あった方がいい」が、究極的に必要不可欠ではないからナショナルミニマムとは言い難いかもしれない。事実、交通網の整備は地域によって様々だ。また、時代の移り変わりによって、「以前は地下鉄が必要不可欠だったが、産業や人口の変化でバスの方が望ましくなった」という具合に、望ましい交通サービスも変わりうるだろう。

 

そういえば、木下斉氏は、下記の本の中で、福岡市の交通の要が西鉄バスという民間事業者によって成り立っていることについて肯定的に書いていた。これが公共事業なら、合意形成が難しく無理だったところ、民間だからこそ、鉄道からの撤退という「経営判断」が可能だったと。単に撤退したという部分だけを見るとサービスの低下だと思えるが、それが、他サービス(バスとか不動産とかまちづくりとか)の合理化とセットになっていて、全体としての適正化を果たしたのであれば、たしかに肯定的に捉えられるかもしれない。(木下氏は、他方で地下鉄は市営だということについて、どう考えているのだろうか)。 

福岡市が地方最強の都市になった理由

福岡市が地方最強の都市になった理由

 

 

他方、水道は、ナショナルミニマムの最たるもの。撤退は許されない領域だろう。

※合理化、適正化という言葉が使われるかもしれないが、それは方便だろう。生活保護事業での「適正化」という言葉が使われたとき、その意味するところは基本的に、支出抑制、不正受給対策だった。捕捉率の低さや漏給が問題視されることはない。

 

結論としては有体な言葉に落ち着いてしまったが「採算が取れなくても必要」という公共サービスは、根本的に民営化になじまない、ということかもしれない。

そもそも、水道事業自体が究極的に「公共サービス」であり、その在り方の決定が「経営判断」である以上に「政策判断」という側面を持つのであれば、そこには民主的正当性やそれを担保するためのプロセスが必要だろう(最適解だけではなく納得解も必要な領域)。

 

4.その他

あれ・・・?
でも、公共工事の委託は「何をやるか」を行政側が決めた上で、実際の施工を委託すること仕組みだが、そういう枠組みなら水道もアリなのか・・・?
ここまで書いてやはりまた混乱してきた。

 

一口にアウトソーシングと言っても、様々な手法があるし、やはり、その選択の仕方が問題なのだろうか・・・?

指定管理やら、PFIやら、コンセッションやら、色々な手法をきちんと勉強せねばなぁ・・・。

 

ただ、少なくとも、コンセッション方式で、所有権は行政が持ったままということ自体が、果たしてマネジメントやガバナンスとして有効なのか、という点については甚だ疑問。

 

それから、上記の検討は全て、必要条件というか、消極的な要件というか、「アウトソーシングをして問題が無いか」という観点の検討に留まる。
実際にアウトソーシングをするのであれば、「アウトソーシングをした方が良い」という観点も必要だろうな。

 

なお、ここで「アウトソーシングをした方が人件費は安くなる」というコストの論理を持ち出すことには自分は否定的だ。それは、労働ダンピングや公務員バッシングにも繋がる。

 

ここでは詳論しないが、労務管理の問題もある。

いわゆる偽装請負とかそういう論点。

よく行政は「タテワリ」を批判されるが、アウトソーシングだと「ソトダシ」になる。

そういう状況で、情報共有や協働がスムーズに図るにはどうするべきか、という論点もあるだろう。

 

長々書いてきたくせに、結局何もまとまらなかった。
それだけ、アウトソーシングの問題は難しい。

エビデンスとかAIとかについての雑感

Twitterで興味深いというか、共感する呟きを発見したので、それに関連する私見を簡単に書いておこう。


もっとも、今から書くことの大部分は、既に別の匿名ブログやFacebookにも書いたことがあるから、ただの再整理。

 

さて、まず、その呟きを貼っておく。
元は連ツイで、改行等、多少編集を入れています。また、強調はブログ主。

おおくぼやまと@霞ヶ関 on Twitter: "日曜討論録画視聴なう 統計は本腰入れて議論したほうがいいよなぁ 「データに基づく政策立案」を中途半端に実装してしまうのがほんと危険で、 本気でやるなら例えば「俺の地元に道路引いてくれ」は封印 中途半端にEvidence Basedを標榜すると、 その道路のために数字作るという作業が発生しうる(続"

日曜討論録画視聴なう

統計は本腰入れて議論したほうがいいよなぁ

「データに基づく政策立案」を中途半端に実装してしまうのがほんと危険で、本気でやるなら例えば「俺の地元に道路引いてくれ」は封印

中途半端にEvidence Basedを標榜すると、その道路のために数字作るという作業が発生しうる一方でその世界観であっても「こういう数値的な効果があるので俺の地元に道路引いてくれ」はOKというか、むしろ推奨されるかもしれない。

すると、その数字を誰が作るのか、という話になってきて、数字を提示できる力のある自治体・議員が力を持つ、という世界になりえる。キャパシティとか人材の問題とかがあるので、じゃあ行政で統一的にデータ作って、それ見て考えましょう、というのが一つの解だとしてそこに入ってくる政治的な力学をどう考えるかという論点があって結局は「資源配分は政治プロセス」という側面もあるので、究極的にはそこがポイントだと思います

つまり、統計重視とかEvidence Basedを徹底すればするほど、行政は単なるアルゴリズムというか、数字を入力したら出力を返す装置になり(陳情は意味なし)政治は、出力は操作できず、アルゴのパラメータを操作するプログラマーになる

そういう根幹の世界観・政治観を問うべき問題ではなかろうか

ただ、一口に「出力」と言ったものの、実際には、政策の中身はいろいろ論点があってそこを考える人がいないといけないので、いずれにせよ仕事からは逃れられなさそう

例えばBIは、そこも無くしていくアイデアの一つみたいな話も国会でやらないかなぁ

 

鋭い指摘。凄いなー、この人。議論したら盛り上がりそう。

 

このブログの他記事を読んでくれている人であればもうお馴染みかもしれないが、納得解/最適解、言い換えれば合意形成/専門知とでも言えるが、そういう2つの視点がともに必要だ、というのがブログ主の持論だ。

 

最近、エビデンスに基づく政治とか、AIによる最適化とかが「ブーム」であるが、これらはあくまで「最適解」や「専門知」の領域のテクノロジーであって、これらを過信することで、政治における納得解や合意形成という側面がないがしろにされている危惧がある。先ほどの連ツイも、同じ問題意識を共有しているものと言えるのではないだろうか。

 

エビデンスやAIなどは、「声の大きな人」を退場させてくれるとは限らない。
むしろ、扱いを間違えれば「声の大きな人」のスピーカーにすらなり得る。

 

何度も色んなところで書いてきたが、AI自身は「目的」の設定が出来ない。それを決められるのは人間や社会でしかない。また、AIはプロセスがブラックボックス化されてしまう、ということも、もっと認識されてしかるべきだ。AIは「説明責任」と原理的に相容れない部分がある。


だから、AI等の「技術的」な改善に併せ、意思決定のプロセスなどの「社会的」な改善も必要となる。

 

もっとも、AIは定型的な「判断」にも対応できるようなので、対応可能な領域は我々が思っているよりも大きいのかもしれないが。
(RPAではできない「判断」がボトルネックになっているが、それを推論型AIで突破せよ、という話↓)


RPAだけでは自動化は進まない--現場の意思決定の自動化こそが業務改善成功の鍵 - ZDNet Japan

 

余談

ちょっと話は違うが、以前AI研修で、「AIで完璧を目指すのではなく、人力と組み合わせて対応するべき」という趣旨の話を聞いたことがあって、非常に印象的だった。そのときに紹介してもらったのが、このパン屋の事例。備忘として書き留めておく。

 

「すごすぎる」――地方のパン屋が“AIレジ”で超絶進化 足かけ10年、たった20人の開発会社の苦労の物語 (3/5) - ITmedia NEWS


「何回かに1回、2つのパンがくっついて認識されてしまうことがあって……。そのときはお店で再撮影して対応してもらっていたが、お客さんからすれば、そのパンは自分が口にするもの。スキャナで読み取れないからといって店員さんに何度も触られたら、いい気分はしないはず。『俺が食べるパンどんだけ触るんや』と」(原さん)

 

とはいえ、お客さんは機械のために、わざわざパンを3センチずつ離して並べてくれたりはしない。「いくら研究を重ねてパン1つ1つの認識精度を高めても、何回に1回かは2つのパンがくっついて認識されてしまうのを避けられなかった」。

  技術者たちは、いかに精度を高めて100%に近付けるかを考えていた。「しかしあるとき、うちの社長が開き直ったんです」と原さんは振り返る。「間違えたらお店の人がデータを修正すればいいじゃないか、と」。  

  人がデータを直す。つまり、スキャナに載せたパンを動かして再撮影するのではなく、誤認識してしまったパンのデータを、店員がPOS端末のタッチパネル上で切り離せばいいということだ。「今どきの若い店員さんはスマートフォンのタッチ操作にも慣れているし、それでいいじゃないかと」。逆転の発想だった。

 

(中略)

近年、完全自動運転車や“無人コンビニ”など、人の仕事をAIによってほぼ100%代替しようとする取り組みに注目が集まっている。だが少なくとも画像認識の分野では「しばらく100%の認識精度は難しいんじゃないかと思う。人間介在型でいいじゃないか、というのがわれわれの考え」という。       原さんはむしろ、高度な機械との共存によって、人がいま以上に活躍できる未来もあるのではないかと考えている。

 「例えば、お店にスタッフが足りなければ、どこか他の地域に住んでいる人がインターネット越しにカウンターに立ち、機械の足りない部分を補いながらお客さんと目を合わせて受け答えしたり……。そんな時代も来るかもしれない」(原さん)

 

AIにしろRTAにしろ、業務を「代替」するものとして理解されているフシがあるが、そうではなくあくまで「補完」するものとして捉えた方が生産的、ということだ。

 

逆に言えば、「代替」はできなくても「補完」ができればメリットがある、という考え方もできる。
「△△の部分は出来ないよね」と技術が対処できないごく一部のイレギュラーの存在を強調して「ムリだよね」と結論付けたがる人には、このパン屋の事例を教えてあげるといいと思う。

 

例えば、自動翻訳は、固有名詞を苦手にしているという。例えば「伊丹(イタミ)空港」をpain(痛み) airport と訳してしまう例があったらしい。こういう問題も、翻訳を使う側が「固有名詞は自動翻訳は苦手」だと理解して、必要な固有名詞を個別に共有しておくなどの工夫ができれば、多少は回避が可能だろう。

アニメ『一休さん』のハラスメント回を批判する

(2/22、ちょっと最後に追記有り)

 

0 前置き 

先日、とある宅飲みで『一休さん』のアニメを観る機会があった。

どうやらYouTubeで期間限定ではあるが公式配信されていたらしい。

(2/15までだったようで、もう観られない)

 

その第28回『つらい修業と鬼の和尚さん』が、美談っぽくまとめられているけど全然美談になりきれていない超胸糞ハラスメント回だったので、ちょっとレビューする。

 

1 話のまとめ

まずは、話を振り返ろう。

 

話は、寺に困っている人たちが詰めかけてくるところから始まる。

彼らが訴えるのは病気や金、仕事探しといった悩みだ。

たしかに「そんなこと寺に言っても」という相談ではある。

一休も「病気なんか治せませんよ~」と言ってる。そりゃそうだ。

ただ、訴える側としては、切実な悩みではある。

そこへ、和尚は「寺の仕事があるから引き取って欲しい」と言い、門を閉める。

 

一休「あの人たちを中へ入れてあげてください。」

和尚「ならん」

一休「でも困っている人を助けるのは僧侶として大事な勤めのはず」

和尚「僧侶の勤め?おぬしそれでも坊主のつもりか。未熟者め」 (喝×3)

 ※以下、「喝」は全て棒で肩を叩く打撃。

 

そんな会話の流れの中で、一休は、自分としては頑張っているつもりだったが、足りないのであれば、倍の修行を申し付けてほしい旨述べる。

それに対し「調子に乗るな、3倍だ」と返す和尚。

 

そこからは修行のターン。

2人1組でやるのが通常の「山作務(やまさむ)」、要は荷運び、を1人で行って来いという。

 

一休は、ここですでに反省している。

「未熟者と言われるのも無理はない。

事情があったにしろ、将軍様の招きに応じて何度となく寺を抜け出していった(とんちで問題を解決してきたこれまでのエピソードのことだと思われる)。そんなとき寺に残った先輩が自分の分まで辛い修行に耐えていた。頑張らなくちゃ。」

 

このツラい山作務をやっと終えたあと(しかも手伝うと言った先輩に対して、一休はこれは自分の仕事と断っている。一休エラい。)、ようやく水を飲んで少し休んでいるところ、「勝手に休むな」と喝

更に風呂炊きを命じられる。(先輩は手伝うと言ったが和尚が禁止)

 

そこでまた

薪にゴミが多い

鐘の音が小さい

・(風呂の準備ができた旨を和尚に伝えに行く際)頭の下げ方が足りない、正座の膝が崩れている

・風呂に入っている間は無駄話は禁止なのだが(それもどうなのよ)、先輩が喋っているのを聞いて(それも湯が熱いと叫んだだけ)、一休に対し監督が足りない

などと理屈をつけて何度も「喝」。

正直、イチャモンとしか思えないレベル。

 

風呂焚きが終わった一休は、背中が「喝」のせいで傷だらけで、風呂に入るのを嫌がっていた。それに対して、「これを塗っておけばいいのだ」と文字通り塩を塗り込む和尚。そのあと、結局風呂に入らされて激痛に苦しむ一休。

f:id:ghost_dog:20190220224419p:image

傷が酷い。

f:id:ghost_dog:20190220224426p:image

そりゃこんな顔なるわ。

 

で、翌朝。和尚は更に修行を課す(先輩は手伝うと言ったがやはり和尚が禁止)。

 

一休の様子を心配した女の子(さよちゃん)は、「和尚は鬼だ」と抗議する。

それに言い放つ和尚。

「儂の言いつけが聞けんものは今すぐこの寺から出ていくがいい」

 

場面代わって、和尚に「どういうつもりだ」と詰め寄る蜷川新右衛門

それに対して和尚。

「儂は同じ試練に耐えてきた儂に出来たことが一休に出来んはずはない。

一休は今さぞや辛く苦しい時であろう。

じゃがそれ以上に辛く苦しい思いをしているのはこの儂自身ですのじゃ。」

で、悟りとは誰にも教えられず自分自身で答えを見つける以外に途は無い云々。

ここで蜷川新右衛門は和尚の言うことに納得したらしい表情。

 

その後、寺の外に行って麦わらを集めてくる修行を言いつけられる一休。

 

やはり一休を手伝おうとする先輩に対して、蜷川新右衛門登場。

「誰も手伝ってはいかん

お前たちが手を貸したことが知れたら一休さんは寺から追い出されてしまうのだぞ」

と今度は先輩に諭す。

 

一休は何とかやっと寺に帰ってくるも、道中で雨が降り出し、濡れてしまう。

 

和尚「なぜ麦わらを濡らしたそれで使い道になるかこの未熟者

門をくぐるための作法にしたがって入れ

それができなくば、中には決して入れん

このままお前を寺から追放する」

(中略)

和尚「このひねくれ者」

一休「ひねくれておりません」

和尚「ひねくれていない証明をしてみせい」

 

ここで和尚の独り言

「儂はお前を立派な僧侶にするために寺に引き取ったのじゃ

毎日の厳しい修行に耐えていけるものこそ悟りの途が開けるのじゃ

少しばかりとんち小坊主の評判が高くなったとはいえ修行をおろそかにしてはならん

むごい仕打ちをするのはお前を憎む気持ちからではないぞ 分かってくれ一休」

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試行錯誤するも門を開けてもらえない一休。とうとう力尽きる。

「和尚様 お願いでございます

ちょっとここを通してくださいまし」

そして崩れ落ちる。


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そこで応える和尚。

「できたぞ一休

やっと素直な気持ちになった それこそ門をくぐりぬけるための作法じゃ

とんちとは世の中の常識をひねったところに生まれる

これに対し悟りは素直な心によって得られるものなんじゃ」

 

一休「素直な気持ちは苦しんで苦しみぬいた中から生まれる

だから私にあんなきつい仕事を言いつけたんですね」

 

蜷川新右衛門御師匠さんは鬼ではなかったという訳だ」

かよちゃん「はい和尚さんはとってもいい人です」

先輩「そうでーす」

蜷川新右衛門「現金なヤツらめ」

 

~終~

 

3 和尚の行為を肯定できない5つの理由

正直、ハラスメント和尚が肯定できないのは当然なんだが、一休自身や、周りの人間たちも素直過ぎて気持ちが悪い。大人がお膳立てしたご都合主義の描写そのもの。

 

ただ、このブログでは新右衛門などは置いておいて、とりあえず和尚に焦点を当て、以下、和尚の行為の許せない点について語っていく。

ポイントは以下の5つだ。

(1)理不尽を呑みこませる努力原理主義

(2)宗教者である和尚が「常識」を肯定

(3)「自分が苦労したから下の世代が同じ苦労をして当然」という価値観

(4)目的は手段を正当化しない

(5)過去のことをもちだして非難

 

順番に語っていこう。

 

(1)理不尽を呑みこませる努力原理主義

例えば

「なぜ麦わらを濡らしたそれで使い道になるかこの未熟者」というセリフ。

単純に「じゃあ、どうすりゃ良かったのよ」としか思えない。

終始、この回の和尚はそんな感じなのだ。

じゃあ、どうすりゃ良かったのよと問われても、和尚は答えなんか用意していないから絶対にそれに答えられない。

理不尽。その一言に尽きる。

 

ツラいことにも耐える力が必要。これは一般論としては分かる。

スポーツとか勉強とか楽器とか仕事とか、ツラいことに耐えてこそ、到達できる成果というものはたしかにある。それに向けた年長者や指導者からの指導も必要だろう。そこで耐えた経験が、他の分野で活きることもあるだろう。

 

しかし、ツラいけど必要なことと、ただツラいだけで不必要なことは違う。

後者はただの理不尽でしかない。

 

例えばダルビッシュはこんな風に言ってる。

ダルビッシュ有(Yu Darvish) on Twitter: "練習は嘘をつかないって言葉があるけど、頭を使って練習しないと普通に嘘つくよ。"

 

ハードル走の為末大も、同じように、努力原理主義についての懐疑的なスタンスを一貫して取っている。

 

自分自身、高校時代、部活の監督に、何度も何度も「考えろ」と言われた。

進学校で閉門が早く、部活の練習時間が短かったということもあり、キツい練習ではあったけど、無意味な練習は無かった。

(その先生は、国体でチームを全国制覇に導いた経験もあるガチで凄い方)

 

要するに、和尚に対して違和感を覚える点は、和尚が課しているのが、不要なこと、理不尽なことであり、それは努力原理主義である、ということだ。

 

(2)宗教者である和尚が「常識」を肯定

「不要なこと」とは言ったが、これに対して、「悟り」のために必要なんだ、人間社会の常識を宗教に持ち込んだって無効だと批判する向きがあるかもしれない。

 

たしかに、人間同士がつくった社会のルールに対して、宗教の超越性はある意味無敵だ。

以前、ウガンダという国の同性愛者のドキュメンタリー映画を観たことがある。

映画『Call Me Kuchu』を日本でも!

 

その国では、キリスト教が同性愛否定の強力な論拠になっていて、「神が同性愛を否定している」という主張に「人権」の論理はあまりにも無力だ、と痛感させられた。

 

そもそも、自分は仏教徒でも何でもない。「悟りって何?」レベルだ。

むしろ、小さい頃は親に連れられて日曜日は教会に行っていた。

だから仏教のことを詳しく語れる立場ではない。

 

しかし、それでも、自分は和尚を批判する。

 

和尚はこう言う。

「とんちとは世の中の常識をひねったところに生まれる

これに対し悟りは素直な心によって得られるものなんじゃ」

 

ここは、和尚が自分がなぜむごい仕打ちをしてきたのかを一休に説明するところで、いわば、和尚の狙いの核心だ。

だが、ここにこそ、問題がギュギュっと凝縮されている。

 

まずハッキリ言う。

不当で理不尽で暴力的で個人の権利を侵害する常識を無批判に受け入れ、考えることを放棄し、常識を変えていくことを諦めることが「素直な心」であり「悟り」であるなら、そんな「素直な心」や「悟り」なんか要らない。

自分には3歳のムスメがいるが、ムスメにもそんな素直な心は身に付けてほしくない。

 

ただ、宗教という超越性を前にして、この反論では反論たり得ないかもしれない。

だから、更に、もう1つ重要な点を付け加えたい。

 

それは、そもそも、「常識」に迎合せず、それにたいして普遍的な「真理」を追究し、 人間存在や世界の意味を問い直していくことこそ、宗教のあり方なのではないか、ということだ。

 

だが、この和尚は「常識」の側に立っている

「常識」に対して「素直」であれ、と言っている。

宗教者として、果たしてそれでいいのか。

 

理不尽な常識を受け入れるということは、処世術としてはあり得るだろう。

ただ、そんなことを宗教者に言ってほしくはない。

あの和尚は、ただの社会適合者でしかないのではないか。

 

和尚が言う「素直な心」は本当に「悟り」の本質なのだろうか。

そうではなく社会適合者が説く処世術にしか過ぎないのではないだろうか。

 

ていうか、上で

「悟り」のために必要なんだ、人間社会の常識を宗教に持ち込んだって無効だと批判する向きがあるかもしれない

って書いたが、そもそも、このアニメって、当然、別に仏教っていう特定の宗教を推すアニメじゃない。このアニメ、冒頭に中央児童福祉審議会推薦と出てくる。ちょっとググったところ、これは旧厚生省内の審議会らしい(現在は廃止)。公的機関が特定の宗教の教義を推薦、ということはないだろう。このアニメは、一休という小坊主が主人公で、寺が舞台ではあるものの、宗教そのものをテーマにしたものではなく、子供の「健全育成」のために、大人が作って見せようとしたものであって、この和尚が発するメッセージは、宗教者ではなく、社会の常識の側からのものだと理解するのがやはり正しい。

 

(3)「自分が苦労したから下の世代が同じ苦労をして当然」という価値観

「儂は同じ試練に耐えてきた儂に出来たことが一休に出来んはずはない」

これは言うまでもないが典型的なパワハラ上司の理屈である。

まさに生存者バイアスに捉われた思考。

生存者バイアスについては、自分も心理学の専門家ではないけど、知らない方は色々とググってみて下さい。

和尚は耐えられたかもしれないが、それを苦に自ら命を絶った者や、仏門を去って身を窶して生きていかねばならなかった者など、いたかもしれない。

 

百歩譲って、その試練が意味あるものであれば良い。

しかし、何の意味もない理不尽なものであったということは、さっき確認した。

 

洗濯機が出始めたときに、洗濯板で洗濯してた世代は「洗濯機は甘え」と批判したというエピソードを聞いたことがある(どこで読んだか覚えていないからソースは不確か)。

 

こういう「自分が苦労したから下の世代が同じ苦労をして当然」という価値観は、マジで滅せばいいと思う。

 

それよりも、まきむぅさんが言うように自分は

「ショートカットの道を作って消えていく人になりたい」。

 

www.e-aidem.com

 

(4)目的は手段を正当化しない

和尚はこう言う。

「一休は今さぞや辛く苦しい時であろう。

じゃがそれ以上に辛く苦しい思いをしているのはこの儂自身ですのじゃ。

むごい仕打ちをするのはお前を憎む気持ちからではないぞ 分かってくれ一休」

 

これについては、先日、明石市長のパワハラ事件についてFacebookで見かけたこの言葉を投げかけたい。

それは、「目的は手段を正当化しない」である。

この言葉は、友達の友達の友達、要するにアカの他人の言葉なんだが、とてもストレートで説得的で良い言葉だなぁ、と思った。

 

明石市長は「市民の為に汗をかくのが役所の仕事」という目的意識を言い、それ自体は正論で正しかったのかもしれない。ただ、職員へのパワハラという手段はやはりまずかった。いわば、情状酌量の余地はあるのかもしれないが、それでも、その目的(市民の為)は、手段(パワハラ)を正当化はしない。

 

和尚も全く一緒。

「一休を立派に育てたい」という和尚の意図、目的は間違っていないのかもしれない。しかし、それでも、理不尽を強要することは正当化されない。

 

いや、そもそも、和尚は「立派に育つこと=理不尽を我慢すること」と捉えていると言えるだろうか。その目的設定自体が誤っていることは、上の努力原理主義の批判で確認した。

 

(5)過去のことをもちだして非難

冒頭を思い出してほしい。

一休は、何か悪いことしたのか?

別に自分は仏教のことに詳しいわけではないが、

「でも困っている人を助けるのは僧侶として大事な勤めのはず」

ってそんなに間違ったこと言っているか?

正直、ここでキレる和尚は、一休の正論にまともに言い返せなかった小物にしか見えない

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そのときの顔がこれ↑である。

 

困っている人を放置して「修行に励んで悟りに至ったオレすごい」ってされてもサムいだけだと思うが、どうでしょう、皆さん。

 

結局、和尚がこの会で厳しい指導を始めたのに、これというキッカケがあった訳ではない。

彼は、一休の、これまでの振る舞いを叱責したのだ。

たださぁ・・・。

「前から思ってたんだけど」、「だいたいいつもアンタは」みたいに、<過去のことをもちだして非難する>って、やっちゃいけない叱り方として有名だよね。

 

自分は3歳の子供の親だが、子供にはそういう叱り方はしないように気を付けているつもりだ。

また、自分が今後部下をもつことがあれば、気を付けようと思っている。

 

さて一休だが、もし一休が調子に乗った、ナメた言動をやって、それを受けてあの指導ならまだしも、でも、そうじゃないんだよ、今回の一休は。

 

繰り返すけど、一休は「でも困っている人を助けるのは僧侶として大事な勤めのはず」って言っただけ。それに対して、一休は「喝」を入れられ背中をボロボロにされて、あまつさえ、そこに塩を塗られたんだよ。

これが理不尽でなくて何なんだと。

 

 

4 「嫌ならやめろ」を本気にしなくてもよかった時代

※ここからは、和尚のハラスメント批判とは直接関係が無いし、これまでより一層、抽象的と言うか小難しいので、それでも良いという方はお読みください。

 

(1)違和感の所在

和尚は「儂の言いつけが聞けんものは今すぐこの寺から出ていくがいい」と言った。

このセリフだけは、「和尚はヒドイ」で片づけられなかったので、6つ目の理由として書くのではなく、独立させた。

 

最初は、直感的に「そんなこと言うなんてヒドイ」とまず思った。「幼い子供が、出て行って生きていけるはずなんて無いのに」と。

 

次に、冷静になって考えた。

和尚も、一休も、このアニメを当時見ていた視聴者も、「一休が追い出される」とは本気で思っていないよな、この和尚の発言に目くじら立てて反論しなくてもいいかな、と。

 

しかし、それでもなお、違和感が残っていたから、その違和感の正体をずっと考え続けた。そして、一応、暫定的な結論にたどり着いた。

 

その結論とは、(幸いにも?)当時の視聴者が生きたのは「嫌ならやめろ」というメッセージを本気にしなくてもよかった時代だったが、今は違うということだ。現代の我々が置かれた文脈、価値観では「嫌ならやめろ」というメッセージは、かつてとは違った鋭さ、重みがあるのだ。

 

きちんとした説明になっているかどうかは疑問があるが、以下、少し語りたい。

 

(2)ソリッド・モダニティからリキッド・モダニティへ

かつての右肩上がりの成長の時代ならば、新入社員は、会社や先輩からのシゴキがツラかったとしても、それに耐えさえすれば、その後の出世や、年功序列型の給与制度に従った昇給を期待できた。そもそも、新入社員を育成するのは、企業自身の役割だった。そのシゴキは、一人前の社員を育成するためのものであったがゆえに、搾取には一定の限界があったはずだ。搾り取り過ぎては、一人前になるまでに枯渇してしまうからだ。何より、労働者は(多少の不自由はあるとはいえ)ライフコースを思い描き、人生の計画を建てることができた。

 

しかし、そんな時代はとうに終わりを告げた。大卒で即戦力が求められる時代。企業は、新入社員育成にコストをかけるのをとうに放棄した。定期昇給どころか、終身雇用の保証もいつしか特権と化した。派遣やパート、アルバイトといった非正規はなし崩し的に拡大され、ついには外国人単純労働者の受入にも手を付けようとしている。そこで非正規労働者に対して実行される搾取には持続可能性を考慮に入れる必要が無いぶん、限界が無い。搾り取れるだけ搾り取り、枯れたらポイだ。人は容易に使い捨てられる。かたや、正規雇用の地位を得られた者も、そこに安住ばかりはしていられない。その地位にしがみつくために、無理や理不尽を甘んじて受け入れざるを得ないケースも往々にしてあるだろう。彼らも搾取される存在である。

※10年くらい前に読んだこの小説の登場人物の一人は、念願の「正社員」の地位にすがりつくために死に物狂いで働き、過労死寸前にまで追い込まれていた。 七十歳死亡法案、可決 (幻冬舎文庫)

 

さんざん言われてきたことだが、労働者は、正規と非正規で二極化されている。 

ここ最近は「組織」に縛られずに自由市場で自身の付加価値を「生産」に結び付けられる第三局として「社会適合者」の台頭が見られるが、誰もが彼らのようにはなれないだろう。「自由」になるこということは、残念ながら失敗のリスクを個人で引き受けることと表裏一体だ。誰もが、やめたいときにやめられる訳ではない。というか、やめたあとの保証が無い。

t.co

 

ここまでの分析は、バウマンという社会学者の著作にかなり影響を受けている。

例えば、彼は『コミュニティ』の中で、古い近代(ソリッド・モダニティ)から我々が生きる現代(リキッド・モダニティ)への移行を指して、「かつて存在した固い岩盤の迷路は消失し、現在は、道路もなく、すぐさま道標も消え去る砂漠がメタファーとなる。」という趣旨のことを述べた。 

コミュニティ 安全と自由の戦場

コミュニティ 安全と自由の戦場

 

  何も仕事や組織に関する話ばかりではない。例えば「お見合い」は、ドラマ作品などでは未婚者に対してのお節介な年長者からのプレッシャーの代名詞として描かれるが「自由恋愛市場」で自身の付加価値を表現できないオクテの恋愛下手にとっては一方では救いになっていたことだろう。

 

要するにだ。

かつては「何か大きなもの」は抑圧の装置としての側面を持っていたとはいえ、それと同時に、剥き出しの「個人」を守ってくれていたということだ。かたや今は、そういった「何か大きなもの」の機能は衰退、変容してしまった。

 

(3)改めて「一休さん」について

一休さんの寺も、かつての終身雇用の企業も、究極的には、そこに属する人間を(多少の抑圧はあるとはいえ)一定程度守ってくれる「何か大きなもの」としての存在だった。「嫌ならやめろ」「嫌なら出ていけ」というのは、言う側にとっても、言われる側にとっても、今ほど本気の恫喝にはなりえなかったはずだ。何しろ、この時のアニメと同じく、本当にやめるとはどちらも思っていないのだから。それは、いわば、「売り言葉に買い言葉」というレベルに留まるコミュニケーションとして了解されるもので、当時の視聴者も、そう受け取ったことだろう。

 

しかし、今は事情が違う。

 

 ー非正規にとっては「嫌ならやめろ」と言われることは死活問題だ。露骨な派遣切りは減ったのかもしれないが、いまだ過去の問題ではない。「嫌ならやめろ」と言われることすらなく、首を切られるなんてこともあるだろう。

  ーかたや「嫌ならやめろ」という恫喝に脅えて、容赦のない搾取に甘んじる正社員がいる。

 

 -もっと言えば、自身が「社会適合者」であるという自覚が無いままで、「嫌ならやめればいいのに」といけしゃあしゃあと言う輩がSNSなどで幅を利かせはじめていて、無慈悲な格差社会の新たな側面が見え隠れしている。嫌ならやめられる社会、いったんライフコースを外れても違ったかたちで復帰が容易な社会になってほしいし、そうあるべきだと思うが、それが出来る人ばかりではないし、ライフコースをいったん外れた人間にとって這い上がることが容易な社会ではまだまだない。

 

という訳で、複雑な気持ちの正体は、ジェネレーションギャップによる「戸惑い」だったのだろうと思う。「嫌ならやめろ」という言葉が「売り言葉に買い言葉」というレベルに留まるコミュニケーションとして了解されていた時代、それ自体への戸惑い。

 

ここで語ってきたことは、和尚や、和尚の口を借りて視聴者(子ども)にメッセージを届けようとした製作者の責任ではないし、彼らへの批判ではない。この砂漠の時代に、過ぎた時代を想って、少し悲しく、そしてほんのちょっぴり羨ましく思ってしまったのかもしれない。

 

(4)「嫌ならやめられる」こと自体は良いことである・・・が・・・

ここまで読んだ方は、ブログ主がノスタルジックな懐古趣味に走り過ぎていると思われたかもしれないが、それは本意ではない。「ソリッド・モダニティ」の時代は、「何か大きなもの」が剥き出しの個人を守ってくれたのかもしれないが、それらはたしかに同時に個人を抑圧する側面があっただろうし、それを過小評価するつもりはない。

 

端的に言って、「嫌ならやめられる」こと自体は良いことだと思っている。

ただし、やめたあとの社会のバックアップがまだ足りていない。

 

具体的に言えば、転職のハードルは昔に比べれば下がったのだろうし、人口減で人手不足の今、ブラック企業が前よりも淘汰されやすくなったのかもしれない。だが、十分ではない。今はまだ、メンバーシップ型社会からジョブ型社会への移行の過渡期だ。

日本がメンバーシップ型社会であるという分析は、この『働く女子の運命』が見事だった。

*1" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51H3lH2BfaL._SL160_.jpg" alt="働く女子の運命 *2" />

働く女子の運命 *3

 

まだまだ、日本型雇用システムの慣習が持つ力は強力だし、それを前提にしてあらゆるシステムは回っている。転職支援等の公的なバックアップも足りていない。

(下記の本では、大学というシステムが日本型雇用システムという相対的に大きなシステムの影響を多大に受けていることが分析されていた)

「大学改革」という病――学問の自由・財政基盤・競争主義から検証する

「大学改革」という病――学問の自由・財政基盤・競争主義から検証する

 

雇用問題だけではない。例えば、離婚したいと思っているが、養育費をもらえる保証が無いから、望まぬ結婚生活を続けている女性だっているかもしれない。もし、社会が、シングルマザーになっても困らないような仕組み(養育費を確実に集める仕組みとか)を作れば、彼女たちだって、「嫌ならやめられる」。

ベーシックインカムが実現すれば、離婚率が増えると思う。それは、デメリットなんかではなく、望まぬ結婚生活を強いられている女性を救うのであれば、良いことなのではないか、と下記の本では述べられていた)

AI時代の新・ベーシックインカム論 (光文社新書)

AI時代の新・ベーシックインカム論 (光文社新書)

 

ブログの本筋から離れるためここまでにしておくが、少なくとも「嫌ならやめればいいじゃん」と呑気に言える状況ではまだ無い、と思っている。本当に「嫌ならやめられる」社会になるように、これから更に社会をアップデートさせていかないといけない。

 

 

(5)(追記)バウマンのメタファーをアレンジ
自分は、①切り捨てられる者、②切り捨てを怖れてしがみつく者、③そういったことからそもそも自由な者。現在の状況は大きくこの3極に分かれるのでは、という趣旨のことを書いた。


これをバウマンのメタファーをアレンジして表現するなら、①砂漠で放浪する者、②ようやく見つけた残り少ない固い岩盤の迷路にしがみつく者、そして、③快適なオアシスを作り、迷路にしがみつく者を嗤う社会適合者、とでもなろうか。この③を拡張し、オアシスをコモン的なものとして捉え直し、社会適合者=強者以外も広く恩恵に預かれるようなオルタナティブがつくれれば望ましい。

 

昔、広井良典が『コミュニティを問い直す』で、日本のコミュニティは農村型であり、ヨーロッパのような「都市型コミュニティ」が育っていないと述べていたが、それにも通じる話かもしれない。

*1:文春新書

*2:文春新書

*3:文春新書

SOGIの話の続きとか

0 前回のブログへ寄せられたコメント

 前回のブログに対して,知人(大学の後輩)がコメントをくれました。

 

ghost-dog.hatenablog.com

ある問題を「社会モデル」によって乗り越えるという点で障害者運動とウーメンリブが結びついたように、LGBTをめぐる議論もさまざまな運動と結びつく可能性が提示されているように読みました。さらにその先にSOGI――あらゆる人々をも巻き込むイメージは、自分も当事者研究についてその可能性を考えています。
上野千鶴子構築主義とは何か』を読み返したくなりました。 

 それについて返信をしようと思っていたら,どんどん長くなってきたので,独立して記事に起こすことにしました。後半は,返信ではなく,単に関連して思いついたこと(前から思っていたこと)を追加していっただけですが。

 

1 他の差別事象との比較について

他の差別事象との比較というのはずっと自分も考えていました。

例えば、黒人差別運動における“Black Is Beautiful”とか、水平社宣言の「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」とか、そういう被差別者「としての」解放運動が歴史の中で大きな役割を果たしてきた一方で、人種や出自による差異の本質性を否定し、被差別カテゴリー「からの」解放を目指す向きがあります。

※「としての」と「からの」の区別は、角岡伸彦氏の『ふしぎな部落問題』の影響を受けています。この本、かなりオススメです。

ふしぎな部落問題 (ちくま新書)

ふしぎな部落問題 (ちくま新書)

 

 

「としての」と「からの」という言葉を使って言い直すとすれば、性的マイノリティが連帯のためにLGBTという言葉を獲得して性的マイノリティ「としての」解放を目指しはじめたが、今は、被差別カテゴリー「からの」解放(究極的にはカミングアウトが不要になる社会を目指す)も同時に目指していくという過渡期にある、とでも説明できるでしょうか。

 

当事者研究のことは詳しくは全然知りませんが、まさしく典型的には「としての」の領域と言えるのかもしれません。ただ、差別に関わるあらゆるシステムが人為的、社会的なものであるという視点からすれば、当事者研究も同じく「からの」というアプローチが可能だし、有効なのでしょう。

上野千鶴子構築主義とは何か』は未読。機会があれば。

 

2 歴史や文化の継承

これまでは性的マイノリティの差別、人種差別、障害者差別、部落差別の共通点について言及してきました。それは要するに、短期的な「としての」解放と、長期的な「からの」解の両方が必要だ、ということに尽きるのかもしれません。

ただし、「からの」差別を目指すにあたり、その被差別カテゴリーで育まれた歴史や文化は残るし、残さねばならない、という課題があります。歴史や文化の継承は、さきほど紹介した角岡信彦さんも述べているし、元のブログで述べたマサキチトセさんも言及していました。

差別はあってはならないが、差別の歴史や文化はなかったことにしてはいけない。この両立は、難しいですね・・・。

 

3 承認と再配分のジレンマ

自分が問題関心を持って考えてきたテーマは、要するに、どうやって差別を解消するか(差別が解消されたとはどういうことか)というテーマだと言えると思います。

実はこの問題、ナンシーフレイザーという政治学者が90年代に「承認と再配分のジレンマ」として提起した問題ともろに符合するということに最近気づきました。

これについては、フレイザーの著作そのものを読めていないのですが、北大の政治学者の方がまとめた論文があって、とても参考になるので、興味がある方は是非読んでみて下さい。

https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/62951/1/lawreview_vol67no3_05.pdf

 

4 性的マイノリティや被差別部落の特殊性

角岡信彦氏は、部落差別が他と異なる点についてこう述べています。

下記は、以前角岡氏の講演を聞いたときの覚え書きです。

 

部落問題は「ふしぎ」である。

どういうことか。人には色々な属性がある。年齢、性別、血液型、出身地等。その中で、女という属性、B型という属性、同性愛者という属性などは「あってはならない」ものではない。そういう属性自体がなくなるべきというものではない。それに対して、「部落民」という属性は、それ自体が差別であり、「部落民」という属性は「あってはならない」ものであるはずだ。

女性や、性的少数者、障害者等、色々な差別を受ける人はいるが、たとえば女性は「男性になる」ことを目指している訳ではないし、障害者は「健常者になる」ことを目指している訳ではない。しかし、「被差別部落民であること」については、これ自体をなくさなければいけない。「部落は、差別されるから部落である。」一方、女性は、差別されるから女性ではない。障害者は、差別されるから障害者ではない。

差別を「媒介」にして存在しているのが、被差別部落という存在。ここが、他の差別問題と異なり、ややこしく、難しく、不思議なところ。

つまり、カテゴリーを抹消すること、上の整理で言えば「からの」解放の重要性が際立つことになります。

同じようなことは、『ふしぎな部落問題』にも書いてあります。

※本では、実際の解放運動の歴史は「としての」解放を目指すものであったこと、その功罪、これからのあり方等について述べてあります。

 

他方、性的マイノリティが闘ってきた差別は「いないことにされる」という圧力です。だからこそ、「自分はここにいる」と名乗るため、そして、団結するため、当事者たちは「LGBT」というカテゴリーを作りだすに至ったのだと思います。

 

※正確に言うと、当事者たちが形成してきたのは、「カテゴリー」ではなく「アイデンティティ」だったのだと思います。

まきむぅさんは、自分で選び取った名前は「アイデンティティ」となり、他人につけられた名前は「カテゴリ」となります。と『百合のリアル』の中で述べています。

百合のリアル (星海社新書)

百合のリアル (星海社新書)

 

 

 部落差別は、何の違いも全く無いはずなのに、「差異」を設けられたもの。

他方、性的マイノリティの差別は、一人一人違うのに、「差異」を無視して二分法に押しこめたもの。

 

このように、性的マイノリティの差別と、被差別部落の差別には、背景の大きな違いがあると思います。共通点も多くあるとはいえ、こういう違いについても心に留めておかねばならないだろうと思います。

 

5 「当事者/非当事者」を超えたい

こういう話の際にいつも思い浮かぶのが、子どもを産んでいないとか、結婚をしていないとかで、肩身が狭い思いをさせられている人のことです。中には、身体的な事情などで、望みはするものの子どもを産めなかった人もいれば、最初から産もうと思わなかった人もいます。色々です。

 

親たちと、そういう人たちとの間に、「育児の当事者/育児の非当事者」という悲しむべき分断が生じているのが現状です。

 

本当は、子どもは、親だけではなく「社会」で育てられるべきだと強く思っています。

そうである以上、「子どもがいない人」だって、「社会」の一員として、育児に関わったり、物申したりする資格はあるし、どんどん関わって欲しいと思います。

それなのに「子どもがいない人」が、政治化とかの「子供を産まない人が悪い」みたいな心無い言動によって不当に肩身を狭くさせられてしまうことで、育児や子どもから完全に遠ざかってしまう懸念があります。他方、「子どもがいる人」の方も、このままだと「社会」に開かれずに「子どもがいる人」同士だけの閉じたコミュニティで完結してしまいます。

 

子どもがいない人、特に女性の生きづらさは、恐らく想像以上です。近しい同僚にそういう方がいて、気付かされました。育児の都合で急な欠勤や定時帰りをする自分の皺寄せが、その同僚に行っていました。正直、良い気持ちはしていなかったと思います。

 

育児をしてようがしていまいが、どんな人も、好きなときに十分に休んだり、残業をしないで定時に帰ったりできるようになってほしい。

 

こういうことも、ここまで話してきたテーマと関連する話だろうと思います。