幽霊犬の備忘録

某市の職員。政治学を齧りジェンダーや経済思想に関心。

もし、2〜4歳くらいの男の子が「スカートを履きたい」と言ってきたらどうする?

タイトルのとおり、もし、2〜4歳くらいの男の子が「スカートを履きたい」と言ってきたらどうする?という思考実験的な疑問が湧いた。
思考実験というか、いつか実現しても全然おかしくないことだが。

 

 

女児を育てる中では、そういう悩みはあまり生じなかった。女児は、スカートを履くことも、ズボンを履くことも、社会的に許されている。他方、男児がスカートを履くことのハードルは、女児がズボンを履くハードルと比べて、途方もなく高い。

 

「スカートは女の子が履くものなんだよ」という返答は考えられるんだが、それは色んな意味で暴力的になりかねない。

 

例えば、自身の性別を「女性」だと認識している、いわゆるトランスジェンダーだという可能性はありえる。  


そもそも、「女性の服」、「男性の服」というのが固定化されていることがおかしい、と友人の路地裏氏なんかは言うだろうな。それは、とても正しい指摘。性自認にかかわらず、一般的に「女装」と呼ばれる行為とか、「女性(用とされている)服」を着るのが、本人にとって「自然」でしっくり来る、ということも考えられる(趣味としての女装もこれも含まれる)。

 

 

●しかし、だ。
そこまで、大げさに捉えないといけない問題なのかどうか、という疑問がある。
単純に、それくらいの子供は、何でもかんでもやりたいだけ、ということかもしれないのだ。

例えば、親が料理にワサビとか唐辛子とかの辛い調味料をかけているのを見たら、自分もやりたいと言う。
例えば、親が腕立て伏せや腹筋をしているのを見て、真似してみたりする。
例えば、クレヨンしんちゃんを観たら「お尻フリフリ」して爆笑したりする。
例えば、テレビのCMを見て「URであ〜る」と歌っていたりする。

子どもの「やりたい」には、特に深い意味がなく、直感的・反射的なものも多い。
他の誰かがやっているのを見て自分もしてみたい、という単なる模倣欲(?)ということもある。子供は「ごっこ遊び」大好きだ。
正直、子供の「やりたい」はその程度のことが実際問題、多いのだ。

 

 

●さて、2、3歳くらいの男の子が「スカートを履きたい」と言ってきたとして、その真意というか、本気度というか、それはどうなんだろう。

スカートを履きたいというのが、彼なりの真摯な欲求なのかもしれない。
そこに、性自認など、アイデンティティの大きな領域を占めるものがあるのかもしれない。
しかし、全然そうではなく、「僕もワサビ入れたい」というレベルで、単なる模倣欲(?)のレベルなのかもしれない。

 

 

●また、いずれにしても、「スカート履きたいの?どうぞ」と、全てを本人の思うがままにさせるべきか、という疑問はある。

 

 

不合理であり、あやふやなものではあるが、それでも「男の子は一般的にはスカートを履かない」という常識、ルールは実際に存在するから、まずはそれを教えてあげるのが親の役目、という気もする。

 

単なる模倣欲でスカートを履いて外に出て、「おかしい」と周りから笑われて、傷つくのは彼かもしれないのだ。

 

 

人間は、社会は、多様だ。
二分論ではなく、グラデーションに満ちた世界に自分たちは生きている。
しかし、幼児に、いきなりそのグラデーションを教えていくことは現実的に難しい。
現実問題として、最初のうちは、二分論を教えていかねばならない場面は大いにある。
それこそ、男子トイレと女子トイレの区別を覚えなければ、社会で円滑に生活していくことは難しいのだ。

そのところの塩梅は、とても難しい問題だ。

 

 

厳密な「ルール」ではないが、「念のため」とか「そんなことで悩みたくない」と思ってネクタイを仕事でつけておくのか、それとも、上司や顧客からクレームを受けるのを覚悟で、ノーネクタイで働くのか、という問題も根っこは同じかもしれない。  

 

理不尽なルールに、多少妥協して波風立たないように生きるか、軋轢や衝突、嘲笑を覚悟のうえで理不尽なルールに抗うか。

どちらが正解なんてことはないのだ。

 


ネクタイ問題で言えば、「とりあえず付けておく」というのが無難でラクという人が多いだろう。そういう選択をしている人を責められはしない。

同じように、男児のスカートについて「とりあえず避けておく」という選択肢も当然あってしかるべき、とも思うのだ。少なくとも、理不尽と戦い、抗う「チカラ」や覚悟が身につくまでは。


しかし、それを絶対不変の「ルール」だと思ってほしくはない。抗うという選択肢を無いものと思ってほしくはない。