幽霊犬の備忘録

某市の職員。政治学を齧りジェンダーや経済思想に関心。

公の業務における「PR」の自己目的化

自治体で仕事をしていると「PRすること」自体が自己目的化している例をときおり見る。


●前にいた部署では、隣の係が啓発の一環で登録制の市民ボランティアを募っていた。(固有名詞を挙げると身バレするので、「登録ボランティア」と仮称)

登録したボランティアには定期的に啓発情報がデータや印刷物で直接送られるので、それを地域で広めてもらうというもの。例えば、地域で見守り活動をしている民生委員の方に多く登録してもらっていた。中には精力的に活用して下さる方もいたようで、なかなか良い取り組みだったようだ。

さて、その部署では、年に1回、市政だよりに特集記事を載せることになっていたんだが、ある年の原案では、この「登録ボランティア」も紙面の隅っこに載せられていた。問題はその部分にあった。

原案では「地域の皆様と〇(部署)を繋ぐ「登録ボランティア」が活動しています!」とだけ書かれていた。

ここの意味というか意図が分からなかった。

「活動しています」  ・・・で?

そこで、担当者に載せた意図を聞いた。
自分「何かあったら登録ボランティアに相談しろ、ということ?」
啓発担当者「そういう訳ではない。そもそも誰がボランティアなのかは非公表。受け取った啓発情報をどう活かすかはボランティア個人の任意で、一切何もしないこともあるし、「登録ボランティア」という肩書を名乗るかどうかも自由。」
自分「では、登録ボランティアになりませんか、ということ?」
啓「そういう意図ではない。」
自分「じゃあ、これは何を伝えたくて書いているんですか?」
啓「登録ボランティアっていうのが活動しているよ、ということを知ってほしかった」
自分「それを知った市民は、どうすればいいんですか?」
啓「うーん、登録ボランティアっていうのが活動している、ということを知ってもらいたい、っていうことで・・・」

こんな調子だったので、原案から削除することを自分は提案した。
(結局、その文章は残ることになってしまったが、次年度分からはオチたようだ)

本当は、PRの目的をもっとハッキリさせるべきなのだと思う。
「知ってもらうこと」自体を目的にするのはおかしい。
必要なのは、更にその先。「知ってもらうこと」の目的を問わねばならない。

例えば、先ほどの市政だよりの例でいえば、そうやって年1の特集記事を組ませてもらっている趣旨・目的は、被害の未然防止・拡大防止のはずだった。いわば、その記事によって市民の行動を変えたいのだ。それなのに「登録ボランティア」の例だと、それを読んだ市民にどう行動して欲しいのか、まったく考えられていなかった。

●こういう例は、他にも多くある。
特に多いのが、「〇県の魅力をPRする」とか「〇市の特産品をPRする」とか、の魅力PR系だ。場合によっては、「プレゼンスの向上」という言葉が使われることもある。

問わねばならない。

いったい、魅力をPRする目的は何なのか?

得られる効果は何なのか?

それが、住民の福祉の向上にどう繋がるのか?

民間企業のCMなら、商品の魅力をPRすれば売上アップに繋がる。これが究極的な目的だ。
CSRや慈善事業関連で、ダイレクトに商品の宣伝をしない例もあるだろうが、それも、企業イメージの向上が売上のアップに繋がることを見越したもので、やはり中長期的な目線での経営戦略に基づいているものと思う。また、例えば、JTのCMなんかは、売上アップを目指したものではないが、規制が厳しくならないよう世論や政治家、官僚に「優良さ」をアピールする外堀の経営戦略とでも位置づけられるだろうか。)

それに対して、公の事業での魅力PRは、「その先にあるもの」が正直、不明確なものが多いのではないか。

目的として、移住・定住者の増加とか、地産地消とか、産品の生産・販売の拡大とか、そういうものを一応掲げてあることもあるだろう。それが条例の第1条に目的として書かれていたりもする。しかし、それらは抽象的なもので、具体的な目標値や効果が明確になっているか怪しいケースもある。よって、仮に目標値等が設定されていたとしても、定量的な評価が難しいので、来場者数や事業への登録数といった「それが達成されたから、何?」というような、よく分からない指標が無理やり設定されたりしている実情もある。ある意味、PDCAとかKPIとかの弊害。

 

※日本の地方自治における業績評価については、この本でも辛めに評価してあった。


このような指摘については、木下斉さんがたびたび行っている。
このような状況で、「コンサル」が跋扈しているのだろう。

toyokeizai.net


同じ木下斉氏の本として、他にも『地域再生の失敗学』の第1章も大いに参考になる。
「経済効果」という指標がいかに眉唾物なのか、という指摘もあった。

※そもそも、人口や移住定住者の増加を目標にすることの是非自体、自分は懐疑的だが。

●完全に余談だが「地産地消」というのも、よく「目的」として掲げられるのを見る。とにもかくにも「地産地消」自体が良いことのように語れるが、それが何を目指すものだったのか、というのも実は考えてみるとよく分からなかった。

そこでWikipediaに読んでみると1980年代においては、今と違った動機で地産地消が謳われていたことが分かる。
 

地産地消 - Wikipedia

当時の地産地消は、伝統的な食生活による栄養素・ミネラルバランスの偏りの是正によって健康的な生活を送るため(医療費削減圧力)、余剰米を解消する減反政策の一環として、他品目農産物の生産を促すため(食糧管理制度の維持)、気候変動に弱い稲作モノカルチャーから栽培農産物の種類の多様化によってリスクヘッジをするため(農家の収入安定)など、多様な経済的インセンティブによって推進された。

聞こえの良いスローガンを「目的」に設定することの不十分さを示す例と言えるかもしれない。

(考えてみれば、「地産地消」と、「外貨」獲得を志向した六次産業化等の高付加価値農業は矛盾する考え方なのでは。外に売る量が増えれば、その分、内では消費できなくなる。)

閑話休題


〇なぜ、こんなことになるんだろうか。

・まずは、目的意識の欠如だ。もっと「何のために?」ということを問うべきなのだ。それが「住民の福祉の向上」に究極的にどう繋がるのか。
・次に、上にも関連するが、コスパ、費用対効果の感覚の欠如だ。PRには、多大なコストがかかることはあまり意識されない。PRの機会や媒体は当然有限だ。金銭的なコストもかかる。それらのコストをかけてまで、そういったことをPRする必要はあるのか、そのリターンは何なのか、という視点が重要。
(悲しいかな、リターン測定をあえて曖昧にしている例もある。そのせいで、役所は既存事業をなかなか切れない。民間なら、「儲からない」「コスパが悪い」ことで合意形成無しで切れるはずなのに、公だと合意形成が事業縮小・廃止のハードルになる。)
・もう1つは、網羅主義の常態化だ。公務員は、議会や事業概要の作成等、あらゆる場面で、説明責任の観点から仕事の実績の見える化が求められる。当然、民主的に統制される必要がある事業は「全て」の事業なので、作成する資料は基本的に網羅的なものになる。たしかに、それは当然、行政の責務なのだが、PRや広報を同じモードで網羅的に行ってはいけない。
・もっと現場レベルに目を落とせば、前例踏襲というのがリアルな原因なのかもしれない。「よく必要性は分からないが、前任の時から作成している。」というようなものは、きっと数えきれないほどある。これはPRに限る話ではない。

〇ちなみに、広報については、過去に読んだこの記事が非常に刺激的だった。

www.holg.jp

一部引用する。

みんな「自分の課の情報が一番大事」です。でも、広報は市の情報を客観視し、優先順位を付けて発信するのが仕事。「これはリリースではなく記者会見で発表する」とか、「これは広報誌で2ページ使って丁寧に伝える」とか。逆に、「6月は何とか月間です」みたいな定例的な記事やアリバイ広報は縮小しようとか。   

 読む側の住民にとって、その月が何月間なのかは、極めてどうでもいいことなのだろう。仮に載せるとしても、「市民に何を知ってほしいのか」、「それを知ってどう行動して欲しいのか」、「それを知ることで住民の福祉の向上に繋がるのか」ということを最優先に考えるべきなのだ。

 

●オマケ

書き終わって、あとはUPするだけの状態で、こんなニュースが出た。

www.tokyo-np.co.jp

例によって木下斉氏もこう言っている。

こういう「やってる感」だけを整えようとする働き方はしたくないなぁ。