幽霊犬の備忘録

某市の職員。政治学を齧りジェンダーや経済思想に関心。

「古典は役に立たなくて何が悪い」という開き直りはイヤだという話

#古典は本当に必要なのか 問題。

一時期、Twitterのこのハッシュタグがすごく盛り上がってた時期があって、色々と見ていた。

もともと、古典の必要性については懐疑的だったんだが、特に下記のようなツィートについては自分は素直に首肯できない。

 

 

こんな風に、教育は実用だけで良いのか、ムダなものが人生を豊かにするのだ、っていう議論だ。

全く分からないではないんだが、不納得な点がある。前にTwitterで呟いたもののコピペが中心だから、きちんとまとまった文章じゃなくて読みにくいかもしれないが、まとめなおすのが面倒なので、ほぼそのままで。

●上に挙げたようなものって,要は「ムダなモノでもその人の人生のどこかで活きるかもしれない」という理屈と言えると思う。しかし,これでは全てのジャンルが肯定される余地がある。なんなら、学校で学ばされて試験に出されるのは、古典じゃなくて、マンガ、映画、バラエティ番組等何でもええやん,という話になる。


授業で拘束される、テストや宿題が出される、それらの不出来で叱られたりする、入試で科されて不出来なら進路が断たれる、等々。ここまで実態のある「システム」の中に古典漢文は組み込まれている。古典漢文を頑張ればそのシステムの中で評価されるが、例えば、映画を1000本観て色々分析できるようになったって、それが評価されるようなシステムではない。なぜ?

ムダなものも人生には必要。結構。でも、なぜそれで古典漢文なのだ。例えば、学校でみんなでドラクエやってもいいやん。ジョジョ読んで授業したっていいやん。宿題で『ゾンビランド・サガ』を観た感想文を書かせたっていいやん。

 

●そもそも本当にムダでも良いなら、システムに組み込んで評価する必要性はどこにある。評価システムを社会的に採用したのは、一定程度、古典漢文の考え方や知識を、社会として共有すべき必要があるもの、として捉えたからではないのか
自分は、古典漢文そのものが嫌なのではない。ただ,古典漢文に関する知識やスキルが評価される仕組みの必要性は大いに疑っている。大多数の人間が、古典文法やら、古語やらを訳出来るようになる必要はあるのか、と。端的に言えば、大多数の人間にとって、入試やテストは要らんだろ、と。美術や音楽、体育と同じような枠組みになればいいんでは。
美術や音楽、体育なんかは、大多数の入試には無いが、当然「その路」ではあり得る。古典漢文もそれくらいでいいんじゃないだろうか。

 

思えば,法学部の教授方が「歴史を勉強しろ」と言っていたのを何度も聞いた。それ自体は、自分も凄く納得できる。なのに、出身大学では、二次試験では出されてない。他方で、古典漢文はある。前々から、この違和感が強くあった。


ちなみに、自分の出身大学(某国立大学)の入試では、国語200点のうち、評論2問(各60点)と、古文と漢文が40点ずつの配点だった。以前、教授に入試の仕組みについて聞いたところ、以下のようなことを教えてもらったことがある。評論の問題は、文系各4学部(法、経、文、教)の持ち回りで作成するが、採点は各学部の教授。採点基準も学部ごとで、同じ答案でも学部によって点数が変わることは十分にあり得るとのこと。古典の問題は、文学部が毎年作成し、採点も文学部の教授。
古典については、出題も採点も文学部に任せきりな状態。これは、文学部以外の分野にとって古典の必要性が乏しい(無いとは言わないが)ことの裏付けではないだろうか。(そういえば、数学や英語の出題・採点はどうなってるんだろう・・・。この文脈では、古典不要論は数学不要論にも繋がる)


余談だが、教授から教えてもらった話が面白かった。法学、経済学部的には、「論理的な読解力や表現力が問えるならテキストは何でもよく、極端な話、トリセツでも何でもいい」と思っているのに対し、文学部は、表現とか、「文学的」な文章かどうか、を気にする傾向があるのだと。

閑話休題

少なくとも、古典漢文を現代語訳する知識や能力は、不要とは言わないが、大多数の入試で科される必要は無いのでは。この世に不要とは言わない。ただ、それは、やりたい奴がやればいい。

 

例えばだよ。

センター試験の必修が「リコーダー実技」だったとしたらどうよ!?

 

「リコーダーの能力なんて要らんやん」って大多数が思うでしょ。「リコーダーは人生を豊かにするかもしれない」とか「それを専門家として仕事にしてる人がいる」とか言われて、納得できんのか、と。
繰り返しになるけど、古典漢文が実態のある評価システムに組み込まれている以上、それらはある程度(少なくともリコーダー以上に)共有すべきものであるという社会的合意を与えられているということに他ならない。少なくとも、どこかの時点で、そういうことになっている。そして、今古典について懐疑的な立場の人たちから問われてるのは、「不要か必要か」というゼロサムの意見ではなく「社会で共有すべき知識として公教育に必須として組み込むほど優先順位が高いものなのか」ということなのでは。

 

●なんの根拠もない推測なんだが、古典漢文をいまだにやってるのって「昔からやってる」以外に理由は無いんじゃないだろうか。少なくとも漢文は。明治期の言文一致以前は、今我々が古語と呼んでるものが読めないと、リーディングが出来ないという意味で、それは「実学」だったのではないだろうか。(この手の教育史の研究やってる人って、絶対いると思うんだがなぁ)。
だが、今は違う。
かつて「実学」だったものが、その必要性がなくなり、惰性で続けられているところに「人生に不要なモノなんてない」みたいな、詭弁のパッチがあてられているのが実情なのではないだろうか。

 

●もう1つ。印象的なことが昔あったのを思い出したので書いておく。塾講師バイトで、高校2年編入を目指す女の子を指導したことがある。その子は、中国人の子で、親の都合で来日した。「超」が付くくらい優秀な子だったんだが、その子は、日本の国語で漢文をやることに驚いてた。
その子が言うには、その漢文は、中国人でも勉強しないと読めないんだと。そりゃそうだわ。日本人でも古文は勉強しないと読めない。さて、中国語ネイティブでも読めない漢文を、「訓読分」なるガラパゴスな読み方にしたり、訳したりする必要性は、マジでなんなんだ?
例えば英語にだって、古文はある。だが、我々は、シェイクスピアの英語を高校の授業で習ったり、入試で出されたりはしない。シェイクスピアの英語を学ぶ意義を見出した人がいれば、自らやればいい。さて、シェイクスピアの英語と、漢文の本質的差異とは何だ?
おそらく、本質的な差異など無い。あるのは、ただ、近代まで、漢文の素読は日本人にとって「実学」だったという歴史的な経緯。それを21世紀まで継続するのは茶番では。それに対して「ムダなモノが人生を豊かにする」的に擁護するのは、抽象的で観念的過ぎる。
共有すべきもの、という点では、古典漢文だけでなく、様々なものが再検証されるべきだろう。数学が高度過ぎるとか、微分積分や数列は本当に必要なのか、とかいう議論にもある程度納得できる。
共有されるべきものとしては、では、どんなものがあるか。数学や現代文(論理的な読解力)、社会なんかは、実学的な要素があると思うんだよな。そのまま社会に使えるとか、それを習得してないと次の発展的な学問領域に進めないとか。数学のいくつかの分野とかは、それらの実学性?の期待値が低そうな気がするが、古典漢文の期待値の低さはそれらの比ではない気がする。実際、法教育とか、英語とか、消費者教育とか、主権者教育とか、近代史とか、労働法とか、そういう「これをもっとやるべき!」と識者が必要性を必死に主張しているものがいっぱいあるなかで、古典がいつまでも幅を利かせて「不要かもしれないけど別に良いもんね〜」とのさばっているのは、正直,違うと思う。
実際、労働法の知識とか、本当に大事だよ。知識があれば「電話が鳴ったら取れるように、デスクで弁当食べながらの昼休み」ってのが違法だと分かって戦えるし。
学校教育に非実学的な存在意義を見出すのは個人の勝手なんだろうけど、システムとしての組込を正当化する(他領域を押しのけて国民が学ぶ優先順位が高いものして措定する)にあたっては、実学性が考慮されてしかるべきではないだろうか。

 

こういう「古典教育の必要性をめぐる言説」みたいなことを研究してる人,きっといるんだろうなぁ。学習指導要領が決まっていく過程の議事録とかを精査したら、面白そうではある。文科省の何かしらの審議会的なところで議論されるんだろか。死ぬほどヒマなら調べてみたいが、多分やらない。

 
という訳で、自分の意見を改めて整理する。

 

・古典は完全に不要かというと、そうではない。

・ただし、その優先度は、体育や美術といった選択科目程度で良いのでは。少なくとも、口語訳の重要度は低い。

・古典よりも、他分野で学ぶべきことがたくさんあるはず。また、古典よりも漢文の方が重要度が低い気がする(これは印象レベル)。
・ただ、自分は、上記のようなことを本音で考えているとはいえ、そこまで目くじらを立てて「古典をなくせ!」と思っている訳ではない。むしろ、自分が気に食わなかったのは「役に立たなくてもいいじゃん」という「開き直り」の態度なのだと思う。それ、生徒に正面から言えるのか、と。学校の先生からそれ言われて、納得できんのか、と。もし「役に立たなくてもいいのに、テストとか補講とか追試があるのはおかしいだろ」と反論する生徒がいたとして、その先生が「役に立たないけどやれ」と言ったらどう思うよ

 

結局「意味なくね?」と思ってモチベーションが上がらない層に対して、全く持って説得できる理屈になっていないと思う。最初に引用したツィートもかなりのRTとふぁぼで反響(恐らく賛同が大部分)が大きい。けれど、得てしてこういう手合いに賛同する人の多くは、ツィートを見てなくても何となく「古典ってあった方が良いよね」と元から思ってたんじゃないかと邪推している。意見が違う人を説得できるような意見では全く無い。

 

●おまけ

ハッシュタグを辿って、面白い、興味深いと思った意見と、それへの一言コメント。

<古典より重要度高いものあるよね、という話>

  法律実務家が考える必要な知識。実際問題、法律の知識はあった方がいいよね。

 

<実益がある?説>

 このツィートのように、実学性があるという論拠なら、結構納得できる。実際、学校の勉強がどう役立つか(役立つという言葉が嫌ならどう活きるかと言ってもいい)、もっと可視化された方がいいと思うんだよな。Twitterでこのハッシュタグを辿っていくのは,とても面白かったし。

 

 

これも説得力がある。古典の素養がある人材が必要だという戦略的な選択。同じことが数学にも言えるかな。

  実際、これもちょっと分かる。どこかでマジで役に立つかもしれんし、そのときにゼロからでは間に合わないという問題。「必要になった段階で知ればいい、学べばいい」という考え方で対処するのには限界がある、というのは↓の本の書評から得た教訓。

書評:『クラウド時代の思考術』(ウィリアム・パウンドストーン) | ditm.

 

そういえば、自分も、数学Aで習った「論理と集合」の知識をまさに仕事で使っていた。「A かつB」とか「AまたはB」とか、そういう「ベン図」を使うヤツ。

仕事で,データベースから,特定の検索ワードに引っかかるヤツを抜き出してくる必要があって,自分は数学のこの分野が得意だったから助かってた。(この分野が不得意な人と会話すると,少し骨が折れる)。


ただ、それでもやはり、古典は、数学に比べて、実学として役立つ期待値が低いのではないか、という気はやはりする。「どこかで使うかも」なら、イタリア語とか、スクワットの正しいフォームとかでもいいよね。そうではなく、何故古典なのか、という優先順位のあり方が自分の問題関心の核心。

 

<その他>

 

それ、古典の知識というより、歴史の知識よね。
少なくとも、古典を現代語訳する能力は関係ない。

 過去の漢文要るか論争。加納治五郎の意見に、自分は基本的に賛同したい。100年前から「前からやってたから止められないだけ」って言われてたのを知って、正直悲しくなる。

 

 上記で中国の女の子の例を出したけど、実際は中国は古典推しなのか?何かしら戦略、意図があるんだろうか。愛国心向上?気になる。ヨーロッパとか,どうなってるんだろう。ラテン語とか初等中等教育でやるものなんだろうか。

疑問は解消せずに増えるばかりだけれども、疑問は疑問のままでブログは以上。

この問題については、多分、今後語ることはないと思われる。

コメントは歓迎(返すかは分からない)。

『負債論』第2章 物々交換の神話 要約

貨幣と負債は同時に登場しており,負債の歴史は必然的に貨幣の歴史である。
しかし,主流派経済学のどの教科書にも載っている「貨幣」についての常識は,①原始的な物々交換→②「二重の一致」の問題→③貨幣の発明→④信用経済への発展,であり,負債は二次的なものとされている。
文化人類学の知見では,そういった発展経路を辿ったという証拠は発見されておらず,この常識はあくまで「神話」である。実際は,まず発生したのは,信用経済のシステムである。
「二重の一致」の問題も,継続的に関係を持つ間柄であるならば,さしたる問題ではなくなる。例えば,「私は靴が欲しい。手元に芋を持っている。田中さんは靴を持っているが,彼は今,芋を必要としていない」というのは典型的な「二重の一致」の問題だ。これを解消するために貨幣が登場した,というのが主流派経済学の説明だが,実際のところ,「いずれ田中さんが芋を必要とした時には,私は田中さんに芋をあげる」という暗黙の了解があれば,田中さんは問題なくすぐに私に靴をくれるのであり,二重の一致は問題にならない。
ただし,ここで計量の問題が生じる。靴1足は,芋何kg相当なのか?そこで,「計量する単位」としての貨幣が登場する。そして,その登場は,主流派経済学とは相性が悪いが,実のところ「国家」と不可分である。メソポタミアの会計体系は,明らかに商取引の産物ではなく,官僚が貯蔵管理と差配のために発明したものだった。そして,その当時の銀はほとんど利用されず,実際は「信用」システムが基盤だった。
 そして,物々交換は,現金取引に慣れた人々が通貨不足に直面したときに実践したものだった。

もし、2〜4歳くらいの男の子が「スカートを履きたい」と言ってきたらどうする?

タイトルのとおり、もし、2〜4歳くらいの男の子が「スカートを履きたい」と言ってきたらどうする?という思考実験的な疑問が湧いた。
思考実験というか、いつか実現しても全然おかしくないことだが。

 

 

女児を育てる中では、そういう悩みはあまり生じなかった。女児は、スカートを履くことも、ズボンを履くことも、社会的に許されている。他方、男児がスカートを履くことのハードルは、女児がズボンを履くハードルと比べて、途方もなく高い。

 

「スカートは女の子が履くものなんだよ」という返答は考えられるんだが、それは色んな意味で暴力的になりかねない。

 

例えば、自身の性別を「女性」だと認識している、いわゆるトランスジェンダーだという可能性はありえる。  


そもそも、「女性の服」、「男性の服」というのが固定化されていることがおかしい、と友人の路地裏氏なんかは言うだろうな。それは、とても正しい指摘。性自認にかかわらず、一般的に「女装」と呼ばれる行為とか、「女性(用とされている)服」を着るのが、本人にとって「自然」でしっくり来る、ということも考えられる(趣味としての女装もこれも含まれる)。

 

 

●しかし、だ。
そこまで、大げさに捉えないといけない問題なのかどうか、という疑問がある。
単純に、それくらいの子供は、何でもかんでもやりたいだけ、ということかもしれないのだ。

例えば、親が料理にワサビとか唐辛子とかの辛い調味料をかけているのを見たら、自分もやりたいと言う。
例えば、親が腕立て伏せや腹筋をしているのを見て、真似してみたりする。
例えば、クレヨンしんちゃんを観たら「お尻フリフリ」して爆笑したりする。
例えば、テレビのCMを見て「URであ〜る」と歌っていたりする。

子どもの「やりたい」には、特に深い意味がなく、直感的・反射的なものも多い。
他の誰かがやっているのを見て自分もしてみたい、という単なる模倣欲(?)ということもある。子供は「ごっこ遊び」大好きだ。
正直、子供の「やりたい」はその程度のことが実際問題、多いのだ。

 

 

●さて、2、3歳くらいの男の子が「スカートを履きたい」と言ってきたとして、その真意というか、本気度というか、それはどうなんだろう。

スカートを履きたいというのが、彼なりの真摯な欲求なのかもしれない。
そこに、性自認など、アイデンティティの大きな領域を占めるものがあるのかもしれない。
しかし、全然そうではなく、「僕もワサビ入れたい」というレベルで、単なる模倣欲(?)のレベルなのかもしれない。

 

 

●また、いずれにしても、「スカート履きたいの?どうぞ」と、全てを本人の思うがままにさせるべきか、という疑問はある。

 

 

不合理であり、あやふやなものではあるが、それでも「男の子は一般的にはスカートを履かない」という常識、ルールは実際に存在するから、まずはそれを教えてあげるのが親の役目、という気もする。

 

単なる模倣欲でスカートを履いて外に出て、「おかしい」と周りから笑われて、傷つくのは彼かもしれないのだ。

 

 

人間は、社会は、多様だ。
二分論ではなく、グラデーションに満ちた世界に自分たちは生きている。
しかし、幼児に、いきなりそのグラデーションを教えていくことは現実的に難しい。
現実問題として、最初のうちは、二分論を教えていかねばならない場面は大いにある。
それこそ、男子トイレと女子トイレの区別を覚えなければ、社会で円滑に生活していくことは難しいのだ。

そのところの塩梅は、とても難しい問題だ。

 

 

厳密な「ルール」ではないが、「念のため」とか「そんなことで悩みたくない」と思ってネクタイを仕事でつけておくのか、それとも、上司や顧客からクレームを受けるのを覚悟で、ノーネクタイで働くのか、という問題も根っこは同じかもしれない。  

 

理不尽なルールに、多少妥協して波風立たないように生きるか、軋轢や衝突、嘲笑を覚悟のうえで理不尽なルールに抗うか。

どちらが正解なんてことはないのだ。

 


ネクタイ問題で言えば、「とりあえず付けておく」というのが無難でラクという人が多いだろう。そういう選択をしている人を責められはしない。

同じように、男児のスカートについて「とりあえず避けておく」という選択肢も当然あってしかるべき、とも思うのだ。少なくとも、理不尽と戦い、抗う「チカラ」や覚悟が身につくまでは。


しかし、それを絶対不変の「ルール」だと思ってほしくはない。抗うという選択肢を無いものと思ってほしくはない。

育休について(その1) 「なぜ育休を取るのか」と聞かれて戸惑ったという話

自分はかつて(2015年)に育休を取った。

2019年現在、共働き(フルタイム)の妻と一緒に保育園児の子供を育てている。
自分が育休を取ったとき、まだまだ育休を取る父親が多数ではない職場で「育休を取って何をするのか?」という意見もあった。そういうこともあって、「男が育休を取る意味は何なのか?」ということをたびたび考察して文章を書いてきた。

 

これまではFacebookに書くことが多かったが、せっかくなので、ブログにもいくつか転記しておこうと思う。

 

以下に書くのは、その1つ目。
これからいくつか記事をアップしていこうと思う。

 

●以下、転記(元の投稿は2016/10/21)

「何で育休を取ると?」という質問をされて、質問の意味が分からなくて、戸惑った、という話。

上司との面談でも聞かれたし、先輩の男性職員からも聞かれた。
先輩職員の方は、そもそも、制度上、配偶者の両方が同時に育休を取れないと思ってて、嫁が育休を取らないから、代わりに、自分が育休を取るのだ、と思い込んでいた(過去にはそうだったという話を聞いたことがある)。で、そうじゃないことがわかっても、育休を取ろうとすることが理解できない、育休を取って何をするのか、という感じだった。決して、批判的ではないけど、終始「要るのかなぁ?よくわからんなぁ?」という感じだった。ちなみに、その人は子持ち。結構、良いパパらしい。

上司の方は、さすがにそういう感じではないけど、面談の時に「何がきっかけで」とか「何をしようと思って」とか、そういう質問をされた。

自分としては、「取るのが当然」くらいに思っていたから、あえて「なぜ」と聞かれるとうまく答えられてなかったなぁ、と振り返って思う。
あとから振り返ると、「なぜ育休を取るのかって、女性職員には聞かないのに、なぜ男性職員に聞くのか?」って上司に逆に聞いてみればよかったなぁ、とも思ったりした。
まぁ、取る男性職員が圧倒的に少なくて、取得が当然でない現状で、「なぜ取るのか」と疑問に思うのも無理はないという気もするが。

とにかく、まだまだ「育休を取るのが当たり前ではない」ということ。

先輩職員については、自分の育休をきっかけに、その人が考えるきっかけを与えられたので、育休を取った甲斐があったな、と思う。基本的にはいい人なので、今後、「よくわからん」とは思いながらも、「男性の育休」については意固地に否定し続けるのではなく、柔軟に考えてくれる人だと思う。
ただ、先輩職員の名誉の為ではないが、彼は、実際、ほんとに良いパパらしい(同僚に聞いたことがある)。何も、育休が、イクメン度合いを測る全てではない。(イクメンという言葉は嫌いだが、伝えやすいのでこう言う)

 

 ●もらったコメントと、それへの返答も全部ではないが書いていく
※名前等は伏せておく

 

①Fさん(50代経営者)からのコメント

このコメントは、誤解を招く可能性がありますが、あえて書きます。
私たちの世代が入社した頃は、産休というのがあったくらいで育児休暇という言葉は無かったので、「なぜ?」という言葉が出たのだと思います。それは決して育休に対して否定的なものではなく、異文化(この言葉も適切ではないかもしれません。)に初めて触れるような。。。
子育てに対する新しい心構えを聞きたい(ある意味私たち世代は後進的な環境におかれてきたと言えるでしょうし。)という感じだったのではないかな。私も、身近にいませんし勇気ある取得だったのではないかと思います。(●●君本人にとっては当たり前のことだったようですが。。。(^^))今後、そんな勇気が必要ではない当たり前の社会になる必要があるのでしょうが、実際に取得者からの話を聞くというのは当たり前な社会にする上でとても貴重なことだと思います。
全てにおいて、物事を最初に始めるということは少数者ですが、いずれそれが当たり前の時代がいつか来るのではないかと思います。そういった点で色々と語ってもらえることは大切なことだと思います。

それへの自分のコメント

どういう意図や文脈で「なぜ?」という質問がされたのかについては、きっと、まさしくFさんのおっしゃる通りだと思います。上手く自分で表現できなかったところを、代弁して頂いてありがたいです笑
僕としても、「なぜ」と聞かれることがないような時代が来てほしいなぁ、とは思いつつ、聞く人が間違っているとか、批判したい、とか、そういうことを言いたい訳ではありません。当時は、そういう気持ちが無いではなかったですが、今振り返ると、そりゃあ、気になるよなぁ、と思います。きっと、実際に取得する男性を目の当たりにしたのが、僕が初めてのケースだったのだろうし・・・

 

②友人Sのコメント

なぜってそれは、葬式に行くために忌引きするのと同じレベルで、育児をするために育休とるんだぜってド正論ぶち込みたいとこやけど、自分がその立場なら言えないんだなぁ、、、

必要かどうかと言われたら、両親の片方しか、最低限の期間の育休しか取らずに育児してる人もいるんやろうから、「必要」ではないんやろうから、こっちは反論しづらいし、たぶん反論の方向に進むと負け戦になる

それへの妻のコメント

普通に「自分も毎日子育てしたいから」じゃ、ダメなんやろうね。
私はむしろ、なんで「育休いつまで?」って当然のように聞くのって思ってた。

更にSのコメント

「いつまで」っていうこと自体は、上司が労務管理する以上は必要な情報だし、聞いちゃうだろうなーと思う
言い方とか、文脈によるけど。

あと、俺が先輩職員と話してる時、「ふたり同時に育休を取得する必要があるのか」って話になった。
いや、わかる。言いたいことはわかるんやけれども、この論理だとパートナーが「専業主婦(夫)」であれば育休はとるべきでないってことになる。

更に妻のコメント

んー、というか、女性も育休は必須じゃないわけで……
でも取ると思ってるから、いつまで?って聞くんだろうな、と。

あと、二人同時でも、結構大変だったから、必要はあるけど必須ではないってかんじなのかな

更に自分のコメント

ぶっちゃけ、生保世帯だったら「保育園預けて働きなさい」って指導するだろうな、って思ったことはある。

 

ファザーリングジャパンの安藤さんとかは、「育児は楽しいし、期間限定なんだからやらないと勿体無い!仕事にも活きてくる」って言ってて、概ね同意してる。
あと、育休取って育児に専念することで、ぶっちゃけ、授乳以外は母親並に出来るようになった。育休取ってなかったら、そこまではいってないかも、とは思う。

続くSのコメント

あぁ、誤読してた
育休をとるという話をしている中で「いつまで」と聞かれたことに対する疑問ではなく、産休をとるにあたって育休の「い」の字も出してねぇのに、「育休いつまで」って聞かれたことに対する疑問ってことか。それならまぁわかる。

こないだ●●もどっかで書いてたけど、「仕事に活かす」ために育児するみたいになるのは気持ち悪い
気持ち悪いけど、過渡期にはそんな説明をして周りを納得させるという戦略が必要なんやろうなー

 

③Sのコメント

アタマの固いオッサンをド正論で各個撃破したところで禍根を残すだけで社会は変わらないし、やっぱ大事なのはオッサンひとりあたりの労働(狭義)量を減らすことなんだろうなぁ。オッサンてのは比喩ね。企業戦士あるいは社畜の比喩 。

 それへの自分のコメント

それもあるし、考えられる戦略的にはアタマの固いオッサンが少数派になるように、ニュートラルな位置にいる人とか、やりたいけど迷ってるような人たちを取り込んでいくことが大事ではないかと思う。
その為には、Fさんが言うように、取っかかりを作る場面では勇気が必要。 

『負債論』第1章モラルの混乱の経験をめぐって 要約

積読だった『負債論』をこれから読んでいく。

負債論 貨幣と暴力の5000年

負債論 貨幣と暴力の5000年

 

 

本文だけで600ページ弱、注なども含めれば800ページを越えるような大著だ。読むのに1年くらいかかるかもしれない。

そこで、なるべく細かめに、小出しで要約(というかただの抜書き?)をつけていくことにする。

 これを土台に、いずれ自主ゼミが出来れば理想的・・・?


以下、要約(第1章)

・「ともかく借りたお金は返さないと。」という言明が強力なのは、それが経済的な言明ではなく、モラルの言明だからである。この自明さこそが、この言明を厄介にしている。

・負債とは何かについてわたしたちが理解していないということこそが、負債の力の基盤である。暴力の正当化とモラルによる粉飾には、負債が最も有効だ。マダガスカル等の最貧債務国は、かつて攻撃、征服された国々だ。他方、同じ債務国でもアメリカは事情が違う。マフィアが銃を持って「貸してくれ」と言い「みかじめ料」を取っていくのと同様、アメリカは「融資」という事実上の「貢納」を得ている。マダガスカルアメリカの違いは銃、軍事力だ。

・債務の歴史やあらゆる宗教をみると、①借りた金を返すのは純粋にモラルの問題という考えと②金貸しは邪悪、という考えが共存しており、モラル上の混乱がある。

・貨幣は、モラル上の「義務」の数量化を可能とし、「負債」とする。そこで負債は冷酷、非人格的となり、譲渡可能になる。この数量化には暴力が結びついている。暴力が人間関係を数学に変えてしまう仕組みこそが、負債に関するモラルの混乱の源泉である。

・2009年からの金融危機のあと、金融市場の民主的な管理、債務者への救済は実現しなかった。IMFでさえ、このままでは更なる金融破局、ひいては民主主義(資本主義)への脅威となるという懸念を持っている。その今、負債の歴史を再検討するのは重要だ。

・この本は負債の歴史だけではなく、人間とは、人間社会とは何か、という問いを投げかける。その中で、すべての人間関係を交換へと還元してしまうというのが、誤った見方であるということをみていく。交換の原理は、暴力の帰結として登場した。つまり、貨幣の期限は、犯罪と賠償、戦争と奴隷制、名誉、負債、そして救済のうちにみいだしうる。

映画『Suffragette』(邦題『未来を花束にして』)の感想

AmazonPrimeビデオで配信されていたので、観た。

邦題がクソだという前評判を知っていたが、たしかに、この邦題はミスリード過ぎるので、こういうタイトルにした。

未来を花束にして [DVD]

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『未来を花束にして』は、2015年制作のイギリスの歴史映画。 1910年代のイギリスで婦人参政権を求めて闘った女性たちの姿を描いた作品。原題のSuffragetteとは、20世紀初頭のイギリスの参政権拡張論者、特に婦人参政権論者を指す言葉(Wikipediaより)

以下、若干のネタバレあり。

謎解きや伏線、奇想天外なストーリーを楽しむタイプの映画ではないものの、どうしてもネタバレが許せないという方は、ブラウザバックをお勧めします。

多少はいいかな、という方は、読み進めてください。

1 訪れないカタストロフ


例えば、『ボヘミアン・ラプソディ』は、完全にストーリーがキレイな起承転結になっている。

 

起・・・クイーン結成~飛躍

承・・・メンバー不和等の予兆

転・・・フレディどん底

結・・・ライブエイドで奇跡の復活

『セッション』や『ブラック・スワン』も一緒だ。

主人公は、どん底を味わったあと、圧倒的なクライマックスを迎え、観る者はそれによってカタストロフを感じるのだ。

ブラック・スワン (字幕版)

セッション(字幕版)


しかし、この『サフラジェット』は、そのようなクライマックスではなく、カタストロフは訪れない。主人公たちの行動で、運動が一歩、歩みを進めたところで映画は終わり、実際の参政権獲得は、後日談として文章で説明されるのみだった。

ゆえに、自分は、観終わったあとは「スッキリしなかった」という感想を正直抱いた。

ストーリーとして「面白く」はなかったのだ。

 

だが、そこで「スッキリ」させてくれないことこそが、この映画の狙いなのかもしれない、とあとから考えた。

「スッキリ」するはずもないのだ。

その成功を見る前に、散っていった女性たちがいる。

そして、まだ女性たちの戦いは終わっていない。

後日談では、イギリスの参政権獲得に留まらず、現在に至るまでの女性参政権獲得の軌跡が挙げられている(直近では、2015年!のサウジアラビア)。


主人公のモードはこう言った。
私たちが勝つわ」


この「私たち」は、彼女の仲間である運動員のみを指しているのではない。

現在に生きる視聴者までも含めて、「私たち」と言っているのだ。

そう、この映画は歴史を描いたものであるとともに、「スッキリ」させて終わらせてはいけない「現在進行形」の物語なのだ。


2 彼女たちの行動は「正しかった」のか?
<以下、特にネタバレ注意。>
 劇中、某邸宅を爆破するという計画が実行に移された。

 これは、それまでに実行されたショーウィンドウのガラスへの投石破壊や早朝の郵便ポストの爆破などに比べて、規模も大きく過激度が高い計画で、活動家の中でも、やり過ぎだとして、消極的な意見が出ていたものだった。

 結局、「その時間は人がいない」ということで、計画は実行に移されたんだが、その後、主人公は警察に逮捕され、取調べを受けることになった。

 そのやり取りを以下に引用したい。


刑「爆破の時家政婦が邸内にいた

  忘れ物を取りに

  あと2分遅かったら・・・

  何のための爆破だ

  爆弾は相手の区別などできないんだ

  お前に命を奪う権利が?」

主「あんたには女性への殴打を傍観する権利でも?

  偽善者」
刑「法に従う」

主「男の法など無意味よ

刑「逃げ口上だ

主「窓を割り爆破しないと男は耳を傾けないから

  殴られ裏切られた女の最後の手段よ

刑「止めてやる」

主「どうやって?全員刑務所に入れる?

  人類の半分は女よ?止められる?」

刑「それまで体がもつか?」

主「私たちが勝つわ」

引用ココまで。

 

ここは、まさしく映画のメッセージの核心に迫った部分だろう。
Twitterの自分のタイムラインを見ていた限りでは、この映画は、いわゆるリベラルな界隈からの絶大な支持を得ていたように思う。
社会運動、活動に対しての冷ややかな目線に対し、権利を獲得するための「闘争」をあくまで肯定する論調が多く聞かれた。

 

しかし、自分は、未遂に終わったものの、故なく爆破されかけた家政婦のことを考えざるを得ない。


極論かもしれないが、「目的」のための第三者を犠牲にすることが許されるのならば、どうやって、イスラム過激派のテロを否定できる?

 

以前、下記のブログで

手段は目的を正当化しない

という主張をした。 

ghost-dog.hatenablog.com

 

彼女たちがいなければ、女性の参政権獲得という「正しい」未来は訪れなかったのかもしれない。

 

しかし、その未来の「正しさ」は、彼女たちの行動そのものを正当化しうるのだろうか。

手段が目的を正当化しないのであれば、彼女たちがとった手段はやはり正当化されないのだろうか。
しかし、彼女たちが平和的に言葉のみを紡いでいたら、今の女性たちはやはり参政権獲得に至っていなかったかもしれず、それもやはり「正しさ」を欠いてしまう。

この映画の製作者は、どのような意図で映画を作ったのだろう。

「彼女たちが正しかったのは歴史が証明している!」と述べたかったのではないのではないだろうか。

映画を観た人は分かると思うが、上の問答をした刑事は、捜査当局が行った不当な「治療」への苦言を呈するなど、割とまとも(?)な人物として描かれていた。少なくとも、法を振りかざして、男の既得権益を固守しようとするような人物ではなく、彼なりの「正義」を行おうとしている人物だった。本当にクソヤローだったのは、使用者のオッサン。問答の相手があの使用者のオッサンだったなら、主人公のモードの自己弁護は、もっとストレートに納得と共感に繋がったかもしれない。

しかし、あの刑事とモードの問答は、まさに「正しさ」の衝突だったのだ。


まきむぅさんは、あの映画を観たのだろうか。そして、彼女ならどう思うのだろうか。
聴いてみたい。

行政法の勉強 行政行為の取消についての疑問

先日,法務の勉強会があった。そのうち,行政行為の取り消しという論点があった。
判例は,本来の土地所有者Aと,瑕疵ある行政手続きによって土地を取得するに至ってしまったBとの利害が鋭く衝突する事例だった。(最判昭和43年11月7日)

 

判旨の要点の1つとして,取り消しが許容されるか否かは,取り消した場合と取り消さなかった場合の比較考量をすべき,という考え方が示された。

 

ここで,1つ疑問がある。比較考量を行政内部でやった結果,50:50にしか思えないような状態で,判断に悩む場合はどうすればいいのだろうか。更に言えば,取り消した場合も,取り消さなかった場合も,どちらの当事者も訴訟を辞さない,という態度だった場合はどうすればいいのだろうか。


AもしくはBのいずれかから訴訟が提起されるということが分かっておきながら,それでも,取り消すか,取り消さないか,ゼロサムでどちらかの判断(行政処分)をしなければいけないのだろうか。そのうえで,訴訟が提起されるのを座して待たなければいけないのだろうか。

 

それとも,何かしら,ADR的なものを活用して,ゼロサムにならない解決に導くということはあり得るのだろうか。

 

本来,行政処分は法に則って画一的に実施しなければいけないだろうから,安易に,当事者の意を汲んだりする決定は行うべきではない。それは,恣意的な行政運用につながる危険をはらむ。恣意的な運用を排除することによって,法的安定性が担保され,法制度,統治システムへの信頼につながる。
しかし,判旨では,取り消すかどうかという判断に「比較考量」というある意味法外の要素(?)を考慮すべき,されているのだから,そこに至ってしまっては,杓子定規に法的基準をあてはめず,ADR的なものを導入してもいいのではないだろうか。

 

更に問題は,仮に,そういう当事者同士の合意にたどり着いたとして,それを紛争を終局的に解決する決定,判決と同じ効力と位置付ける方法があるかどうか。【合意→行政処分→取り消し訴訟→いやいや,お前,合意したやん!→あれは口約束で,紛争を提起する権利は失われない】なんてことになったらイヤだな。合意→裁判上の和解,的なルートはあるんだろうか。このへんは,民事訴訟法の論点なのかな。超苦手分野(大学でも選択しなかった)。

 

 

時間があれば,調べるかなぁ(と言いつつ,多分調べないパターン)。