落合・古市氏の対談に関する考察―「トリアージ」という例えの不適切さについて
1 前置き
落合陽一氏と古市憲寿氏の対談が、議論を読んでいるようだ。
各論者の批判記事はまだほとんど全く読めていない。
荻上 チキ氏の議論のTogetterまとめだけ、とりあえずごくごく簡単に流し読みした状況。
そんな状態だが、とりあえず、自分の思うところを書いてみる。
なお、落合氏、古市氏については、正直、どちらも名前は結構前から知っていたものの、その思想についてはよく知らない。著書もいずれ読んでみたいが、まだ読んだことは無い。
落合氏が、髙島市長の著書(これも未読)の帯に推薦文を書いていたのは知っている。
古市氏については、上野千鶴子の弟子だったとか、「ハーフは劣化が早い」発言で炎上したとか、Twitterを見てる限りだとリベラル界隈(?)からの評判が何か悪そうとか、そういう断片的な知識やイメージがあるが、やはり古市氏の考えそのものはあまり知らない。
そういった未熟な前提で語るので、早とちり等があるかもしれない。
その点、ご容赦頂き、ご指摘いただければと思う。
さて、この対談については、様々な論点があると思うが、このブログでは、個人的に最も引っ掛かりを覚えた「トリアージ」に関する部分のみ、自身の備忘として書きたいと思う。
まずは、対談記事から該当箇所を引用しておく。
落合 終末期医療の延命治療を保険適用外にするとある程度効果が出るかもしれない。たとえば、災害時のトリアージで、黒いタグをつけられると治療してもらえないでしょう。それと同じように、あといくばくかで死んでしまうほど重度の段階になった人も同様に考える、治療をしてもらえない――というのはさすがに問題なので、コスト負担を上げればある程度解決するんじゃないか。延命治療をして欲しい人は自分でお金を払えばいいし、子供世代が延命を望むなら子供世代が払えばいい。今までもこういう議論はされてきましたよね。
古市 自費で払えない人は、もう治療してもらえないっていうことだ。それ、論理的にはわかるんだけど、この国で実現できると思う?
落合 災害時に関してはもうご納得いただいているわけだから、国がそう決めてしまえば実現できそうな気もするけれど。そういったことも視野に入れないといけない程度に今、切羽つまっているのでは。今の政権は長期で強いしやれるとは思うけど。論理的には。
2 論点
気になったのは、タイトルにあるとおり、トリアージという例えを、終末医療の議論の中で持ち出すことが果たして適切なのか、という点だ。
結論を先に言えば、 適切ではない、というのが私見だ。
落合氏の議論では、
福祉予算逼迫の時代における「終末期医療の自己負担増」は、
緊急医療における「トリアージ」に相当するものだ。
しかし、これらには、余りにも異なる点があり過ぎると思う。
具体的な論点は以下の3つだ。
①正当化する「制限」が「物理的」か「社会的」か
②目指す「目的」が「より多くの患者を救う」ことか否か
③最適解と納得解
なお、私は、トリアージという行為については、全くの素人である。
昔、NHKの番組で、そういうものがあるということを観て知っていたという程度。
また、下記で引用するトリアージに関する記述のソースはWikipediaで、情報の確かさは微妙なんだが、大学のレポートや仕事用の文書ではなく私的な覚書なので、その点もご容赦いただきたい。
そういう意味でも、誤っている点、見落としている点等あれば、ご指摘いただければ幸甚である。
3 論点①と②
まず、①②の論点については、関連しているので、まとめて述べていきたい。
トリアージについて、Wikipediaに、このように書いてある。いくつか引用する。
トリアージとは、患者の重症度に基づいて、治療の優先度を決定して選別を行うこと。
その判断基準は使用者・資格・対象と使用者の人数バランス・緊急度・対象場所の面積など、各要因によって異なってくる。
医療体制・設備を考慮しつつ、傷病者の重症度と緊急度によって分別し、治療や搬送先の順位を決定することである。
下線:ブログ主
これはつまり、人員や資源、時間といった「物理的」な「制限」がある中で、緊急的に治療の優先順位を決めていく行為であると言えるだろう。
そして、Wikiにはこうもある。
助かる見込みのない患者あるいは軽傷の患者よりも、処置を施すことで命を救える患者を優先するというものである。
そう、その「目的」は「より多くの患者を救う」ということである。
反対に、トリアージを仮に実施しなかった場合の「崩壊」の絵図は描きやすい。
Wikiでは更に、こう書いてある。
トリアージは言わば、「小の虫を殺して大の虫を助ける」発想であり、「全ての患者を救う」という医療の原則から見れば例外中の例外である。そのため、大地震や航空機・鉄道事故、テロリズムなどにより、大量負傷者が発生し、医療のキャパシティが足りない、すなわち「医療を施すことが出来ない患者が必ず発生してしまう」ことが明らかな極限状況でのみ是認されるべきものである。
要するに、「崩壊」の絵図は、助かる見込みが低い1人に医療キャパを振り分けてしまい、救えるはずの複数の命が救えない、という事態だ。繰り返しになるが「より多くの患者を救う」という目的の為に、トリアージは正当化される。極端な話、1人の命を捨てて5人の命を救うことを目指すということだ。
※もちろん、「より多くの患者を救う」は特効薬のように全てを正当化できる論理ではない。「トロッコをこのまま走らせると5人が轢き殺される。向きを変えると1人だけ轢き殺される。向きを変えるべきか?」という思考実験をしてみるといい。
『Fate/Zero』での衛宮切嗣は「ヒーロー」にはなり得なかった(分かる人には分かる)。
Fate/Zero(1) 第四次聖杯戦争秘話 (星海社文庫)
だが、ひとまず、ここではトリアージがそのような論理や目的で一応は正当化されているということを確認しておきたい。
一方、医療制度についてはどうなのだろう。
例えば、落合氏はこのように言っている。
背に腹はかえられないから削ろうという動きは出てますよね。実際に、このままだと社会保障制度が崩壊しかねないから、後期高齢者の医療費を2割負担にしようという政策もある。
※強調はブログ主
さて、「社会保障制度が崩壊」ということの意味は、いったい何なんだろうか。
対談ではその絵図が必ずしも明確に示されてはいない。
落合氏は、トリアージにおける状況と同じく、「助かる見込みが低い1人に医療キャパを振り分けてしまい、救えるはずの複数の命が救えない」という事態を懸念しているのだろうか。
それとも、何か別の事態を指しているのだろうか。
落合氏が持つのが前者の「救えるはずの複数の命が救えない」という問題意識であれば、トリアージと共通するものであり、(もちろん様々な点で議論の余地はあるものの)一定の理解は出来る。少なくとも、トリアージの例は、終末期の医療についての重要な参考として採用し得る。
しかし、どうも、彼らの議論は、そうではなく後者のような気がしてならない。
実際、対談の後段では「国家の寿命と自分の寿命、どっちが先に尽きるか」という議論がなされている。「国家の寿命が尽きる」ということは一体どういう事態なのかやはり明言はされないが、いずれにしろ、天秤に掛けられているのは、「少数の命と多数の命」ではなく、「国家と自分(個人)」だ。例えば、他施策(安全保障、防災、経済振興、インフラ維持、文化政策、科学技術振興etc.)が実行できなくなり、国が成り立たなくなるということなのだろうか。
仮に、直面するのが他施策との優先順位という「制限」なら、それは「物理的」な「制限」ではなく、「社会的」な「制限」なのではないか。そして、そうである以上、その「目的」は抽象的には「財政負担減」となり、「より多くの患者を救う」というトリアージの目的とは乖離していく。
私は「社会的」とか「物理的」というワードに対して、厳密な定義を持っているわけではないが、その代わりに、ここで1つの文を紹介したい。
紹介したいのは、文筆家のまきむぅさん(牧村朝子さん)の言葉だ。
彼女は、著書『ハッピーエンドに殺されない』の中で、こう述べた(私は、この言葉が心底好きなのである!)。
「世の中、「決まっていること」なんかない。「決めていること」があるだけなのよ。」
この言葉は、「親族」に恋愛感情を抱いてしまうという悩みを持つ読者に対し、「いとことの結婚」が許されるかどうかも国や時代で違う(決まっていない!)ということなどを紐解きながら、その読者を励ますべく投げかけた回答の一部だ。
この考えは、人間が作る「制度」や「社会」における問題について遍く言えることなのではないだろうか。
悲しいかな、人智を越えて「物理的」に「決まっていること」は実際は多くあるだろう。
災害や事故、病気やケガなどはそうだ。まさしく、緊急医療の現場で、救助不能で、トリアージで黒のタグをつけられる人も残念ながらいるだろう。
しかし、福祉費用増の問題への対処方法は、人智を越えて「物理的」に「決まっている」ことなのだろうか。それは、「社会的」に「決めていく」事柄なのではないだろうか。
有限な財源が足りなくなることによって、何かを諦めなければいけなくなることは確かにあるのかもしれない。しかし、そこで、何を、どの程度諦めるのか、ということは、トリアージのそれのように「物理的」に「決まっている」ことなのではなく、「社会的」に「決めていく」ことなのではないだろうか。
落合氏は、
災害時に関してはもうご納得いただいている
とも述べているが、これも同様に間違いだろうと思う。
災害時では「物理的な制限」のもと、従わざるを得ないだけだ。それは、真の「納得」、つまり「社会的な納得」とはほど遠い。
4 論点③
ここでは、改めて、
災害時に関してはもうご納得いただいているわけだから、国がそう決めてしまえば実現できそうな気もするけれど
という部分に焦点を当てる。
私は、「答え」や「解」というものについて、少なくとも「最適解」と「納得解」の2つがあると思っている。また、議論の際は、問題としているのがどちらなのか、意識しなければならないと考えている。
トリアージにおいては、各人が好き勝手に勘や好みで優先順位を決めるわけではなく、当然、客観的な「判定基準」がある。これは、つまり「最適解」だ。
判定基準は専門知(この場合は医学)に基づいた基準であり、究極的には合意は要らず、独りで最適解に到達することすら可能だ。国が決定したことではない。
他方、終末医療という問題に関して、少なくとも「何にいくらの費用支出を許すか」については、究極のところ「最適解」なぞ無いはずだ。制度や社会は「決まっている」のではなく「決めている」ことであることに言及したが、こういうものは、まさしく最適解ではなく「納得解」の領域だ。
(もちろん、例えばAIやロボットなど「テック」の導入で、よりよい福祉供給を可能にすることは可能で、そういう模索については「最適解」の領域もあるだろうとは思う)
では、納得解にはどうやって到達できるか・・・それは個人レベルでは文字通り「納得」であり、集団的には「合意」しかない。
しかし、「国がそうきめてしまう」という方法では、絶対に「合意」には到達できないはずである。
落合氏の発言は、災害時のトリアージについて、国がそう決めたとしている点でそもそも誤りだ(その最適解を決めているのは国ではなく専門知)。
また、最適解の領域のトリアージの議論を、納得解の領域の終末医療に援用している点も問題がある。
そして、「国がそう決めてしまえば実現できそう」としている点も、まぁ、実現できるかどうかって点では確かに間違ってはいないんだろうが、それを無批判に受け入れていい訳ではない。この言明は為政者目線では都合が良いのだろうが、民主主義の理念を重視するのであれば、看過はできないもののはずだ。
(落合氏は、最後に「論理的には」と留保を付け、「そうすべき」規範的な議論ではないということを示してはいるものの、それでも、全体的に、「国が決めてしまう」ということの問題をあまりにも小さく捉えているように思える)
※最適解と納得解の言葉の使い分けは、この本の冒頭で書かれていたことのパクリである。まだ冒頭しか読んでないんだが。
5 おまけ
さきほど言及したTogetterの中で、古市氏の興味深いツィートがあった。
合成の誤謬をほどいて、きちんと連立方程式を解いて、みんなが今より幸せになれる状態はきっとあると思うんだよね。
— 古市憲寿 (@poe1985) January 2, 2019
私は、終末期医療に限らず、社会保障の議論は(というか、民主主義という営みは)どこまで突き詰めても「最適解」を導き出すことは出来ず、「納得解」を不断に模索していくことが必要だと信じている(恩師の言葉を借りれば、ベストではなくベターを目指すということ)。
これに対して、「連立方程式」という言葉を使う彼は、私の言う「最適解」を信じているということだろうか。
彼らの対談を読んで全体的に覚えていた違和感の原因が、このツィートを読んで、少し分かったような気がした。そもそも、思考の枠組みというか、視座が違うのかもしれない。
実は、個人的には、民意の表明であれば全てが是となる、という立場には与しない。
専門知の力を信じるし、ニーズや人気、支持がなくとも手放すべきではない価値や規範が存在すると信じる。例えば、その一つの形が、実質的な意味での憲法であり、立憲主義だったりする。例えば、大多数が受け入れた「納得解」であったとしても、それが少数者の犠牲の上に成り立つものであったならば、それは受け入れられない。
自由主義は個人の欲望の体系だが、そうではなく、引き算の論理で「共通善」が導かれる回路が実現できないか、脱成長という途があるのではないか、という考察もこれまでしてきた。
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そういう意味では、合成の誤謬を問題視し、「専門家」として「最適解」を追い求めようとする古市氏の立場には、一定以上の共感を覚える部分がある。
とはいえ、2人の対談では、「納得解」の模索や合意形成という視点からの言及が、あまりにも感じ取れなかった気がする。要は、バランスがとても悪いのだ。
その点で、荻上チキ氏のこのツィートの「技術と介護をとりまく議論全体が、常に統治や介護する側、あるいは技術者からの視点で、当事者の目線(想像力)が抜け落ちている」という点には自分も同意する。
その部分がのちに明確に否定されることもないこと、技術と介護をとりまく議論全体が、常に統治や介護する側、あるいは技術者からの視点で、当事者の目線(想像力)が抜け落ちていること。また、政治家の死を期待する前振りを含めて、自分たちではない誰かの死を受動的に臨むスタンスが続くこと(続
— 荻上チキ (@torakare) January 2, 2019