幽霊犬の備忘録

某市の職員。政治学を齧りジェンダーや経済思想に関心。

『福岡市を経営する』の感想 -「51対49」を巡る2人の政治家の意見

●『福岡市を経営する』を先日読んだが,立場上,感想はオープンには書きにくい。そこで,匿名のブログにて感想を書いてみたいと思う。
 なお,今回の感想は,全体を通してというより,とある1つのフレーズについてのものだ。

福岡市を経営する

福岡市を経営する

  • 作者:高島 宗一郎
  • 発売日: 2018/12/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

●本題に入る前に,全体としての感想をちょっと書いておく。この本や高島市長について,全体としては,評価はしあぐねているというのが正直なところだ。

 

・まず,これまでいわゆる市長案件に携わったことがほとんどない。以前の部署では,市長案件どころか,副市長案件,局長案件も無く,部長案件が数えるほどだった。今の部署では市長レクも経験したが,実際は,副市長までの議論で,ある程度整った状態に,市長からGOをもらうという程度の関わりだった。

ということで,自分は,市の職員としてというよりも,イチ市民として市長を評価することしかできない。

 

・では,市民として,市長をどう評価するか。できるか。
これが,非常に難しい。シティプロモーションや広報については,正直,抜群の感覚だろうと思う。それは,素直に高評価され得るものだろうと感じている。ほかに高島市長を象徴する政策といえば,スタートアップ関係,天神ビッグバン,宿泊税,ロープウェイあたりなのだろうが,一つ一つの政策について是非を評価するほど詳しくない。

ただ,根本的な問題として,市のあらゆる事業,意思決定のどこまでが果たして「市長案件」なのかが,外(市民)からは分かりづらいのだ。市長案件にも,a)市長からのトップダウン型と,b)最終的な決裁やレクでGOをもらう段で初めて市長に説明するボトムアップ型とがあるだろう。また,そもそも,c)副市長以下で意思決定が全て行われることもある。というか,c)が役所の仕事の大半だ。

・『福岡市を経営する』の内容については,全体としては,強い異論はない。むしろ「せやな」と思う部分は少なからずあった(もちろん,自著なので,良いことばかり書くものなのだろうが)。

そもそも,得てして「総論賛成・各論反対」になるのがこの手の政策論の話なのだと思うが,この本自体の多くの部分が総論で,書かれている各論も良い話が多いので,そりゃ反対の意見も持ちようがないのかもしれないが。

・つまり,そもそも論として,高島市長がどうこうというより「首長をどのように評価するのか」ということ自体が,べらぼうに難しいことなのだと思う。

 

●前置きが長くなったが,今回,もっとも語りたいのは,第3章「決断ースピードと伝え方が鍵。有事で学んだリーダーシップ」のp.57、

 

「51対49」というのが、もっともよい勝ち方です。 

 という部分だ。

 

第3章は,意思決定についての持論が書いてある章だ。
そこでは,素早い決断の必要性が強調されていて,それは,たしかにとても正しい。

しかし,気になる部分があった。

少し整理すると,この記述があったのは,下記のような文脈だ。

・リーダーとしての判断が間違っていたら、市民には「落選させる権利」があります。だからこそ、首長には「決める権利」があるのです。(p.78~) 

 

・決断をしないことがいちばんの罪。~やみくもに支援を求め、仲間の数を増やしていくのではなく、政治信念や政策の方向性を同じくする「同士」をひとりでも多く増やすことが重要です。その意味においては、「51対49」というのが、もっともよい勝ち方です。(p.96~97)

 

●この「51対49」という部分に気になったのは,この本を読む少し前に観た『なぜ君は総理大臣になれないのか』という映画で,まさに「51対49」というセリフを聞いたからだ。

www.nazekimi.com


この映画は,小川淳也衆議院議員に密着したドキュメンタリーなのだが,劇中,彼は,まさに「51対49」という全く同じ言葉遣いをしながら,全然違う趣旨のことを言っていた。

何事もゼロか100じゃないんですよ。何事も51対49。でも出てきた結論は、ゼロか100に見えるんですよ。51対49で決まってることが。政治っていうのは、勝った51がどれだけ残りの49を背負うかなんです。でも勝った51が勝った51のために政治をしてるんですよ、いま

(該当部分は,監督のインタビュー記事にも載っている)

webronza.asahi.com

 

・小川代議士の「勝った51が勝った51のために政治をしてる」という意見を聞いたとき,読んだ2つの本を思いだしていた。

まずは,
清水真人著『平成デモクラシー史』。

平成デモクラシー史 (ちくま新書)

平成デモクラシー史 (ちくま新書)

 

本書によれば,平成の政治改革は,官僚政治やそれと結びついた派閥・族議員による政治を脱し,首相のリーダーシップを強め,政治(首相・官邸)主導を目指しそうとしたものだった。具体的なものとしては,中選挙区制の廃止,小選挙区制の導入だ。これにより,自民党内の派閥争いや,いわゆる「族議員」の存在感は減じることになったが,その分,死票が増え,当選者による「勝者総取り」の構図が産まれることになった。

 

政権選択選挙」を勝ちきった首相が、その民主的正統性を背景に強いリーダーシップを発揮するのが時代の要請ともいえるし、「平成デモクラシー」の本質です。衆院選で勝つことこそ、権力の源泉ではあります。

https://shuchi.php.co.jp/voice/detail/4989

 

そして,今の自民党(というか安倍政権)は,その方向に過剰適用してしまっている,と。
かつて,自民党内にはハト派タカ派や○族と言われる多様性があったが,それが昨今失われている,と指摘する論者は多い。

また『行政学講義』では,公務員は「市民全体の奉仕者」たるべき存在だが、戦前との連続性、「勝者総取り」となる選挙制度、長らく続いた「自民党一強」体制といった様々な点から、実際には一党派的偏向があると指摘する。そして,最近は,官邸による人事権の掌握など,その偏向を強める動きがあるという。日本では,いわゆる猟官制を制度的に採用していない。タテマエとしての中立性の裏で,ホンネとしての党派的偏向が進んでいる,という状況だ。
(この本は,議員内閣制のうえで与党議員が大臣=トップとなる国家行政を主な射程にしていて,地方行政の場合は違った観点もあるだろうが,それでも共通する部分はあるだろう) 

これらの本の内容を踏まえると「勝った51が勝った51のために政治をしてる」という小川代議士のセリフは,近時の日本政治の問題点を鋭く見抜いた言葉なのではないか,と思う。

 

・決断を誤ること以上に,決断をしないことが問題となることも確かにあるだろう。
しかし,小川代議士の言い方と比べると,高島市長の「自分は選挙で選ばれた。その決断がイヤなら,選挙で自分をオトせばいい。」という言い方には,やや強権的な印象を持ってしまう。そもそも,代表制民主主義では,白紙委任はあり得ない。

また,決断をすること自体は良いとして,その「正しさ」の評価・審査は,やはり別途必要だ。
高島市長自身が本にも書いているが、議論の見える化や事後の検証のための記録等が必要だ。子ども病院の例が挙げてあったが,他の分野ではきちんと情報公開がされているのだろうか。国では,コロナの対応に関して,議事録が残されていないと報じられていたが,福岡市はどうだろうか。きちんと精査出来ていないが,報道等で,きちんと検証されるべきと思う。

●ただ,色々と書いてきたが,高島市長のスタンスを必ずしも間違っているとは言い切れず,むしろ「首長」としては,それが正しいスタンスなのかもしれない,いう気持ちも強くある(というか,書きながらそう思い始めた)。

高島市長,小川代議士,それぞれの政治家の意見は,必ずしも,どっちが正しい,と白黒ハッキリ付けられる話ではない。
そもそも,合議制のイチ構成員,しかも野党で現実的に「決定権」を持たない議員と,決定権を持ち,行政組織を現に動かしていかねばらならない独任制の首長とでは,必要な役割や望ましいスタンスも異なり得るのだろう。

 

●以前,福岡市職員(元・財政調整課長)である今村氏の本『財政が厳しいってどういうこと?』の書評として,自分はこういうことを書いた。

 

自治体の“台所"事情 財政が厳しい"ってどういうこと?

自治体の“台所"事情 財政が厳しい"ってどういうこと?

  • 作者:今村 寛
  • 発売日: 2018/12/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

髙島市長は、直接仕事で絡んだことは無いのだが、インタビュー記事を読んだりする限りでは、決断のスピードや強力なリーダーシップが「ウリ」の1つと思っていいだろうし、そのように市内外から評価されているように思う。著書はいずれ読む。
そういうリーダーをトップに持つ現役の市職員が、「対話」の重要性を説いていることは、バランスを取る意味で良いのかもしれないな、とも思った。
リーダーシップやトップダウンだけでは、空回りする。外面が良くても、仮に実態が伴わっていなければ意味が無い。そもそも、首長は有権者から白紙委任を受けている訳ではないし、健全な民主主義の為には、スピードだけでなく熟議や事後の検証が必要だ。ゆえに、首長を下支えする土台として、「補助機関」たる職員は議論(対話)や根拠、プロセスを積み上げていかねばならない。(首長自身がそういったことを蔑ろにしていい訳ではないが、人間である以上、1人で出来ることは物理的に限られる)。

 

このレビューは市長の本を読む前に書いたものだが,我ながら,良いことを書いているな,自分 笑。

 

『福岡市を経営する』を「これからの時代を創る仲間」向けの自己啓発本として読むのではなく,職員として読むのなら,市長に過度に共感し,同化してはいけないのだと考える。

高島市長が「51」を見極めるのならば,「補助機関」たる我々,行政職員こそが「49」を含む全体を眼差し,それらを取りこぼさないよう「全体の奉仕者」として振る舞わなければいけないのだろう。この本は,市長の役割と職員の役割をきちんと理解したうえで,いわば抑制的に読まなければいけない本だ。

公の業務における「PR」の自己目的化

自治体で仕事をしていると「PRすること」自体が自己目的化している例をときおり見る。


●前にいた部署では、隣の係が啓発の一環で登録制の市民ボランティアを募っていた。(固有名詞を挙げると身バレするので、「登録ボランティア」と仮称)

登録したボランティアには定期的に啓発情報がデータや印刷物で直接送られるので、それを地域で広めてもらうというもの。例えば、地域で見守り活動をしている民生委員の方に多く登録してもらっていた。中には精力的に活用して下さる方もいたようで、なかなか良い取り組みだったようだ。

さて、その部署では、年に1回、市政だよりに特集記事を載せることになっていたんだが、ある年の原案では、この「登録ボランティア」も紙面の隅っこに載せられていた。問題はその部分にあった。

原案では「地域の皆様と〇(部署)を繋ぐ「登録ボランティア」が活動しています!」とだけ書かれていた。

ここの意味というか意図が分からなかった。

「活動しています」  ・・・で?

そこで、担当者に載せた意図を聞いた。
自分「何かあったら登録ボランティアに相談しろ、ということ?」
啓発担当者「そういう訳ではない。そもそも誰がボランティアなのかは非公表。受け取った啓発情報をどう活かすかはボランティア個人の任意で、一切何もしないこともあるし、「登録ボランティア」という肩書を名乗るかどうかも自由。」
自分「では、登録ボランティアになりませんか、ということ?」
啓「そういう意図ではない。」
自分「じゃあ、これは何を伝えたくて書いているんですか?」
啓「登録ボランティアっていうのが活動しているよ、ということを知ってほしかった」
自分「それを知った市民は、どうすればいいんですか?」
啓「うーん、登録ボランティアっていうのが活動している、ということを知ってもらいたい、っていうことで・・・」

こんな調子だったので、原案から削除することを自分は提案した。
(結局、その文章は残ることになってしまったが、次年度分からはオチたようだ)

本当は、PRの目的をもっとハッキリさせるべきなのだと思う。
「知ってもらうこと」自体を目的にするのはおかしい。
必要なのは、更にその先。「知ってもらうこと」の目的を問わねばならない。

例えば、先ほどの市政だよりの例でいえば、そうやって年1の特集記事を組ませてもらっている趣旨・目的は、被害の未然防止・拡大防止のはずだった。いわば、その記事によって市民の行動を変えたいのだ。それなのに「登録ボランティア」の例だと、それを読んだ市民にどう行動して欲しいのか、まったく考えられていなかった。

●こういう例は、他にも多くある。
特に多いのが、「〇県の魅力をPRする」とか「〇市の特産品をPRする」とか、の魅力PR系だ。場合によっては、「プレゼンスの向上」という言葉が使われることもある。

問わねばならない。

いったい、魅力をPRする目的は何なのか?

得られる効果は何なのか?

それが、住民の福祉の向上にどう繋がるのか?

民間企業のCMなら、商品の魅力をPRすれば売上アップに繋がる。これが究極的な目的だ。
CSRや慈善事業関連で、ダイレクトに商品の宣伝をしない例もあるだろうが、それも、企業イメージの向上が売上のアップに繋がることを見越したもので、やはり中長期的な目線での経営戦略に基づいているものと思う。また、例えば、JTのCMなんかは、売上アップを目指したものではないが、規制が厳しくならないよう世論や政治家、官僚に「優良さ」をアピールする外堀の経営戦略とでも位置づけられるだろうか。)

それに対して、公の事業での魅力PRは、「その先にあるもの」が正直、不明確なものが多いのではないか。

目的として、移住・定住者の増加とか、地産地消とか、産品の生産・販売の拡大とか、そういうものを一応掲げてあることもあるだろう。それが条例の第1条に目的として書かれていたりもする。しかし、それらは抽象的なもので、具体的な目標値や効果が明確になっているか怪しいケースもある。よって、仮に目標値等が設定されていたとしても、定量的な評価が難しいので、来場者数や事業への登録数といった「それが達成されたから、何?」というような、よく分からない指標が無理やり設定されたりしている実情もある。ある意味、PDCAとかKPIとかの弊害。

 

※日本の地方自治における業績評価については、この本でも辛めに評価してあった。


このような指摘については、木下斉さんがたびたび行っている。
このような状況で、「コンサル」が跋扈しているのだろう。

toyokeizai.net


同じ木下斉氏の本として、他にも『地域再生の失敗学』の第1章も大いに参考になる。
「経済効果」という指標がいかに眉唾物なのか、という指摘もあった。

※そもそも、人口や移住定住者の増加を目標にすることの是非自体、自分は懐疑的だが。

●完全に余談だが「地産地消」というのも、よく「目的」として掲げられるのを見る。とにもかくにも「地産地消」自体が良いことのように語れるが、それが何を目指すものだったのか、というのも実は考えてみるとよく分からなかった。

そこでWikipediaに読んでみると1980年代においては、今と違った動機で地産地消が謳われていたことが分かる。
 

地産地消 - Wikipedia

当時の地産地消は、伝統的な食生活による栄養素・ミネラルバランスの偏りの是正によって健康的な生活を送るため(医療費削減圧力)、余剰米を解消する減反政策の一環として、他品目農産物の生産を促すため(食糧管理制度の維持)、気候変動に弱い稲作モノカルチャーから栽培農産物の種類の多様化によってリスクヘッジをするため(農家の収入安定)など、多様な経済的インセンティブによって推進された。

聞こえの良いスローガンを「目的」に設定することの不十分さを示す例と言えるかもしれない。

(考えてみれば、「地産地消」と、「外貨」獲得を志向した六次産業化等の高付加価値農業は矛盾する考え方なのでは。外に売る量が増えれば、その分、内では消費できなくなる。)

閑話休題


〇なぜ、こんなことになるんだろうか。

・まずは、目的意識の欠如だ。もっと「何のために?」ということを問うべきなのだ。それが「住民の福祉の向上」に究極的にどう繋がるのか。
・次に、上にも関連するが、コスパ、費用対効果の感覚の欠如だ。PRには、多大なコストがかかることはあまり意識されない。PRの機会や媒体は当然有限だ。金銭的なコストもかかる。それらのコストをかけてまで、そういったことをPRする必要はあるのか、そのリターンは何なのか、という視点が重要。
(悲しいかな、リターン測定をあえて曖昧にしている例もある。そのせいで、役所は既存事業をなかなか切れない。民間なら、「儲からない」「コスパが悪い」ことで合意形成無しで切れるはずなのに、公だと合意形成が事業縮小・廃止のハードルになる。)
・もう1つは、網羅主義の常態化だ。公務員は、議会や事業概要の作成等、あらゆる場面で、説明責任の観点から仕事の実績の見える化が求められる。当然、民主的に統制される必要がある事業は「全て」の事業なので、作成する資料は基本的に網羅的なものになる。たしかに、それは当然、行政の責務なのだが、PRや広報を同じモードで網羅的に行ってはいけない。
・もっと現場レベルに目を落とせば、前例踏襲というのがリアルな原因なのかもしれない。「よく必要性は分からないが、前任の時から作成している。」というようなものは、きっと数えきれないほどある。これはPRに限る話ではない。

〇ちなみに、広報については、過去に読んだこの記事が非常に刺激的だった。

www.holg.jp

一部引用する。

みんな「自分の課の情報が一番大事」です。でも、広報は市の情報を客観視し、優先順位を付けて発信するのが仕事。「これはリリースではなく記者会見で発表する」とか、「これは広報誌で2ページ使って丁寧に伝える」とか。逆に、「6月は何とか月間です」みたいな定例的な記事やアリバイ広報は縮小しようとか。   

 読む側の住民にとって、その月が何月間なのかは、極めてどうでもいいことなのだろう。仮に載せるとしても、「市民に何を知ってほしいのか」、「それを知ってどう行動して欲しいのか」、「それを知ることで住民の福祉の向上に繋がるのか」ということを最優先に考えるべきなのだ。

 

●オマケ

書き終わって、あとはUPするだけの状態で、こんなニュースが出た。

www.tokyo-np.co.jp

例によって木下斉氏もこう言っている。

こういう「やってる感」だけを整えようとする働き方はしたくないなぁ。

小泉議員の育休取得についての雑感(育休だけを解決策にしてはいけない)

小泉議員が育休を取った際に書いていたが,ずっとアップしてなかった記事を見つけた。

 

今更だが,アップしておく。

(時機を逸しても内容的には問題ないはず)

 

育休という「権利」について,これまでいろんなことを考えてきた。

 

・育児は「権利」であり,生産性を持ち出す必要はない,ということ。

「父親の育児は仕事にも活きて生産性も上がる」なんて言わなくていい - ghost_dog’s blog

・育休は「母親がいったん職場を離れたとしても,やめなくてもいい」ということを担保するもので母親にとっての制度であるため,「父親が育児をする権利」としてアップデートさせねばならない,ということ。(例えば,その一つとして,育「休」ではなく,育児修行とか,親時間という名前へ変更すること)

育休について(その2) 思考実験ー生活保護受給者が育休を取れるのか? - ghost_dog’s blog

・日本における父親の育児は,義務として啓発されてきたが,これからは権利の問題として考えなければならない,ということ。

育児=権利の時代 【#もっと一緒にいたかった 男性育休100%プロジェクト】 - ghost_dog’s blog

 

こういう点から,男性の政治家やリーダーが積極的に育休を取得していくことは望ましいと思う。

 

しかし,やはり,男性の育休取得は,「母親がワンオペ育児を強いられない権利」の側面から位置付けていくこともやはり同様に必要だろうと思う。これらは,必ずしもイコールではない。

 

そもそもシングルマザーや,父親が単身赴だったり病気だったりで,父親が育児の手助けをできない場合だってある。

 

母親だけの育児はもちろん問題だが,それが夫婦2人での育児に変わるだけでは不十分だ。

もっと視野を広げて,社会での育児を目指すべきだ。

 

もちろん,その中で,男性の育休取得推進は,大きな柱になるだろう。しかし,決して,唯一の,必要十分の解ではない。

 

小泉議員が育休を取ったが,育休以外のソリューションについても,尽力していただくことを期待したい。

 

たしかに政治家の育休取得は,「私も育休を取ったから,他の父親もぜひ育休を取ろう!」というメッセージとして,とても大いなる意義がある。しかし,それだけでは足りない。

 

例えば「育児をして,大変さが分かった。自分ですら大変で,いわんやシングルマザーをや。」というような発想で,育休の体験を活かしてもらいたいと思う。

自治体戦略2040構想研究会報告書についての雑感

大学卒業後、10年ほど経つが、出身の政治学ゼミにはときどき顔を出させてもらっている。先日参加したゼミ(ZOOMで実施!)は、総務省自治体戦略2040構想研究会の報告を読んで議論するというものだった。

この研究会や報告については断片的に知っていたが、これを機に報告書を通して読んでみたので、雑感を書いておく(主に第二次報告書)。
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/kenkyu/jichitai2040/index.html

 

●スマート自治体への転換
・特に異論はない。
・例えば、生活保護支給のための算定システムは、各自治体が個別にシステム業者に委託して構築しているものと思う。他方、消費者行政では、独立行政法人国民生活センターが構築した一元的なシステムを、全国の自治体で活用している。消費者行政で行えることを、他行政で行えないはずはないと思う。特に、生活保護法定受託事務だし、本来は、国が面倒を見るべきとも考えられるだろう。
・システムが自治体ごとになっているデメリットは2つある。
まず、システム刷新や保守等にかかる費用・手間の問題。法改正があるたびに、各自治体でその対応が必要になっている。
もう1つは、情報集約の問題。消費者行政の場合、自治体で受け付けた相談情報が、ダイレクトに消費者庁の政策に繋がっていた。そういうものが無いと、結局、本省から「照会」が出され、それぞれの自治体がデータ化して回答しないといけないという手間が生じる。
・もちろん、一元化することで、システムに支障が出た場合、致命的な事態になるという懸念はある。例えば、データセンターが災害で機能不全になることも考えられる。しかし、消費者庁では、バックアップを遠隔地に設置し、データセンターの分散化を図るなどの対策を講じている。やりようによっては、上手くいくだろう。
自治体間の一元化と共に、複数業務の一元化も課題の一つ。例えば、生活保護は、戸籍・住民票、福祉介護、障がい、税等の複数の情報を活用しながらでないと実施できないが、「紙で出力されたものを手作業で入力」した経験は何度もある。こういったことが改善されれば、自治体の負担は大きく減るだろう。

 

 

●公共私によるくらしの維持
新しい公共私相互間の協力関係の構築により、くらしを支えていくための対策を講じる必要がある」とある。
これについては、
自治体の職員は関係者を巻き込み、まとめるプロジェクトマネジャーとなる必要がある。自治体においては、公共私を支える人材の確保・育成が重要な課題となる。ワークライフバランスやワークライフミックスを実現しやすい地方圏においては、定年後だけではなく停年前から、新たな活躍の場や豊かな生活環境を求める人材が移住しやすい環境を整備していくことが重要である。(p.29)」

とある。プレーヤーではなくマネージャー、という立ち位置は、政治学を学んだ恩師からも言われたことで、賛同する。しかし、具体的にはどういうものなのか、あまり言及がなく、イメージが湧かない。
ただ、そもそも、公・共・私、それぞれの機能が低下している以上、総量としては機能低下が避けられないのも事実ではないか?AIなどの活用で効率化を図っていくことは必要だが、それ以上にむしろ必要なのは、既存のサービスを是が非でも提供していくことではなく、くらしを支えるために必要なサービスの見極めではないだろうか。端的に、どこまでがneedでどこからがwantなのか、を見極めること。その場合、圏域のようにスケールを大きくしていくことは、どのような効果を持つのだろうか。意思決定はかえって困難になるのでは?

 

 

●圏域マネジメントと二層制の柔軟化
・もっとも論争的な「問題」はここだろうが、これがどう「問題」なのか理解するにはある程度の下地が必要で、実務経験が無い大学生にはなかなか大変だろうと思われる。

 


・そもそも「市町村、都道府県、国の役割はそれぞれどこまでか」という問題自体が、べらぼうに難しい。

まず、総論的に、今井照『地方自治講義』の指摘を振り返っておきたい。

地方自治講義 (ちくま新書)

地方自治講義 (ちくま新書)

 

 

 

同書では、集権/分権だけでなく、分離/融合の軸で考えるべきという「天川モデル」が言及され、集権/分権かはさておいても、少なくとも日本の地方自治は「融合型」であると論じられていた。歴史的に、国は富国強兵、殖産興業を優先したいがために、負担を減らす為、長らく地方に仕事を押し付けてきた一方で、権限・財源は渡してこなかった、と。

具体的に、経験した業務にも引き付けて考えてみる。
もし町村で生活保護を受けたければ、県の福祉事務所が管轄となる一方、市の住民ならば、市役所が管轄することになるというあたりもややこしい(「福祉事務所」の設置義務の関係)。現に、那珂川市は、つい最近、人口10万人突破で町から市になったが、それを機に、生活保護業務を抱えることになった。かように、市町村(基礎自治体)と都道府県の関係は、実は明確ではない。それぞれの業務ごとに多彩なグラデーションがある。
更に言えば、生活保護業務は法定受託事務で、(住む地域で物価が違うため係数をかけて基準額には差をつけてはいるものの、)基本的に国の責任で国民の生存権を保障する全国一律の制度なので、市町村か都道府県かという枠を超えて、国の機関が実施すべきという考え方も可能かもしれない。

生活保護以外にも目を向けてみると、政令指定都市中核市は、一部、県の権限を持っていたりするので更にややこしい。

政令指定都市』では、政令指定都市とは、大都市統治制度としての性格が希薄な妥協の産物であり、あくまで「特例措置の束」でしかない、と喝破されていた。手元に本が無いのでうろ覚えだが、たしか、県に対して、政令市が7割、中核市が5割、特例市が3割ほどの権限を持っていると書いてあった。
(なお、同書では、本庁(市長)と区役所(区長)の役割を大幅に見直そうとした元大阪市長の橋下氏の取組も検討されていて、自治体の役割分担論として非常に示唆に富むので、オススメ。)

 

 

・この報告書は「圏域」の実体化により、いわゆるスケールメリットを働かせようとしているが、今井照氏は、国策としての合併に否定的で、報告書の「圏域」についても、その延長として捉えている。「単位が大きく、数が少なければ効率的」と言われれば、素朴にそんな気もするが、合併政策の検証がまず先だと今井氏は指摘する。

 


・そもそも、「圏域」は、地方自治体のためではなく、あくまで「国益」のためのものという見方もある。例えば、報告書にはこんな記述もある。

「生活実態等と一致した圏域を、各府省の施策(アプリケーション)の機能が最大限発揮できるプラットフォームとするためには、合意形成を容易にする観点から、圏域の実体性を確立し、顕在化させ、中心都市のマネジメント力を高める必要があるのではないか。個々の政策で、圏域単位での対応が合理的な取組を促進する手立ても必要なのではないか。(p.20)」

「各府省の施策」のためには、たしかに、相手方が少ない方が都合が良いのかもしれない。
しかし、国が間違っていた場合はどうなる?
地方自治講義』では、国へ一元化されると、誤った場合の犠牲が大きいため、権力の分節化が必要と論じていた。確かに、分節化で各々の熟度は下がり、失敗の確率は上がるかもしれない。しかし、小さな失敗を重ねた方が回復困難な失敗を1つするよりましで、地方自治はその重要な柱だと。そもそも、自治体を、各府省の施策の拠点と考えること自体、「補完性の原理」の考え方に反するとも言える。

 

・「中枢都市」のまわりにいる連携市町村にとっては、相対的に意思決定の重みを失うという懸念もある。憲法が要請する住民自治という観点からも議論が必要だろう。なお、その観点から、弁護士会が「圏域」批判をしており、非常に読みごたえがある。
https://www.nichibenren.or.jp/document/opinion/year/2018/181024.html

 

・とは言うものの、この指摘も理解できる
「個々の自治体が短期的な個別最適を追求し、過剰な施設の維持や圏域内での資源の奪い合いを続ければ、縮減する資源を有効に活かせないまま、圏域全体、ひいては我が国全体が衰退のスパイラルに陥る。現在の自治体間連携を超えて中長期的な個別最適と全体最適を両立できる圏域マネジメントの仕組みが必要である。(p.30)」

個別最適と全体最適というのは、この本を読んで以来、個人的に重要なテーマだ。個別最適の積み上げが全体として破綻を招く問題は、合成の誤謬とも呼ばれる。

自治体の“台所"事情 財政が厳しい"ってどういうこと?

自治体の“台所"事情 財政が厳しい"ってどういうこと?

  • 作者:今村 寛
  • 発売日: 2018/12/13
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

この本で、今村氏は、財政当局の課長経験者として、個別最適ではなく全体最適を志向する必要性を説き、そのために「対話」の重要性を説いている。例えば、福岡市では、財政当局による全事業の個別査定ではなく、枠予算方式への転換が図られている。これは、局ごとに枠予算を持たせ、局内で調整をさせるという方式で、意思決定のレベルを一か所に集約せず、各局に分散させ、局内の対話を促し、それによって全体最適を目指す取り組みだ。

他方、圏域のスタンダード化は、この枠予算や対話重視の思想とは真逆を行っているように思える。意思決定の主体は、分散どころかむしろ集中することになる。また、規模を大きくしていけば、その分、対話は行いにくくなるだろう。そもそも、国の施策のためのプラットフォームとして地域を捉える考え方からは、そもそも対話は不要ということなんだろうか。

映画『否定と肯定』を観た感想(ネタばれあり)

Amazonプライムで配信されていて、今更ながら観た。

否定と肯定 (字幕版)

否定と肯定 (字幕版)

  • 発売日: 2018/06/20
  • メディア: Prime Video
 

 

ネタバレ込みで、いくつか感想をば。

・印象的だったセリフの1つ。
被告のデボラが、勝訴後の記者会見で述べたセリフ。 

表現の自由を妨げる判決と言う人も。そうではない。私が戦ったのは悪用する者からその自由を守るためです  

 ・次に印象的だったのは、デボラ自身が証言をしないことや被害者に証言をさせないという訴訟方針を貫くことが、被告であるデボラ氏の「自己否定(self-denial)」に繋がることと言及されたシーン。歴史修正主義者による「否定」と戦うため、自己否定が避けられないという不条理さ。この点を考えても、『否定と肯定』という邦題はミスリードになっている。裁判は歴史戦の1つのピースでしかなく、明快なハッピーエンドとは捉えられない映画。

・最後に、終盤、裁判官から「アーヴィングがホロコーストは存在しなかった、と本心から信じていたのだとしたら?」という趣旨の問いかけがなされたことがずっと頭から離れない。

 

‬結局、アーヴィングは「ホロコーストの存在を本当は理解しておきながら、自身の政治信条のために事実を歪曲し、否定した」と認定され、敗訴し、一応は、ハッピーエンドということになった。

 

しかし、この映画から離れて現実世界のことを考えてみたとき、そう楽観的には捉えられないことに気づいてしまう。

 

裁判官が言うように、たしかに、本心は断罪できないし、裁けないのだ。「素朴な差別主義者」とでも言おうか、そういう人たちを法で規制することは極めて困難なのだ。

 

アーヴィングは、多数の文献を参照して自ら著作を出版し、歴史家を自称していたからこそ、その「否定」の不当さを認定された。

しかし、もしもアーヴィングが「素朴な差別主義者」だったのならば、彼は勝訴していたのかもしれない。

 

現実問題、アーヴィングのような歴史家は、極めて稀な存在だ。おそらく99%の差別主義者が、アーヴィングのような人物の著作や記事、動画等に感化された「素朴な差別主義者」なのだろう。99%の素朴な差別主義者は、アーヴィングのような1%の意図的な差別主義者に支えられている。

 

・・・いや、問題はもっと根深いのかもしれない。

以前、映画『主戦場』を観た。

映画を観た人は分かると思うが、劇中に登場した従軍慰安婦否定論者たちは、多くの民衆に対して多大な影響を与える立場にありながら、とてつもなく「素朴」だったのだ(特に、最後に登場した日本会議加瀬英明氏の素朴さは際立っていた)。

彼らは、歴史学者による専門的な検証を否定するというより、そもそも視野に入れず、独自の「価値観」から歴史を構築している。そして、それに99%の素朴な差別主義者が追随しているのだ。つまり、ここには「素朴な差別主義者」しかいないことになる。『主戦場』の最も衝撃だった点はここだ。

 

彼らの「暴走」をどう法的に止めればいいのか。

以前『ヘイトスピーチ』という本を読んだ。

 

 本書によると、ヨーロッパ等では、ホロコースト否定自体を法的に規制している例があるようだ。そのような制度であれば、「素朴な差別主義者」であっても規制されるだろう。ただし、当然、そのような制度化は非常に難しい。



歴史修正主義者」には議論の場を与えない、両論併記の俎上に載せない、というのは1つの重要な戦略なのだろうと思う。しかし、彼らが勝手に「場」を作り、自己増殖していくことをどう止めればいいのか。

ヘイトスピーチ』から、引用しておく。

どの程度の自由をレイシストに与えるべきなのか。その最終的な答えはこれである。歴史を見て、文脈と影響に注意せよ。原則を練り上げ、友人を説得し、議員に訴えよ。そして、うまくつきあっていける価値のバランスとともに歩んでいくのだ。  p.273

解決は容易ではない・・・。

 

否定と肯定』。とてつもなく重い課題を投げかける映画だった。ぜひ、多くに人に観てもらいたい。

コロナが流行っていても行政(公務員)は不急の業務をなかなかやめられない

とある自治体で事務職員をやっている者です。

 

1 不要不急なものは中止・延期となる現状

2020年4月現在,コロナウイルスが全世界的に猛威を振るっている。

他国では,外出原則禁止の措置が取られたりとか。いわゆるロックダウンというヤツ。

日本でも,「緊急事態宣言」が出され,不要不急の外出の自粛が要請された。

イベントは中止・延期され,公共施設は多くが閉鎖。

学校も休校。退職,就職,異動にあたっての歓送迎会も中止するよう通知も来た。

友人,知人の結婚式も延期になった。

飲食店も客が少ない。

人が密集するのを避けるため,通勤時間をズラす「時差出勤」も実施されている。

当面の間,出張も原則禁止とされた。

スペインでは,不要不急の労働の禁止が打ち出されている。

保育園では,可能な限り家庭保育をしてくれ,という要請もされている。

 

ここまで慎重な対応を取るのは,万が一,感染が確認されたときの影響がとてつもなく大きいためだ。

 

北九州市役所では,区役所職員の感染が確認された翌日,年度末の超繁忙期であるにもかかわらず,消毒のため,臨時閉鎖された。

数週間前には,危機管理部署から「職員に感染者が出た場合,課の全員が最大2週間出勤できない。それに備えて,対策を考えろ」という通知も来た。

(こういう分かりきったことを書いているのは,数年後に,このブログを読み返すときのため)

 

 

2 公務員の現状

しかし,自分の周りを見ていると,役所の職員は,いつものように出勤し,いつものように働いている。

他の民間企業のように「仕事をしないと売上が落ちて稼げない」訳ではないにも関わらず。

「いつ,どこからの誰かの感染が確認されてもおかしくない」状況であるにも関わらず。

まるで,自分たちだけは感染しない,かのように。

 

いや,違うな。

感染リスクを抱えて出勤している,ということはみんな分かっているんだ。

職員の間では「どこかの誰かが実は感染してるってことも,全然あり得るよね」という会話もしている。そのうえで変に目立ちたくないので,「とにかく感染確認第1号にはなりたくないよね」という思いをみんな持っている。

 

もちろん,こういう状況だからこそ忙しい部署というのは間違いなくある。防災・危機管理,衛生,保健福祉,広報,報道,経済対策,公共施設担当,教育担当等々。公共料金の支払い猶予という国の方針もあり,債権担当のあらゆる部署が対応に追われているようだ。

自分もまさに,コロナを考慮して公共施設の利用を取りやめた場合のキャンセル料の取扱いについて庁内調整をする必要があり,先日はかなりバタバタと働いていた。

 

だが,役所の中は,そういった仕事ばかりではないはずだ。

端的に,「不要不急の公務」も相当の数,存在しているのではないかと思われる。

 

行政という組織や公務員は,そういう仕事を「不要不急」として棚上げすることが極めて難しい。今回,ブログで書きたいのはこのことだ。

 

今日も,緊急事態宣言期間中も絶対に継続せねばならない仕事や,そのうちテレワーク移行が可能な仕事を洗い出すよう,上から指示があったが,結局,当面「粛々とやる」ということになった。

 

3 熊本地震の際の幹部のぼやき

熊本地震が発生して1か月頃のことだったと思うが,熊本市役所へ支援業務に行ったことがあり,幸いにも,某幹部職員の話を聞く機会があった。

その時期は,多くの住民が避難所生活で,水道等のインフラの復旧も十分でなく,毎日,災害対策本部が実施されているというような「緊急事態」の状況だった。

 

その幹部は,そのような状態にもかかわらず,職員が粛々と通常業務をやろうとし過ぎる,ということに苦言を呈していた。

具体的な例として,そもそも開催可能かどうか分からないようなイベントの実行委員会の立ち上げの決裁が回って来た,という話があった。その幹部は「この緊急時に,そんな決裁を上げて来るな」と突き返したそうだ。

 

4 日本的組織の「習性」

このようなことになってしまうのは,次善の策,プランB,撤退戦の想定がされていない,という日本的な組織の「習性」なのだろうか。

 ベストのプランAが崩壊したときに,ワーストに行くのを避けるために,ベストを捨て,ベターを選ぶという発想。災害時に限らず,日々の仕事の中でも,「一点突破」ではなくプランBを持っておく重要性は痛感しているんだが,あまり行政という組織はプランBを好まないように思える。

 これは何故なのだろうか。未読だが『失敗の本質』はいつか読みたいところ。

 

 ときおり「小さく生んで大きく育てる」という言葉遣いをする人がいるが,持論では,行政はこんなことを安易に言ってはいけない

 民間であれば,儲からなければ批判を恐れず,大きく育たなかったものを切ればいい。

 しかし,公共では,安易に切ることは難しいからだ。

 

  ちなみに,こんな記事を先日読んで,戦慄した。

神風に期待する大日本帝国の時代から,何も進歩していない。

 

朝日新聞「森会長が語る舞台裏 「なぜ1年」問われ首相は断言した」

https://www.asahi.com/articles/ASN306X98N30UTQP01N.html

>来夏になっても新型コロナウイルスの感染が終息しない場合、五輪は再延期されるのか、それとも中止となるのか。森氏は「今はそういうことは考えたくない。賭けたんだよ、21年に。科学技術の進化がなかったら、人類は滅亡してしまう」

 

5 「すべて必要」の前提で動く行政固有の構造的な課題

ただ,そういう日本的組織としての「習性」だけでなく,行政という組織ゆえの固有の構造もあるのだと思う。以前,どこかでも書いたが,行政が行う仕事は「全て必要」で不要な業務などない,という前提で動いている。なぜなら,その年度の事業は,全て予算案というかたちで議会の承認を得て,民主的な正当性を得ているからだ。

「仕事をなかなかやめられない」という硬直性は,もともと,行政や公務員が抱えている構造的な課題だが,災害時には,それが表面化,顕在化するということなのだろう。

 こういう場合,「やるべきこと」の対応が優先され,「何をやめるべきか」を詰める余裕が持てないことで,「やるべきこと」の対応を困難にするという悪循環が発生しがちである。

 

全体最適」のために,不要不急の業務を担当している部署はあえて「頑張らない」ことが必要なのかもしれない。しかし,現実的に,そういう不要不急の部署は,どうやって身を引けばいいのだろうか。ヒラの職員は,何が出来るのだろうか。

 「この事業を休止(延期)したいです。」という起案を上げていく?

 超タイトスケジュールで「やるべきこと」をこなして,忙しく指示を飛ばしている上司の時間を取って?

 「そんなことを,今,上げてくるな」と言われるのがオチなのだろうか。

 

 結局は,「やめろ」という「上の指示」を待つしかないのだろうか。

 そんな受動的なことしか,出来ないのだろうか。

  

 

オマケ 「不要不急な業務を休ませろ」というストライキ

世界では,コロナが猛威を振るう中,「不要不急の自分の業務を休ませろ」というストライキ運動もあっているようだ。それを受けて,「日本でもストライキによって不要不急の労働を拒否できる」として,ストライキの権利を解説する記事もあった。

 

(少なくとも2020年現在)公務員のスト権は保障されておらず,手段として現実的とも思えないが、ストしたい気分だ。

 

「不要不急の労働」を拒否する人々 新型コロナで世界に広がる「ストライキ」の波

https://news.yahoo.co.jp/byline/konnoharuki/20200401-00170848/

「父親の育児は仕事にも活きて生産性も上がる」なんて言わなくていい

2016年8月にFacebookで書いていた記事だが、こっちにも転記しておく。

 

●最近、ワークライフバランスとか、父親の育児とかの話題で「父親が育児に参加した方が、仕事の生産性が上がる!」みたいな議論をときどき目にする。

 

こういう話は、確かに一見良いと思う。どちらかを犠牲にしなければいけないのではなく、どっちも出来るんだ、と勇気をもらえる。

 

でも、実はどこかで違和感を覚えていた。

 

そして、つい最近、その違和感の原因は何だったのか、例の相模原の障害者施設連続殺傷事件の報道をきっかけに分かった気がしたので、覚書として書いてみる。

 

 

●自分が違和感を覚えたのは、「生産性」とか「効率」とか、そういうこととセットでしか、「子供を産み育てる」という営みが承認されない社会になってはイヤだな、と感じたからだと思う。


「育児しても生産性は下がらない、きちんと労働力として役立つ。だから、育児に積極的に」という議論が力を持ちすぎて、変な受け取られ方をされて、間違った方向に行くことを危惧している。

「生産性」が確保されなければ、育児が評価されない、という間違った方向に行くことを。

 

子どもを産み育てることに、生産性が上がるとか、他の何かの条件、プラス要素は本来必要ない。


「権利は権利として」尊重されなければいけない。


仮に、どんなに生産性が落ちようと、どんなに周りに迷惑をかけようと、どんなに育児に社会的なコストがかかろうと、「子供を産み育てる」ことが【権利】である限り、それは尊重されなければならないはずだ。

 

 

●ひっくり返して考えてみよう。
子どもを産んだら、育児をしていたら、本当は生産性が下がるという研究結果が仮に出てしまったとして、それを理由に出産、育児を否定されたとしたら。。。出産、育児は否定されなくても、逆に「二流の労働者」として職場で冷遇されたら。。

 

納得できるだろうか?親は申し訳ない気持ちで、肩身狭く子供を産み育てなければいけないんだろうか。

 

また、人口減、少子高齢化の時代だから、という背景で「子供を産み育てることは素晴らしい」と称賛することも違うと思う。

 

前にFacebookでも書いたけど、国家とか、人口とか関係ない。その子、その親の権利の問題として、出産・育児は支えられなければいけない。


国の人口が増えすぎていて、それを理由に出産、育児を否定されるのはおかしいのと一緒で、国の人口が減ってることを理由に、出産育児が称賛されることもおかしい。

 

 

育児出産が称賛されることがおかしい、のではなく、その理由として、生産性とか、国家とか人口が持ってこられるのが、おかしいということが言いたい。生産性とか、人口とか、関係ない。  

 


子どもを産み育てるという営み、それ自体を認められるような社会にならなければいけない。

 

●「生産性は下がらない、むしろ上がる」という声に期待してしまうのはある程度仕方がないんだろう。自分もそうだ。感情として、迷惑をかけたくない、迷惑をかけていて申し訳ない、という気持ちから、「その分、こうやって役立ちますよ!」と言いたい気持ちになるんだろう。それで、自分がかけた迷惑の罪悪感が少し拭える気がするから。


でも、そういう「迷惑をかけてはいけない」、「どこかで取り戻したい、取り戻さなければいけない」、という圧力が強迫観念になってはいないだろうか。また、それが、他人に、社会に、押し付けられてはいないだろうか。

そして、その行き着く果てが、相模原の殺傷事件だったんではないだろうか。

誰かに貢献するとか、生産性とか、そういうことが出来る人はもちろん素晴らしい。
でも、【権利】は、そういったことの対価ではない。権利は、権利としてある。特に、生存権は、本来何の条件も要らないはずだ。

 

今回は、育児の話を起点にしたが、問題は育児だけに留まらない。

経済効率とかそういうことを抜きに、何かとの引き換えでなくてもいい、純粋な【権利】の主張が出来る社会でないと、生きにくい。

 

色々グダグダ言ったけれど、結局、違和感の正体は「もしもこう間違って捉えられたら嫌だな」っていう、「もしも」の話なので、実際は「育児も仕事もどちらも諦めずに欲張りに楽しもうぜ!」っていう意見はどんどん広まってほしいな、というのが本心

 

 

●(余談)
こんなことをモヤモヤ考えているときに奇しくも、先日、映画『海猿』がテレビであっていて、気になる、というか残念なシーンがあった。

 

主人公を含めた要救助者を助けるには、国家プロジェクトで1500億円かけて作った重要施設を沈めなければいけない、という状況。


人命救助を第一とし、施設を沈める必要性を説く海上保安庁の下川課長(主人公の先崎潜水士の元上司。人格者キャラ。演じるのは俳優の時任三郎さん)に対し、内閣参事官が「あそこに残っている5人は、1500億を沈めてまで助ける価値のある人間なのか?」と問うた。

それに対し、海上保安庁の課長は毅然と「私にはその質問の意味が全くわかりません」と答えた。

 

このシーン、「価値があります」ではなく、「質問の意味が分からない」と答えたことが、素晴らしいところ。人名と金銭をそもそも天秤にかけること自体がおかしい、のだと。この返しは、すごく良かったと思う。

 

だが、何故か、これで終わらなかった。

救助後、内閣参事官が、施設を沈めた経緯について、電話で責任を追及されているシーンがある(相手は政治家?)。彼は、「様々な条件が重なって」的な弁明をしていたところ、ふと目をやったテレビニュースで、救助された主人公先崎潜水士が、妻子と再会し笑顔を浮かべている様子を目にする。彼は、それを見て表情を変え、「沈めたのは私の責任です(キリッ)」と批判の矢面に立つことを覚悟した。
そして、その後、下川課長のもとへ行き、一言。「報告をすぐに上げなければいけないが、単に人命がかかってたから、では納得されない。彼らが救助に値する人間だと強調して報告書を書こうと思う(キリッ」(うろ覚え、大意)

・・・いやいや、このくだり、要るか?

下川課長の「質問の意味が全く解りません」で終わりでいいやん。
正直、この内閣参事官のセリフを聞いたとき、「こいつ、なんも分かってねぇ・・・」ってあきれてしまった。
要救助者がどういう人なのかはどうでもいい。社会に貢献出来ない人でも、どんなに迷惑な人間だとしても、人命は優先されんとおかしい。

命に勝手に序列をつけるんじゃねぇよ。

 

●この投稿をするかどうか、相当迷った。
自分の書きぶりが、「育児中なんだから迷惑をかけさせろ」って開き直って我儘を言っているように読まれるかもしれない、と思って。
それは本意というか、一番言いたいことではない。
人に迷惑はかけたくない。迷惑、負担をかけて申し訳なくて辛い。自分なりに、育児をしながら仕事をしている身として、本当に周りの人に迷惑とか負担をかけて申し訳ないという気持ちを抱きながら、それを悔しく思いながら、そして何より、周りのいろんな方に感謝しながら、毎日を生きているつもり。そして、育児をしていれば何でも許される、というものではないということも分かっているつもり。急に仕事を休まないといけなくなったときのために、仕事の優先順位をきちんと考えるとか、出来ることはしていかなければいけない、と思っている。

でも、やっぱり、権利を、条件付きではなく、ただ権利としてシンプルに主張することができる社会になってほしい、と思ったから、今回こうやって投稿させてもらいました。