幽霊犬の備忘録

某市の職員。政治学を齧りジェンダーや経済思想に関心。

『負債論』第6章 性と死のゲーム 要約

第6章はなかなか読みにくかった。
何より、ティブ族のエピソードの理解が難しい。要約も非常に長ったらしくなってしまったが、あえてこのままで(2300字超え)。

 

雑にまとめると、要するに、ここでの主張は、「負債の根本には文字通りの「暴力」の存在がある」ということだと言って差し支えないだろう。

 

(なお、章題が「生と死」ではなく「性と死」なのは誤記ではない)

 

 

<以下、要約>
・全てを交換に還元して歴史を語るとき、成人男性以外の、交換が相対的に困難な人間の存在は抹消される。
例えば、蛮民法典で賠償単位として規定されているポンドメイド(女性奴隷)やネヘミヤの逸話で父の借金にかたで売られていく娘などについては、経済史の領域外だ。そして、事態は5000年ほどの間、さほど変わっていない。
・「原始貨幣」というものは、ものの売り買いではなく、人間関係の形成、維持、再組織の為に使用される。このような通貨を、ここでは「社会的通貨」と呼び、それらを使用する経済を「人間経済」と呼ぶことにする。歴史上、支配的だったのは人間経済で、商業経済は比較的新しいものだ。続く2章で、前者から後者への移行を確認する中で「たんなる義務がどのようにして負債に転嫁するのか?」を問うていく。

●不適切な代替物としての貨幣
・フランスの経済学者(元人類学者)のロスパベによれば、「花嫁代価」等の「原始貨幣」は、支払い不可能な、それよりもはるかに価値のある何かを負っていることの承認、認知のための手段だった。女性に代わるものは、別の女性しかあり得ない。そこで、双方は、いつの日か返礼がある(妹等、別の女性が花嫁として交換される)ことを儀礼的なフィクションとして維持しようとする。殺害された者の親族へ送られる贖罪金、血資もまた同様である。
 なお、これは、二者間のネットワークであり、個人—社会(宇宙)との負債関係をイメージする原初的負債論とは異なる。「社会」に負債があるのではない。もし、「社会」についての観念があるとすれば、社会とはわたしたちの負債そのものだ。

●血債(レレ族)
・返済不可能な負債の承認のしるし(トークン)が、負債を消滅し得る支払い形態へ転嫁するのはいかにしてか、という疑問には、アフリカの事例が答えを示してくれる。
・アフリカの伝統的な認識では、人間が死ぬのには必ず有責者の存在があるとされていた。この犯人は、自分の家族から若い女性を譲渡し、「人間質草(pawn)」とする必要があった。誰もが血債の当事者になり得、女性たちは交換の対象となった。
・重要な点の1つ目は、取引対象がひとの生命であったこと。もう1つは、人間の生命の価値は絶対で、なにもののその代替物とはなりえない、ということ。もっとも重要な3つ目は、「人間の生命」とはすなわち「若い女性の生命」であったこと。債権者ないし債務者になれるのは男性のみで、女性は人質(pawn)になるしかなかった。
・なお、人質制度≠奴隷制度である(戦争捕虜という奴隷は別途いた)。女性には、夫を代えたり、村妻(village-wife)になったりする選択肢があった。一夫多妻制においては、若年男性は結婚相手を見つけにくいが、村妻は、村落と結婚しているという原則のもと、次第にこうした男性たちの夫となった。いわば村落は法人で、人質の債権者や債務者たり得たのである。
・しかし、村落には武力行使という強制手段があり、個人男性には無い、という決定的な差がある。この暴力の出現において、「人間の生命は人間の生命とのみ交換可能」というルールが乗り越えられる。

●人肉負債(ティブ族)、奴隷売買
・ティブ族の場合、親族や被後見人を差し出せない代わりに貨幣で得た妻は、通常、真に彼のものとはみなされないが、奴隷の場合は例外的だった。人間経済においてなにかを売るさいには、文脈から切り離される必要があるということだ。
・ティブ族では、魅力とエネルギーと説得力の源である「ツァヴ」というものが存在し、それを強化する術は人肉を食べることのみだと信じられていた。実際にカニバリズムが実践されていた訳ではないが、彼らは、男性指導者が実は食人鬼ではないかという強迫観念を抱いていた。ムバツァヴ(妖術師の結社)から騙され、人肉を食べさせられた者は、人肉負債を負うことになり、その返済のためには、かれの家族を差し出すほかないのである。
・このような幻惑、強迫観念に脅かされていたのは、実際に、奴隷売買というかたちで同じようなことが起こっていたからである。奴隷貿易は、信用協定のネットワークだったが、奴隷商人たちは信用に足らない者たちなので、負債担保の手段としての人質(pawn)の制度が形成された。奴隷商人たちは、犠牲者たちから、ひとをして一個の人間たらしめているもの、そのすべてを失わせ、肉体そのものへ還元した。その過程では、アロ連合やエクぺといった組織が、債務の取り立てを行った。
・注目すべきは、人間の生命は代替不可能性という人間経済の原理が、反転し、人間存在の破壊へと転化したということである。
・ここで記していることは、アフリカの特異例ではない。

●暴力についての考察
・ロスパベが指摘したように、人間経済における社会的通貨は決して人間と等価にはならず、負債を支払うことは不可能であるという事実を承認するためのものである。しかし、一定の暴力によって、ある人間が存在する文脈からはく奪されることで、彼女はほかの人間との交換の対象になる。
・戦争や奴隷制によって暴力の水準がはなはだしく上昇すれば、彼女は、別の人間ですらなく、物品や貨幣との交換されることになる。たしかにアフリカの奴隷売買は前代未聞のカタストロフではあったが、商業経済は何千年にもわたり人間経済から奴隷を抽出してきている。
わたしたちが負債社会を形成してしまったのは、まさに戦争と征服と奴隷制の遺産が完全に消え去っていないゆえである。遺産はまだそこにある。わたしたちが元も慣れ親しんでいる諸観念、すなわち名誉や所有、そして自由のうちにさえ、その遺産は宿っている。わたしたちはもはや、その遺産を直視することができないだけなのだ。