幽霊犬の備忘録

某市の職員。政治学を齧りジェンダーや経済思想に関心。

「古典は役に立たなくて何が悪い」という開き直りはイヤだという話

#古典は本当に必要なのか 問題。

一時期、Twitterのこのハッシュタグがすごく盛り上がってた時期があって、色々と見ていた。

もともと、古典の必要性については懐疑的だったんだが、特に下記のようなツィートについては自分は素直に首肯できない。

 

 

こんな風に、教育は実用だけで良いのか、ムダなものが人生を豊かにするのだ、っていう議論だ。

全く分からないではないんだが、不納得な点がある。前にTwitterで呟いたもののコピペが中心だから、きちんとまとまった文章じゃなくて読みにくいかもしれないが、まとめなおすのが面倒なので、ほぼそのままで。

●上に挙げたようなものって,要は「ムダなモノでもその人の人生のどこかで活きるかもしれない」という理屈と言えると思う。しかし,これでは全てのジャンルが肯定される余地がある。なんなら、学校で学ばされて試験に出されるのは、古典じゃなくて、マンガ、映画、バラエティ番組等何でもええやん,という話になる。


授業で拘束される、テストや宿題が出される、それらの不出来で叱られたりする、入試で科されて不出来なら進路が断たれる、等々。ここまで実態のある「システム」の中に古典漢文は組み込まれている。古典漢文を頑張ればそのシステムの中で評価されるが、例えば、映画を1000本観て色々分析できるようになったって、それが評価されるようなシステムではない。なぜ?

ムダなものも人生には必要。結構。でも、なぜそれで古典漢文なのだ。例えば、学校でみんなでドラクエやってもいいやん。ジョジョ読んで授業したっていいやん。宿題で『ゾンビランド・サガ』を観た感想文を書かせたっていいやん。

 

●そもそも本当にムダでも良いなら、システムに組み込んで評価する必要性はどこにある。評価システムを社会的に採用したのは、一定程度、古典漢文の考え方や知識を、社会として共有すべき必要があるもの、として捉えたからではないのか
自分は、古典漢文そのものが嫌なのではない。ただ,古典漢文に関する知識やスキルが評価される仕組みの必要性は大いに疑っている。大多数の人間が、古典文法やら、古語やらを訳出来るようになる必要はあるのか、と。端的に言えば、大多数の人間にとって、入試やテストは要らんだろ、と。美術や音楽、体育と同じような枠組みになればいいんでは。
美術や音楽、体育なんかは、大多数の入試には無いが、当然「その路」ではあり得る。古典漢文もそれくらいでいいんじゃないだろうか。

 

思えば,法学部の教授方が「歴史を勉強しろ」と言っていたのを何度も聞いた。それ自体は、自分も凄く納得できる。なのに、出身大学では、二次試験では出されてない。他方で、古典漢文はある。前々から、この違和感が強くあった。


ちなみに、自分の出身大学(某国立大学)の入試では、国語200点のうち、評論2問(各60点)と、古文と漢文が40点ずつの配点だった。以前、教授に入試の仕組みについて聞いたところ、以下のようなことを教えてもらったことがある。評論の問題は、文系各4学部(法、経、文、教)の持ち回りで作成するが、採点は各学部の教授。採点基準も学部ごとで、同じ答案でも学部によって点数が変わることは十分にあり得るとのこと。古典の問題は、文学部が毎年作成し、採点も文学部の教授。
古典については、出題も採点も文学部に任せきりな状態。これは、文学部以外の分野にとって古典の必要性が乏しい(無いとは言わないが)ことの裏付けではないだろうか。(そういえば、数学や英語の出題・採点はどうなってるんだろう・・・。この文脈では、古典不要論は数学不要論にも繋がる)


余談だが、教授から教えてもらった話が面白かった。法学、経済学部的には、「論理的な読解力や表現力が問えるならテキストは何でもよく、極端な話、トリセツでも何でもいい」と思っているのに対し、文学部は、表現とか、「文学的」な文章かどうか、を気にする傾向があるのだと。

閑話休題

少なくとも、古典漢文を現代語訳する知識や能力は、不要とは言わないが、大多数の入試で科される必要は無いのでは。この世に不要とは言わない。ただ、それは、やりたい奴がやればいい。

 

例えばだよ。

センター試験の必修が「リコーダー実技」だったとしたらどうよ!?

 

「リコーダーの能力なんて要らんやん」って大多数が思うでしょ。「リコーダーは人生を豊かにするかもしれない」とか「それを専門家として仕事にしてる人がいる」とか言われて、納得できんのか、と。
繰り返しになるけど、古典漢文が実態のある評価システムに組み込まれている以上、それらはある程度(少なくともリコーダー以上に)共有すべきものであるという社会的合意を与えられているということに他ならない。少なくとも、どこかの時点で、そういうことになっている。そして、今古典について懐疑的な立場の人たちから問われてるのは、「不要か必要か」というゼロサムの意見ではなく「社会で共有すべき知識として公教育に必須として組み込むほど優先順位が高いものなのか」ということなのでは。

 

●なんの根拠もない推測なんだが、古典漢文をいまだにやってるのって「昔からやってる」以外に理由は無いんじゃないだろうか。少なくとも漢文は。明治期の言文一致以前は、今我々が古語と呼んでるものが読めないと、リーディングが出来ないという意味で、それは「実学」だったのではないだろうか。(この手の教育史の研究やってる人って、絶対いると思うんだがなぁ)。
だが、今は違う。
かつて「実学」だったものが、その必要性がなくなり、惰性で続けられているところに「人生に不要なモノなんてない」みたいな、詭弁のパッチがあてられているのが実情なのではないだろうか。

 

●もう1つ。印象的なことが昔あったのを思い出したので書いておく。塾講師バイトで、高校2年編入を目指す女の子を指導したことがある。その子は、中国人の子で、親の都合で来日した。「超」が付くくらい優秀な子だったんだが、その子は、日本の国語で漢文をやることに驚いてた。
その子が言うには、その漢文は、中国人でも勉強しないと読めないんだと。そりゃそうだわ。日本人でも古文は勉強しないと読めない。さて、中国語ネイティブでも読めない漢文を、「訓読分」なるガラパゴスな読み方にしたり、訳したりする必要性は、マジでなんなんだ?
例えば英語にだって、古文はある。だが、我々は、シェイクスピアの英語を高校の授業で習ったり、入試で出されたりはしない。シェイクスピアの英語を学ぶ意義を見出した人がいれば、自らやればいい。さて、シェイクスピアの英語と、漢文の本質的差異とは何だ?
おそらく、本質的な差異など無い。あるのは、ただ、近代まで、漢文の素読は日本人にとって「実学」だったという歴史的な経緯。それを21世紀まで継続するのは茶番では。それに対して「ムダなモノが人生を豊かにする」的に擁護するのは、抽象的で観念的過ぎる。
共有すべきもの、という点では、古典漢文だけでなく、様々なものが再検証されるべきだろう。数学が高度過ぎるとか、微分積分や数列は本当に必要なのか、とかいう議論にもある程度納得できる。
共有されるべきものとしては、では、どんなものがあるか。数学や現代文(論理的な読解力)、社会なんかは、実学的な要素があると思うんだよな。そのまま社会に使えるとか、それを習得してないと次の発展的な学問領域に進めないとか。数学のいくつかの分野とかは、それらの実学性?の期待値が低そうな気がするが、古典漢文の期待値の低さはそれらの比ではない気がする。実際、法教育とか、英語とか、消費者教育とか、主権者教育とか、近代史とか、労働法とか、そういう「これをもっとやるべき!」と識者が必要性を必死に主張しているものがいっぱいあるなかで、古典がいつまでも幅を利かせて「不要かもしれないけど別に良いもんね〜」とのさばっているのは、正直,違うと思う。
実際、労働法の知識とか、本当に大事だよ。知識があれば「電話が鳴ったら取れるように、デスクで弁当食べながらの昼休み」ってのが違法だと分かって戦えるし。
学校教育に非実学的な存在意義を見出すのは個人の勝手なんだろうけど、システムとしての組込を正当化する(他領域を押しのけて国民が学ぶ優先順位が高いものして措定する)にあたっては、実学性が考慮されてしかるべきではないだろうか。

 

こういう「古典教育の必要性をめぐる言説」みたいなことを研究してる人,きっといるんだろうなぁ。学習指導要領が決まっていく過程の議事録とかを精査したら、面白そうではある。文科省の何かしらの審議会的なところで議論されるんだろか。死ぬほどヒマなら調べてみたいが、多分やらない。

 
という訳で、自分の意見を改めて整理する。

 

・古典は完全に不要かというと、そうではない。

・ただし、その優先度は、体育や美術といった選択科目程度で良いのでは。少なくとも、口語訳の重要度は低い。

・古典よりも、他分野で学ぶべきことがたくさんあるはず。また、古典よりも漢文の方が重要度が低い気がする(これは印象レベル)。
・ただ、自分は、上記のようなことを本音で考えているとはいえ、そこまで目くじらを立てて「古典をなくせ!」と思っている訳ではない。むしろ、自分が気に食わなかったのは「役に立たなくてもいいじゃん」という「開き直り」の態度なのだと思う。それ、生徒に正面から言えるのか、と。学校の先生からそれ言われて、納得できんのか、と。もし「役に立たなくてもいいのに、テストとか補講とか追試があるのはおかしいだろ」と反論する生徒がいたとして、その先生が「役に立たないけどやれ」と言ったらどう思うよ

 

結局「意味なくね?」と思ってモチベーションが上がらない層に対して、全く持って説得できる理屈になっていないと思う。最初に引用したツィートもかなりのRTとふぁぼで反響(恐らく賛同が大部分)が大きい。けれど、得てしてこういう手合いに賛同する人の多くは、ツィートを見てなくても何となく「古典ってあった方が良いよね」と元から思ってたんじゃないかと邪推している。意見が違う人を説得できるような意見では全く無い。

 

●おまけ

ハッシュタグを辿って、面白い、興味深いと思った意見と、それへの一言コメント。

<古典より重要度高いものあるよね、という話>

  法律実務家が考える必要な知識。実際問題、法律の知識はあった方がいいよね。

 

<実益がある?説>

 このツィートのように、実学性があるという論拠なら、結構納得できる。実際、学校の勉強がどう役立つか(役立つという言葉が嫌ならどう活きるかと言ってもいい)、もっと可視化された方がいいと思うんだよな。Twitterでこのハッシュタグを辿っていくのは,とても面白かったし。

 

 

これも説得力がある。古典の素養がある人材が必要だという戦略的な選択。同じことが数学にも言えるかな。

  実際、これもちょっと分かる。どこかでマジで役に立つかもしれんし、そのときにゼロからでは間に合わないという問題。「必要になった段階で知ればいい、学べばいい」という考え方で対処するのには限界がある、というのは↓の本の書評から得た教訓。

書評:『クラウド時代の思考術』(ウィリアム・パウンドストーン) | ditm.

 

そういえば、自分も、数学Aで習った「論理と集合」の知識をまさに仕事で使っていた。「A かつB」とか「AまたはB」とか、そういう「ベン図」を使うヤツ。

仕事で,データベースから,特定の検索ワードに引っかかるヤツを抜き出してくる必要があって,自分は数学のこの分野が得意だったから助かってた。(この分野が不得意な人と会話すると,少し骨が折れる)。


ただ、それでもやはり、古典は、数学に比べて、実学として役立つ期待値が低いのではないか、という気はやはりする。「どこかで使うかも」なら、イタリア語とか、スクワットの正しいフォームとかでもいいよね。そうではなく、何故古典なのか、という優先順位のあり方が自分の問題関心の核心。

 

<その他>

 

それ、古典の知識というより、歴史の知識よね。
少なくとも、古典を現代語訳する能力は関係ない。

 過去の漢文要るか論争。加納治五郎の意見に、自分は基本的に賛同したい。100年前から「前からやってたから止められないだけ」って言われてたのを知って、正直悲しくなる。

 

 上記で中国の女の子の例を出したけど、実際は中国は古典推しなのか?何かしら戦略、意図があるんだろうか。愛国心向上?気になる。ヨーロッパとか,どうなってるんだろう。ラテン語とか初等中等教育でやるものなんだろうか。

疑問は解消せずに増えるばかりだけれども、疑問は疑問のままでブログは以上。

この問題については、多分、今後語ることはないと思われる。

コメントは歓迎(返すかは分からない)。