幽霊犬の備忘録

某市の職員。政治学を齧りジェンダーや経済思想に関心。

社会貢献的事業「こども宅食」への活用はふるさと納税制度の免罪符となるのか

●こども宅食とふるさと納税

NPO代表で、病児保育や児童福祉等、様々な分野で積極的に活動している駒崎氏が、ふるさと納税を活用して「こども宅食」という取組を進めている。

kodomo-takushoku.jp

この取組—いや、行政が絡んでいるから事業といった方が適切か—それ自体が妥当なものなのかどうか、それ自体も議論があるようだが、今回はそこには触れない。

※以前、FacebookNPO法人すまいの会の方が、この事業についての批判を投稿しているのを見つけたので、参考までに貼っておく。いずれ、きちんと検討する機会があるかもしれないので、メモしておこう。

https://www.facebook.com/hirotaka.hattori.5/posts/1419500631439114

https://www.facebook.com/hirotaka.hattori.5/posts/1544666295589213

https://www.facebook.com/hirotaka.hattori.5/posts/1410706182318559

https://www.facebook.com/hirotaka.hattori.5/posts/1674766855912489

https://www.facebook.com/hirotaka.hattori.5/posts/1798677796854727

 

さて、自分が気になっているのは、仮に、こども宅食という事業が良い政策だったとして、それを、ふるさと納税活用で実現することの是非だ。結論から言えば、自分は、賛成できない。

正確に言えば、「ふるさと納税」という制度が、返礼品競争ではなく、社会貢献的事業に活用されたとしても、ダメな制度なのではないかと考えている。批判したいのは、こども宅食ではなく、ふるさと納税の方だ。

 

●税金の使い道を自分独りで決めること=民主主義?

まず、返礼品競争が展開されている状況は、不健全としか思えない。返礼品が高額過ぎるとして総務省自治体を指導した、とかそういうニュースが何度もあっていることもあって、返礼品競争が不健全だということは、漠然としたイメージとして、わりと広く国民に共有され始めているのではないかと思う。
そういう文脈があるからこそ、

 

「こども宅食は、「ふるさと納税」で運営されています。返礼品競争が過熱していますが、返礼品はご用意していません。皆さんへのお返しは、「子ども達と社会の変化」です。ぜひ、ご参加ください!」

  ※公式HPより引用

と謳う「こども宅食」は、一見「良い」ものに思われていて、広まり始めている。これを利用している人は、自分が良いことをしていると思って、全く疑っていない。

 

自分も、何となく、「ふるさと納税の返礼品競争はダメだが、こども宅食は良いのではないか」という気がしていた。

 

ただ、やはりおかしい、とこの投稿を見て改めて感じた。

駒崎氏は、こども宅食に賛同する声を、リツィートでよく紹介するのだが、これもそうだった。

 

 

自分が払う税金の使いみちを、勝手に役人や議員に決められて、たまるか!ふるさと納税は税金の使い道を決める!という民主主義の原点を自分たちの手に取り戻す仕組み

という部分がどうしても気になって仕方がなかった。

 

「民主主義の原点」とか言っているが、役人はさておき、議員を否定するということは、民主主義そのものの否定、少なくとも、議会制民主主義の否定なのではないか。法的擬制とはいえ、議員は住民や国民の代表なのであり、それを否定することは、社会の制度が拠って立つ民主的正当性自体を否定するということなのではないか。


貧困に苦しむ子どもを救いたい—なるほど、それは重要なことだろう。

税金の使い道を決めるという権利—もちろん抽象的には国民にあるだろう。

だが、それは、納税者独りが決定できるものではない。

税金を使って取り組むべき課題はそれだけではないし、意思も一人一人違う。

インフラ整備、あらゆる福祉の課題、教育などなどありとあらゆる課題が山積している。その中で、有限な税資源をどう配分するのか、優先順位をどう位置付けるのかということを、議論(対話)というプロセスを通して決定していかなければいけない。それが民主主義であり、政治であるはずだ。

例えば、「自分の住んでいる自治体に納税したって、自分が使ってほしいところに使ってくれない。その分、こども宅食なら、全てをその費用に充ててくれる点が良い。」という意見もあるようだ。
しかし、これは、政策の優先順位を決定するにあたっての議論というプロセスを迂回するものであり、やはり問題があるのではないか。極端な話、子どもの貧困対策を、重要だと思わない民意だってあり得る。

 

●局所的な社会貢献が犠牲にするもの?

また、もっと大きな問題として、ふるさと納税制度には、致命的なウィークポイントとして、居住自治体に入るはずの住民税が控除されるという点がある。「何もやらなければ、他の自治体に取られてばかり」という状況に追い込まれて、ふるさと納税に取り組まざるを得ない自治体も多いという(以前、新聞記事で読んだ。保存しておけばよかった)。


こども宅食によって、その事業を実施する自治体(現在は佐賀と文京区)では貧困に苦しむ子どもを救えるかもしれないが、それは減収した他自治体やそこの住民の犠牲の上に成り立っているということだ。国保の保険料が上がるかもしれない、市営住宅の家賃が上がるかもしれない、必要な啓発に予算が回せなくなるかもしれない、そして、子どもの貧困支援に支障が出ることすら、あるかもしれない。それはつまり、自治体Aでの子ども支援を応援したつもりが、自治体Bでの子ども支援の足を引っ張る可能性すらあるということだ。


こうした住民に痛みを強いる政治的な決定が、「やらない善より、やる偽善」みたいな思考停止した美辞麗句でまかり通っていいのだろうか(実際、言っている人がいた)。偽善どころか、民主的正当性を実質的に欠いた悪業ですらあるのではないだろうか。

 

●その他

・マクロなレベルで言えば、人口減少でトータルのパイが縮小していく中で、自治体が人口や金を奪い合うこと自体が不毛で、成長・拡大を志向してきた20世紀の価値観か らいい加減、脱却しなければいけない。そうした文脈からも、自分はふるさと納税という仕組みそのものに否定的だ。

・また、社会貢献的事業にふるさと納税を行うことすら、やはり自分としては正当化しえないのだから、いわんや、ふるさと納税の返礼品競争は、本当にどうしようもない悪質なものだと思う。

※居住自治体への住民税に関する控除の仕組みが無ければ、ふるさと納税は許容できるかも・・・?しかし、そうしたら「寄付」でいい。返礼品目当てだとしたら、「寄付」どころか、ただの買い物。いずれにせよ「納税」の名に値しない。

ふるさと納税という仕組みそのものが国会で立法化されたもので、民主的正当性が担保されているではないか、という批判もあると思う。そういう意味では、当然、ふるさと納税や、こども宅食事業も、何ら「違法」ではないが、今回の話は、地方自治、民主主義のあり方として、どうなのよ、という問題。端的に、悪法だと思う。