幽霊犬の備忘録

某市の職員。政治学を齧りジェンダーや経済思想に関心。

『負債論』第7章 名誉と不名誉 あるいは、現代文明の基盤について 要約(を目指したもの)

しばらく積読だったが、また再開する。


この章、やや難解というか、多様な事例やテーマが交錯するように議論されてあり、論旨をきちんと追いかけきれておらず、要約もグダグダだが、一旦、適当に切り上げて、先に読み進めることにする。

 

人間性の剥奪が、奴隷制のような突発性や野蛮さをもってではなく、緩慢な過程で発生した場合には、なにが起こるのか。古い事柄のため把握は難しいが、「名誉」という奇妙で厄介な概念をとおして、再構成が可能である。
・18世紀に産まれ、奴隷生活の後、商人として成功して自伝を記し、英国で指導的奴隷廃止論者として名をはせたイクイアーノという男がいる。彼ほど奴隷制の悪を知る者はいないと思われるが、実は、彼は改宗するまで奴隷制に反対ではなかった。その理由は、かれが名誉を重んじていたことにある。失われた名誉の回復のためには、その制度の条件に即してふるまわなければならず、完全に社会の規則と基準を拒絶できなくなる。これが、奴隷制の孕む根源的な暴力的側面である。
他方、奴隷所有者側も、このシステムの倒錯、不自然さを自覚している。奴隷制のモラル上の正当化が真剣に受け入れられたことは、たとえその支持者によってすらも存在しない。そのかわり、ほとんどの人びとは、わたしたちが今日戦争をみるように奴隷制をみてきたのである。まぎれもなく下劣な事業(ビジネス)ではあるが、それをかんたんに排除できると考えるのはナイーヴすぎる、という具合に。

 

 

〇名誉とは過剰な尊厳[剰余尊厳]である
奴隷化が行われるのは、さもなければ死ぬよりほかにない状況においてのみである。奴隷制の下では、奴隷は、事実上、社会的には死んでいるのである。
パターソン曰く、奴隷制は、他の人間関係と違い、純粋に暴力に基づく関係である(法的、家父長主義的言語による修飾は虚飾でしかない)。社会的な死により、奴隷は主人との間の純粋な力関係以外に人間関係を保持しえない。その結果、奴隷は、徹底的な名誉剥奪を受け入れなくてはならない。
他方、主人にとっては、この尊厳剥奪の権能が、名誉の基盤になる。奴隷は必ずしも利益目的で働かされたわけではない。重要なのはあくまで名誉の象徴なのである。つまり、名誉には、単純に誠実さ/高潔さ(dignity)という意味だけではなく、人間を商品に還元する暴力という意味が孕まれているである。そして、貨幣の価値とは、究極的には、他者を貨幣に変換する力の価値であった。

 

 

○名誉代価(中世初期のアイルランド
かつてアイルランドでは、クマルという少女奴隷が貨幣の単位として使われていた。中世初期に教会が奴隷性を廃止したにもかかわらず、奴隷制衰退後も、その単位の使用は継続された。
 また、当時のアイルランドは人間経済であり、貨幣は生活用品ではなく、尊厳の測定に用いられた。「名誉」は厳密に計量され、例えば、王の名誉は奴隷7名分とされた(実際の支払は奴隷ではなく牛21頭分だったが)。そして、奴隷の価値はゼロとされていた。貴族や王の名誉が、名誉代価ゼロの人間によって評価されることは一見奇妙に思えるが、個人の名誉が究極的には他者の栄誉を取り上げる権能に基づいているとすれば、これは理にかなっている。名誉とはゼロサム・ゲームなのである。

 

 

メソポタミア(家父長制の起源)
 人間経済から商業経済へ移行し、貨幣が生活用品の支払に使用され始めると、根底的かつ永続的なモラル上の危機が生じる。また、このモラル上の危機のなかにこそ、家父長制それ自体の起源をもみいだすことができる。
 シュメール語の文書に依れば、女性たちは職業上や政治参加上の地位を占めていたが、続く数千年にわたる「人間の進歩」の間、むしろ女性の自由は弱体化したようにみえる。なぜか。
 フェミニストは、国家や戦争の規模の拡大、中央集権化、軍事化により、女性の地位が脅かされてきたと述べるが、この議論に補足すべきことは、戦争と国家と市場は全て互いに育み合う傾向にある、ということだ(征服—徴税—市場の創設—兵士と行政官に依る統治)。これらが負債を爆発的に上昇させ、人間関係、特に女性の身体を潜在的商品に変容させる脅威となった。
人類学者たちは、彼女たちが再度売却されることはない、という点をもって、花嫁代償は妻の「購入」ではない、と論じたが。しかし、実際には、夫に負債がある場合、妻子は抵当に入り、債務の人質(ポーン)になり得た。貧者にとって、家族の構成員は、賃貸や売却が可能な商品になっていたのである。
「家父長制」とは、純潔の名のもとに大いなる都市文明を拒絶し、大都市に抗って父による統制の再画一を志す、という身ぶりのうちに起源を持っている。例えば、中東において「卑しからぬ(respectable)」女性が着用するヴェールの中では、彼女たちは特定の男性の私的領域に永久に帰属させられている。
娘たちに桁外れにのしかかる商品化の推進力(push)と、商品化されるあらゆる可能性から女たちを守るために父権を再強化しようと試みる人びとの反動力(pull)のはざまで、女性の形式的・実質的自由は、少しずつではあるがますます制限され消滅していった。

 

 

古代ギリシア(名誉と負債)
古代ギリシアでは商業経済の到来で債務危機が連続して発生したが、近東とは違い、ここでは負債懲役制度の制限、廃止が実施され、領土拡張政策が取られ、これにより奴隷が急増することになった。
奴隷の急増は、貴族以外の一般の市民も都市の政治・文化へ参加することを可能にしたが、旧貴族階級は、世俗化やモラルの荒廃として金銭と市場を軽蔑した。貴族たちは、贈与と名誉の文化を、商業経済の上位に位置付けたのである。
・自由とは、「事物を所有する権利」であり、「自由を所有する」ということは、「事物を所有する権利を所有する」ということとされた。これは、不必要なまでにねじれた議論だが、なぜ、こうもややこしくする必要があるのか。
それは、自由の譲渡可能性を導くためだった。自由の譲渡可能性は、奴隷制や債務奴隷の存在を論理的に肯定する。また、自由の譲渡可能性は、ホッブズに依る国家理論(市民は自然権を国家に譲渡して身の安全を図る)や、賃労働(自由の対価としての賃金)にもつながっていく。

 

 

 

(呟き)
・先日、著者のグレーバーの訃報を目にした。59歳だったという。もっとも「コロナ時代の著作を読みたい!」と思っていた人物だけに、とても残念だ。

『官僚制のユートピア』や『ブルシットジョブ』は、必ず読もう。
ひとまず、年内の『負債論』読破に向け、また頑張らねば。

現代社会の基盤となる自由や所有の原理が、奴隷制にまで遡るという論考は、凄まじくドラスティックなものに思えるが、これまで政治学のゼミで多少、似たような議論もしてきたので、とても興味深く読んだ。いずれ、同ゼミの他の世代が読んだという立岩真也『私的所有論』も併せて読みたい。