幽霊犬の備忘録

某市の職員。政治学を齧りジェンダーや経済思想に関心。

読書会とオフサイトミーティング「A」

※匿名のブログなので、イニシャルトークにしています。読みにくいですが、ご容赦を。

 

「読書会」のイベントを、オフサイトミーティング「A」のイベントとコラボするかどうか、この1週間実はずっと悩んでいます。


というか、「読書会」と「A」の関係については、実はず〜〜〜っと前から考えています。

 

正直、当初は「あのグループとは違う」という変なプライドがありつつ、正直、嫉妬や羨望が入り混じった変な気持ちでした。今は、達観して、それぞれに良いところがある、と割と素直(?)に考えるようになっています。
他の常連の皆さんがどうお考えかは分かりませんが・・・笑。

 

今回は、ちょっと長いですが、今の自分の考えを書いてみます。

実は、自分自身は、「A」には参加したことはないんですが、それでもこうやって語ることについては、まぁ、ご容赦下さい笑

 

読書会は、その在り方については、当初から結構議論がありました。せっかくだから、市役所職員にフルオープンにしてはどうか、とか。結局、現状は、メンバーを狭く限定し、口コミでしか広げていない状態です。お互いに狭く見知った関係で、こじんまりとした「読書会」の良いトコロは、それはそれで色々とあります。アイスブレイクも不要だし、「ここだけの話」が出来る安心感でタブーなく色んな話が出来るし、過去の読書会の積み上げと絡めて、より「深い」話が出来るのもいいことだと思います。
ただ、その分、排他的だし、硬直的になってしまう危惧を自分は持っていました。

 

そんなとき、『大学改革という病』という本を読みました。


その本の読書記録をちょっとここで引用します。

 


「さまざまな問題について、その背景を知り、前提を疑い、合理的な解決を考察し、反対する立場の他人と意見のすり合わせや共有を行う能力」
これは、本書のなかで、もっとも重要と言えるフレーズであり、何度も繰り返し、繰り返し、言及されている。

私見だが、このフレーズの前半部分の「その背景を知り、前提を疑い、合理的な解決を考察し」というのは、「専門性」についての領域だ。まさに大学での学問がそうであるように、常識に捉われず、真理を追究すること。筆者は「専門知」の重要性を説き、他方で、民主主義の原理を多数決に矮小化し、大衆に迎合することを良しとしない。

しかし、これだけでは、大学を含む「社会」というシステムは機能しない。後半で「反対する立場の他人と意見のすり合わせや共有を行う能力」というものが強調されるが、これは、いわば「合意形成」。大学が「大学の自治」などを理念的に振りかざすことに終始することを、筆者は良しとはしない。

この「専門性」と「合意形成」は、非常に危ういバランスで、両立は容易ではないだろう。しかし、どちらが欠けても、望ましい民主主義社会は維持できない。

 

 この読書記録を付けたとき、念頭にあったのは、自分のこれまでの勉強(Iゼミや読書会)と、その対極にあるものとしての「A」的なものでした。

Iゼミや読書会でこれまで自分が取り組んできたのは、前者の「専門性」に関わる領域が中心的だったと言えるかもしれません。その分、「合意形成」については、ないがしろにしてきたきらいがあります。
(きっと、I先生は、「他者」との「合意形成」を学ぶ機会を色々と与えようとして下さっていたんですが、「自分が」、そこを汲み取れていなかった、という話です。Iゼミ自体を否定する意図ではありません)
 
 反面、「A」的なものは、「反対する立場の他人と意見のすり合わせや共有を行う能力」を磨く場となっているだろうと思います(「A」は、何かを決めたり提言したりする場ではないので、「合意形成」という言葉は大げさであてはまらないとは思いますが)。
何しろ、何でもアリ、誰にでもオープンの「対話」の場であり、全てが参加者に委ねられています。それこそ、人が集まらなかったら開催すらされない、それでも、いや、だからこそ、もう何年も続いているという凄さ。「専門性」とはある意味無縁(対局)の空間と言えるかもしれません。何でもアリだから何でもできるし、誰でも来れる。正直、この「場」やその持つ「引力」に嫉妬していないと言えば嘘になります。

 以前は、正直、「A」の「何でもアリ」的なあり方が、あんまり好きではありませんでした(参加もしてないのに言うなと言われそうですが)。かつての考えでは、言葉は悪いですが、積みあがることもなく、「浅く」、「薄く」の対話しかできず、「楽しかった」で終って次につながらない、というイメージを持っていました。もしくは、突き詰めて深く「考える」というのではなく、直感的に「思う」ことで満足しているというようなイメージ。自分が何となく敬遠していたのはそんなところです。いわゆる意識高い系、というイメージに少し合致するかもしれません。
 

 しかし・・・
「A」の立役者のI部長は、よくこう言っています。
「1人の1000歩よりも、1000人の一歩」と。

この言葉が、ボディーブローのようにずっと自分に効いてるんですよね。

悔しいけど、その通りだよな、と。
いや、別に悔しがる必要もないんですけど。

自分の人生のテーマである「社会を変える」ことに近いのは、「1人の1000歩よりも、1000人の一歩」に違いないと思うんです。

確かに、その場で各人の思いつきで交される「対話」から得られるものは、「専門家」が本気で世に伝えようとした「本」に載っているものよりも、浅くて薄いかもしれない。「本」で5歩進めるのに対して、対話では1歩しか進めないかもしれない。でも、そこで、その場にいる当事者10人がそれぞれ1歩を進めることで、全体として10歩進めるかもしれない。
 
昨年9月頃には、自分はこんなこともツイッターで呟いていました(連ツイ)。


この数か月、勉強することの虚しさを覚える経験が何度かあった。
それを乗り越えるためのものとして、アウトプット、発信、対話が自分の新たなテーマになっている感がある。
例えば、人口減少、空き家問題、公契約、アセットマネジメント問題、LGBT問題云々。
時流より数年くらい早く、こうした問題を勉強する機会を幸運にも得てきた。しかし、時流は追いつく。自分が既に知ってた問題について、次第に、公知の課題として、研修になったりする。
そこで、ちょっと、ほくそえむのだ。「あー、あれね、知ってる知ってる」と。
いわば、ちょっと進研ゼミで予習してかじっていた小学生が、ちょっと優越感を感じるみたいな状況。
でも、これって、結構虚しいということに、最近気づいてしまった。
もちろん、勉強の意義はこれだけではない。
勉強の意義を知っているからこそ、予習していた小学生のようにほくそえむだけの段階から、もう一歩踏み出したいと思うのだ。

結局、社会なんて、一人では変えられない。
思い、考えを共有して、一人では変えられないものを集団として変えていくプロセスが決定的に必要。
個人の不可能性を克服するのが政治、と『魂の労働』で渋谷望も書いていました。
(『魂の労働』では、政治が喪失し、宿命論が回帰している、という分析でしたが)

 

 

もう1つ言うなら、個人的には、Iゼミでの「合同ゼミ」への向き合い方について、後悔があって、読書会と「A」の関係に重ねてしまうのです。
「合同ゼミ」とは、1つのテーマ(ダム建設事業とか、農業とか、旧産炭地とか)に沿って、5つの大学が共同してゼミをやるという試みで、大学時代、自分は2か年にわたって参加したんですが、うちの大学のIゼミは、普段から絡むことも多いS大学のTゼミとは仲良くやる一方で、他の3大学とはあまり良い関係を築けてなかったんですよね、正直なところ。
他の大学が、準備不足だったり、議論には消極的なくせに宴会で酒飲んで騒いでばかりいるような調子だったり、幹事校(持ち回り)としての仕切りがグダグダだったりと、いうことがあったので、当時、その不真面目さを内輪で批判ばかりしていました。ぶっちゃけ、あれは今思うと陰口でしたね。愚痴や批判を繰り返すことにばかり終始して、他大学との「対話」をきちんとできていなかったように思います。自分が卒業後も、数年はその「合同ゼミ」はやっていたようですが、15年くらい続いたその合同ゼミは、ある年から取りやめになったと後輩から聞きました。

政治やマイノリティ、社会的包摂などを学ぶIゼミでこそ、他大学との「違い」乗り越え、彼らとともに何かを為すための方法について、真剣に向き合うべきではなかったのだろうか、と今は思います。
彼らは、Iゼミとはもちろん「違う」部分もあったとはいえ、大学で社会科学を学ぶ大学生ということで、むしろ「社会」全体で見れば、むしろ「同じ」部分も多かっただろうに、そんな彼らとすら合意形成が出来ずに、どうして、より広く多様性に開かれた「社会」と向き合うことができるだろう、と。

 別に「A」を他の3大学と同じように不真面目な集団だとは思っていないんですが、この3大学と「A」とは、自分の中ではダブって見えてしまう存在なんですよね。

「他集団」との接点を避け、「自集団」のみで完結するのはラクですが、それでは多様性から新たな価値を生むことも出来ず、「包摂」や「合意形成」には到達できないと思います。

こうした経緯から、安易に「読書会」を「身内」だけの会にして、排他的にすることへの抵抗があるのです。

今回の7月のイベントは、参加人数が多すぎるとやりにくい、というリアルな課題をどうするか、ということで、フルオープンにはしないという方向で考えていますが、これも正直なところ、相当悩んでいます。
フルオープンにするべきではないか、という思いもいまだにあります。正直、読書会の他の常連メンバーがどう思うかということもあって、板挟みのような気持です。
常連メンバーの皆さんとは、本当に腹を割って話せるので、皆さんと一緒に深く掘り下げていくことは本当に楽しいんです。
皆さんはどう思うでしょうか。

あぁ、語りたい。