差別のことを考えたくない - MistiRoom
Mistir氏のブログへの勝手なアンサー2回目。
私自身は、世間から見たら「イクメン」と呼ばれるタイプの生き方をしていますが、子供がいない(持たなかったのか、持てなかったのかは分からない)同僚女性を目の前にして、無邪気に育児礼賛的な話題での会話ができない環境に置かれて、日々悶々としていた経験があります。
そんな風に、一般的には「良い」とされていることが、状況次第で、当事者にとっては「差別」となり得るという経験をしているので、ブログの趣旨は非常によく分かるつもりです。
ただ、私は、「自分は差別をし得る人間である」という認識こそが、まさに重要だと思います。自身を差別主義者と呼ぶことができる人間は、むしろ、ある意味誠実なのではないか、とすら思います。
他方で、自分は、道徳の授業とかで「正しい知識が必要」という常套句を言うような優等生が好きではないのです。その言葉が「万能」であるかのような雰囲気というか、「正しい知識が必要」って言っておけばいいんでしょ、的なノリが。
「正しい知識が必要」って念仏のようだな、と思うことがあります。
「南無阿弥陀仏」って唱えておけば、極楽に行けるという浄土宗の教えのよう。
「正しい知識が必要」と言っておきさえすれば、「差別をしない人」という称号が与えられるかのような、もしくは、「正しい知識が必要」と言えば、「正しい知識」が身に付くかのような、マジックワード感。
そして、念仏のように「正しい知識が必要」と唱えて、それで万事OKとするような雰囲気は、「私は差別をしない人間」というぬるま湯のような認識につながってしまうような気がするのです。
「自分は差別なんかしない」という生ぬるい認識は、むしろ、無自覚な差別の温床になってしまいます。この本の序章でもそのようなことを言っています。
「偏見がない」では差別はなくならない理由|ちくま新書|webちくま
更に言えば、「正しい知識」として求められる水準が、量・質ともに膨れ上がって、「正しい知識」を自分は持っています、ということが本当に難しくなってきました。そんな中で、「物言えば唇寒し」状態になって「ポリコレ疲れ」の不満を持ってしまいたくなる、というのは、非常に分かります。
でも、そこで感じる「疲れ」は、差別にきちんと向き合っている証拠であり、望ましいことなのではないか、と私は思うのです。
「自虐」については、自分も頭を悩ませています。
NHKの「バリバラ」や芸人のあそどっぐを観るたびに、頭が混乱します。
少し脱線しますが、「お笑い」と差別は、いつも頭を悩ませます。
浜田のブラックフェイスや保毛尾田保毛男が差別であるならば、宴会での女装は差別ではないのか。ステレオタイプへの偏見を駆使して笑いを取る綾小路きみまろの漫談は差別にはならないのか。
色々考えていくと、無限に語るべきことがあり過ぎて、ドツボにはまってしまいそうで、たしかに疲弊してしまいます。
しかし、繰り返しになりますが、「では、どこまで許されるのか?」とか「では、何が許されないのか?」と疑問をもつ姿勢は、「差別はいけないと思います!(キリッ)」という優等生より、よっぽど誠実だと思うのです。
取りとめもなく、ブログを読んで思ったことを書きましたが、最後に1つだけ。
「もうこのことについて考えることは無いだろう。僕には考える資格がないのだ、多分。」
とのことですが、
考える資格がない、なんてことはないと思います。
イチ読者の勝手な願望ですが、止めないでほしいのです。
私は九州在住ですが、正直、もし自分が関東在住だったら、サシでオフ会して喋りまくりたいくらいの気持ちです。ですが、それは叶わないので、せめて、ブログの更新を楽しみにしています。