幽霊犬の備忘録

某市の職員。政治学を齧りジェンダーや経済思想に関心。

『負債論』第5章 経済的諸関係のモラル的基盤についての小論 要約

・交換、負債のモラル的論理は人類学が明らかにしてきた根本的なモラルの原理の1つに過ぎない。
(『贈与論』ですら市場経済の論理が侵食しており、現代の社会理論は役に立たない。特に、経済学の占める位置は非常に大きい。)
・「互酬性」をキーワードとした「交換理論」というものがある。例えば、レヴィストロースは、人間生活は言語、親族、経済という3つの領域の交換から成り立つとした。
しかし、すべてを互酬性には還元できはしない。
例えば、親子関係。また、時折見られる、助けられた側(病人や溺れた人)がむしろ贈り物を要求するような風習。これは、徹底した平等によるものだ(救助を機に二人は兄弟になり全てを共有するべきとなる)。
他方、治癒者=政治的有力者が、支持者の繋ぎとめるべく寛大な振る舞いが期待される場合のように、徹底した不平等によるものもある。

コミュニズム
・「各人はその能力に応じて貢献し、各人はその必要に応じて与えられる」という原理にもとづいて機能する、あらゆる人間関係のこと。
コミュニズムは生産手段の所有とは無関係で、あらゆる人間社会に存在するもの。資本主義でさえ、コミュニズムの基盤のうえにある。
・この原理のうえでは、「効率」を理由に私的所有権の問題は無視される。河川の修理中に「スパナ取って。」と言われた同僚は「代わりに何をくれる?」と言ったりしない。即興の必要性が高まれば高まるほど、協働はより民主主義的になっていく傾向がある(ex.災害)。コミュニズムこそが人間の社会的交通可能性の基盤なのである。
・共有(シェアリング)にはモラルのみならず快楽も関係(宴=コンヴィヴィリテ)。
・これは互酬性ではない。永遠の想定があり、収支決算が不要になっている。また、コミュニズムを財産所有権ではなくモラルの問題と捉えると、商業含むあらゆるやり取りで、このコミュニズムが機能していることが分かる。
●交換
・交換とは、等価性にまつわるやりとりのプロセスである。そこには収支や損得の計算があり、いつでも関係が解消されるという自覚がある。
・自己利益の最大化(経済学の想定)に向かう場合もあれば、寛大さの競い合い(文化人類学者の想定)に向かう場合もある。
・商業的交換の特徴は、その「非人格性」。
・交換は負債をチャラにする手段である。関係解消を望まれない場合、負債は返済されない。「終わりなき贈与の循環」は継続的な社会の形成につながっている。

ヒエラルキー
ヒエラルキーは互酬性とは正反対体の原則に従って機能する。優劣の線はハッキリ引かれ、関係の枠組みが関係者に受け入れられ、関係が継続しているかぎり、関係は習慣と慣習の網の目で統制されている。
・不平等から開始する関係、慣習はカーストの論理へと転化し、これはアイデンティティ形成にも関連している。
・優位者と劣位者の間のやりとりでは、物品の質が根本的に異なり、相対的価値の数量化、勘定の清算は不可能である。

●様相間の移動
・誰もが、これら異なるモラルの体系の間を、日常的に行き来している(親しい友人に対してはコミュニストで、幼い子供に対しては封建領主)。なぜこのことに気づかず、全てを互酬と捉えてしまうのか。
・それは、抽象的な思考で理念的社会像を作ろうとし、公正な社会を想像しようとするとき、全てが均衡している優雅な幾何学を喚起してしまうからだ。それは「市場」の存在という考えにも近い。市場は現実ではなく戯画化された数学的モデルである。モデル自体は悪くないが、そのモデルが振り回されるのが問題だ。
・諸原理はもつれあっており、互酬性は、どんな状況でも可能性として存在している。また、コミュニズム的関係とヒエラルキー的不平等は、互いに転化、変容する可能性がある。また、「贈与」は無償で与えられるものではなく、義務と負債の感覚、すなわち劣位を生み出すものである(エスキモーの例)。対照的に、コミュニズムのシェアリングは、交換関係へは移行しにくく、むしろ関係解消に向かいがち(しつこく贈与を求める者は支払いを求められるのではなく殺される)。
・人類学者ロレーヌの論考では、フランス・ピレネー山脈の共同体においては相互扶助が機能している。しかし、とある社長が失業者の男に仕事を与え、男がその返報ができない場合、相互扶助は不平等に転化する。もはや対等ではないとする対等な者たち(equals)のあいだの合意こそ、わたしたちが「負債」と呼ぶものの本質である。
・負債は、潜在的、本質的に対等だが、当面対等ではなく、その事態を回復する何らかの方法がある、という関係において生じる。よって、純粋に返済不可能な負債などは存在しない。負債が返済されていない間には、ヒエラルキーの論理が支配的になり、互酬性は存在しない。
・負債の潜在的な返済可能性、対等性の返済可能性は、翻って、債務者が返済できない場合、債務者側に問題があるとされる。
・かくして負債とは完遂に至らぬ交換にすぎないのである。それは互酬性の産物であり、コミュニズムヒエラルキーといったモラリティとは無関係である。すべての人間の相互作用が交換の諸形式であるという前提こそ誤っているのである。
・始終”please”や”thank you”と言い合う習慣には暗黙の負債計算法がある。頼む側は依頼という形式だが、実際は、社会的義務の順守を求める命令、すなわち「借り」の表明で、他方で応じた側の返答は、「貸し」とみなしたわけではないことの表明だ。これは基盤的コミュニズム的な身振りを、本当は交換の一形態であるかのように扱うもので、それはまるでただちに帳消しにされるつかのまの債務関係の果てしなき交差である。それらは、世界中に広く深く浸透してしまい不可視になったが、実は16・17世紀の商業革命のさなか、中産階級において定着したものに過ぎない。

 

(呟き)

●全然要約になってないな、これ笑。

長い!

 

●第1章で「すべての人間関係を交換へと還元してしまうというのが、誤った見方であるということをみていく。」と書いていたが、この第5章はまさにこの部分を書いたところだった。

 

全てを交換と捉える向きとして思い出すのは柄谷行人の『世界史の構造』のこと。

あの本で書かれていたのは、この章での3つのモラルにかなり合致するように思えるが、そもそも柄谷は「交換」様式A,B,Cという名付け方をしていた。

それだけ、「交換」というモラルの規定力は強いということだろうか。強いというか、グレーバーの表現に従えば、自明視され過ぎて、不可視化されている、というところか。

 

●そういえば、大学時代に知的財産法のK先生は「あなたたちが稼ぐようになったら逆に後輩とかに奢ってあげれば良いんですよ!」と奢ってくれるときはいつも言っていたんだが、あれはどういうモラルの原理が駆動してたんだろうか。

 

教授から生徒へ奢るという行為は、一見するとヒエラルキー的関係と捉えたくなる。

しかし、K先生のセリフは「あなたの負債は、私ではなく代わりに次世代へ返済せよ」と読み換えられる。

このセリフはまず負債そのものの存在は否定していない。返済相手をすげ替えただけである。

つまり、このセリフを字義のまま解すれば、ヒエラルキー的関係が交換関係へ変容させられたと理解できるだろうか。

 

グレーバーによれば、負債の返済は関係の解消である。ということは、奢ってもらった生徒としては、教授との関係解消が可能になり、その代わりに次世代との関係が生まれることになる、とも説明可能だろう。

 

しかし、当然、疑問が湧く。

その負債の返済が達成されるのは、いついかなる時なのか、ということだ。

教授が奢ったのと同額を、学生が将来奢るべきなのか?それは違う。

教授とそんな意図はきっと持っていない。

この負債は実際のところ、返済不可能なのだ。

しかし、グレーバーの分析では、返済可能なものこそが負債なのではなかったか?

では、学生が教授から負っているものとは何なのだ?

 

この存在している負債めいたものとその返済不可能性の矛盾はどう解消できるのか。

こう説明が可能だろう。

 

すなわち、この奢りの関係は、そもそも交換関係ではないのだ、と。

 

奢る際「これは上の世代から下の世代へ受け継がれるべき負債である」と「説明」されるが、それは「実態」ではない。あくまでもレトリックだ。

 

要約を一部引用する。

なぜ全てを互酬と捉えてしまうのか、についてのグレーバーの説明はこうだ(上の要約から)

それは、抽象的な思考で理念的社会像を作ろうとし、公正な社会を想像しようとするとき、全てが均衡している優雅な幾何学を喚起してしまうからだ。それは「市場」の存在という考えにも近い。市場は現実ではなく戯画化された数学的モデルである。

 

経済学者が「市場」というモデルで現実を説明したように、教授は交換関係のレトリックをもって自らの振る舞いを説明した、と言えるだろう。

それは、ヒエラルキー的関係をコミュニズム的関係へ転化(昇華?)させる高度に洗練された見事なレトリックだ。