五輪反対についてとか

昨日、『福岡はすごい』についての感想を書く中で、自分が何故「○○はスゴイ」というものにネガティブなイメージ持つのか、ということを自問自答して整理していた。
その中の理由の1つが、これ。
>「すごい」ことを強調することで、解決すべき欠点や課題が覆い隠されて、見えなくなってしまうことへの危惧。更には、そういう欠点や課題を指摘する「異論」が、和を乱すものとして排除されてしまうことへの危惧。

 

そんな中、西日本新聞のこの評を読んだ。全体的に納得。

東京五輪が待ち遠しくない|【西日本新聞】

 

オリンピック否定論については「既に開催が決まってるんだから、反対するより、どうせなら良いものになるように建設的な意見を出して協力した方がいいんじゃないの」的な意見がある。自分自身、そう考えることもあったが、やはり、それでも異論を唱えることは必要だと改めて考えている。

 

以前、小熊英二の『社会を変えるには』を読んだ。
https://www.amazon.co.jp/%25E7%25A4%25BE%25E4%25BC%259A%25E3%2582%2592%25E5%25A4%2589%25E3%2581%2588%25E3%2582%258B%25E3%2581%25AB%25E3%2581%25AF-%25E8%25AC%259B%25E8%25AB%2587%25E7%25A4%25BE%25E7%258F%25BE%25E4%25BB%25A3%25E6%2596%25B0%25E6%259B%25B8-%25E5%25B0%258F%25E7%2586%258A-%25E8%258B%25B1%25E4%25BA%258C/dp/4062881683

 

本の内容は、自分でもビックリするほど覚えていないんだが(やはり、読記はつけないとダメだなぁ)、1つ強烈に覚えていることがある。
「デモをやって何が変わるのか」という疑問に対し、小熊氏は、「デモができる社会になること」という答えを提示していた。

 

そのときは、「何じゃそれ」と正直思った。デモ自体が目的化してどうすんねん、と。
今は、何となくだが、分かる気がする。「おかしいやん」と言い続けないと、「おかしいやん」と言うことすらできなくなる。そんな未来を望まないから、声を上げ続けないといけない。

 

ふだん、ほとんどテレビを観ないようになって久しい。それでも、W杯などの大規模イベントがある際の、「お祭り騒ぎ」の「熱さ」は感じられるし、あれほどの「熱さ」が日本中を覆えば、不都合な真実があったとしても、それが見えにくくなるということは容易に想像がつく。
だから、「しらける」とか「うざい」とか言われるとしても、異論を唱える声というのは必要だと思う。日本語では、そういうのを「水を差す」と言う(英語でも似たような表現があるらしい)。言い得て妙。まさしく、熱を冷まさせないと。

 

 

それに、大事なことは、オリンピックにしろ、他のイベントにしろ、終わった後、当たり前だが、悪かったことが「無かったこと」にはならないということ。
そこで抱えることになったあらゆる意味での「負債」や、そこでの失敗から得られる「教訓」に向き合わなければ、未来の発展は無い。

 

以前、Twiterで、航空業界の「二度と同じ失敗を繰り返さない」ための取組について呟いている人がいた。「失敗」を直視することは、本当に大事だと思う。
「航空業界が失敗から学ぶ仕組みを構築している」話 - Togetter

 

最近、木下斉さんも、失敗について言及していた。
木下斉/HitoshiKinoshita on Twitter: "けど、絶対地方若手議員の会で、墓標シリーズ勉強会はやったほうがいいし、地元の失敗事例データベースは作れると思う。おかしい事業を繰り返さない工夫が大切。"


そういえば、未読だが『地域再生の失敗学』という本もあったな。読みたい。

プレイヤーとして一流だった人は先生やコーチとしての能力が低い、逆に、プレーヤーとして振るわなかった人にこそ、コーチとして超一流の人がいる、という話がある。これも、同じような話だろう。本当に一流の人=「天才」は、「なぜ、それができるようなったのか」の「説明」が出来ない。アインシュタイン長嶋茂雄がそうだ。だから、人に教えることは上手ではない。


高校時代の数学の先生は、自分が知る先生の中でもダントツTOPで教えるのが上手な先生だったんだが、その先生も、高校時代、伸び悩んだ経験があったと聞いた。たしか、浪人中に理転したんだったかな。


自分が塾の講師でバイトしているときも、「あのとき、こういう風に教えてくれれば分かったのに」ということを教えるということで、自分自身の失敗を繰り返させず、ショートカットさせる、ということを意識していた。特に、中学生の時に苦手だった数学や、大学入試直前まで苦手だったが、東進で超飛躍的に伸びた現代文。

ただ、悩ましいのは「自身の失敗を繰り返させずショートカットさせる」ことで、その生徒自身の「失敗の経験」を奪うことになりはしないだろうか、という問題。
これは、非常に悩んだ。
実際は、あの塾では、伸び悩んだ子、勉強が嫌いな子たちに教える必要がった。だから、まずは「成功体験」=「やればできるようになる」ということを重視した。また、受験が近く「結果」をまず出さねばならないという側面もあったから、背に腹は代えられない、という事情もあった。でも、自分の教え方は正しかったんだろうか、と今でも自問自答する。

 

全然取り留めもない話になってしまった。

塾講師、またやりたいなぁ。