自治体職員としては、第3章の、「SDGs未来都市」の取り組みがとても興味深い。
住民など様々なステークホルダーとのパートナーシップや協働といった取り組みは、SDGsのゴール16にも沿うし、自分が目指す地方自治のあり方の1つの目標でもある。
しかし、自分が所属する自治体で似たようなことができるのかと考えると、なかなか難しいと感じる。
先述の「SDGs未来都市」には、首長を始め、行政が住民について信頼を寄せており、真のパートナーシップを確立しようと言う本気度が見える。その本気度は特筆すべきで、だからこそSDGs未来都市に選出されたのだろう、と納得できる。
しかし、自分の自治体には、そこまでの本気さがあるのだろうか。
例えば、公共サービスのコストについて、どれくらいの負担を利用者に求めるのか(反対にどれくらいを税金で賄うのか)、といういわゆる受益者負担の問題がある。
※例えば、水道料金といったインフラや体育館等の公共施設の使用料、市営バスといった公共交通の料金などの問題。国レベルでは、医療費負担、社会保険料といった論点も考えられる。
これに関して、例えばヒラの職員である自分が「住民を中心とした対話集会を設けましょう」と意思決定層に提案したとしても、その提案が通るのかどうか・・・。
●このことを考えていた時、この本のことが思い出された。
この本では、対話がいかに魅力的か、対話をどうやって実践していくのか、という論点のほかに「なぜ対話が必要なのか」という論点にも言及されている。
この本では、大きく2つのスタンスが提示される。
1つは、対話は、手段として有効だ、というもの。
もう1つは、対話は、そもそも公務員に課されている倫理的な使命だ、というもの。
「対話の場づくりをどうやって進めていくのか」という点について、同僚と議論したことがあるのだが、彼女は後者のアプローチの方が個人的には腑に落ちる、と述べていた。
たしかに、公務員は基本的には生真面目だし、草の根的、日常居に対話の場を増やしていくフェーズでは、この倫理アプローチは有効だろうと思う。
しかし「どうやって意思決定層に対話やパートナーシップの意義を説得するのか」ということを考えるフェーズでは、後者の倫理アプローチは有効ではない気がする。
「対話や住民参加、パートナーシップの重視が、公務員に求められる倫理的な振る舞いである、だからやるべきである(やらせてくれ)」と説得し、「せやな」と言ってくれるような意思決定層ならば問題ない。というか、そういう人ならば、そもそも「説得」する必要が無い。
しかし、仮に食い違いがあり、意思決定層が、対話や住民参加を不確実性、リスクの視点で消極的に捉えるような立場であった場合、そこには事実認識というレベルを超えた「価値観の違い」という断絶が存在する。
これに対し、自らの主張を倫理と言う名で正当化しようとすることは、翻って、そうではない側について「あなたの価値観は非倫理的だ」と断罪することに等しい。
これは、圧倒的に権力が上回る意思決定層に対しての攻め方としては、悪手である。
むしろ、対話が目的達成のための手段として有効だ、と割り切って説得する方が、上は「合理的」に判断することができる。
とはいえ、対話やパートナーシップは、行政目線だと、必ずしも手段として有効ではないかもしれない。少なくとも、面倒だし、予測可能性が担保できないし、住民参加で汗をかいたからと言って、議会が最終的に首を縦に振ってくれなければ無意味(議員が、住民参加を議会軽視とみなすことすらある)という課題がある。
それでも、対話やパートナーシップでないと開けない地平があること—その実績、手ごたえや確信、期待や信頼を積み上げていくしかないのだろうか。