幽霊犬の備忘録

某市の職員。政治学を齧りジェンダーや経済思想に関心。

虐待する親を完全には他人事とは思えない

鴻上尚史 on Twitter: "僕は作家なので想像力はそれなりにあると思っていたのだが、子供を持って初めて「虐待によって殺された子供のニュース」がつらすぎて、なるべくなら見たり聞いたりしたくないという気持ちになる。子供を持つまでこんな気持ちになるなんて夢にも思わなかった。自分の想像力なんて大したことないと思った"

 

これ、正直、自分の場合は逆の部分もあって・・・

 

元々は、虐待する親の気持ちなんて全く信じられない、自分は絶対にそんなことはしない、と理由もなく確信があったんだけど、いざ実際育児やってると「ヤバい」と思う瞬間がいくつもあって、日々反省してるんだよな・・・。

 

映画『万引き家族』でもっとも印象に残った、残り過ぎた、けれど、忘れようとしたシーンというのがある。
(以下、なるべくネタバレ無しで書きます)

そのシーンは、安藤サクラの取り調べのシーンでもなく、リリー・フランキーのバスを追いかけるシーンでもなく、海水浴のシーンでもなく、実は、女の子が「実の母親」から怒られて、その「実の母親」から「『ごめんなさい』は?」と詰問されるシーンだったりする。

 

もちろん「『ごめんなさい』は?」という言葉が、「子どもに善悪を教える」という目的での、子どもの為の言葉であったのなら何の問題も無い。
ただ、観た人は分かると思うが、そのシーンでのそれは、親の鬱憤を晴らすためのものであり、自分が親という優位にあることを(言葉は悪いが)利用して子どもを押さえつけるものであり、とても自己中心的で、正直、醜いものだった。あのシーンを観て「悪いのは、子どもではなく親」だと誰もが思うだろう、そういうシーンだった。

 

何故、そのシーンの印象が強烈だったか。


それは、その「実の母親」と全く同じような振る舞いを自分自身がしてしまった経験があり、他人事として観れなかったからに他ならない。
あの目つき、居住まい、声の調子、「ごめんなさい」を言った子どもへの冷たい反応・・・その全てが、まるで自分自身をスクリーンに映されているかのごとく、自分の振る舞いに余りにもソックリだった。正直、寒気がするくらいに。

 

アタマでは、
「叱る」と「怒る」は違うとか、
「叱らねばならない悪いこと」と「親が困ること」は違うとか、
そういうことは分かっているつもりだ。

でも、体調が悪いときとか、気持ちに余裕がないときに、感情的に理不尽な怒り方をしてしまう。

 

それこそ、昨日の朝も、そういう理不尽な怒り方をしてしまった。
(ずっと風邪が治らなくて、イライラしてた)

 

そして、すぐに、「やっちまった・・・」と後悔して、出勤中に心の中で子どもに謝ることになる。
後悔するくらいなら、やめときゃいいのに。

 

「イライラしてるな」と思ったら、あの「実の母親」のことを思い出すようにして、なるべく心を落ち着けないといけない。
自分にとってイヤな経験だから思い出さないようにしてたけど、反面教師として、あの「実の母親」のことを思い出すにしよう。
そして、「やっちまった」と思ったあとは、せめてフォローをしてあげよう。

 

※いずれ、自分に後輩や部下が出来たときにパワハラをしてしまわないか、ということも考えてしまって正直怖い。自省、自制。

 

それと、育児の件に限らず、自分の想像力には限界があるということを常に心に留めねばなるまい、と改めて思う。

 

ただ「想像力や立場の互換性には限界がある」とはいえ、それでも、想像力は持たねばならない。

生き方の不平等――お互いさまの社会に向けて (岩波新書)

生き方の不平等――お互いさまの社会に向けて (岩波新書)

 

前に書いた書評を引用する。

著者は、不平等の解消を実現する為、「お互いさま」という考え方を提唱した。
データに依拠し、これでもか、と不平等の「実態」を丁寧に緻密に提示してきた各章の熱量に比べて、一見、この「お互いさま」という考え方は、凡庸に見える。
なぜなら、「お互いさま」というのは、ある意味、福祉社会、福祉国家の駆動原理そのものであり、その言葉には「何を今さら」というイメージをどうしても持ってしまうからだ。
いざリスクを被った際に、個人では抱えきれないものを、集団で備えることで、「万が一」に備えるという営み。言葉を代えれば保険原理。社会保障は、こういった文脈、目的で制度化、正当化されるのが常だ。
実際、既に駆動している多くの社会保障はこの原理で説明できる。
例えば、医療保険、失業保険、生活保護等々。
いわば、「いつか、自分も○○になるかもしれない」「いつか、自分も○○するかもしれない」、つまり、「いつか自分も当事者になるかもしれない」という怖れに対応するために、近代以降、人間社会は福祉というものを形作ってきたといえる。
(もちろん、軍国政策のための手段として、福祉が活用されてきたという側面はあるので、話はもう少し複雑になる。年金は、かつては「恩給」として機能していた。平たく言えば、「死んでも(怪我をしても)家族は国が面倒見てやるから、安心して死んで来い」という感じか。)
・しかし、本書で、著者が提示した「お互いさま」というのは、この「いつか、自分も」という「リスク」を媒介とした社会保障原理に留まらない。そこが、本書の終章から読み解くべき要点の一つだと思う。
ゼミの時にも話したが、例えば、生物学的な「男」として生きている自分は、「妊娠というライフコースによって、出世が閉ざされる女性」という「当事者」にはなりえない。
「リスク」を媒介とした保険原理では、「いつか失業するかも」、「いつか障害者になるかも」、「いつか高齢者になる」という考え方から、福祉を正当化することが出来る。
しかし、これでは、「当事者ではないから関係ない」という問題は克服できない。男性として産まれれば「いつか妊娠して出世が閉ざされるかもしれない」という「リスク」に直面しようがないからだ。
そのような「当事者にはなり得ない自身」の限界を知ってなお、「想像力」によって、「他者」との共存を図っていくこと、それが、著者が言う「お互いさま」の論理だと言える。
そもそも、例えば、男性が賃労働社会で「特権的」な地位を占めているのは、男性に都合がいいような社会構造を、自ら再生産してきたからに他ならない(上野千鶴子とか濱口桂一郎とかを参照。1つのキーワードは「メンバーシップ型雇用」。)。そういう意味で、「女性」の問題は、「女性」だけに還元されるのではなく、その反対当事者としての「男性」の問題でもある。まさしく、「他者」の存在を前提に「自己」が存在する、という相対的な認識論の世界。
こうした問題意識からすれば、「自分は当事者ではないから関係ない」という物言いは、許されないことになる。
著者が「他者感覚」などの言葉を引いてきて説明をしようとしていたのは、こうした問題意識からだ。
とはいえ、実際、こうした「他者感覚」を学ぶきっかけになる「他者」との交流の機会は、限定されている。特に、子供は。
だからこそ、「教育」の役割が必要なのだ、と著者は言う。
・もう一つ、「何故、2010年という段階で、改めてこのような提起が必要だったのか。当時(今も)の社会に欠けていたものは何か」という視点も確認しておきたい(当日のゼミでは時間がなくて言及しなかったが)。
端的に言えば、1つは、「日本型福祉」の変容と、「自己責任論」の台頭の2つだろう。
まず、特定のライフコースが想定され、「家族」や「世帯」による共助の仕組が、福祉という「公助」の領域を補完していたのが、かつての「日本型福祉社会」だった。それが、ライフコースの変容、多様化など様々な要因で、機能しなくなってきたということ(単に少子高齢化や不景気で総額ベースで足りなくなってきたという側面もあるが)。各章で、これでもかと「世帯」という切り口で、不平等の実態を分析してきたことは、ここに繋がる。
(本書ではそこまで紙幅を割いていなかったが、雇用における人材育成のパラダイムの変容という論点も広い意味での「日本型福祉」の議論に関連していると言える。一言で言えば、かつては「即戦力」なんてものが求められず、企業が若手を育成してきた文化がもはや崩れたということだ。企業という私集団における「共助」の仕組が壊れ、今、「公助」の領域での職業訓練などの措置が必要になってきたということ。)
2つめの「自己責任論」の台頭は、おそらく、1つめの論点とも関連があるのだろう。もっと広い文脈で言えば「ネオリベ」の台頭という論点。
要するに、家族や企業といった「共助」の領域でのリスクの平準化機能が失われ、「個人」が剥き出しになっているのが、現在の日本なのだろう。
生き残るためには、よく分からない他人のことを考えるよりも、自分自身をスキルアップさせて、自己啓発をしていく方がいい。そういうメンタリティに陥りがちなのが悲しいかな、現状だ。
でも、本当は、「社会」に生きる我々は、そこで歩みを止めるわけにはいかない。
「他者」とは、結局「共感」できない。それでも、なお、「共存」していく必要性があるのだと思う。これは、『感情化する社会』を読んだゼミ生なら理解できると思う。
『魂の労働』のある部分で、「政治」とは、「個人」による不可能性を克服することだ、ということが書いてあったと記憶している。そして、それが失われている今、「宿命論」が回帰しているのだ、と。
そういうことを想起すると、本書で、筆者が述べた「お互いさま」の社会の実現ということは、「政治」の営みそのものに他ならないのではないか、とも思う。
大塚英志も、このようなことを言っていた。
・「共感」できない「他者」をどう理解していくかという手続きを放棄して「共感」が「大きな感情」に結びついてしまったものは、本来設計すべきだった「社会」や「国家」とは別物(『感情化する社会』p.15)