幽霊犬の備忘録

某市の職員。政治学を齧りジェンダーや経済思想に関心。

『負債論』第10章 中世(600―1450年)要約

・要約が4500字超え。訳者解説で「後半のおもしろさは、ますますその細部にある」と書いてあるだけあって、どの部分もとても興味深く、なかなか削り切らなかった。


・終盤の「シンボロン」を巡る部分以降は、何度読んでも文意というか流れが読み取れていない気がしている。いずれゼミをして、確認・補強できればうれしい。


・市場や商業と、資本主義を区別して論じている点がとても興味深かった。キリスト教では、市場そのものが敵視された。たしかに、子どもの頃に読んだイエス・キリストの伝記マンガで、イエスが教会で商売しているのを見つけて厳しく糾弾したという場面があった。「わたしの父の家を商売の家としてはならない」ということ。子どもながらに「商人はそんなに悪いことをしているんだろうか」と疑問に思ったのを覚えている。他方、イスラムや中国儒教は市場には肯定的だったが、資本が利潤を産む資本主義には否定的だったという。仏教に至っては、むしろ金融資本主義に接近したのだと書かれていて、正直以外だった。


・また、イスラムにおける市場観がとても印象的だった。彼らにとって、市場や分業は、相互扶助の拡張だったとのこと。グレーバーは『負債論』の随所で経済的な利益獲得を目指す利己的・合理的な人間像(ホモ・エコノミクス)やそれらの集合としての社会という観点に異を唱えるが、このイスラムの市場観はとても重要な指摘だろうと思う。ハーヴェイは『資本主義の終焉』にて、分業の発展は競争上の優位性と収益性の維持に向けられ、労働・生活の質の改善や人類の福祉向上にも向いていない、という趣旨のことを述べたが、ハーヴェイですらも、このような観点から逃れられていなかったのだろうか。

 

 

で、以下、要約(を目指したもの)


中世は、商業取引が宗教の統制下にあった時代。帝国の崩壊に始まり、征服や富の獲得が称賛されなくなり、信用通貨への回帰がみられた時代である。

一般的には「中世」は迷信と不寛容と圧制の時代だが、それは西ヨーロッパの観点であり、多くの人にとって、この時代は枢軸時代の搾取、恐怖からのめざましい改善だった。また、硬貨の不在を貨幣の不在と同一視することも、誤りである。

 

○中世インド(ヒエラルキーへの飛躍)
・諸国家の弱体で硬貨流通は減少したが、これは物々交換への回帰ではなく、事業は「無尽蔵」という信用を介していた。平信徒が僧院に布施した金銭の一部は商業貸付にあてられた。これは元金に手をつけられることなく、永遠に運用されていくと想定されるものだ。この場合、貨幣は計算単位であり、金属の大部分は、神聖な場所に集められた。
・インドでの地域支配は、王が日常生活から隔絶していたことから、異邦人=地元の特権的バラモンが行っていた。その社会は、田園的なヒエラルキーの原理で再編されており、カーストの全成員がヒエラルキー的秩序内に位置付けられ、各々が非代替の貢献をし、金属硬貨なしで運営された。この仕組みには負債が重要だった。バラモン階級は有利子貸付を禁じられていた一方、寺院はそうではなかったのである。なお、不可触賤民たちがその地位を受け入れたのは、古代世界と違って奴隷にされることもなく、はるかに人間的だったからだ。
負債は定義上、対等な者たちのあいだの取り決めなのであり、ヒンドゥー教の思想には全く未知のものである以上、負債と信用協定/カースト制の間には奇妙な緊張があった。

 

○中国:仏教(無限負債の経済)
・インドと対照的に、帝国と宗教の結び付けの試みが完全に成功したのが中国である。政府は、常に遊牧民の侵入と民衆の反乱という脅威を抱えており、儒教イデオロギーは、潜在的には反逆的な田舎の家父長たちへの利害や感性に訴えるものだった。こうした中、政府は、災厄の種である地方の高利貸しへの制約や、負債の帳消し、飢餓救済等の政策を度々実施する必要に迫られた。
儒教国家は、貨幣を媒介に貨幣を増やそうとするという意味での資本主義には敵対していた一方、財の交換の場・手段としての市場には肯定的だった。官僚機構は積極的に市場を促進、発展させ、中国は高い生活水準を維持してきた。本書で度々指摘してきたように、市場が自己生成的な疑似的自然で、政府の役割はその制御や上がりの吸収であるという考えは偏見なのである。
漢王朝崩壊後は、仏教が普及していく。信者の間では、全財産を投げうつような寄進(経済的自殺)や、焼身自殺が流行した。これが何を意味するかは意見が分かれるが、慈善(チャリティ)の究極形態とみなす人もいる。枢軸時代にあらわれた純粋な利己あるいは純粋な利他という観念を発展させると、自殺を究極的な無私無欲の贈与と考えることはそれなりに意味が通る。
・他の世界宗教と同じく、仏教は経済の用語で語られており、業の負債や両親への負債という発想があったが、それらは無尽蔵への寄進によって解決されるとされた。それらの負債は、本来、交換の論理が適用できず永遠に返済不可能だが、この寄進は、ロスパヴェが言う原始貨幣と同じく、返済の不可能性を承認する方法だった。際限のない負債は、際限のない救い(贖い)の貯蔵庫たる無尽蔵に頼ることによって、返済が可能なのである。これはコミュニズムのひとつの実践的形態である。
・とはいえ同時に、この無尽蔵への寄進は、恒常的拡大の必要性から、資本主義に接近した金融資本の集中へ転嫁した。この時代、取引には信用売買として割符棒が多用され、金銀の多くは寺院に集中し、政府は貴金属不足に陥った。このため、中国儒教国家が仏教を統制しようとした。
・金属主義者は、法定不換紙幣の失敗と結論付けたがるが、実際には、紙幣が活用された数世紀の経済は活発だった。  

 

○近西:イスラーム(信用としての資本)
・中世の世界経済や金融革新の中心は、キリスト教世界ではなく、西方/西洋(the West)≒イスラム世界だった。
イスラム世界では、枢軸時代のような軍事=鋳貨=奴隷制複合体が形成されたが、その奴隷は労働力ではなく兵隊となった。通常、奴隷は兵力にはなり得ないが、イスラム世界では政府は必要悪=軍事力とみなされ、根本的に社会の外に存するものとされたため、奴隷の兵士化は理にかなっていた。
・他方、イスラムは商業に肯定的だった。懲利は禁止される一方、商業や信用は抑制されるどころか、大いに発展した。投資は確定収益率ではなく、利潤の分け前を受け取るもので、この信用経済では評判が決定的に重要だった。
イスラムでは、商人は遠方へ冒険する名誉ある人間として、一種の模範的存在ともなった。この商人崇拝は世界初の自由市場イデオロギーと言える。市場は神によって自己調整機能として設計されている以上、市場への政府の介入は冒涜であると解釈された。アダムスミスの「神の見えざる手」が似ているのは当然で、彼の発想は、まさに中世ペルシアに直接の出典を持つ(哲学者トゥースィー、イスラム神学者ガザーリー)。
・ただし、スミスが分業や市場を利益の最大化を志向する人間の本性の発展と捉えたのに対し、トゥースィーは相互扶助、基盤的コミュニズムの拡張と捉えた。
ガザーリーは貨幣について興味深いことを述べてもいる。彼は、異なるものの価値をどう比較するべきかという問題に対し、その有用性や固有の目的の欠如している第三の事物、すなわち金と銀での比較が唯一の方法と結論付けた。そこから、「貨幣は貨幣を獲得するために造られたのではない」として、有利子貸付の禁止が導かれている。
・このように自由市場論の多くのは、そもそも大変異なった社会的・モラル的宇宙から、少しずつ借用されたものだった。

 

○極西:キリスト教世界(商業、金貸し、戦争)
・ヨーロッパでも、集権国家の消滅、聖地への金銀の集積、信用通貨の流通という中世のパターンがみられた。
キリスト教世界では、徴利は神への冒涜とされた一方、金持ちが貧者にどう振る舞うべきか、という切実な問いは棚上げされていた。イエスは見返りを求めずに与えよと言うが、大多数にとっては現実的ではない。聖バシレイオスのようにコミュニズムの徹底を求めるラディカルな立場もあったが、多数(教会)は、結局、封建的な依存関係については何らの反対意見も述べていない。教会は慈愛をもって行動すべきという教理をしめしたが、慈愛は不平等を解体せず維持するものでしかない。
・また、申命記には「外国人には利子をつけて貸してもよい」という厄介な論点があった。聖アンブロシウスは、外国人=強盗や殺人をも正当化されるようなよそ者、と結論づけている(聖アンブロシウスの例外)。サラセン人のように文字通り戦争状態にあった人びとは当然この<例外>にあてはまったが、同じまちに住むユダヤ教徒との関係は複雑で、たびたび破局的なかたちとなった。キリスト教諸侯はユダヤ人に対して、職業ギルドから締め出しながらみずからの保護の下で金貸しとして生業をたてるよう仕向けつつ、ときに都合良く保護を撤回し、債務を懲罰的に取り立てた。また、王たちは、彼らをあからさまに冷遇・軽蔑し、虐殺に目をつぶったり、奨励したりした。
・経済活動レベルが上昇するにつれ、教会は対応を迫られ、譲渡抵当の禁止といった懲利禁止の締め付け政策を執った。懲利禁止の理由は様々に議論され、大衆的な宗教運動へと派生し、商業のみならず私有財産そのものに疑義がつけられたことも。それらは異端として弾圧されたが、托鉢修道士へ引き継がれ、キリスト教はいかる種類の財産とも両立しうるか、が議論された(使徒の清貧)。他方、その間、ローマ法が復活し、懲利禁止法は緩和されるべきという考えが、「利子intereset」は「支払いの遅れによる損失の補償である」という観念から説かれるようになった。このように懲利に対するスタンスが相反する二方向に向かったのは、西ヨーロッパの政治情勢がきわめて不安定であったからである。大陸は、貴族領、公国、都市コミューン、荘園、教会領が入り混じった格子状であり、しかもそれは戦争によって頻繁に書き換えられた。
イスラムでは市場は相互扶助の拡張と捉えられたのに対し、キリスト教世界では、商業は懲利の延長ではないか、という疑念が払しょくされなかった。取引や交換に関するヨーロッパの語彙は、詐欺などを意味する言葉から由来している。また、ヨーロッパにおいては、兵士と商人の活動範囲は重なっており、商人はみずから戦闘に赴くことも。
・『アーサー王物語』などの「冒険」文学は中世のイメージの中心になっているが、実際の騎士は略奪のために流浪する暴徒でしかなかった。騎士たちは、力を持っていてもイスラムと違い模範的存在にはなり得なかった冒険商人たちの、昇華されロマン化された像でしかない。なお、聖杯とは、新たな金融に刺激されて出現した象徴、金融の究極的抽象化である。

 

○では、中世とはなんだったのか?
・枢軸時代が唯物論的な時代だったのに対し、中世は超越性の時代だった。
・崩壊した帝国に代わり宗教が支配的になり、暴力の水準の低下によって奴隷制は衰弱or消失し、交易で技術革新がもたらされた。平和の拡大により、思想や観念にも大きな可能性が開かれた。
・中世を権威に対する盲従の時代だと捉えるのはヨーロッパ的な観点でしかない(極西ほど暴力的、不寛容な場所は無かった。Ex.魔女狩り、異端狩り)。中世の思想の本質は、むしろ、日常的活動(宮廷と市場)を支配する諸価値は倒錯しており、真の価値は調節知覚できず学習と瞑想によってのみ接近しえる、という信念だった。これは貨幣理論についても同様で、
金や銀自体は無価値で貨幣は社会的慣習でしかないというアリストテレスの視点が標準的になった(例えばそれを発展させたのがガザーリー)。
・「シンボル(象徴)」の語源たる「シンボロン」という単語は、もともとは、負債契約を記録するための割られた物体に起源を持つ。この語は、次第に、貨幣や証明書(トークン)、そして象徴を意味するようになったのだが、驚くべきことに、中国における「符」も同じような起源を有している。
アリストテレスは、シンボロンについて、その材質が何であるかは問題ではなく、なんでも護符になり得るという点に拘った。
・割符の特徴は、友情のトークンとして始まったものが、不平等の関係を形成するということだ。これが転じて、シンボルや符は、天や神といったものとの関係との隠喩ともなる。負債には、対等の者たちがふたたび対等になるときまでは対等ではなくなる、という合意、ジレンマがあり、この隠喩はその一つのあらわれともみなせる。経済が言わば霊的に捉えられていた中世においては、負債とモラリティをめぐる議論は、当時の哲学的諸問題の核心部分に食い込むことになった。
・おどろくべきことに、儒教イスラムは、結果的に、市場の繁栄・資本主義の否定という帰結に至っている。イスラムにおいては、政府の統制を受けない自由市場思想の堅持と、利潤=リスクに対する報酬という観念が重要だった。他方、中国仏教は逆に、リスクなしの投資を保証する無尽蔵によって今でいう法人に近い概念を産み出した。
・現代においては、法人は、自然ないし不可避と想定されるが、実は、法人とは最も固有の意味でのヨーロッパ的な要素なのである。

人事管理を「中心×ゾーニングモデル」から「全体×レイヤーモデル」へ−『都市をたたむ』を参考に

今回は、都市計画をテーマにした『都市をたたむ』という本の着想を、強引に人事管理やジェンダー等の問題に引き付けてみた話。
思いつきで突っ走った話なので、多分、結構粗い書きぶりだが、ご容赦頂きたい。

 

●『都市をたたむ』での議論
役所の職員有志で「読書会」という勉強会をやっていて、先日は『都市をたたむ』という本がテーマだった。
(報告者以外の参加者は読まずに参加してもいい勉強会で、自分も読まずに参加した。)

都市をたたむ  人口減少時代をデザインする都市計画

都市をたたむ 人口減少時代をデザインする都市計画

  • 作者:饗庭 伸
  • 発売日: 2015/12/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

報告によると、その本では、以下のようなことが書かれていた。

・従来の都市計画は「中心×ゾーニングモデル」で考えられていた。すなわち、中心から遠いエリアを「計画的に縮小するゾーン」にするという考え方。
・しかし、そのような都市計画に基づいたまちづくりは実現しておらず、実際には、スプロール=虫食い的に開発が進んだことで、都市は外側から縮小するのではなく、スポンジ化していっている。ゆえに、コンパクトシティとかよく言われるが、実現はそう簡単ではない。
・このスポンジ化の特徴として、場所のランダム化(駅近から始まり徐々に郊外に向かう、いった法則性を持たずに発生)や不可視化(建物は使われなくなってもすぐに取り壊されるわけではないため、わかりづらい)といったものがある。
・ゆえに「中心×ゾーニングモデル」モデルではなく、スポンジ化した都市を前提に、「全体×レイヤーモデル」によって都市計画をしていくべきではないか。
・そもそも日本の都市計画は、人口や資本が次々に都市に流入し、そのままでは溢れてしまう欲望を捌くための規制手段だった。しかし、今の日本では、人口が減少し、その人口の9割以上が既に都市に住んでいて地方から都市部への人口移動が頭打ちになっている。このようにある意味で都市が成熟している中、従来の溢れる欲望を捌く発想の都市計画は時代にそぐわない。

 

 

この都市計画論自体、とても興味深いもので、もっと掘り下げて考えていきたいものだが、今回は、このスポンジ化という認識や「中心×ゾーニングモデル」から「全体×レイヤーモデル」への転換という提起は、人事管理においても妥当するのではないか、と思い当たったので、書き留めておきたい。

 

●人事管理へのあてはめ
これまでの人事・労務管理は、中心に無理が効く職員(主に男性)を、周辺に育児や家事、介護といった事情で無理が効かない、配慮が要る職員(主に女性)を配置するという発想で成り立っていると考えられる。
例えば、自分が働く市役所の場合、中心=本庁では無理が効く職員が、周辺=出先や区役所では無理が効かない職員が多く働いているし、「特定事業主行動計画」においても、そう認識されている。国の場合はもっと露骨かもしれないし(本省/出先)、民間企業でも、似たようなところは少なくないだろう(本店/支店)。
いずれにしても、現状の人事管理は「中心×ゾーニングモデル」だと言って大きく差支えは無いだろう。

 

※念のため補足するが、区役所や出先の仕事やそこで働く職員を軽んじる訳ではない。能力の高低で本庁/出先を色分けする発想を持つ人もいるし、「左遷」なんてイヤな言葉もあるが、少なくとも自分が勤めている市役所の区役所は、とても重要な役目を担っていると思っている。能力の高低ではなく、 1人1人異なる適性の問題でもある。自分も、福祉の現場でケースワーカーとして働いたことがあるし、そこでの仕事に誇りを持っていた。
とはいえ、政策立案業務を担う本庁に「無理が効く職員」、つまり、育児や介護とは無縁でひたすら長時間労働をやるような職員ばかりが集まるのはやはり不健全で、本庁にも、もっと多様性が必要だと思う。

 

この「中心×ゾーニングモデル」は次第に行き詰まりつつあるので、「全体×レイヤーモデル」へ転換する必要があるのではないだろうか、というのが今回の要旨だ。

 

今の時代、女性職員の職場での存在感はかつての比ではない。大学で高等教育を受け、専門知識を持った女性職員も多く、彼女らを漫然と周辺に配置することは、女性自身の視点からも、人材活用の観点からも、ふさわしくない。女性が、妊娠出産を機にキャリア向上を断たれ、閑職に甘んじざるを得ないことは、マミートラックとも言われ、最近問題視されている。また、最近では、男性の育児参加の必要性も強調され始めたし、介護離職という問題もある。
つまり、端的に、無理が効かない職員が明らかに増えているということだ。

 

 

これまでは、無理が効かない職員のボリュームが少なかったからこそ、彼ら(彼女ら)を周辺に押しやる方法での「中心×ゾーニングモデル」の人事管理で組織を回せたのだろう。しかし、無理が効かない職員だらけになって来つつある今、そういった無理が効かない職員を、全て区役所や出先という周辺に配置するわけにはいかず、本庁にも育児期の職員が今後増えていくことと思う。というか、既に、そのような事態は確実に発生し始めている。

 


もちろん、政策決定に携わる本庁職員に多様性があるということ自体は喜ばしいことなのだが、基本的な思想が「中心×ゾーニングモデル」のままで、なし崩し的に無理が効かない職員の本庁配置が進行しているのではないか、という危惧がある。あらゆる部署で無理が効かない職員が点在することは、そのままでは組織運営や事業継続における「リスク」だが、その対応は果たして十分なのだろうか。

 

※背景として、公務においては業務委託や指定管理等、アウトソーシングが進んだこともある。かつて周辺の調整弁として機能してきた「部署」は、もはや役所の人事の「外」にあり、今の役所の中には、相対的に「中心」に近い職場が残っているものと思う。これはつまり、調整の余地が少なくなってきている、ということだ。

 

この「リスク」に直面し、職場では色々な歪みが生じている。
まず、無理が効く職員に更に負担が集中しており、これが最も深刻な問題だろ。子どもを産まない(産めない)人との分断は一層深刻になっていく。反対に、そもそも子どもを産むのを控えたり、育休取得を断念したりする人もいるだろう。業務パフォーマンスそのものの低下が余儀なくされる場合もあるだろう。また、非正規雇用アウトソーシングで乗り切ろうとすることもあるだろう(暫定的な措置だったはずの臨時職員が常態化し、それが問題視され会計年度任用職員制度が走り始めたが、今後どうなることやら。)

結局のところ、リスクは、正面から対応されずに、ただ付け替えられつつ、移動しているだけなのかもしれない。

 

そして、自分が恐ろしいと思うのが、これらの歪が、都市のスポンジ化と同じく、ランダム的、不可視的に発生するという点だ。育児や介護、疾病といったプライベートの事情は、まさに、いつ発生するか分からないという意味で、ランダムの要素がある。そして、カバーする職員の業務増や、産み控え、育休断念など、そういうところは非常に見えにくい。
とはいえ、現場の職員は、肌感覚で違和感や危機感を抱いている。ダメージは確実に蓄積して、金属疲労を起こして少しずつ劣化しているのに、打開策が無い状態。

 

 

そろそろ、「中心×ゾーニングモデル」、すなわち「配慮が要る職員は、配慮が可能な職場に」という発想から離脱し、あらゆる部署に無理が効かない職員がいるという前提で回るよう、「全体×レイヤーモデル」での組織管理、業務運営を考えなければいけないのではないか。
もちろん、防災など、どうしても「無理が効く職員」が必要な部署があるのかもしれないが、そういうところがギリギリまで少なくなることが望ましいのではないだろうか。

 

 

●「夫や夫の職場もリスクを取るべき」は正論ではあるが
政治学ゼミで一緒にジェンダー等を学び、今は霞が関でキャリア官僚として働く後輩の女性(仮称:Tさん)とときどきtwitterで意見を交わすんだが、それについても言及しておきたい。
自分は「男性の育休取得が進まないのは、育児家事への無関心や上司の理解、手当の金額なんかではなく、単純に仕事が忙しすぎて、ただでさえ忙しい他の人に自分の仕事を頼めないからではないか」という意見を持っている。
これに対し、Tさんからは、以下のように言われる。
・女性にとっても、産休は必須だが、育休はそうではない。
・しかし、何だかんだで、女性の側ばかりが育休を取るし、その想定で職場は対応する。
・仕事が忙しいこと、休むことで他の人に仕事を任せないといけないことは、女性にとっても同じ。
・それでも女性が休むにあたり、女性はキャリアから「降りて」いる(マミートラック)
・男性にもキャリアから「降りる」という選択肢があるのだから、女性ばかりがそうなるのは不公平だ。

Tさんの意見は、基本的に正しいと思う。育休というのは、キャリアや仕事にとってはある意味での「リスク」だ。しかし、その「リスク」を妻側にばかり取らせているが現状だし、夫や夫の職場にはその「リスク」を引き受ける覚悟が足りていない、とも言える。

 

しかし、だ。そもそも育休が「リスク」になるということ、それ自体を変えていかなければいけないのではないか。


無理をしない働き方でも、キャリアを諦めないで済む(定時に帰るけど、能力を活かして良い仕事をする)とか、無理が効かない職員がいても仕事が回る(誰かが育休を取っても、無理なくカバーが効く)とか、そんな職場を作れるようにシフトして、「誰がリスクを取るべきか」という発想から抜けないといけないのではないか。


マミートラックの横に、パピーラックや介護トラックをいっぱい走らせたって仕方がない。中心に残る人がキツいし、トラックに載せられる人も不幸だ。そういうトラックを前提にした人事管理(中心×ゾーニングモデル)からの離脱が必要なのではないか。 
長時間労働が強いられる霞が関の働き方を考えると、夢物語のように聞こえるのかもしれない。
でも、諦めたくはないし、自分の周りでは中心/周辺の境界が既になし崩し的に溶けつつあり、理想論ではなく、対処が必要な課題なのだと思う。

 

(根拠は無く何となくそう思うんだが、地方自治体に比べ、中央省庁では中心/周辺の区別がまだ強く残っているのではないだろうか。そういう意味では、「全体×レイヤーモデル」へのシフトの必要性は、地方自治体の方が強いのかもしれない。

 

●「全体×レイヤーモデル」をどう実現するか
具体的な対応としては色々な手法があるだろう。例えば、不必要(優先順位:低)な業務の見直しや増員。端的に、残業が当たり前の職場があること自体がおかしい。これら、仕事の総量へのアプローチがまず必須だろう。


そもそも、役所にはグレーバーの言う「クソどうでもいい仕事」が絶対にいっぱいあるはずで、エッセンシャルワークたる育児や介護が、天秤にかけられていること自体がおかしい。

※まだ読めてない。来年は必ず読む!


そうやって総量へのアプローチをやりつつ、小室淑恵さんが提唱するマルチ担当制や、属人的なノウハウの可視化、標準化などにより「いつ穴が開いても誰かが容易に埋められる」というアプローチも重要なのだろう。
仕事で成果を出すワーク・ライフ・バランスvol.2|ちょっと、ホットコラム:個人のお客様|人材開発の総合機関 日本マンパワー

『選挙制を疑う』の感想 

『選挙制を疑う』という本を読んでいる。

 

実は,まだ本文はほとんど読んでおらず,著者による短い結論とあとがき,訳者改題を読んだ程度だが,「こういうモノを待ってたんだ!」と思うような本で,色々と考えが湧いてきてしまったので,読み終わるのを待たず,とりあえず,感想を書いてUPしてしまうことにする。

 

全部読んだ後,また感想を書くかもしれないし,書かないかもしれない。

 

1は,「共通善」実現の場として政治を考えたいということについて,2はそれが実現されない現在の政治について書いている。要は,1,2は,自分が「こういうモノを待ってたんだ!」と考える理由,背景にあたる。

3は,この本が抽選・熟議制を主張していることの確認(ごくごく簡単に)。

4は,この本の内容を実現,具体化させるとした場合の疑問や雑感等を書いている。

 

 

1 個別利益の最大化≠共通善

●これまでの問題意識

仕事においても,行政や政治においても,「各々が利益の最大化を図った帰結として最適解が生み出される」という発想に対して,自分は強く懐疑的だった。昔から直感的にそう思っていたが,大学で政治学を学んでからは,その考えを強くしている。

 

例えばー

 

大学時代に政治学ゼミで読んだ藤原保信『自由主義の再検討』では,民主主義が欲望の体系であること,かつては,危険な思想と見做されていたことなどを学んだ。

自由主義の再検討 (岩波新書)

 

同じくゼミ(卒業後の同窓会ゼミ)で読んだ,ラトゥーシュ『〈脱成長〉は、世界を変えられるか――贈与・幸福・自律の新たな社会へ。』では,引用されていたブルーニの言葉が非常に印象的だった。これは,上記の『自由主義の再検討』の議論と共鳴するものだと思う。

〈脱成長〉は、世界を変えられるか――贈与・幸福・自律の新たな社会へ

 

近代以前のヨーロッパにおいて共通善という考えは私的な利害関心の総和と結びついてはいなかった。共通善という考えはむしろ,引き算の論理に基づいていた。<自分自身の所有する何か>(私的利益)を手放し,その何かを危険に晒すことによってのみ,<われわれのもの>(共通善)の構築が可能となった。この<われわれのもの>は,誰にも帰属しないがゆえに人々の間に共通するものであったのだ

 

今村寛(福岡市・元財政調整課長)『自治体の“台所”事情 “財政が厳しい”ってどういうこと?』では,個別最適を各自が追い求めては全体最適は実現できないこと,より良い対話のためには,自身の立場を脱ぎ捨てる姿勢が重要であること等を学んだ。

自治体の“台所"事情 財政が厳しい"ってどういうこと?

 

地方自治体では,人事も省ごとに縦割りとなる中央省庁と違い,他部署に自身も異動していく運命でありながら,地方公務員が人やカネを自所属に維持しようとすることについては不思議とすら感じる。他の部署の業務の方が重要なら,そこに人やカネを付けてほしい,と本気で思う。これも,いわば「引き算の論理」と言えるだろう。この本を読んで,その思いを更に強くしたし,コロナ禍においては,その思いが確信に変わっている。

 

このようなことを踏まえ,各々が自身の利益の最大化を図るのではなく,各々が全体の共通善を模索する場として,自分は政治を考えたいのだ。

 

●「若者は選挙に行くな」と煽る動画―個別利益の追求は分断を生む

関連して,以前から気になっていたことがあったので,この機会に書こうと思う。

以前, 高齢者を「仮想敵」として,若者にはっぱをかけて投票所に足を運ばせようとする動画がSNSで話題になったことがあった。


若者よ、選挙に行くな

 

この動画は,SNSなどでは好意的に受け止められていたようだが,政治を「各々の利益を最大化するための場」と捉える発想のもとに作られている点で,非常に問題を抱えていたと自分は考える。端的に,この動画には,分断を生むという強い副作用がある。

 

もし「若者が若者のための政治を求めて投票すること」を是とするならば,「高齢者が高齢者のための政治を求めて投票すること」も是としなければフェアではない。

しかし,それでいいのか?

むしろ「高齢者が若者を含めた全体のことを,若者が高齢者を含む全体のことを考える」という営みが可能となるよう,分断を乗り越え,政治の場を鍛え成すことが,本来,必要なのではないか?

 

仮に利益の分捕り合戦の場としてしか政治を捉えられないならば,数に劣るマイノリティの権利実現は不可能だ。

「高齢者/若者」という構図を,「健常者/障がい者」や「男性/女性」等に置き換えて考えてみよう。障がい者や女性が選挙に行くことや,当事者の声が政治に直接届くことの重要性は否定しないが,健常者や男性が自分自身のことしか考えないこと自体が,ひどくグロテスクで由々しい問題だと気付くだろう。更に言うと,「大人/子ども」,「日本人/外国人」という構図の場合,子どもや外国人には選挙権そのものがないので,大人や日本人がそうでない側のために配慮することは決定的に重要になる。

(なお,自分は,「マジョリティ/マイノリティ」や「普通/普通でない人」といった二分法的な捉え方自体を良しとしないのだが,脱線するので,ここでは語らない。参考として別稿↓) ghost-dog.hatenablog.com

 

※なお,この動画には,実は元ネタがある。2018年のアメリ中間選挙前に公開されたもので,トランプには高齢富裕層の支持者が多いことから,それに対抗するためのものということらしい。つまり,高齢者というより,トランプという具体的な政治家がターゲットだった訳だ。

 つまり,こういう構図↓

 (高齢者に支持される)トランプ VS 対立候補

 

他方,日本版の動画は,そういった意図のもとに作られていない(少なくとも分からない)。そのため,むき出しの形で,高齢者そのものが「仮想敵」になってしまった訳だ。

 要するに,こういう構図↓ 

  高齢者 VS 若者

 

2 政治家は共通善を目指していない

●タテマエとの乖離

共通善を求める思想は,日本国憲法にもあらわれていると考えている。すなわち,憲法第15条は「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」と規定している。

 

しかし,政治家に全体の奉仕者たることを要請し,全体最適,共通善を目指す思想はタテマエでしかなく,政治は,全体の利益ではなく,個別の利益を求める場になってしまっている。

 

例えば,「地元」たる選挙区に「利益誘導」を図ろうとするのは議員の一つの典型だ。有権者の方も,議員を通じて,自身の利益を拡大しようとする。「一人一票」を徹底すると人口が少ない田舎の民意が反映できなくなる,という趣旨のことを公言して反論する議員も以前ニュースで見たことがある(名前は失念)。この発言は,まさに,自身を全国民ではなく選挙区の代弁者と見なしていることのあらわれだ。

これは空間的再分配の例だが,かつて道路族,文教族などと言われたように,政策領域ごとの利益誘導の力学もある(小選挙区制の導入により,そのウェイトは相対的に減じたようだが)。

地方政府についても問題は同じで(むしろ顕著?),『日本の地方政府』においては,地方議員は,議場での条例の議論より,首長や行政部局との調整による個別利益の実現が指向されるということも指摘されていた。

日本の地方政府-1700自治体の実態と課題 (中公新書)

また,労働組合や業界団体のように特定の層を支持基盤にする政治家もおり,有権者や団体の側でもそのような議員を支持しようとする。

 

かように,全体の奉仕者というタテマエと,個別利益の代表者というホンネの間には,大きな距離がある(全ての議員の活動がそうとは思わないが,構造的に,そういう側面はたしかにあるだろう)。

 

小川淳也代議士は本当に政治家に向いていないのか?

この問題を考えていて,すぐに小川淳也代議士のことが頭に浮かんだ。

小川代議士を追ったドキュメンタリー映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』で,小川氏はこう述べていた。

何事もゼロか100じゃないんですよ。何事も51対49。でも出てきた結論は、ゼロか100に見えるんですよ。51対49で決まってることが。政治っていうのは、勝った51がどれだけ残りの49を背負うかなんです。でも勝った51が勝った51のために政治をしてるんですよ、いま

webronza.asahi.com

 

彼は,あくまで,負けた49を含む全体のための政治をしなければならないという。彼が目指そうとしているのは,まさに,憲法が求める「全体の奉仕者」そのもののように思える。

 

他方,そんな彼は,権力欲が弱く,政争に長けていない。そのため,劇中「政治家に向いていない」と評価され,小川氏自身もそう感じているとこぼしている。

 

しかし,本当にそうなのだろうか?

小川淳也代議士は本当に政治家に向いていないのか?

間違っているのは,小川氏と,今の政治の仕組みと,どっちだ?

憲法の理念に忠実なのは,小川氏と,政争に長けた議員と,どっちだ?

小川氏が政治家に向いていないのではなく,今の政治の仕組み,選挙制度が,あるべき場を作り出せていないだけではないか?

小川代議士は,強烈な矜持によって,憲法の要請に応えようとしているように思える。しかし,そのような強烈な矜持に期待せざるを得ない点で,過度に性善説的な設計になっているのではないだろうか?

 

3 本書の提案―抽選・熟議制

とはいえ,具体的にどうすればいいのかは具体的に分からなかった。そんな中で出会った本書『選挙制を疑う』は,一つの光明のように思われた。

 

著者が提言するのは,抽選・熟議制。すなわち,抽選により選出された議員が,熟議によって政策決定をしていくという姿だ。議員は,抽選制の為,特定の有権者の利益について代表したり,誘導したりする必要がない。また,熟議を実施する点で,単なる住民投票とも違う。

 

女性の参政権投票権がこの100年で常識になったが如く,抽選制は,民主主義の新たな常識になるかもしれないと筆者は言う。一見,荒唐無稽に思える発想かもしれないが,真剣に取り組むべき課題なのではないだろうか。実際,実践や研究は次第に増えているという。

(本来は,この部分を詳しく書くべきなんだろうが,まだ読んでないので,書けない。内容が気になる人は,是非,自分で本を読んでみてほしい。)

 

4 抽選・熟議制に関する疑問・雑感

以下,雑感。本文を読まずに書いているので,論点を先取りしてしまっているかもしれないが,ご了承いただきたい。

 

政策決定プロセスに「市民」が加わることの可能性と重要性

素人議員に政治ができるのか,直感的に疑問を持つ人も多いだろう。ただ,自分は大学の政治学の恩師から聞いた「住民と行政は不幸な出会い方をしているだけだ」という言葉のおかげで,案外,住民参加について楽観的に捉えている。

 

「住民と行政は不幸な出会い方をしている」とはどういうことか。それは,行政にとって,住民は自身の利益を実現するために何かを要求してくる利己的で厄介な存在に見えるが,実際は,住民はそういう用事があるときにしか行政の前に姿を現さないだけ,ということだ。

 

仮に,住民に対して, 1人の公的な意味での「市民」として,対話(熟議)をする場を与え,自己利益ではなく,公益(共通善)を目指せるようにファシリテートすれば,案外,市民は自身の個人的な利益・立場を超えて振る舞うようになる。むしろ,そういう風に場を作っていくことが,これからの時代の公務員の仕事だ,と恩師は言う。

 

今井照氏は『地方自治講義』において,「正しい」政策は無く,過程こそが政策の正当性を証明すると述べている。抽選・熟議性で国民・住民自身が政策決定を主体的に行うことは,この「過程」を強化するという点でも望ましいものと思う。

 地方自治講義 (ちくま新書 1238)

 

例えば『地域再生の失敗学』では,限界集落でコミュニティが維持できなくなり集落が霧散する前に,少し余力があるうちにみんな揃って麓に降りるという選択肢=「自主再建型移転」を検討することが提唱されていた。ここで重要なのは,著者(林直樹氏)が,「自主再建型移転が否定されても良いが、検討した結果の自然消滅と「そこに住むしかない」とでは違うはず」と述べている部分だ。これも「過程」の重要性を示すものだ。

地域再生の失敗学 (光文社新書)

 

また,公共施設マネジメント等についての合意形成においても,住民参加は有用なのだろう。インフラ維持が自治体経営の重荷となっていく時代だが,住民の負担やサービス減に繋がる政策決定について,議員に納得してもらうことは,自治体職員にとって非常に厄介な仕事だ。『朽ちるインフラ』においては,コスト情報等をベースに住民が議論する実践について紹介されていた。

朽ちるインフラ―忍び寄るもうひとつの危機

 

専門的な知見をどう担保するか

今井照氏は「正しい」政策は無い,と言うが,プロセスさえ踏めばどのような政策決定でもOKな訳ではなく,専門的な知見も重要だとは思う。法的な技術もあるだろうし,データやエビデンスに基づく政策決定が望ましいのは言うまでもない。

しかし,「声の大きい人」の影響が出やすくなる選挙制や熟議を伴わない住民投票よりも,むしろ抽選・熟議性の方が,エビデンスベースの政策決定ができる可能性はあるだろう。

『大学改革という病』では,民主主義とはすべての国民が賢くあらねばならないという無茶苦茶を要求する制度であり,その無茶苦茶を実現するため,大学は存在意義があるとする。

「大学改革」という病――学問の自由・財政基盤・競争主義から検証する

 

以前ならば,現実的に政治を担えるのがごく少数の知識人だけだったのかもしれない。たしかに,読み書きが出来ない人が多いなかで,抽選制は無理だろうが,しかし,今や,そういう時代ではないだろう。

 

官僚制はどう変わるのか?

専門性の問題ともかかわるが,一つ,慎重に考えなければならないのは,仮に抽選・熟議制を採用するのであれば,官僚制のあり方が当然,変容せざるを得ないだろう,ということだ。既に「審議会政治」という言葉があるが,審議会が官僚の隠れ蓑にされるがごとく,議会が隠れ蓑にされ,官僚が全ての絵を描く,という構図になる懸念はある。

 

また,論点の発見,設定という端緒のイニシアチブを,議会が取れなくなることは十分に考えられる。議員立法は既に少ないが,民衆議会となれば,完全にゼロになるのかもしれない。

これらのことを考えると,選挙制を再構築する際は,官僚制の見直しも必須なのだろう。

 

他方,「根回し」の文化は変化せざるを得ず,表舞台でのオープンな議論の重要性が増すという点については,期待したい(というか,そうなるべき)。

また,議会の答弁は,現状,行政vs議員というのが通常多いが,抽選・熟議制では,議員間の議論もしやすくなるのかもしれない。

 

抽選・熟議制がなじむのは?

具体的にどのような領域で抽選・熟議制が有用なのだろうか。抽選制の利点はあれど,それが馴染む領域と,そうでない領域があるのかもしれない。直感的には,グランドデザインを示すもので党派性が機能している国政より,暮らしに密着して具体的なことを論じている地方政治の方が馴染みやすく,導入は容易なのではないかと思う。なお,最近読んだ『日本の地方政府』では,地方議会において政党制が確立されてないことが問題視され,政党制を確立すべきと問題提起されていたが,政党制よりも抽選制の方が馴染むのではないだろうか。

 

色々と,考えは尽きない。

特に,抽選・熟議制と官僚制の在り方については,それこそ考えるべきことが山ほどありそうだ。

しかし,ここまでで既に約6500字。

キリがないので,一旦,ここで終了にしよう。

SOGIとは? 普通の人/普通ではないLGBT という二分論を考え直す

 以前、SOGIについて、ノーマライゼーションユニバーサルデザインと絡めながら記事を書いたことがある。 ghost-dog.hatenablog.com

 

 今回の記事は、これをベースに改めてブラッシュアップしたものなので、せっかくなので、今回の記事の方を読んでもらいたい。

 なお、実は今回の記事を書いたのは約1年前で、もとは、役所内の掲示板に投稿したもの。

 せっかく頑張って書いたので、このブログにも残しておこうと思い、今回記事にしている。

 

 以下、本題。

 (掲示板向けに、Part0~9までの連載にしているが、今回記事ではまとめて)

 

【 Part 0】

 ほとんどの方,初めまして。

 

 LGBTという言葉は,最近ある意味「ブーム」になっていますし,特に市職員であれば人権研修等の機会もありますので,「知っている」,「なんとなくは分かってきた」という方も多いでしょう。

 しかし,SOGI(ソギ,ソジ)という言葉はいかがでしょうか。

 

 この言葉は人権研修の解説にも載っている一方,LGBTほどはまだ浸透していないように思いますが,SOGIというのは非常に重要な言葉だと私は考えています。

 

 そこで,今回から何回かに分けて,性的マイノリティに関すること,特に,SOGIという言葉について,まことに勝手ながら解説っぽいことを書きたいと思います。

 

 今回は前置きで,次回からPart1を始めたいと思います(全部で,Part9まで続ける予定です。1日に2Part投稿します)。

 

 なお,誤解のないようにお断りしておきますが,私の投稿は人権推進課とは一切関係がないもので,あくまで個人的な私見です。当然,市の考えを代表するものではありませんので,その点ご留意ください。

(ただし,実は,私は幸いにも,ジェンダーセクシャリティ等について大学時代に学ぶ機会を得て,それ以来このテーマについては強い関心を持ってきたので,思うところはそれなりに多くあります。)

 

※私自身もまだ勉強中の身であり,誤った点や不適切な表記等があるかもしれません。何卒ご容赦頂き,お気づきの点がございましたらご指摘ください。宜しくお願い致します。

  

【 Part 1】

 前回はただのご挨拶だったので,今回から,LGBTとSOGIについて語っていきます。

 

 今回は,SOGIという言葉の説明の前に,LGBTという言葉が必要だった背景について確認します。

 

 今回押さえたい重要な点は,かつて性的マイノリティは「いないことにされた」人たちだった,ということです。

 例えば「人間は思春期になると必ず異性に恋をする」とか,「人間は男性と女性のどちらかに必ず分けられる」とかという具合です。(保健体育の教科書のこういう記述に傷ついたという当事者の声は多いです)

 

 「いないことにされた」人たちは,「普通」ではない,すなわち「異常」とされ,差別されてきました。ときには,嘲笑だけではなく,矯正,治療,隔離,攻撃,迫害という文字通りの暴力にも晒されてきました※1。現在でも,同性愛が法律で禁止され,むち打ちや死刑にされる国もまだあります。

(なお,同性愛者の自殺率が高いというデータの一方,同性婚が法制化された国では同性愛者の自殺率が下がった,という統計データもあるようです。そういう意味で,性的マイノリティの問題は,リアルに「命」に直結する重大な人権問題だと言えます。)

 

 そんな状況の中,当事者の多くは,自身のことを隠して生きることを選んできました。

 しかし,当事者たちは,次第に「カミングアウト」をして,自らの真の姿を解放する生き方を模索してきました。

 つまり,LGBTという言葉は,当事者たちが「いないことにするな」,「あなたたちとは違う自分たちがここに確かに存在している」と示すために産まれた,と言えます。

 

 このような歴史,文脈の中では「自分は他と違う」ということを示すためのLGBTという言葉は有効だし,不可欠なものだったのでしょう。

 しかし,このLGBTという言葉には,2つのデメリットがあります。

 

※1 牧村朝子著『僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断 法」クロニクル』などに詳しいです。 

 

【 Part 2】

 Part1では,いないことにされた当事者たちが「自分は他と違う」ということを示すために,LGBTという言葉にたどり着いた,ということを確認しました。

 

 今回は,このLGBTという言葉のデメリットの1つ目について述べます。

 

 デメリットの1つは,LGBTという言葉は,この4つの括りに入らない「カテゴリー」のマイノリティの存在を取りこぼしてしまうということです。

 

 LGBTの他に,QとかAとかIとか様々な言葉があり,きっとこれらは今後どんどん増えていくでしょう。そもそも,LGBTという言葉に複数形の「s」をつけてLGBTsと表記する場合もあります。人権研修の解説にも載っているので,それぞれをここで説明はいたしませんが,少なくとも,LGBTという4つの「カテゴリー」では,全ての人をカバーすることは不可能なことは事実です。

 

 こぼれてしまう人たちがいるという事態は,「障がい者」というカテゴリーでは,最近話題になっている発達障害の方を必ずしもカバーしきれないことに似ています。

 

 では,そういう言葉を全て並べて覚えればいいのかというと,そうではないと思います。

理由は3つあります。

①人の性に関わるバリエーションは,それこそ無限にあり,言葉では表しきれないこと

②「性」に関わることはプライバシーの領域で,オープンになっていないことが多いこと

  当然ですが,その人の性的な「カテゴリー」は,見たり喋ったりして分かるものではありません。

 つまり「性的マイノリティの方がその場にいるかどうかを確認したうえで,差別にならないよう対応する」のでは不十分で,「その場に性的マイノリティの方がいるかもしれないという前提の上で,差別にならないよう対応する」ということが必要なのです。

③性に関わることに,必ずしも名前をつける必要はそもそもないこと

 例えば,マジョリティの異性愛者は,自分が異性愛者という「カテゴリー」におさまるということは普段意識していないと思いますが,特段不都合はないと思います。

 性的マイノリティについても,当人がそう名乗りたいならば名乗ればいいですが,そういう「カテゴリー」を不要とするなら,名乗る必要はないのです。

 自分で選び取った名前は「アイデンティティ」となり,他人につけられた名前は「カテゴリ」となります。

   (牧村朝子著『百合のリアル』より)

 

 なお,牧村朝子さんの将来の夢は,「幸せそうな女の子カップルに“レズビアンって何?”って言われること」だそうです。

 

 今は過渡期だと思います。LGBT以外の様々な「カテゴリー」の存在を多少は知っておく方がいいのは間違いありません。しかし,そもそも無限にある性のバリエーションを,いくつかの「カテゴリー」におさめること自体に無理があるし,それを必ずしも当事者が望んでいる訳ではない,ということは押さえておきたいと思います。

 

【 Part 3】

 前回は, LGBTという言葉のデメリットの1つ目として,LGBTという言葉は,この4つの括りに入らない「カテゴリー」のマイノリティの存在を取りこぼしてしまうということを紹介しました。

 

 今回ご紹介するLGBTという言葉のもう1つのデメリットは,LGBT=「普通」ではない人,という誤解を生みかねないということです。

 今回の話は,SOGIという言葉を理解するために重要な点なので,是非読んでいただきたいと思います。

 

 LGBTという言葉が独り歩きしてしまうと,「ジェンダーセクシャリティに関する話は,LGBTと呼ばれている「普通」ではない,ちょっと異質な人たちについての配慮の話である」という誤った捉え方に繋がってしまう懸念があります。

 

 Part1に書いたように,当初「いないことにされた」方たちは「自分は他と違う」と叫ぶ必要があったのでしょう。しかし,LGBTと言われる人たちは,「普通」の人と違った,別のよく分からない生き物なんかではありません。誰を好きになるのかとか,自身の性別をどう認識するかとか,そういう点においては多数の人と違う属性をたまたま持っているだけで,それ以外の点は,他の人と同じ人間なのです。

 障害のある方が,腫れ物扱いされ,変に特別扱いされることで傷つくケースは多いと聞きます。それと似たような話と言えるでしょう。

 

 そもそも「普通」って何なのでしょうか。

 次回,Part4では,「普通」という言葉について,障害福祉の視点をお借りして,もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

 

【 Part 4】

 前回は,LGBTという言葉の2つ目のデメリットとして,LGBT=「普通」ではない人,という誤解を生みかねない,ということをご紹介しました。

 

 今回は,そもそも「普通」とは何なのか,少し掘り下げて考えてみたいと思います。

 

 紹介したい記事があります。

 この熊谷晋一郎さんという方は,脳性麻痺で車椅子生活を送りながら,医師,科学者として活動されている方です。

 

www.tokyo-jinken.or.jp

 

 

 一般的に「自立」の反対語は「依存」だと勘違いされていますが,人間は物であったり人であったり,さまざまなものに依存しないと生きていけないんですよ。

 東日本大震災のとき,私は職場である5階の研究室から逃げ遅れてしまいました。なぜかというと簡単で,エレベーターが止まってしまったからです。そのとき,逃げるということを可能にする“依存先”が,自分には少なかったことを知りました。エレベーターが止まっても,他の人は階段やはしごで逃げられます。5階から逃げるという行為に対して三つも依存先があります。ところが私にはエレベーターしかなかった。

 これが障害の本質だと思うんです。つまり,“障害者”というのは,「依存先が限られてしまっている人たち」のこと。健常者は何にも頼らずに自立していて,障害者はいろいろなものに頼らないと生きていけない人だと勘違いされている。けれども真実は逆で,健常者はさまざまなものに依存できていて,障害者は限られたものにしか依存できていない。依存先を増やして,一つひとつへの依存度を浅くすると,何にも依存してないかのように錯覚できます。“健常者である”というのはまさにそういうことなのです。世の中のほとんどのものが健常者向けにデザインされていて,その便利さに依存していることを忘れているわけです。

 実は膨大なものに依存しているのに,「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが,“自立”といわれる状態なのだろうと思います。だから,自立を目指すなら,むしろ依存先を増やさないといけない。障害者の多くは親か施設しか頼るものがなく,依存先が集中している状態です。だから,障害者の自立生活運動は「依存先を親や施設以外に広げる運動」だと言い換えることができると思います。”

  私は,ふだんはメガネをかけて生活し,「障がい者」のような苦労はせずに生活していますが,もしもメガネが無い社会であれば,視力に障害がある方と(程度は違うものの)似たような苦労を強いられていたでしょう。「障がいはグラデーション」とよく言われますが,「障がい者」と「普通」の人の違いもグラデーションだし,「普通」の人の中にも,無限のグラデーションがあります。多くの人が,意識はしていないけれど,生きづらさを感じないようにちょっとずつ社会に依存し,社会に生かされているといえるでしょう。

 

 性に関することも同様です。マジョリティは,特に不自由なく結婚ができる等,マジョリティにとって生きやすい「社会」にちょっとずつ依存し,生かされながら生活している,といえるのです。

 

(余談)生活保護は,被保護者の最低生活の維持とともに,自立助長を図る制度で,この「自立」には経済的自立だけではなく,社会的自立,精神的自立も含まれる,とよく言われます(私もケースワーカー時代に言われたことがあります)。

 この社会的自立と精神的自立のことが「よく分からない」というのがケースワーカー時代の率直な振り返りなのですが,熊谷さんの言う「自立を目指すなら,むしろ依存先を増やさないといけない。」というのは,理解の助けになるのでは,と感じています。

 

【 Part 5】

 LGBTという言葉の2つのデメリットを踏まえ,いよいよSOGIという言葉(観点)をご紹介します。

 私自身の説明より,もっと適切に述べてある記事がありますので,そちらをご紹介します。

 

www.e-aidem.com

 

(牧村)今国際的に大きな転換点として,LGBTという言葉から,「SOGI(ソギ)」という言葉へだんだん変わりつつあります。国連人権理事会でも扱っていますし,国際レズビアン・ゲイ協会(略称:ILGA)やアメリカ・スプリングフィールドの条例でも「SOGI」という言い方が入ってきています。

 これはどういうことかというと,「LGBT」という言葉がなかったころって,「普通はみんなシス(異性愛者)でしょう」という考え方だったんですよね。生まれたときに言われた性別をみんなそのまま生きてきて,「異性を好きになるのが普通,それ以外のあり方は例外で矯正すべきもの」と考えられていたんです。でもそうじゃない,私たちはレズビアンだ,ゲイだ,バイセクシュアルだ,トランスジェンダーだと,「私たちをいないことにするな」とみんなが声を上げて,「普通」ということが揺らいだ。見ないことにしてきた人たちを「いない」ということにできなくなってきた。そういうステップで使われたのが「LGBT」でした。

 でも実は,「みんなが尊重されるべき」なんです。全員,ひとりひとり,「性のあり方」は違うはずです。例えば私は,ひとことで「異性愛者です」と言う人に,話を聞いたことがあるんですね。

「なぜ異性愛者なんですか?」って尋ねてみると,答えはみんな違うんですよ。

「子どもが欲しいから」

「今のところ異性としか付き合ったことがないから」

「なんかそういうものだと思うから」 

「今好きな人が異性だから」……って。

全員が細かく考えてみると,違う。それらが一つ一つ平等に尊重されるべきでしょう,ということで,今「SOGI」という言い方をしています。「SO」はセクシュアルオリエンテーション(Sexual Orientation)の略で,性的指向。同性愛・両性愛異性愛・無性愛などのことですね。「GI」はジェンダーアイデンティティ(Gender Identity)の略で,性自認。女性・男性・中性・無性など,本人が自分の性別をなんだと思っているかということです。

(聞き手)「LGBT」という言い方だと,マイノリティの中でさらにそれ以外のマイノリティがそこからこぼれ落ちてしまう,それがさらにマイノリティになってしまうこともあり得ると思うんですが,「SOGI」という考え方なら異性愛者も同性愛者もとにかく全員が含まれるわけですよね。

(牧村)そうですね。それぞれの性的指向がある,それぞれの性自認がある,それはみんな一緒だよね,ってことですね。

(聞き手)すべての性自認のあり方が「普通」であると……うーん,「普通」って難しいですね。みんなそれぞれ違うのに「普通」でくくるのは難しいですよね。

(牧村)個人個人が違うのであって,「同性愛がクール」とか「異性愛が普通で生産的」とかの上下関係はない。平等,優劣がない,ってことですよね。私は「普通」という言葉はかぎかっこ付きで使ったりします。

 

 私自身の理解では,例えば「黒人」と「人種」の関係が,「LGBT」と「SOGI」の関係に近いと思っています。

 本当に必要な態度は,「黒人を理解しよう」,「LGBTを理解しよう」ではなく,「人種を理由に差別するのはおかしい」とか「SOGIを理由に差別するのはおかしい」なのだと思います。

 

【 Part 6】

 前回は,一部の当事者を対象にしたLGBTという言葉ではなく,全ての人を対象にしたSOGIという言葉が用いられるようになってきた,という話をご紹介しました。

 

 実は,似たような発想の転換は,障害福祉の分野で既にありますので,今回はSOGIの理解を助けるために,それをご紹介します。

 

 ご存じの方も多いと思いますが,障害福祉の分野では,「障がい者」という狭義の「当事者」を対象にした「バリアフリー」という発想から,その社会に暮らす全員を当事者として捉えなおす「ノーマライゼーションという発想への変化がありました。

この「バリアフリーノーマライゼーション」という発展は,「LGBT→SOGI」という発展と似ていると私は感じています。

 

 関連して,「障害」の定義が「個人モデル」から「社会モデル」に変化してきたという点もここで押さえておきたいと思います。

 かつての「個人モデル」の考え方では,「障がい者」が困難に直面するのは「その人に障害があるから」であり,克服するのはその人の責任だとされました。それに対して「社会モデル」は,「社会こそが『障害(障壁)』をつくっており,それを取り除くのは社会の責務だ」という考えです。

(余談ですが,この社会モデルという考えをもとにすると,「障害」を「障がい」と記載することに,正直,違和感を覚えます。「(社会との間に)障害のある方」という表記が適切,という意見を以前とある記事で読んで,なるほどと思いました)

 

 この「社会モデル」の考え方を参考にすると,性的マイノリティ方の現在の生きづらさは,その当事者ではなく,「社会」の側の至らなさにある,とも考えられるでしょう。例えば,同性婚が可能で,何ら差別もない状況ならば同性愛者は同性愛者であることの生きづらさとは無縁で,「普通」に生きられるでしょう。

 

 考えようによっては,「普通」のマジョリティは何の配慮も要らない一方,マイノリティには配慮が必要,ということではなく,マジョリティがむしろ「優遇」されている,と捉えた方が適切なのかもしれません(例えば,なぜ異性愛者だけが法的に結婚できるのか・・・?)。

 

【 Part 7】

 Part5,6では,SOGIという言葉を「ノーマライゼーション」の考え方なども拝借しながら紹介してきました。

 

 ここで,念のため,SOGIという言葉を正しく使うための視点を確認したいと思います。

 

 SOGIやノーマライゼーションの重要な観点は「みなが当事者である」ということです。

 この「みなが当事者である」という言い方は「みな平等」で「何ら配慮はしなくていい」という誤解を招きかねませんが,決してそうではありません。

 

 例えば,ノーマライゼーションは,障害のある方への「合理的な配慮」を求める障害者差別解消法と両立します。両立どころか,「社会モデル」の考え方からすれば,当事者たちの生きづらさを解消する義務は社会の側にこそあると言えるでしょう。

 異質なものとしてマイノリティだけに名前を付け,自分たちマジョリティを「普通」とみなして,自分たちが優遇されている事実に目を背ける,そんな姿勢は望ましくありません。 SOGIというのは,「普通」を疑いつつ,あらゆる個人の生きづらさを解消していくための言葉なのです。

 

 最後に,マサキチトセさんという方の言葉を引用します

wezz-y.com

 

 SOGIは,一見中立な基準です。全ての人を横並びにし,分類する概念です。

 しかし実際には,一部だけを優遇するようなノーマティビティの力が社会全体に働いています。このまま「LGBTの代わりにSOGI」という安易な言葉の入れ替えが起きてしまって,SOGI概念を使う意義としてのノーマティビティへの批判という側面を私たちが忘れてしまったら,どうなるか。

 そこに残るのは,「みんな多様だよね」という,それ自体は確かに事実だけれど,そんなこと言ってても何も解決しないという事態でしょう。さらにそこには,差別を受けてきた歴史やそれによって皮肉にも生まれてしまった豊かな文化の記憶は,受け継がれないでしょう。

 「みんな多様,LもGもBもTも異性愛者もシスジェンダーもみんな色々あるよね,みんな当事者,みんな今のままでいい,個性だもん,社会なんて関係ない,互いに個人的に寛容になって,それぞれハッピーに生きよう!」

 そんな風に,批判の力を失ったSOGI概念は,いとも簡単に社会の問題を「個人の問題」に矮小化し,差別の構造や仕組みを温存する方向に行ってしまう気がします。 

 

【 Part 8】

 Part7までお付き合いいただきまして,まことにありがとうございました。

 今回は,念のため付け加えておきたい注意点を投稿いたします。

 「念のため」と言いつつ,重要な内容ですので,お読みいただけると幸いです。

 

①性的マイノリティの差別の問題を考えるために,障害福祉の分野の考え方を拝借しました。ただし,同性愛は病気でも障がいでもありませんので,そこは間違えないようにしていただきたいと思います。

現在では,WHO(世界保健機関)や米国精神医学会,日本精神神経学会などが同性愛を「異常」「倒錯」「精神疾患」とはみなさず,治療の対象から除外しています。 

ただし,当然ですが,仮に同性愛が病気や障がいであったとしても,それを理由に差別していいことにはなりません。

 

②性同一性障がいが,「障がい」や「病気」なのか,という点は,実は非常にデリケートで難しい問題です。是非,下記の記事を読んでください。全部読んでもらいたいので,引用はいたしません(そんなに長い記事ではありません)。

 

wezz-y.com

 

関連して,性同一性障がいではなく,「性別違和」という表現を使おうという考え方が,最近出てきていることをご紹介します。簡単に言うと,「病気」や「障がい」というと,どうしても,「普通」に比べて非健康的で,治療しなければいけないもの,というイメージがついてきてしまうので,そうではなく「違和」という言葉を使おう,という発想です。

 

Part8まで続けてきた投稿で,色々なことを述べましたが,言いたいことは,本当はまだまだいっぱいあります。

素朴な疑問や感想でも構いませんので,ご連絡いただければと思います。

質問を頂ければ,それについて回答するかたちで,また投稿するかもしれません。

 

また,最初の投稿でも書きましたが,私自身もまだ勉強中の身であり,誤った点や不適切な表記等があったかもしれません。何卒ご容赦頂き,お気づきの点がございましたらご指摘ください。何卒宜しくお願い致します。

 

【 Part 9】

 最後に,私自身が最も影響を受けている牧村朝子さんという方の本を紹介いたします。

 

 彼女は,もともとタレント業をしていて(元ミス日本ファイナリスト!)で,今は文筆家としても活動されている方です。フランス人女性と同性婚をされた経緯もあります。

 こういったテーマは堅く,難しくなりがちですが,彼女の文才は凄まじく,どの本も非常に読みやすく書かれています。 もう少しこのテーマについて知りたいなぁ,と思った方は,まず,下記の彼女の本を読んでみてもらいたいと思います。

 

①『百合のリアル』

 まず読むべきは,これだと思います。4人のキャラクターが,「性」に関わる色々な悩みを「先生」に相談していく,という形式の本です。いわゆるLGBTといった性的マイノリティの基礎知識の解説としても良い本です。冒頭の79ページが試し読みできます。まずは騙されたと思って,読んでみてください。

ji-sedai.jp

 

②『ゲイカップルに萌えたら迷惑ですか?——聞きたい! けど聞けない! LGBTsのこと——』

 タイトルのとおり,聞きにくいけど聞きづらい読者からの素朴な質問について,丁寧に答えていく形式の本です。目次などを見て,気になる質問があれば,読んでみてはいかがでしょうか。

 

 

③『同性愛は「病気」なの? 僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断法」クロニクル』

 同性愛者たちが「異常」とされ,矯正,治療されてきた歴史について書かれた本で

す。歴史の本というと身構えられそうですが,とても読みやすいです。性的マイノリティについての基礎知識がなくても,読めると思います。

 

 ④『ハッピーエンドに殺されない』

 エッセイ集です。基礎知識がなくても読める他の本とは少し違うので,いきなりこれを読むのではなく,①~③を読んだうえで,がオススメです。

ハッピーエンドに殺されない

ハッピーエンドに殺されない

 

 

※牧村朝子さんは,Twitterもされているので,気になる方は是非フォローを!

twitter.com

『負債論』第9章 枢軸時代(前800〜後600年)要約

この時代には硬貨鋳造の開始、そして金属塊への全般的転換がみられる。(p.324)

 

●軍事=鋳貨=奴隷制複合体
度重なる債務危機を軍事的拡大を通じて解決しようとする試みが、「軍事=鋳貨=奴隷制複合体」とも呼ぶべき制度としてあらわれた。鋳貨は、債務危機の原因ではなく、危機の解決に用いられたのである。帝国全体が、貴金属の取得、硬貨鋳造、軍隊への配分を実施する巨大機械ともみなせる。
・例えば、アレクサンドロス大帝は、兵士たちへの金銭支払いのために借金をしたが、その支払い・貨幣体制の維持のために、略奪した貴金属から硬貨を鋳造した。硬貨の原料の採掘は戦争捕虜が担った。そして、アレクサンドロスは、信用システムの基盤であるバビロン等の神殿の金銀を脱宝物化し、税金の支払いを貨幣にて行うべきと指令したことで、古代の信用制度を一掃した。
(ただし、鉱山も軍事行動もない地域では、旧来の信用制度が運用され続けていた。また、軍事的拡大による債務危機の解決の効果は一時的でしかなかったし、軍事力の無い都市では、債務危機はたびたび再燃した。)
・インドでも、中国でも、硬貨と市場の登場は、なによりもまず戦争機構をまかなうことを目的としていた。
・つまり、この時代、戦争が一般化し、貴重品としての金銀銅が略奪され、それらが富者や神殿以外のふつうの人々に流通されることになった。戦争自体は枢軸時代以前にもあったが、特異な点は、訓練を受けた職業軍人の隆盛だ。諸国家が彼らを管理下に置く際、報酬として、家畜や約束手形ではなく、貨幣を必要としたのである。

 

唯物論1 利潤の追求
この枢軸時代においては、鋳貨や商品市場と、ピタゴラス孔子ブッダといった普遍的世界宗教や主要な哲学的潮流という相補的な理念の出現がみられたが、これはどういうことか。
・人間経済においては、諸々の動機は複合的であり、借用証書の価値は、額面だけではなく、その人物の性格や愛や妬み、自尊心などの動機が考慮された。他方、見知らぬ者たちのあいだの現金取引、とりわけ戦争や兵士に関する場合は、継続的な人格的関係には関心が払われず、動機が根本的に単純化される
この動機の根本的な単純化が、利益や優位性という概念の下地になり、人間の生を手段と
目的の計算の問題に還元できるかのように思わせてしまう。このような利益や優位性を軸にした思想として、中国の法家や、インドのカウティリヤ等があらわれた。
・これらに対抗する思想もあらわれた(例えば墨家、同家、儒家)が、これらは市場の論理を反転させた同一物に過ぎず、利己vs利他、利潤vs慈愛、唯物vs唯心、計算vs自発性 といった二項対立に捕縛されている。

 

唯物論2 実体
ギリシャのミレトスは、硬貨による市場取引が世界で初めて行われるようになった都市だが、まさにここで、タレスアナクシメネス、アナクシマンドリスという三人の哲学者があらわれた。彼らは、世界の根源である物質的実体(それぞれ、水・空気・アペイロン)の本質に関する思索を行なったことで有名。彼らに共通する発想は、無限である個別の物体や実体、つまりあらゆるものに変容しうる何か、というものであり、それはまさに貨幣が備えている性質だった。
枢軸時代の軍事=鋳貨=奴隷制複合体の出現する場所では、「聖なる諸力ではなく物質的諸力から世界は形成され、人間存在の最終目的は物質的富の蓄積である」という意味での唯物論的な哲学が登場した。
・どこにおいても、こうした事態に対抗しようとする哲学者や民衆、宗教が生まれた。
・統治者の姿勢は時と共に変化し、軍事=鋳貨=奴隷制複合体が危機を迎えるにつれ、キリスト教や仏教、儒教は統治に採用されるようになった。帝国が崩壊後も、それらは存続し、根をおろした。
・その最終的効果は、かたや市場、かたや宗教、という人間の活動領域の一種の観念的分断であって、それは今日までつづいている。純粋な貪欲と純粋な寛大とは相補的な概念で、どちらも他方抜きでは想像することすらできない。

『負債論』 第8章 「信用」対「地金」−そして歴史のサイクル 要約

現代文明の基盤に奴隷制の論理がある一方、公式の動産奴隷の廃棄だけでもめざましい達成とみなさなければならない。そして、どのようにそれが実現されたのか、考えてみる価値がある。
そして、奴隷制の消滅は、ヨーロッパだけに限定されない。この事態は、歴史上の契機が、明確で周期的でさえあるパターンに従って、しかも、広汎な地理的空間を横断して生起しているということを示唆している。
そのサイクルは、貨幣、負債、信用の歴史の再検討で可視化される。
ユーラシア大陸の過去5000年の歴史をみると、信用貨幣が支配的な時代と金銀が支配的になる時代とが交互に入れ替わる、という事態が観察される。その最も重要な要因を1つだけ上げるならば、それは戦争である。信用協定と金属貨幣の違いは、後者は盗むことができ、取引を単純化できるということだ。
この章以降、仮想通貨と金属貨幣の交代に沿って、ユーラシア大陸の歴史を区分していく。

 

※この章では、続いて、メソポタミア(前3500〜前800年)、エジプト(前2650〜前716年)、中国(前2220〜前771年)について検討されるが、要約では割愛。

『負債論』第7章 名誉と不名誉 あるいは、現代文明の基盤について 要約(を目指したもの)

しばらく積読だったが、また再開する。


この章、やや難解というか、多様な事例やテーマが交錯するように議論されてあり、論旨をきちんと追いかけきれておらず、要約もグダグダだが、一旦、適当に切り上げて、先に読み進めることにする。

 

人間性の剥奪が、奴隷制のような突発性や野蛮さをもってではなく、緩慢な過程で発生した場合には、なにが起こるのか。古い事柄のため把握は難しいが、「名誉」という奇妙で厄介な概念をとおして、再構成が可能である。
・18世紀に産まれ、奴隷生活の後、商人として成功して自伝を記し、英国で指導的奴隷廃止論者として名をはせたイクイアーノという男がいる。彼ほど奴隷制の悪を知る者はいないと思われるが、実は、彼は改宗するまで奴隷制に反対ではなかった。その理由は、かれが名誉を重んじていたことにある。失われた名誉の回復のためには、その制度の条件に即してふるまわなければならず、完全に社会の規則と基準を拒絶できなくなる。これが、奴隷制の孕む根源的な暴力的側面である。
他方、奴隷所有者側も、このシステムの倒錯、不自然さを自覚している。奴隷制のモラル上の正当化が真剣に受け入れられたことは、たとえその支持者によってすらも存在しない。そのかわり、ほとんどの人びとは、わたしたちが今日戦争をみるように奴隷制をみてきたのである。まぎれもなく下劣な事業(ビジネス)ではあるが、それをかんたんに排除できると考えるのはナイーヴすぎる、という具合に。

 

 

〇名誉とは過剰な尊厳[剰余尊厳]である
奴隷化が行われるのは、さもなければ死ぬよりほかにない状況においてのみである。奴隷制の下では、奴隷は、事実上、社会的には死んでいるのである。
パターソン曰く、奴隷制は、他の人間関係と違い、純粋に暴力に基づく関係である(法的、家父長主義的言語による修飾は虚飾でしかない)。社会的な死により、奴隷は主人との間の純粋な力関係以外に人間関係を保持しえない。その結果、奴隷は、徹底的な名誉剥奪を受け入れなくてはならない。
他方、主人にとっては、この尊厳剥奪の権能が、名誉の基盤になる。奴隷は必ずしも利益目的で働かされたわけではない。重要なのはあくまで名誉の象徴なのである。つまり、名誉には、単純に誠実さ/高潔さ(dignity)という意味だけではなく、人間を商品に還元する暴力という意味が孕まれているである。そして、貨幣の価値とは、究極的には、他者を貨幣に変換する力の価値であった。

 

 

○名誉代価(中世初期のアイルランド
かつてアイルランドでは、クマルという少女奴隷が貨幣の単位として使われていた。中世初期に教会が奴隷性を廃止したにもかかわらず、奴隷制衰退後も、その単位の使用は継続された。
 また、当時のアイルランドは人間経済であり、貨幣は生活用品ではなく、尊厳の測定に用いられた。「名誉」は厳密に計量され、例えば、王の名誉は奴隷7名分とされた(実際の支払は奴隷ではなく牛21頭分だったが)。そして、奴隷の価値はゼロとされていた。貴族や王の名誉が、名誉代価ゼロの人間によって評価されることは一見奇妙に思えるが、個人の名誉が究極的には他者の栄誉を取り上げる権能に基づいているとすれば、これは理にかなっている。名誉とはゼロサム・ゲームなのである。

 

 

メソポタミア(家父長制の起源)
 人間経済から商業経済へ移行し、貨幣が生活用品の支払に使用され始めると、根底的かつ永続的なモラル上の危機が生じる。また、このモラル上の危機のなかにこそ、家父長制それ自体の起源をもみいだすことができる。
 シュメール語の文書に依れば、女性たちは職業上や政治参加上の地位を占めていたが、続く数千年にわたる「人間の進歩」の間、むしろ女性の自由は弱体化したようにみえる。なぜか。
 フェミニストは、国家や戦争の規模の拡大、中央集権化、軍事化により、女性の地位が脅かされてきたと述べるが、この議論に補足すべきことは、戦争と国家と市場は全て互いに育み合う傾向にある、ということだ(征服—徴税—市場の創設—兵士と行政官に依る統治)。これらが負債を爆発的に上昇させ、人間関係、特に女性の身体を潜在的商品に変容させる脅威となった。
人類学者たちは、彼女たちが再度売却されることはない、という点をもって、花嫁代償は妻の「購入」ではない、と論じたが。しかし、実際には、夫に負債がある場合、妻子は抵当に入り、債務の人質(ポーン)になり得た。貧者にとって、家族の構成員は、賃貸や売却が可能な商品になっていたのである。
「家父長制」とは、純潔の名のもとに大いなる都市文明を拒絶し、大都市に抗って父による統制の再画一を志す、という身ぶりのうちに起源を持っている。例えば、中東において「卑しからぬ(respectable)」女性が着用するヴェールの中では、彼女たちは特定の男性の私的領域に永久に帰属させられている。
娘たちに桁外れにのしかかる商品化の推進力(push)と、商品化されるあらゆる可能性から女たちを守るために父権を再強化しようと試みる人びとの反動力(pull)のはざまで、女性の形式的・実質的自由は、少しずつではあるがますます制限され消滅していった。

 

 

古代ギリシア(名誉と負債)
古代ギリシアでは商業経済の到来で債務危機が連続して発生したが、近東とは違い、ここでは負債懲役制度の制限、廃止が実施され、領土拡張政策が取られ、これにより奴隷が急増することになった。
奴隷の急増は、貴族以外の一般の市民も都市の政治・文化へ参加することを可能にしたが、旧貴族階級は、世俗化やモラルの荒廃として金銭と市場を軽蔑した。貴族たちは、贈与と名誉の文化を、商業経済の上位に位置付けたのである。
・自由とは、「事物を所有する権利」であり、「自由を所有する」ということは、「事物を所有する権利を所有する」ということとされた。これは、不必要なまでにねじれた議論だが、なぜ、こうもややこしくする必要があるのか。
それは、自由の譲渡可能性を導くためだった。自由の譲渡可能性は、奴隷制や債務奴隷の存在を論理的に肯定する。また、自由の譲渡可能性は、ホッブズに依る国家理論(市民は自然権を国家に譲渡して身の安全を図る)や、賃労働(自由の対価としての賃金)にもつながっていく。

 

 

 

(呟き)
・先日、著者のグレーバーの訃報を目にした。59歳だったという。もっとも「コロナ時代の著作を読みたい!」と思っていた人物だけに、とても残念だ。

『官僚制のユートピア』や『ブルシットジョブ』は、必ず読もう。
ひとまず、年内の『負債論』読破に向け、また頑張らねば。

現代社会の基盤となる自由や所有の原理が、奴隷制にまで遡るという論考は、凄まじくドラスティックなものに思えるが、これまで政治学のゼミで多少、似たような議論もしてきたので、とても興味深く読んだ。いずれ、同ゼミの他の世代が読んだという立岩真也『私的所有論』も併せて読みたい。