幽霊犬の備忘録

某市の職員。政治学を齧りジェンダーや経済思想に関心。

『負債論』第10章 中世(600―1450年)要約

・要約が4500字超え。訳者解説で「後半のおもしろさは、ますますその細部にある」と書いてあるだけあって、どの部分もとても興味深く、なかなか削り切らなかった。


・終盤の「シンボロン」を巡る部分以降は、何度読んでも文意というか流れが読み取れていない気がしている。いずれゼミをして、確認・補強できればうれしい。


・市場や商業と、資本主義を区別して論じている点がとても興味深かった。キリスト教では、市場そのものが敵視された。たしかに、子どもの頃に読んだイエス・キリストの伝記マンガで、イエスが教会で商売しているのを見つけて厳しく糾弾したという場面があった。「わたしの父の家を商売の家としてはならない」ということ。子どもながらに「商人はそんなに悪いことをしているんだろうか」と疑問に思ったのを覚えている。他方、イスラムや中国儒教は市場には肯定的だったが、資本が利潤を産む資本主義には否定的だったという。仏教に至っては、むしろ金融資本主義に接近したのだと書かれていて、正直以外だった。


・また、イスラムにおける市場観がとても印象的だった。彼らにとって、市場や分業は、相互扶助の拡張だったとのこと。グレーバーは『負債論』の随所で経済的な利益獲得を目指す利己的・合理的な人間像(ホモ・エコノミクス)やそれらの集合としての社会という観点に異を唱えるが、このイスラムの市場観はとても重要な指摘だろうと思う。ハーヴェイは『資本主義の終焉』にて、分業の発展は競争上の優位性と収益性の維持に向けられ、労働・生活の質の改善や人類の福祉向上にも向いていない、という趣旨のことを述べたが、ハーヴェイですらも、このような観点から逃れられていなかったのだろうか。

 

 

で、以下、要約(を目指したもの)


中世は、商業取引が宗教の統制下にあった時代。帝国の崩壊に始まり、征服や富の獲得が称賛されなくなり、信用通貨への回帰がみられた時代である。

一般的には「中世」は迷信と不寛容と圧制の時代だが、それは西ヨーロッパの観点であり、多くの人にとって、この時代は枢軸時代の搾取、恐怖からのめざましい改善だった。また、硬貨の不在を貨幣の不在と同一視することも、誤りである。

 

○中世インド(ヒエラルキーへの飛躍)
・諸国家の弱体で硬貨流通は減少したが、これは物々交換への回帰ではなく、事業は「無尽蔵」という信用を介していた。平信徒が僧院に布施した金銭の一部は商業貸付にあてられた。これは元金に手をつけられることなく、永遠に運用されていくと想定されるものだ。この場合、貨幣は計算単位であり、金属の大部分は、神聖な場所に集められた。
・インドでの地域支配は、王が日常生活から隔絶していたことから、異邦人=地元の特権的バラモンが行っていた。その社会は、田園的なヒエラルキーの原理で再編されており、カーストの全成員がヒエラルキー的秩序内に位置付けられ、各々が非代替の貢献をし、金属硬貨なしで運営された。この仕組みには負債が重要だった。バラモン階級は有利子貸付を禁じられていた一方、寺院はそうではなかったのである。なお、不可触賤民たちがその地位を受け入れたのは、古代世界と違って奴隷にされることもなく、はるかに人間的だったからだ。
負債は定義上、対等な者たちのあいだの取り決めなのであり、ヒンドゥー教の思想には全く未知のものである以上、負債と信用協定/カースト制の間には奇妙な緊張があった。

 

○中国:仏教(無限負債の経済)
・インドと対照的に、帝国と宗教の結び付けの試みが完全に成功したのが中国である。政府は、常に遊牧民の侵入と民衆の反乱という脅威を抱えており、儒教イデオロギーは、潜在的には反逆的な田舎の家父長たちへの利害や感性に訴えるものだった。こうした中、政府は、災厄の種である地方の高利貸しへの制約や、負債の帳消し、飢餓救済等の政策を度々実施する必要に迫られた。
儒教国家は、貨幣を媒介に貨幣を増やそうとするという意味での資本主義には敵対していた一方、財の交換の場・手段としての市場には肯定的だった。官僚機構は積極的に市場を促進、発展させ、中国は高い生活水準を維持してきた。本書で度々指摘してきたように、市場が自己生成的な疑似的自然で、政府の役割はその制御や上がりの吸収であるという考えは偏見なのである。
漢王朝崩壊後は、仏教が普及していく。信者の間では、全財産を投げうつような寄進(経済的自殺)や、焼身自殺が流行した。これが何を意味するかは意見が分かれるが、慈善(チャリティ)の究極形態とみなす人もいる。枢軸時代にあらわれた純粋な利己あるいは純粋な利他という観念を発展させると、自殺を究極的な無私無欲の贈与と考えることはそれなりに意味が通る。
・他の世界宗教と同じく、仏教は経済の用語で語られており、業の負債や両親への負債という発想があったが、それらは無尽蔵への寄進によって解決されるとされた。それらの負債は、本来、交換の論理が適用できず永遠に返済不可能だが、この寄進は、ロスパヴェが言う原始貨幣と同じく、返済の不可能性を承認する方法だった。際限のない負債は、際限のない救い(贖い)の貯蔵庫たる無尽蔵に頼ることによって、返済が可能なのである。これはコミュニズムのひとつの実践的形態である。
・とはいえ同時に、この無尽蔵への寄進は、恒常的拡大の必要性から、資本主義に接近した金融資本の集中へ転嫁した。この時代、取引には信用売買として割符棒が多用され、金銀の多くは寺院に集中し、政府は貴金属不足に陥った。このため、中国儒教国家が仏教を統制しようとした。
・金属主義者は、法定不換紙幣の失敗と結論付けたがるが、実際には、紙幣が活用された数世紀の経済は活発だった。  

 

○近西:イスラーム(信用としての資本)
・中世の世界経済や金融革新の中心は、キリスト教世界ではなく、西方/西洋(the West)≒イスラム世界だった。
イスラム世界では、枢軸時代のような軍事=鋳貨=奴隷制複合体が形成されたが、その奴隷は労働力ではなく兵隊となった。通常、奴隷は兵力にはなり得ないが、イスラム世界では政府は必要悪=軍事力とみなされ、根本的に社会の外に存するものとされたため、奴隷の兵士化は理にかなっていた。
・他方、イスラムは商業に肯定的だった。懲利は禁止される一方、商業や信用は抑制されるどころか、大いに発展した。投資は確定収益率ではなく、利潤の分け前を受け取るもので、この信用経済では評判が決定的に重要だった。
イスラムでは、商人は遠方へ冒険する名誉ある人間として、一種の模範的存在ともなった。この商人崇拝は世界初の自由市場イデオロギーと言える。市場は神によって自己調整機能として設計されている以上、市場への政府の介入は冒涜であると解釈された。アダムスミスの「神の見えざる手」が似ているのは当然で、彼の発想は、まさに中世ペルシアに直接の出典を持つ(哲学者トゥースィー、イスラム神学者ガザーリー)。
・ただし、スミスが分業や市場を利益の最大化を志向する人間の本性の発展と捉えたのに対し、トゥースィーは相互扶助、基盤的コミュニズムの拡張と捉えた。
ガザーリーは貨幣について興味深いことを述べてもいる。彼は、異なるものの価値をどう比較するべきかという問題に対し、その有用性や固有の目的の欠如している第三の事物、すなわち金と銀での比較が唯一の方法と結論付けた。そこから、「貨幣は貨幣を獲得するために造られたのではない」として、有利子貸付の禁止が導かれている。
・このように自由市場論の多くのは、そもそも大変異なった社会的・モラル的宇宙から、少しずつ借用されたものだった。

 

○極西:キリスト教世界(商業、金貸し、戦争)
・ヨーロッパでも、集権国家の消滅、聖地への金銀の集積、信用通貨の流通という中世のパターンがみられた。
キリスト教世界では、徴利は神への冒涜とされた一方、金持ちが貧者にどう振る舞うべきか、という切実な問いは棚上げされていた。イエスは見返りを求めずに与えよと言うが、大多数にとっては現実的ではない。聖バシレイオスのようにコミュニズムの徹底を求めるラディカルな立場もあったが、多数(教会)は、結局、封建的な依存関係については何らの反対意見も述べていない。教会は慈愛をもって行動すべきという教理をしめしたが、慈愛は不平等を解体せず維持するものでしかない。
・また、申命記には「外国人には利子をつけて貸してもよい」という厄介な論点があった。聖アンブロシウスは、外国人=強盗や殺人をも正当化されるようなよそ者、と結論づけている(聖アンブロシウスの例外)。サラセン人のように文字通り戦争状態にあった人びとは当然この<例外>にあてはまったが、同じまちに住むユダヤ教徒との関係は複雑で、たびたび破局的なかたちとなった。キリスト教諸侯はユダヤ人に対して、職業ギルドから締め出しながらみずからの保護の下で金貸しとして生業をたてるよう仕向けつつ、ときに都合良く保護を撤回し、債務を懲罰的に取り立てた。また、王たちは、彼らをあからさまに冷遇・軽蔑し、虐殺に目をつぶったり、奨励したりした。
・経済活動レベルが上昇するにつれ、教会は対応を迫られ、譲渡抵当の禁止といった懲利禁止の締め付け政策を執った。懲利禁止の理由は様々に議論され、大衆的な宗教運動へと派生し、商業のみならず私有財産そのものに疑義がつけられたことも。それらは異端として弾圧されたが、托鉢修道士へ引き継がれ、キリスト教はいかる種類の財産とも両立しうるか、が議論された(使徒の清貧)。他方、その間、ローマ法が復活し、懲利禁止法は緩和されるべきという考えが、「利子intereset」は「支払いの遅れによる損失の補償である」という観念から説かれるようになった。このように懲利に対するスタンスが相反する二方向に向かったのは、西ヨーロッパの政治情勢がきわめて不安定であったからである。大陸は、貴族領、公国、都市コミューン、荘園、教会領が入り混じった格子状であり、しかもそれは戦争によって頻繁に書き換えられた。
イスラムでは市場は相互扶助の拡張と捉えられたのに対し、キリスト教世界では、商業は懲利の延長ではないか、という疑念が払しょくされなかった。取引や交換に関するヨーロッパの語彙は、詐欺などを意味する言葉から由来している。また、ヨーロッパにおいては、兵士と商人の活動範囲は重なっており、商人はみずから戦闘に赴くことも。
・『アーサー王物語』などの「冒険」文学は中世のイメージの中心になっているが、実際の騎士は略奪のために流浪する暴徒でしかなかった。騎士たちは、力を持っていてもイスラムと違い模範的存在にはなり得なかった冒険商人たちの、昇華されロマン化された像でしかない。なお、聖杯とは、新たな金融に刺激されて出現した象徴、金融の究極的抽象化である。

 

○では、中世とはなんだったのか?
・枢軸時代が唯物論的な時代だったのに対し、中世は超越性の時代だった。
・崩壊した帝国に代わり宗教が支配的になり、暴力の水準の低下によって奴隷制は衰弱or消失し、交易で技術革新がもたらされた。平和の拡大により、思想や観念にも大きな可能性が開かれた。
・中世を権威に対する盲従の時代だと捉えるのはヨーロッパ的な観点でしかない(極西ほど暴力的、不寛容な場所は無かった。Ex.魔女狩り、異端狩り)。中世の思想の本質は、むしろ、日常的活動(宮廷と市場)を支配する諸価値は倒錯しており、真の価値は調節知覚できず学習と瞑想によってのみ接近しえる、という信念だった。これは貨幣理論についても同様で、
金や銀自体は無価値で貨幣は社会的慣習でしかないというアリストテレスの視点が標準的になった(例えばそれを発展させたのがガザーリー)。
・「シンボル(象徴)」の語源たる「シンボロン」という単語は、もともとは、負債契約を記録するための割られた物体に起源を持つ。この語は、次第に、貨幣や証明書(トークン)、そして象徴を意味するようになったのだが、驚くべきことに、中国における「符」も同じような起源を有している。
アリストテレスは、シンボロンについて、その材質が何であるかは問題ではなく、なんでも護符になり得るという点に拘った。
・割符の特徴は、友情のトークンとして始まったものが、不平等の関係を形成するということだ。これが転じて、シンボルや符は、天や神といったものとの関係との隠喩ともなる。負債には、対等の者たちがふたたび対等になるときまでは対等ではなくなる、という合意、ジレンマがあり、この隠喩はその一つのあらわれともみなせる。経済が言わば霊的に捉えられていた中世においては、負債とモラリティをめぐる議論は、当時の哲学的諸問題の核心部分に食い込むことになった。
・おどろくべきことに、儒教イスラムは、結果的に、市場の繁栄・資本主義の否定という帰結に至っている。イスラムにおいては、政府の統制を受けない自由市場思想の堅持と、利潤=リスクに対する報酬という観念が重要だった。他方、中国仏教は逆に、リスクなしの投資を保証する無尽蔵によって今でいう法人に近い概念を産み出した。
・現代においては、法人は、自然ないし不可避と想定されるが、実は、法人とは最も固有の意味でのヨーロッパ的な要素なのである。