幽霊犬の備忘録

某市の職員。政治学を齧りジェンダーや経済思想に関心。

映画『否定と肯定』を観た感想(ネタばれあり)

Amazonプライムで配信されていて、今更ながら観た。

否定と肯定 (字幕版)

否定と肯定 (字幕版)

  • 発売日: 2018/06/20
  • メディア: Prime Video
 

 

ネタバレ込みで、いくつか感想をば。

・印象的だったセリフの1つ。
被告のデボラが、勝訴後の記者会見で述べたセリフ。 

表現の自由を妨げる判決と言う人も。そうではない。私が戦ったのは悪用する者からその自由を守るためです  

 ・次に印象的だったのは、デボラ自身が証言をしないことや被害者に証言をさせないという訴訟方針を貫くことが、被告であるデボラ氏の「自己否定(self-denial)」に繋がることと言及されたシーン。歴史修正主義者による「否定」と戦うため、自己否定が避けられないという不条理さ。この点を考えても、『否定と肯定』という邦題はミスリードになっている。裁判は歴史戦の1つのピースでしかなく、明快なハッピーエンドとは捉えられない映画。

・最後に、終盤、裁判官から「アーヴィングがホロコーストは存在しなかった、と本心から信じていたのだとしたら?」という趣旨の問いかけがなされたことがずっと頭から離れない。

 

‬結局、アーヴィングは「ホロコーストの存在を本当は理解しておきながら、自身の政治信条のために事実を歪曲し、否定した」と認定され、敗訴し、一応は、ハッピーエンドということになった。

 

しかし、この映画から離れて現実世界のことを考えてみたとき、そう楽観的には捉えられないことに気づいてしまう。

 

裁判官が言うように、たしかに、本心は断罪できないし、裁けないのだ。「素朴な差別主義者」とでも言おうか、そういう人たちを法で規制することは極めて困難なのだ。

 

アーヴィングは、多数の文献を参照して自ら著作を出版し、歴史家を自称していたからこそ、その「否定」の不当さを認定された。

しかし、もしもアーヴィングが「素朴な差別主義者」だったのならば、彼は勝訴していたのかもしれない。

 

現実問題、アーヴィングのような歴史家は、極めて稀な存在だ。おそらく99%の差別主義者が、アーヴィングのような人物の著作や記事、動画等に感化された「素朴な差別主義者」なのだろう。99%の素朴な差別主義者は、アーヴィングのような1%の意図的な差別主義者に支えられている。

 

・・・いや、問題はもっと根深いのかもしれない。

以前、映画『主戦場』を観た。

映画を観た人は分かると思うが、劇中に登場した従軍慰安婦否定論者たちは、多くの民衆に対して多大な影響を与える立場にありながら、とてつもなく「素朴」だったのだ(特に、最後に登場した日本会議加瀬英明氏の素朴さは際立っていた)。

彼らは、歴史学者による専門的な検証を否定するというより、そもそも視野に入れず、独自の「価値観」から歴史を構築している。そして、それに99%の素朴な差別主義者が追随しているのだ。つまり、ここには「素朴な差別主義者」しかいないことになる。『主戦場』の最も衝撃だった点はここだ。

 

彼らの「暴走」をどう法的に止めればいいのか。

以前『ヘイトスピーチ』という本を読んだ。

 

 本書によると、ヨーロッパ等では、ホロコースト否定自体を法的に規制している例があるようだ。そのような制度であれば、「素朴な差別主義者」であっても規制されるだろう。ただし、当然、そのような制度化は非常に難しい。



歴史修正主義者」には議論の場を与えない、両論併記の俎上に載せない、というのは1つの重要な戦略なのだろうと思う。しかし、彼らが勝手に「場」を作り、自己増殖していくことをどう止めればいいのか。

ヘイトスピーチ』から、引用しておく。

どの程度の自由をレイシストに与えるべきなのか。その最終的な答えはこれである。歴史を見て、文脈と影響に注意せよ。原則を練り上げ、友人を説得し、議員に訴えよ。そして、うまくつきあっていける価値のバランスとともに歩んでいくのだ。  p.273

解決は容易ではない・・・。

 

否定と肯定』。とてつもなく重い課題を投げかける映画だった。ぜひ、多くに人に観てもらいたい。