・貨幣は商品でもあり,借用証書でもある。コインの表には硬貨の鋳造者である政治的権威の象徴があり,裏には交換における支払価格がある。
・物々交換の神話と,原初的負債論の神話は,隔たっているように思えるが,実際はコインの裏表であり,一方は他方を前提にしている。つまり,人間存在を宇宙からの負債と把握するのは,人間生活を商取引からみることによって可能になるということだ。ニーチェが分析するように,世界を商業的観点から想像すると,必然的に原初的負債論の系譜にたどり着くことになる。
・これらは全て,人間は合理的な計算機であり,商業的な自己利益が社会に先立っており,「社会」自体がそこから帰結する紛争にまにあわせにふたをかぶせる方法でしかない,という誤った人間本性の前提から出発している。しかし,狩猟社会についての人類学文献では,賃借計算の拒絶に人間であることのしるしがある,という狩猟民の思想が見いだされる。彼らにとってそれをすることは,負債と通じてたがいを奴隷あるいは犬に還元し始める世界を形成してしまうことだ。
・ニーチェは,贖い/救済(redemption)という概念の理解にも有益だ。自由(freedom)とは,負債よりの解放を意味する。贖い/救済とは,歴史の終焉における恩赦,すなわち計算システム総体の破壊である。
・ここで,1つの疑問が浮かぶ。最終的な贖い/救済の到来する前に,とりあえずなにが可能なのか?キリストのたとえ話の中に,こういうものがある。王から借金を帳消しにされたしもべが,今度は自分が他人に貸している借金を無情に取り立てをしたことで,王の怒りにふれ,投獄されたという話だ。信者は「われらが免除するごとく,われらの負債も免除してください」と懇願する。しかし,祈る信者のほとんどは,自らが免除などしていないのを承知の上で祈っている。であれば,神が赦す理由はあるのか?
・この喩え以外にもキリストの発言は二重に読める両義性がある。われらが借金を免除することを,はたして本当にキリストは期待しているのか?それとも,それが無理なのは明らかなので,救済はあの世においてのみだと思い知らせたいのか?
・ほかの宗教にも両義性はみられる。商取引への還元を糾弾する一方,その異議を商業的な観点から枠づけているのだ。
・とはいえ,これまでの考察から,芋と靴を交換する近隣者のエピソードは無邪気すぎることがわかる。貨幣のことを考えるとき,思い描かれていたのは,友好的な交換ではなく,奴隷売買,徴税,抵当や利子,略奪,盗み,復讐,懲罰などのことだ。
・階級間の政治的抗争は,負債解消の申し立てとして出現し,聖書等の宗教にはそのモラル上の議論の痕跡が残っている。その中には,市場の言語が取り込まれている。