幽霊犬の備忘録

某市の職員。政治学を齧りジェンダーや経済思想に関心。

『選挙制を疑う』の感想 

『選挙制を疑う』という本を読んでいる。

 

実は,まだ本文はほとんど読んでおらず,著者による短い結論とあとがき,訳者改題を読んだ程度だが,「こういうモノを待ってたんだ!」と思うような本で,色々と考えが湧いてきてしまったので,読み終わるのを待たず,とりあえず,感想を書いてUPしてしまうことにする。

 

全部読んだ後,また感想を書くかもしれないし,書かないかもしれない。

 

1は,「共通善」実現の場として政治を考えたいということについて,2はそれが実現されない現在の政治について書いている。要は,1,2は,自分が「こういうモノを待ってたんだ!」と考える理由,背景にあたる。

3は,この本が抽選・熟議制を主張していることの確認(ごくごく簡単に)。

4は,この本の内容を実現,具体化させるとした場合の疑問や雑感等を書いている。

 

 

1 個別利益の最大化≠共通善

●これまでの問題意識

仕事においても,行政や政治においても,「各々が利益の最大化を図った帰結として最適解が生み出される」という発想に対して,自分は強く懐疑的だった。昔から直感的にそう思っていたが,大学で政治学を学んでからは,その考えを強くしている。

 

例えばー

 

大学時代に政治学ゼミで読んだ藤原保信『自由主義の再検討』では,民主主義が欲望の体系であること,かつては,危険な思想と見做されていたことなどを学んだ。

自由主義の再検討 (岩波新書)

 

同じくゼミ(卒業後の同窓会ゼミ)で読んだ,ラトゥーシュ『〈脱成長〉は、世界を変えられるか――贈与・幸福・自律の新たな社会へ。』では,引用されていたブルーニの言葉が非常に印象的だった。これは,上記の『自由主義の再検討』の議論と共鳴するものだと思う。

〈脱成長〉は、世界を変えられるか――贈与・幸福・自律の新たな社会へ

 

近代以前のヨーロッパにおいて共通善という考えは私的な利害関心の総和と結びついてはいなかった。共通善という考えはむしろ,引き算の論理に基づいていた。<自分自身の所有する何か>(私的利益)を手放し,その何かを危険に晒すことによってのみ,<われわれのもの>(共通善)の構築が可能となった。この<われわれのもの>は,誰にも帰属しないがゆえに人々の間に共通するものであったのだ

 

今村寛(福岡市・元財政調整課長)『自治体の“台所”事情 “財政が厳しい”ってどういうこと?』では,個別最適を各自が追い求めては全体最適は実現できないこと,より良い対話のためには,自身の立場を脱ぎ捨てる姿勢が重要であること等を学んだ。

自治体の“台所"事情 財政が厳しい"ってどういうこと?

 

地方自治体では,人事も省ごとに縦割りとなる中央省庁と違い,他部署に自身も異動していく運命でありながら,地方公務員が人やカネを自所属に維持しようとすることについては不思議とすら感じる。他の部署の業務の方が重要なら,そこに人やカネを付けてほしい,と本気で思う。これも,いわば「引き算の論理」と言えるだろう。この本を読んで,その思いを更に強くしたし,コロナ禍においては,その思いが確信に変わっている。

 

このようなことを踏まえ,各々が自身の利益の最大化を図るのではなく,各々が全体の共通善を模索する場として,自分は政治を考えたいのだ。

 

●「若者は選挙に行くな」と煽る動画―個別利益の追求は分断を生む

関連して,以前から気になっていたことがあったので,この機会に書こうと思う。

以前, 高齢者を「仮想敵」として,若者にはっぱをかけて投票所に足を運ばせようとする動画がSNSで話題になったことがあった。


若者よ、選挙に行くな

 

この動画は,SNSなどでは好意的に受け止められていたようだが,政治を「各々の利益を最大化するための場」と捉える発想のもとに作られている点で,非常に問題を抱えていたと自分は考える。端的に,この動画には,分断を生むという強い副作用がある。

 

もし「若者が若者のための政治を求めて投票すること」を是とするならば,「高齢者が高齢者のための政治を求めて投票すること」も是としなければフェアではない。

しかし,それでいいのか?

むしろ「高齢者が若者を含めた全体のことを,若者が高齢者を含む全体のことを考える」という営みが可能となるよう,分断を乗り越え,政治の場を鍛え成すことが,本来,必要なのではないか?

 

仮に利益の分捕り合戦の場としてしか政治を捉えられないならば,数に劣るマイノリティの権利実現は不可能だ。

「高齢者/若者」という構図を,「健常者/障がい者」や「男性/女性」等に置き換えて考えてみよう。障がい者や女性が選挙に行くことや,当事者の声が政治に直接届くことの重要性は否定しないが,健常者や男性が自分自身のことしか考えないこと自体が,ひどくグロテスクで由々しい問題だと気付くだろう。更に言うと,「大人/子ども」,「日本人/外国人」という構図の場合,子どもや外国人には選挙権そのものがないので,大人や日本人がそうでない側のために配慮することは決定的に重要になる。

(なお,自分は,「マジョリティ/マイノリティ」や「普通/普通でない人」といった二分法的な捉え方自体を良しとしないのだが,脱線するので,ここでは語らない。参考として別稿↓) ghost-dog.hatenablog.com

 

※なお,この動画には,実は元ネタがある。2018年のアメリ中間選挙前に公開されたもので,トランプには高齢富裕層の支持者が多いことから,それに対抗するためのものということらしい。つまり,高齢者というより,トランプという具体的な政治家がターゲットだった訳だ。

 つまり,こういう構図↓

 (高齢者に支持される)トランプ VS 対立候補

 

他方,日本版の動画は,そういった意図のもとに作られていない(少なくとも分からない)。そのため,むき出しの形で,高齢者そのものが「仮想敵」になってしまった訳だ。

 要するに,こういう構図↓ 

  高齢者 VS 若者

 

2 政治家は共通善を目指していない

●タテマエとの乖離

共通善を求める思想は,日本国憲法にもあらわれていると考えている。すなわち,憲法第15条は「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」と規定している。

 

しかし,政治家に全体の奉仕者たることを要請し,全体最適,共通善を目指す思想はタテマエでしかなく,政治は,全体の利益ではなく,個別の利益を求める場になってしまっている。

 

例えば,「地元」たる選挙区に「利益誘導」を図ろうとするのは議員の一つの典型だ。有権者の方も,議員を通じて,自身の利益を拡大しようとする。「一人一票」を徹底すると人口が少ない田舎の民意が反映できなくなる,という趣旨のことを公言して反論する議員も以前ニュースで見たことがある(名前は失念)。この発言は,まさに,自身を全国民ではなく選挙区の代弁者と見なしていることのあらわれだ。

これは空間的再分配の例だが,かつて道路族,文教族などと言われたように,政策領域ごとの利益誘導の力学もある(小選挙区制の導入により,そのウェイトは相対的に減じたようだが)。

地方政府についても問題は同じで(むしろ顕著?),『日本の地方政府』においては,地方議員は,議場での条例の議論より,首長や行政部局との調整による個別利益の実現が指向されるということも指摘されていた。

日本の地方政府-1700自治体の実態と課題 (中公新書)

また,労働組合や業界団体のように特定の層を支持基盤にする政治家もおり,有権者や団体の側でもそのような議員を支持しようとする。

 

かように,全体の奉仕者というタテマエと,個別利益の代表者というホンネの間には,大きな距離がある(全ての議員の活動がそうとは思わないが,構造的に,そういう側面はたしかにあるだろう)。

 

小川淳也代議士は本当に政治家に向いていないのか?

この問題を考えていて,すぐに小川淳也代議士のことが頭に浮かんだ。

小川代議士を追ったドキュメンタリー映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』で,小川氏はこう述べていた。

何事もゼロか100じゃないんですよ。何事も51対49。でも出てきた結論は、ゼロか100に見えるんですよ。51対49で決まってることが。政治っていうのは、勝った51がどれだけ残りの49を背負うかなんです。でも勝った51が勝った51のために政治をしてるんですよ、いま

webronza.asahi.com

 

彼は,あくまで,負けた49を含む全体のための政治をしなければならないという。彼が目指そうとしているのは,まさに,憲法が求める「全体の奉仕者」そのもののように思える。

 

他方,そんな彼は,権力欲が弱く,政争に長けていない。そのため,劇中「政治家に向いていない」と評価され,小川氏自身もそう感じているとこぼしている。

 

しかし,本当にそうなのだろうか?

小川淳也代議士は本当に政治家に向いていないのか?

間違っているのは,小川氏と,今の政治の仕組みと,どっちだ?

憲法の理念に忠実なのは,小川氏と,政争に長けた議員と,どっちだ?

小川氏が政治家に向いていないのではなく,今の政治の仕組み,選挙制度が,あるべき場を作り出せていないだけではないか?

小川代議士は,強烈な矜持によって,憲法の要請に応えようとしているように思える。しかし,そのような強烈な矜持に期待せざるを得ない点で,過度に性善説的な設計になっているのではないだろうか?

 

3 本書の提案―抽選・熟議制

とはいえ,具体的にどうすればいいのかは具体的に分からなかった。そんな中で出会った本書『選挙制を疑う』は,一つの光明のように思われた。

 

著者が提言するのは,抽選・熟議制。すなわち,抽選により選出された議員が,熟議によって政策決定をしていくという姿だ。議員は,抽選制の為,特定の有権者の利益について代表したり,誘導したりする必要がない。また,熟議を実施する点で,単なる住民投票とも違う。

 

女性の参政権投票権がこの100年で常識になったが如く,抽選制は,民主主義の新たな常識になるかもしれないと筆者は言う。一見,荒唐無稽に思える発想かもしれないが,真剣に取り組むべき課題なのではないだろうか。実際,実践や研究は次第に増えているという。

(本来は,この部分を詳しく書くべきなんだろうが,まだ読んでないので,書けない。内容が気になる人は,是非,自分で本を読んでみてほしい。)

 

4 抽選・熟議制に関する疑問・雑感

以下,雑感。本文を読まずに書いているので,論点を先取りしてしまっているかもしれないが,ご了承いただきたい。

 

政策決定プロセスに「市民」が加わることの可能性と重要性

素人議員に政治ができるのか,直感的に疑問を持つ人も多いだろう。ただ,自分は大学の政治学の恩師から聞いた「住民と行政は不幸な出会い方をしているだけだ」という言葉のおかげで,案外,住民参加について楽観的に捉えている。

 

「住民と行政は不幸な出会い方をしている」とはどういうことか。それは,行政にとって,住民は自身の利益を実現するために何かを要求してくる利己的で厄介な存在に見えるが,実際は,住民はそういう用事があるときにしか行政の前に姿を現さないだけ,ということだ。

 

仮に,住民に対して, 1人の公的な意味での「市民」として,対話(熟議)をする場を与え,自己利益ではなく,公益(共通善)を目指せるようにファシリテートすれば,案外,市民は自身の個人的な利益・立場を超えて振る舞うようになる。むしろ,そういう風に場を作っていくことが,これからの時代の公務員の仕事だ,と恩師は言う。

 

今井照氏は『地方自治講義』において,「正しい」政策は無く,過程こそが政策の正当性を証明すると述べている。抽選・熟議性で国民・住民自身が政策決定を主体的に行うことは,この「過程」を強化するという点でも望ましいものと思う。

 地方自治講義 (ちくま新書 1238)

 

例えば『地域再生の失敗学』では,限界集落でコミュニティが維持できなくなり集落が霧散する前に,少し余力があるうちにみんな揃って麓に降りるという選択肢=「自主再建型移転」を検討することが提唱されていた。ここで重要なのは,著者(林直樹氏)が,「自主再建型移転が否定されても良いが、検討した結果の自然消滅と「そこに住むしかない」とでは違うはず」と述べている部分だ。これも「過程」の重要性を示すものだ。

地域再生の失敗学 (光文社新書)

 

また,公共施設マネジメント等についての合意形成においても,住民参加は有用なのだろう。インフラ維持が自治体経営の重荷となっていく時代だが,住民の負担やサービス減に繋がる政策決定について,議員に納得してもらうことは,自治体職員にとって非常に厄介な仕事だ。『朽ちるインフラ』においては,コスト情報等をベースに住民が議論する実践について紹介されていた。

朽ちるインフラ―忍び寄るもうひとつの危機

 

専門的な知見をどう担保するか

今井照氏は「正しい」政策は無い,と言うが,プロセスさえ踏めばどのような政策決定でもOKな訳ではなく,専門的な知見も重要だとは思う。法的な技術もあるだろうし,データやエビデンスに基づく政策決定が望ましいのは言うまでもない。

しかし,「声の大きい人」の影響が出やすくなる選挙制や熟議を伴わない住民投票よりも,むしろ抽選・熟議性の方が,エビデンスベースの政策決定ができる可能性はあるだろう。

『大学改革という病』では,民主主義とはすべての国民が賢くあらねばならないという無茶苦茶を要求する制度であり,その無茶苦茶を実現するため,大学は存在意義があるとする。

「大学改革」という病――学問の自由・財政基盤・競争主義から検証する

 

以前ならば,現実的に政治を担えるのがごく少数の知識人だけだったのかもしれない。たしかに,読み書きが出来ない人が多いなかで,抽選制は無理だろうが,しかし,今や,そういう時代ではないだろう。

 

官僚制はどう変わるのか?

専門性の問題ともかかわるが,一つ,慎重に考えなければならないのは,仮に抽選・熟議制を採用するのであれば,官僚制のあり方が当然,変容せざるを得ないだろう,ということだ。既に「審議会政治」という言葉があるが,審議会が官僚の隠れ蓑にされるがごとく,議会が隠れ蓑にされ,官僚が全ての絵を描く,という構図になる懸念はある。

 

また,論点の発見,設定という端緒のイニシアチブを,議会が取れなくなることは十分に考えられる。議員立法は既に少ないが,民衆議会となれば,完全にゼロになるのかもしれない。

これらのことを考えると,選挙制を再構築する際は,官僚制の見直しも必須なのだろう。

 

他方,「根回し」の文化は変化せざるを得ず,表舞台でのオープンな議論の重要性が増すという点については,期待したい(というか,そうなるべき)。

また,議会の答弁は,現状,行政vs議員というのが通常多いが,抽選・熟議制では,議員間の議論もしやすくなるのかもしれない。

 

抽選・熟議制がなじむのは?

具体的にどのような領域で抽選・熟議制が有用なのだろうか。抽選制の利点はあれど,それが馴染む領域と,そうでない領域があるのかもしれない。直感的には,グランドデザインを示すもので党派性が機能している国政より,暮らしに密着して具体的なことを論じている地方政治の方が馴染みやすく,導入は容易なのではないかと思う。なお,最近読んだ『日本の地方政府』では,地方議会において政党制が確立されてないことが問題視され,政党制を確立すべきと問題提起されていたが,政党制よりも抽選制の方が馴染むのではないだろうか。

 

色々と,考えは尽きない。

特に,抽選・熟議制と官僚制の在り方については,それこそ考えるべきことが山ほどありそうだ。

しかし,ここまでで既に約6500字。

キリがないので,一旦,ここで終了にしよう。