記事感想 WIRED『経済学者・岩井克人、「23年後の貨幣論」を語る』
一時期,WiredのTwitterをフォローしていた時期があって,記事の積読が膨大になってしまっている。
気が向いたときに積読を読んでるのだが,かなり面白い記事があった。
これまで読んできた本を受けて,貨幣について関心を持つようになった。
『貨幣論』も気になってるんだよなぁ。
例えば,この辺の本をこれまで読んできた。↓
マルクス主義者として,資本主義エンジンがあらゆるものを商品化することを指摘し,疎外に対抗するために非貨幣経済の可能性を論じるハーヴェイ。
脱成長論者の代表格のラトゥーシュ。
〈脱成長〉は、世界を変えられるか――贈与・幸福・自律の新たな社会へ
- 作者: セルジュ・ラトゥーシュ,中野佳裕
- 出版社/メーカー: 作品社
- 発売日: 2013/05/22
- メディア: 単行本
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貨幣の起源を文化人類学の知見で問い直すグレーバー(未読)。
マクロ経済学の知見から「貨幣発行益」を原資にベーシックインカム導入をすべきと述べる井上智洋。
実践レベルも含めて新しい「豊かさ」の指標を模索する藻谷浩介。
里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く (角川oneテーマ21)
- 作者: 藻谷浩介,NHK広島取材班
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川書店
- 発売日: 2013/07/10
- メディア: 新書
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和食を初期化する,ということで「一汁一菜で良い」を提唱する土井善春(もちろん,貨幣を論じた本ではないが,根本の思想には共通点がありそう)。
それはさておき,個人的に,記事中で一番面白いと思ったところはココ。
この部分を書き留めておくために,このブログを書いたと言える。
世の中の多くの部分は,利潤追求をする資本主義と,法のもとにつくられた国家システムで占められています。しかしそれらに組み込まれない領域がある──それが「市民社会」だと思うのです。(略)市民社会とは,社会がそれに向かって行く理想郷ではありません。いつかは資本主義や国家に吸収されるかもしれないけれど,新しい問題を解決するための「アドホック(臨時的)な実験場」として捉えてみるといいのではと考えています。その市民社会のフレームワークを考えるときに,信任論というのが役に立つと思っているんですね。そういうことを,いつか書き上げたいと思っています。
資本に対抗するとか,革命とかというと仰々しくて何となく敬遠してしまうが,これくらいの考え方なら,けっこう共有されやすいのかもしれない。改良主義だ,とか言われるかもしれないが。
●ついでにもう1つ。手前味噌だが,岩井氏の下記の言及は,昔,メディア・リテラシーについて自分がFacebookに書いたことと関連がありそう。
重要なことは,現在のような高度情報化社会では,人間は誰でもある分野では専門家として振る舞わざるをえないということです。その部分では,自分の利益を抑えて倫理的に振る舞わざるをえない。そして,実際に,多くの人がそう振る舞っているからこそ,われわれの生きている社会は成り立っているわけです。
自分は,昔こう書いた。
複数の情報源とか一次資料に当たるということが大事だと言われる。そんなことを言われるたびに自分は思う。「無理だろ」と。
そんなことをやっていたら,日が暮れるどころか,人間やめないといけない。
一人の人間がアクセスできる情報量には限りがあるし,専門知識がいることもあるだろう。
だからこそ,そういうことは,メディアや研究者などの「発信」を担う専門家の「作法」の問題だと割り切った方がいいのではないだろうか。
いや,さすがにそれでは狭すぎか。ただ,もう少し範囲を広げるとしても,仕事や研究など,【自身の生活に直接影響する範囲における必要な情報】の「扱い方」の問題と捉えるくらいがいいのではないだろうか。
言葉を替えれば,一般市民に求められるメディア・リテラシーとは,良質な情報を「受信」しようとする以上に,手に入る情報の有限性や不確実性を前提とした上で,間違った「振る舞い」をしないようにするという現実的かつ能動的な場面での戦略なのではないだろうか。
岩井氏が言う「倫理」と,自分が言う「作法」は,似ている気がする。
散々指摘されて手垢がつきまくった言及だが,SNS時代とは,非専門家が発信者となれることで,「倫理」の歯止めが利かなくなった時代なのだと思う。
途中まで読んでる今井照の『地方自治講義』に書いてあった「市民」像もこれに関連するものと考えられるかもしれない。今井氏曰く,都市化した社会では,あらゆる生活が制度や政治に影響を受ける,だから,市民は政策の当事者として,公的な存在なのである,と。
●さて,集合知的なものへの期待を寄せている「運動」の理論家(?)はいる。マルチチュードへの期待が強いネグリ=ハートはもちろん,たしか『負債論』のグレーバーも”We are the 99%”,”Occupy Wall Street”運動の理論的当事者だった。恩師のI先生も,その系譜にあると言えるだろうか。
だが,集団がかえって残虐になる,という指摘もある。難しい問題。
これもWiredだが,興味深い記事。
落合・古市氏の対談に関する考察―「トリアージ」という例えの不適切さについて
1 前置き
落合陽一氏と古市憲寿氏の対談が、議論を読んでいるようだ。
各論者の批判記事はまだほとんど全く読めていない。
荻上 チキ氏の議論のTogetterまとめだけ、とりあえずごくごく簡単に流し読みした状況。
そんな状態だが、とりあえず、自分の思うところを書いてみる。
なお、落合氏、古市氏については、正直、どちらも名前は結構前から知っていたものの、その思想についてはよく知らない。著書もいずれ読んでみたいが、まだ読んだことは無い。
落合氏が、髙島市長の著書(これも未読)の帯に推薦文を書いていたのは知っている。
古市氏については、上野千鶴子の弟子だったとか、「ハーフは劣化が早い」発言で炎上したとか、Twitterを見てる限りだとリベラル界隈(?)からの評判が何か悪そうとか、そういう断片的な知識やイメージがあるが、やはり古市氏の考えそのものはあまり知らない。
そういった未熟な前提で語るので、早とちり等があるかもしれない。
その点、ご容赦頂き、ご指摘いただければと思う。
さて、この対談については、様々な論点があると思うが、このブログでは、個人的に最も引っ掛かりを覚えた「トリアージ」に関する部分のみ、自身の備忘として書きたいと思う。
まずは、対談記事から該当箇所を引用しておく。
落合 終末期医療の延命治療を保険適用外にするとある程度効果が出るかもしれない。たとえば、災害時のトリアージで、黒いタグをつけられると治療してもらえないでしょう。それと同じように、あといくばくかで死んでしまうほど重度の段階になった人も同様に考える、治療をしてもらえない――というのはさすがに問題なので、コスト負担を上げればある程度解決するんじゃないか。延命治療をして欲しい人は自分でお金を払えばいいし、子供世代が延命を望むなら子供世代が払えばいい。今までもこういう議論はされてきましたよね。
古市 自費で払えない人は、もう治療してもらえないっていうことだ。それ、論理的にはわかるんだけど、この国で実現できると思う?
落合 災害時に関してはもうご納得いただいているわけだから、国がそう決めてしまえば実現できそうな気もするけれど。そういったことも視野に入れないといけない程度に今、切羽つまっているのでは。今の政権は長期で強いしやれるとは思うけど。論理的には。
2 論点
気になったのは、タイトルにあるとおり、トリアージという例えを、終末医療の議論の中で持ち出すことが果たして適切なのか、という点だ。
結論を先に言えば、 適切ではない、というのが私見だ。
落合氏の議論では、
福祉予算逼迫の時代における「終末期医療の自己負担増」は、
緊急医療における「トリアージ」に相当するものだ。
しかし、これらには、余りにも異なる点があり過ぎると思う。
具体的な論点は以下の3つだ。
①正当化する「制限」が「物理的」か「社会的」か
②目指す「目的」が「より多くの患者を救う」ことか否か
③最適解と納得解
なお、私は、トリアージという行為については、全くの素人である。
昔、NHKの番組で、そういうものがあるということを観て知っていたという程度。
また、下記で引用するトリアージに関する記述のソースはWikipediaで、情報の確かさは微妙なんだが、大学のレポートや仕事用の文書ではなく私的な覚書なので、その点もご容赦いただきたい。
そういう意味でも、誤っている点、見落としている点等あれば、ご指摘いただければ幸甚である。
3 論点①と②
まず、①②の論点については、関連しているので、まとめて述べていきたい。
トリアージについて、Wikipediaに、このように書いてある。いくつか引用する。
トリアージとは、患者の重症度に基づいて、治療の優先度を決定して選別を行うこと。
その判断基準は使用者・資格・対象と使用者の人数バランス・緊急度・対象場所の面積など、各要因によって異なってくる。
医療体制・設備を考慮しつつ、傷病者の重症度と緊急度によって分別し、治療や搬送先の順位を決定することである。
下線:ブログ主
これはつまり、人員や資源、時間といった「物理的」な「制限」がある中で、緊急的に治療の優先順位を決めていく行為であると言えるだろう。
そして、Wikiにはこうもある。
助かる見込みのない患者あるいは軽傷の患者よりも、処置を施すことで命を救える患者を優先するというものである。
そう、その「目的」は「より多くの患者を救う」ということである。
反対に、トリアージを仮に実施しなかった場合の「崩壊」の絵図は描きやすい。
Wikiでは更に、こう書いてある。
トリアージは言わば、「小の虫を殺して大の虫を助ける」発想であり、「全ての患者を救う」という医療の原則から見れば例外中の例外である。そのため、大地震や航空機・鉄道事故、テロリズムなどにより、大量負傷者が発生し、医療のキャパシティが足りない、すなわち「医療を施すことが出来ない患者が必ず発生してしまう」ことが明らかな極限状況でのみ是認されるべきものである。
要するに、「崩壊」の絵図は、助かる見込みが低い1人に医療キャパを振り分けてしまい、救えるはずの複数の命が救えない、という事態だ。繰り返しになるが「より多くの患者を救う」という目的の為に、トリアージは正当化される。極端な話、1人の命を捨てて5人の命を救うことを目指すということだ。
※もちろん、「より多くの患者を救う」は特効薬のように全てを正当化できる論理ではない。「トロッコをこのまま走らせると5人が轢き殺される。向きを変えると1人だけ轢き殺される。向きを変えるべきか?」という思考実験をしてみるといい。
『Fate/Zero』での衛宮切嗣は「ヒーロー」にはなり得なかった(分かる人には分かる)。
Fate/Zero(1) 第四次聖杯戦争秘話 (星海社文庫)
だが、ひとまず、ここではトリアージがそのような論理や目的で一応は正当化されているということを確認しておきたい。
一方、医療制度についてはどうなのだろう。
例えば、落合氏はこのように言っている。
背に腹はかえられないから削ろうという動きは出てますよね。実際に、このままだと社会保障制度が崩壊しかねないから、後期高齢者の医療費を2割負担にしようという政策もある。
※強調はブログ主
さて、「社会保障制度が崩壊」ということの意味は、いったい何なんだろうか。
対談ではその絵図が必ずしも明確に示されてはいない。
落合氏は、トリアージにおける状況と同じく、「助かる見込みが低い1人に医療キャパを振り分けてしまい、救えるはずの複数の命が救えない」という事態を懸念しているのだろうか。
それとも、何か別の事態を指しているのだろうか。
落合氏が持つのが前者の「救えるはずの複数の命が救えない」という問題意識であれば、トリアージと共通するものであり、(もちろん様々な点で議論の余地はあるものの)一定の理解は出来る。少なくとも、トリアージの例は、終末期の医療についての重要な参考として採用し得る。
しかし、どうも、彼らの議論は、そうではなく後者のような気がしてならない。
実際、対談の後段では「国家の寿命と自分の寿命、どっちが先に尽きるか」という議論がなされている。「国家の寿命が尽きる」ということは一体どういう事態なのかやはり明言はされないが、いずれにしろ、天秤に掛けられているのは、「少数の命と多数の命」ではなく、「国家と自分(個人)」だ。例えば、他施策(安全保障、防災、経済振興、インフラ維持、文化政策、科学技術振興etc.)が実行できなくなり、国が成り立たなくなるということなのだろうか。
仮に、直面するのが他施策との優先順位という「制限」なら、それは「物理的」な「制限」ではなく、「社会的」な「制限」なのではないか。そして、そうである以上、その「目的」は抽象的には「財政負担減」となり、「より多くの患者を救う」というトリアージの目的とは乖離していく。
私は「社会的」とか「物理的」というワードに対して、厳密な定義を持っているわけではないが、その代わりに、ここで1つの文を紹介したい。
紹介したいのは、文筆家のまきむぅさん(牧村朝子さん)の言葉だ。
彼女は、著書『ハッピーエンドに殺されない』の中で、こう述べた(私は、この言葉が心底好きなのである!)。
「世の中、「決まっていること」なんかない。「決めていること」があるだけなのよ。」
この言葉は、「親族」に恋愛感情を抱いてしまうという悩みを持つ読者に対し、「いとことの結婚」が許されるかどうかも国や時代で違う(決まっていない!)ということなどを紐解きながら、その読者を励ますべく投げかけた回答の一部だ。
この考えは、人間が作る「制度」や「社会」における問題について遍く言えることなのではないだろうか。
悲しいかな、人智を越えて「物理的」に「決まっていること」は実際は多くあるだろう。
災害や事故、病気やケガなどはそうだ。まさしく、緊急医療の現場で、救助不能で、トリアージで黒のタグをつけられる人も残念ながらいるだろう。
しかし、福祉費用増の問題への対処方法は、人智を越えて「物理的」に「決まっている」ことなのだろうか。それは、「社会的」に「決めていく」事柄なのではないだろうか。
有限な財源が足りなくなることによって、何かを諦めなければいけなくなることは確かにあるのかもしれない。しかし、そこで、何を、どの程度諦めるのか、ということは、トリアージのそれのように「物理的」に「決まっている」ことなのではなく、「社会的」に「決めていく」ことなのではないだろうか。
落合氏は、
災害時に関してはもうご納得いただいている
とも述べているが、これも同様に間違いだろうと思う。
災害時では「物理的な制限」のもと、従わざるを得ないだけだ。それは、真の「納得」、つまり「社会的な納得」とはほど遠い。
4 論点③
ここでは、改めて、
災害時に関してはもうご納得いただいているわけだから、国がそう決めてしまえば実現できそうな気もするけれど
という部分に焦点を当てる。
私は、「答え」や「解」というものについて、少なくとも「最適解」と「納得解」の2つがあると思っている。また、議論の際は、問題としているのがどちらなのか、意識しなければならないと考えている。
トリアージにおいては、各人が好き勝手に勘や好みで優先順位を決めるわけではなく、当然、客観的な「判定基準」がある。これは、つまり「最適解」だ。
判定基準は専門知(この場合は医学)に基づいた基準であり、究極的には合意は要らず、独りで最適解に到達することすら可能だ。国が決定したことではない。
他方、終末医療という問題に関して、少なくとも「何にいくらの費用支出を許すか」については、究極のところ「最適解」なぞ無いはずだ。制度や社会は「決まっている」のではなく「決めている」ことであることに言及したが、こういうものは、まさしく最適解ではなく「納得解」の領域だ。
(もちろん、例えばAIやロボットなど「テック」の導入で、よりよい福祉供給を可能にすることは可能で、そういう模索については「最適解」の領域もあるだろうとは思う)
では、納得解にはどうやって到達できるか・・・それは個人レベルでは文字通り「納得」であり、集団的には「合意」しかない。
しかし、「国がそうきめてしまう」という方法では、絶対に「合意」には到達できないはずである。
落合氏の発言は、災害時のトリアージについて、国がそう決めたとしている点でそもそも誤りだ(その最適解を決めているのは国ではなく専門知)。
また、最適解の領域のトリアージの議論を、納得解の領域の終末医療に援用している点も問題がある。
そして、「国がそう決めてしまえば実現できそう」としている点も、まぁ、実現できるかどうかって点では確かに間違ってはいないんだろうが、それを無批判に受け入れていい訳ではない。この言明は為政者目線では都合が良いのだろうが、民主主義の理念を重視するのであれば、看過はできないもののはずだ。
(落合氏は、最後に「論理的には」と留保を付け、「そうすべき」規範的な議論ではないということを示してはいるものの、それでも、全体的に、「国が決めてしまう」ということの問題をあまりにも小さく捉えているように思える)
※最適解と納得解の言葉の使い分けは、この本の冒頭で書かれていたことのパクリである。まだ冒頭しか読んでないんだが。
5 おまけ
さきほど言及したTogetterの中で、古市氏の興味深いツィートがあった。
合成の誤謬をほどいて、きちんと連立方程式を解いて、みんなが今より幸せになれる状態はきっとあると思うんだよね。
— 古市憲寿 (@poe1985) January 2, 2019
私は、終末期医療に限らず、社会保障の議論は(というか、民主主義という営みは)どこまで突き詰めても「最適解」を導き出すことは出来ず、「納得解」を不断に模索していくことが必要だと信じている(恩師の言葉を借りれば、ベストではなくベターを目指すということ)。
これに対して、「連立方程式」という言葉を使う彼は、私の言う「最適解」を信じているということだろうか。
彼らの対談を読んで全体的に覚えていた違和感の原因が、このツィートを読んで、少し分かったような気がした。そもそも、思考の枠組みというか、視座が違うのかもしれない。
実は、個人的には、民意の表明であれば全てが是となる、という立場には与しない。
専門知の力を信じるし、ニーズや人気、支持がなくとも手放すべきではない価値や規範が存在すると信じる。例えば、その一つの形が、実質的な意味での憲法であり、立憲主義だったりする。例えば、大多数が受け入れた「納得解」であったとしても、それが少数者の犠牲の上に成り立つものであったならば、それは受け入れられない。
自由主義は個人の欲望の体系だが、そうではなく、引き算の論理で「共通善」が導かれる回路が実現できないか、脱成長という途があるのではないか、という考察もこれまでしてきた。
〈脱成長〉は、世界を変えられるか――贈与・幸福・自律の新たな社会へ
- 作者: セルジュ・ラトゥーシュ,中野佳裕
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そういう意味では、合成の誤謬を問題視し、「専門家」として「最適解」を追い求めようとする古市氏の立場には、一定以上の共感を覚える部分がある。
とはいえ、2人の対談では、「納得解」の模索や合意形成という視点からの言及が、あまりにも感じ取れなかった気がする。要は、バランスがとても悪いのだ。
その点で、荻上チキ氏のこのツィートの「技術と介護をとりまく議論全体が、常に統治や介護する側、あるいは技術者からの視点で、当事者の目線(想像力)が抜け落ちている」という点には自分も同意する。
その部分がのちに明確に否定されることもないこと、技術と介護をとりまく議論全体が、常に統治や介護する側、あるいは技術者からの視点で、当事者の目線(想像力)が抜け落ちていること。また、政治家の死を期待する前振りを含めて、自分たちではない誰かの死を受動的に臨むスタンスが続くこと(続
— 荻上チキ (@torakare) January 2, 2019
社会貢献的事業「こども宅食」への活用はふるさと納税制度の免罪符となるのか
●こども宅食とふるさと納税
NPO代表で、病児保育や児童福祉等、様々な分野で積極的に活動している駒崎氏が、ふるさと納税を活用して「こども宅食」という取組を進めている。
この取組—いや、行政が絡んでいるから事業といった方が適切か—それ自体が妥当なものなのかどうか、それ自体も議論があるようだが、今回はそこには触れない。
※以前、FacebookでNPO法人すまいの会の方が、この事業についての批判を投稿しているのを見つけたので、参考までに貼っておく。いずれ、きちんと検討する機会があるかもしれないので、メモしておこう。
https://www.facebook.com/hirotaka.hattori.5/posts/1419500631439114
https://www.facebook.com/hirotaka.hattori.5/posts/1544666295589213
https://www.facebook.com/hirotaka.hattori.5/posts/1410706182318559
https://www.facebook.com/hirotaka.hattori.5/posts/1674766855912489
https://www.facebook.com/hirotaka.hattori.5/posts/1798677796854727
さて、自分が気になっているのは、仮に、こども宅食という事業が良い政策だったとして、それを、ふるさと納税活用で実現することの是非だ。結論から言えば、自分は、賛成できない。
正確に言えば、「ふるさと納税」という制度が、返礼品競争ではなく、社会貢献的事業に活用されたとしても、ダメな制度なのではないかと考えている。批判したいのは、こども宅食ではなく、ふるさと納税の方だ。
●税金の使い道を自分独りで決めること=民主主義?
まず、返礼品競争が展開されている状況は、不健全としか思えない。返礼品が高額過ぎるとして総務省が自治体を指導した、とかそういうニュースが何度もあっていることもあって、返礼品競争が不健全だということは、漠然としたイメージとして、わりと広く国民に共有され始めているのではないかと思う。
そういう文脈があるからこそ、
「こども宅食は、「ふるさと納税」で運営されています。返礼品競争が過熱していますが、返礼品はご用意していません。皆さんへのお返しは、「子ども達と社会の変化」です。ぜひ、ご参加ください!」
※公式HPより引用
と謳う「こども宅食」は、一見「良い」ものに思われていて、広まり始めている。これを利用している人は、自分が良いことをしていると思って、全く疑っていない。
自分も、何となく、「ふるさと納税の返礼品競争はダメだが、こども宅食は良いのではないか」という気がしていた。
ただ、やはりおかしい、とこの投稿を見て改めて感じた。
駒崎氏は、こども宅食に賛同する声を、リツィートでよく紹介するのだが、これもそうだった。
自分が払う税金の使いみちを、勝手に役人や議員に決められて、たまるか!ふるさと納税は税金の使い道を決める!という民主主義の原点を自分たちの手に取り戻す仕組みなのだ!田端もこちらに寄付しました。>命をつなぐ「こども宅食」を全国へ。安心して子育てできる未来を https://t.co/ealXECGzLf
— 田端信太郎 @田端大学塾長である! (@tabbata) December 11, 2018
自分が払う税金の使いみちを、勝手に役人や議員に決められて、たまるか!ふるさと納税は税金の使い道を決める!という民主主義の原点を自分たちの手に取り戻す仕組み
という部分がどうしても気になって仕方がなかった。
「民主主義の原点」とか言っているが、役人はさておき、議員を否定するということは、民主主義そのものの否定、少なくとも、議会制民主主義の否定なのではないか。法的擬制とはいえ、議員は住民や国民の代表なのであり、それを否定することは、社会の制度が拠って立つ民主的正当性自体を否定するということなのではないか。
貧困に苦しむ子どもを救いたい—なるほど、それは重要なことだろう。
税金の使い道を決めるという権利—もちろん抽象的には国民にあるだろう。
だが、それは、納税者独りが決定できるものではない。
税金を使って取り組むべき課題はそれだけではないし、意思も一人一人違う。
インフラ整備、あらゆる福祉の課題、教育などなどありとあらゆる課題が山積している。その中で、有限な税資源をどう配分するのか、優先順位をどう位置付けるのかということを、議論(対話)というプロセスを通して決定していかなければいけない。それが民主主義であり、政治であるはずだ。
例えば、「自分の住んでいる自治体に納税したって、自分が使ってほしいところに使ってくれない。その分、こども宅食なら、全てをその費用に充ててくれる点が良い。」という意見もあるようだ。
しかし、これは、政策の優先順位を決定するにあたっての議論というプロセスを迂回するものであり、やはり問題があるのではないか。極端な話、子どもの貧困対策を、重要だと思わない民意だってあり得る。
●局所的な社会貢献が犠牲にするもの?
また、もっと大きな問題として、ふるさと納税制度には、致命的なウィークポイントとして、居住自治体に入るはずの住民税が控除されるという点がある。「何もやらなければ、他の自治体に取られてばかり」という状況に追い込まれて、ふるさと納税に取り組まざるを得ない自治体も多いという(以前、新聞記事で読んだ。保存しておけばよかった)。
こども宅食によって、その事業を実施する自治体(現在は佐賀と文京区)では貧困に苦しむ子どもを救えるかもしれないが、それは減収した他自治体やそこの住民の犠牲の上に成り立っているということだ。国保の保険料が上がるかもしれない、市営住宅の家賃が上がるかもしれない、必要な啓発に予算が回せなくなるかもしれない、そして、子どもの貧困支援に支障が出ることすら、あるかもしれない。それはつまり、自治体Aでの子ども支援を応援したつもりが、自治体Bでの子ども支援の足を引っ張る可能性すらあるということだ。
こうした住民に痛みを強いる政治的な決定が、「やらない善より、やる偽善」みたいな思考停止した美辞麗句でまかり通っていいのだろうか(実際、言っている人がいた)。偽善どころか、民主的正当性を実質的に欠いた悪業ですらあるのではないだろうか。
●その他
・マクロなレベルで言えば、人口減少でトータルのパイが縮小していく中で、自治体が人口や金を奪い合うこと自体が不毛で、成長・拡大を志向してきた20世紀の価値観か らいい加減、脱却しなければいけない。そうした文脈からも、自分はふるさと納税という仕組みそのものに否定的だ。
・また、社会貢献的事業にふるさと納税を行うことすら、やはり自分としては正当化しえないのだから、いわんや、ふるさと納税の返礼品競争は、本当にどうしようもない悪質なものだと思う。
※居住自治体への住民税に関する控除の仕組みが無ければ、ふるさと納税は許容できるかも・・・?しかし、そうしたら「寄付」でいい。返礼品目当てだとしたら、「寄付」どころか、ただの買い物。いずれにせよ「納税」の名に値しない。
※ふるさと納税という仕組みそのものが国会で立法化されたもので、民主的正当性が担保されているではないか、という批判もあると思う。そういう意味では、当然、ふるさと納税や、こども宅食事業も、何ら「違法」ではないが、今回の話は、地方自治、民主主義のあり方として、どうなのよ、という問題。端的に、悪法だと思う。
五輪反対についてとか
昨日、『福岡はすごい』についての感想を書く中で、自分が何故「○○はスゴイ」というものにネガティブなイメージ持つのか、ということを自問自答して整理していた。
その中の理由の1つが、これ。
>「すごい」ことを強調することで、解決すべき欠点や課題が覆い隠されて、見えなくなってしまうことへの危惧。更には、そういう欠点や課題を指摘する「異論」が、和を乱すものとして排除されてしまうことへの危惧。
そんな中、西日本新聞のこの評を読んだ。全体的に納得。
オリンピック否定論については「既に開催が決まってるんだから、反対するより、どうせなら良いものになるように建設的な意見を出して協力した方がいいんじゃないの」的な意見がある。自分自身、そう考えることもあったが、やはり、それでも異論を唱えることは必要だと改めて考えている。
以前、小熊英二の『社会を変えるには』を読んだ。
https://www.amazon.co.jp/%25E7%25A4%25BE%25E4%25BC%259A%25E3%2582%2592%25E5%25A4%2589%25E3%2581%2588%25E3%2582%258B%25E3%2581%25AB%25E3%2581%25AF-%25E8%25AC%259B%25E8%25AB%2587%25E7%25A4%25BE%25E7%258F%25BE%25E4%25BB%25A3%25E6%2596%25B0%25E6%259B%25B8-%25E5%25B0%258F%25E7%2586%258A-%25E8%258B%25B1%25E4%25BA%258C/dp/4062881683
本の内容は、自分でもビックリするほど覚えていないんだが(やはり、読記はつけないとダメだなぁ)、1つ強烈に覚えていることがある。
「デモをやって何が変わるのか」という疑問に対し、小熊氏は、「デモができる社会になること」という答えを提示していた。
そのときは、「何じゃそれ」と正直思った。デモ自体が目的化してどうすんねん、と。
今は、何となくだが、分かる気がする。「おかしいやん」と言い続けないと、「おかしいやん」と言うことすらできなくなる。そんな未来を望まないから、声を上げ続けないといけない。
ふだん、ほとんどテレビを観ないようになって久しい。それでも、W杯などの大規模イベントがある際の、「お祭り騒ぎ」の「熱さ」は感じられるし、あれほどの「熱さ」が日本中を覆えば、不都合な真実があったとしても、それが見えにくくなるということは容易に想像がつく。
だから、「しらける」とか「うざい」とか言われるとしても、異論を唱える声というのは必要だと思う。日本語では、そういうのを「水を差す」と言う(英語でも似たような表現があるらしい)。言い得て妙。まさしく、熱を冷まさせないと。
それに、大事なことは、オリンピックにしろ、他のイベントにしろ、終わった後、当たり前だが、悪かったことが「無かったこと」にはならないということ。
そこで抱えることになったあらゆる意味での「負債」や、そこでの失敗から得られる「教訓」に向き合わなければ、未来の発展は無い。
以前、Twiterで、航空業界の「二度と同じ失敗を繰り返さない」ための取組について呟いている人がいた。「失敗」を直視することは、本当に大事だと思う。
「航空業界が失敗から学ぶ仕組みを構築している」話 - Togetter
最近、木下斉さんも、失敗について言及していた。
木下斉/HitoshiKinoshita on Twitter: "けど、絶対地方若手議員の会で、墓標シリーズ勉強会はやったほうがいいし、地元の失敗事例データベースは作れると思う。おかしい事業を繰り返さない工夫が大切。"
そういえば、未読だが『地域再生の失敗学』という本もあったな。読みたい。
プレイヤーとして一流だった人は先生やコーチとしての能力が低い、逆に、プレーヤーとして振るわなかった人にこそ、コーチとして超一流の人がいる、という話がある。これも、同じような話だろう。本当に一流の人=「天才」は、「なぜ、それができるようなったのか」の「説明」が出来ない。アインシュタインや長嶋茂雄がそうだ。だから、人に教えることは上手ではない。
高校時代の数学の先生は、自分が知る先生の中でもダントツTOPで教えるのが上手な先生だったんだが、その先生も、高校時代、伸び悩んだ経験があったと聞いた。たしか、浪人中に理転したんだったかな。
自分が塾の講師でバイトしているときも、「あのとき、こういう風に教えてくれれば分かったのに」ということを教えるということで、自分自身の失敗を繰り返させず、ショートカットさせる、ということを意識していた。特に、中学生の時に苦手だった数学や、大学入試直前まで苦手だったが、東進で超飛躍的に伸びた現代文。
ただ、悩ましいのは「自身の失敗を繰り返させずショートカットさせる」ことで、その生徒自身の「失敗の経験」を奪うことになりはしないだろうか、という問題。
これは、非常に悩んだ。
実際は、あの塾では、伸び悩んだ子、勉強が嫌いな子たちに教える必要がった。だから、まずは「成功体験」=「やればできるようになる」ということを重視した。また、受験が近く「結果」をまず出さねばならないという側面もあったから、背に腹は代えられない、という事情もあった。でも、自分の教え方は正しかったんだろうか、と今でも自問自答する。
全然取り留めもない話になってしまった。
塾講師、またやりたいなぁ。
「差別のことを考えたくない」へのアンサー(?)ブログ
差別のことを考えたくない - MistiRoom
Mistir氏のブログへの勝手なアンサー2回目。
私自身は、世間から見たら「イクメン」と呼ばれるタイプの生き方をしていますが、子供がいない(持たなかったのか、持てなかったのかは分からない)同僚女性を目の前にして、無邪気に育児礼賛的な話題での会話ができない環境に置かれて、日々悶々としていた経験があります。
そんな風に、一般的には「良い」とされていることが、状況次第で、当事者にとっては「差別」となり得るという経験をしているので、ブログの趣旨は非常によく分かるつもりです。
ただ、私は、「自分は差別をし得る人間である」という認識こそが、まさに重要だと思います。自身を差別主義者と呼ぶことができる人間は、むしろ、ある意味誠実なのではないか、とすら思います。
他方で、自分は、道徳の授業とかで「正しい知識が必要」という常套句を言うような優等生が好きではないのです。その言葉が「万能」であるかのような雰囲気というか、「正しい知識が必要」って言っておけばいいんでしょ、的なノリが。
「正しい知識が必要」って念仏のようだな、と思うことがあります。
「南無阿弥陀仏」って唱えておけば、極楽に行けるという浄土宗の教えのよう。
「正しい知識が必要」と言っておきさえすれば、「差別をしない人」という称号が与えられるかのような、もしくは、「正しい知識が必要」と言えば、「正しい知識」が身に付くかのような、マジックワード感。
そして、念仏のように「正しい知識が必要」と唱えて、それで万事OKとするような雰囲気は、「私は差別をしない人間」というぬるま湯のような認識につながってしまうような気がするのです。
「自分は差別なんかしない」という生ぬるい認識は、むしろ、無自覚な差別の温床になってしまいます。この本の序章でもそのようなことを言っています。
「偏見がない」では差別はなくならない理由|ちくま新書|webちくま
更に言えば、「正しい知識」として求められる水準が、量・質ともに膨れ上がって、「正しい知識」を自分は持っています、ということが本当に難しくなってきました。そんな中で、「物言えば唇寒し」状態になって「ポリコレ疲れ」の不満を持ってしまいたくなる、というのは、非常に分かります。
でも、そこで感じる「疲れ」は、差別にきちんと向き合っている証拠であり、望ましいことなのではないか、と私は思うのです。
「自虐」については、自分も頭を悩ませています。
NHKの「バリバラ」や芸人のあそどっぐを観るたびに、頭が混乱します。
少し脱線しますが、「お笑い」と差別は、いつも頭を悩ませます。
浜田のブラックフェイスや保毛尾田保毛男が差別であるならば、宴会での女装は差別ではないのか。ステレオタイプへの偏見を駆使して笑いを取る綾小路きみまろの漫談は差別にはならないのか。
色々考えていくと、無限に語るべきことがあり過ぎて、ドツボにはまってしまいそうで、たしかに疲弊してしまいます。
しかし、繰り返しになりますが、「では、どこまで許されるのか?」とか「では、何が許されないのか?」と疑問をもつ姿勢は、「差別はいけないと思います!(キリッ)」という優等生より、よっぽど誠実だと思うのです。
取りとめもなく、ブログを読んで思ったことを書きましたが、最後に1つだけ。
「もうこのことについて考えることは無いだろう。僕には考える資格がないのだ、多分。」
とのことですが、
考える資格がない、なんてことはないと思います。
イチ読者の勝手な願望ですが、止めないでほしいのです。
私は九州在住ですが、正直、もし自分が関東在住だったら、サシでオフ会して喋りまくりたいくらいの気持ちです。ですが、それは叶わないので、せめて、ブログの更新を楽しみにしています。
読書会とオフサイトミーティング「A」
※匿名のブログなので、イニシャルトークにしています。読みにくいですが、ご容赦を。
「読書会」のイベントを、オフサイトミーティング「A」のイベントとコラボするかどうか、この1週間実はずっと悩んでいます。
というか、「読書会」と「A」の関係については、実はず〜〜〜っと前から考えています。
正直、当初は「あのグループとは違う」という変なプライドがありつつ、正直、嫉妬や羨望が入り混じった変な気持ちでした。今は、達観して、それぞれに良いところがある、と割と素直(?)に考えるようになっています。
他の常連の皆さんがどうお考えかは分かりませんが・・・笑。
今回は、ちょっと長いですが、今の自分の考えを書いてみます。
実は、自分自身は、「A」には参加したことはないんですが、それでもこうやって語ることについては、まぁ、ご容赦下さい笑
読書会は、その在り方については、当初から結構議論がありました。せっかくだから、市役所職員にフルオープンにしてはどうか、とか。結局、現状は、メンバーを狭く限定し、口コミでしか広げていない状態です。お互いに狭く見知った関係で、こじんまりとした「読書会」の良いトコロは、それはそれで色々とあります。アイスブレイクも不要だし、「ここだけの話」が出来る安心感でタブーなく色んな話が出来るし、過去の読書会の積み上げと絡めて、より「深い」話が出来るのもいいことだと思います。
ただ、その分、排他的だし、硬直的になってしまう危惧を自分は持っていました。
そんなとき、『大学改革という病』という本を読みました。
その本の読書記録をちょっとここで引用します。
「さまざまな問題について、その背景を知り、前提を疑い、合理的な解決を考察し、反対する立場の他人と意見のすり合わせや共有を行う能力」
これは、本書のなかで、もっとも重要と言えるフレーズであり、何度も繰り返し、繰り返し、言及されている。私見だが、このフレーズの前半部分の「その背景を知り、前提を疑い、合理的な解決を考察し」というのは、「専門性」についての領域だ。まさに大学での学問がそうであるように、常識に捉われず、真理を追究すること。筆者は「専門知」の重要性を説き、他方で、民主主義の原理を多数決に矮小化し、大衆に迎合することを良しとしない。
しかし、これだけでは、大学を含む「社会」というシステムは機能しない。後半で「反対する立場の他人と意見のすり合わせや共有を行う能力」というものが強調されるが、これは、いわば「合意形成」。大学が「大学の自治」などを理念的に振りかざすことに終始することを、筆者は良しとはしない。
この「専門性」と「合意形成」は、非常に危ういバランスで、両立は容易ではないだろう。しかし、どちらが欠けても、望ましい民主主義社会は維持できない。
この読書記録を付けたとき、念頭にあったのは、自分のこれまでの勉強(Iゼミや読書会)と、その対極にあるものとしての「A」的なものでした。
Iゼミや読書会でこれまで自分が取り組んできたのは、前者の「専門性」に関わる領域が中心的だったと言えるかもしれません。その分、「合意形成」については、ないがしろにしてきたきらいがあります。
(きっと、I先生は、「他者」との「合意形成」を学ぶ機会を色々と与えようとして下さっていたんですが、「自分が」、そこを汲み取れていなかった、という話です。Iゼミ自体を否定する意図ではありません)
反面、「A」的なものは、「反対する立場の他人と意見のすり合わせや共有を行う能力」を磨く場となっているだろうと思います(「A」は、何かを決めたり提言したりする場ではないので、「合意形成」という言葉は大げさであてはまらないとは思いますが)。
何しろ、何でもアリ、誰にでもオープンの「対話」の場であり、全てが参加者に委ねられています。それこそ、人が集まらなかったら開催すらされない、それでも、いや、だからこそ、もう何年も続いているという凄さ。「専門性」とはある意味無縁(対局)の空間と言えるかもしれません。何でもアリだから何でもできるし、誰でも来れる。正直、この「場」やその持つ「引力」に嫉妬していないと言えば嘘になります。
以前は、正直、「A」の「何でもアリ」的なあり方が、あんまり好きではありませんでした(参加もしてないのに言うなと言われそうですが)。かつての考えでは、言葉は悪いですが、積みあがることもなく、「浅く」、「薄く」の対話しかできず、「楽しかった」で終って次につながらない、というイメージを持っていました。もしくは、突き詰めて深く「考える」というのではなく、直感的に「思う」ことで満足しているというようなイメージ。自分が何となく敬遠していたのはそんなところです。いわゆる意識高い系、というイメージに少し合致するかもしれません。
しかし・・・
「A」の立役者のI部長は、よくこう言っています。
「1人の1000歩よりも、1000人の一歩」と。
この言葉が、ボディーブローのようにずっと自分に効いてるんですよね。
悔しいけど、その通りだよな、と。
いや、別に悔しがる必要もないんですけど。
自分の人生のテーマである「社会を変える」ことに近いのは、「1人の1000歩よりも、1000人の一歩」に違いないと思うんです。
確かに、その場で各人の思いつきで交される「対話」から得られるものは、「専門家」が本気で世に伝えようとした「本」に載っているものよりも、浅くて薄いかもしれない。「本」で5歩進めるのに対して、対話では1歩しか進めないかもしれない。でも、そこで、その場にいる当事者10人がそれぞれ1歩を進めることで、全体として10歩進めるかもしれない。
昨年9月頃には、自分はこんなこともツイッターで呟いていました(連ツイ)。
この数か月、勉強することの虚しさを覚える経験が何度かあった。
それを乗り越えるためのものとして、アウトプット、発信、対話が自分の新たなテーマになっている感がある。
例えば、人口減少、空き家問題、公契約、アセットマネジメント問題、LGBT問題云々。
時流より数年くらい早く、こうした問題を勉強する機会を幸運にも得てきた。しかし、時流は追いつく。自分が既に知ってた問題について、次第に、公知の課題として、研修になったりする。
そこで、ちょっと、ほくそえむのだ。「あー、あれね、知ってる知ってる」と。
いわば、ちょっと進研ゼミで予習してかじっていた小学生が、ちょっと優越感を感じるみたいな状況。
でも、これって、結構虚しいということに、最近気づいてしまった。
もちろん、勉強の意義はこれだけではない。
勉強の意義を知っているからこそ、予習していた小学生のようにほくそえむだけの段階から、もう一歩踏み出したいと思うのだ。
結局、社会なんて、一人では変えられない。
思い、考えを共有して、一人では変えられないものを集団として変えていくプロセスが決定的に必要。
個人の不可能性を克服するのが政治、と『魂の労働』で渋谷望も書いていました。
(『魂の労働』では、政治が喪失し、宿命論が回帰している、という分析でしたが)
もう1つ言うなら、個人的には、Iゼミでの「合同ゼミ」への向き合い方について、後悔があって、読書会と「A」の関係に重ねてしまうのです。
「合同ゼミ」とは、1つのテーマ(ダム建設事業とか、農業とか、旧産炭地とか)に沿って、5つの大学が共同してゼミをやるという試みで、大学時代、自分は2か年にわたって参加したんですが、うちの大学のIゼミは、普段から絡むことも多いS大学のTゼミとは仲良くやる一方で、他の3大学とはあまり良い関係を築けてなかったんですよね、正直なところ。
他の大学が、準備不足だったり、議論には消極的なくせに宴会で酒飲んで騒いでばかりいるような調子だったり、幹事校(持ち回り)としての仕切りがグダグダだったりと、いうことがあったので、当時、その不真面目さを内輪で批判ばかりしていました。ぶっちゃけ、あれは今思うと陰口でしたね。愚痴や批判を繰り返すことにばかり終始して、他大学との「対話」をきちんとできていなかったように思います。自分が卒業後も、数年はその「合同ゼミ」はやっていたようですが、15年くらい続いたその合同ゼミは、ある年から取りやめになったと後輩から聞きました。
政治やマイノリティ、社会的包摂などを学ぶIゼミでこそ、他大学との「違い」乗り越え、彼らとともに何かを為すための方法について、真剣に向き合うべきではなかったのだろうか、と今は思います。
彼らは、Iゼミとはもちろん「違う」部分もあったとはいえ、大学で社会科学を学ぶ大学生ということで、むしろ「社会」全体で見れば、むしろ「同じ」部分も多かっただろうに、そんな彼らとすら合意形成が出来ずに、どうして、より広く多様性に開かれた「社会」と向き合うことができるだろう、と。
別に「A」を他の3大学と同じように不真面目な集団だとは思っていないんですが、この3大学と「A」とは、自分の中ではダブって見えてしまう存在なんですよね。
「他集団」との接点を避け、「自集団」のみで完結するのはラクですが、それでは多様性から新たな価値を生むことも出来ず、「包摂」や「合意形成」には到達できないと思います。
こうした経緯から、安易に「読書会」を「身内」だけの会にして、排他的にすることへの抵抗があるのです。
今回の7月のイベントは、参加人数が多すぎるとやりにくい、というリアルな課題をどうするか、ということで、フルオープンにはしないという方向で考えていますが、これも正直なところ、相当悩んでいます。
フルオープンにするべきではないか、という思いもいまだにあります。正直、読書会の他の常連メンバーがどう思うかということもあって、板挟みのような気持です。
常連メンバーの皆さんとは、本当に腹を割って話せるので、皆さんと一緒に深く掘り下げていくことは本当に楽しいんです。
皆さんはどう思うでしょうか。
あぁ、語りたい。
「平成」が終わろうとしているこの時代、今更ではあるが、自分は、そして、役所は「かんばん方式」に学ばねばならないのだろうか。
誰か、書籍など、知っている情報があれば提供してもらえませんでしょうか。
「かんばん方式」とは何ぞや、ということについては、ググったら結構出てくるので、それぞれ自身で調べてみてもらえれば。
トヨタのHPにも載っている。
予断だが、経済学においては、供給が需要を作る(大量生産、そして、その結果としての大量消費!)というパラダイムから、いつしか、需要が供給を作る、というパラダイムが支配的になったのだ、とどこかで聞いたことがある(経済学史はド素人だが)。かんばん方式は、需要による生産管理と言う点で、このパラダイムシフトの1つの典型例とも言えるかもしれない。
さて、自分がこの「かんばん方式」という言葉を知ったのは、大学4年のときだ。『魂の労働』という本(の第1章)で、そこでは、比較的、この「かんばん方式」に代表される、顧客による経営管理、いわゆる「日本的経営」などについては、批判的に考察されていた。それは、「感情労働」が工場による生産にまで及んだことの証左であると。ゆえに、
労働者は、<感情労働者>と同じようにもはや自分の労働を自己の全人格から切り離すことは困難となる。(p.36)
「かんばん方式」という言葉自体が使われていたかどうかは覚えていないが、同じような問題関心に合致するものとして、2年ほど前に『働く女子の運命』という本を読んだ。そこでは、日本は、具体的な「ジョブ」における能力やスキルで評価されるジョブ型社会ではなく、抽象的で全人格的な会社組織への貢献度、忠誠度(実態は、無理が効くこと、使い勝手が良いこと)が重視されるメンバーシップ型社会であることが論じられていた。それゆえ、日本は「能力」はあっても、家事や育児などで、会社にとっては使い勝手が悪い女性が、冷遇されてきたと言う。そして、反面、かつての「日本的経営」は、事実、成功してきたのだということも知った。教科書にも載っている「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は、「日本的経営」の成果だと。
こういった分析を読んできた自分にとって、正直、「かんばん方式」は【過去のもの】だった。
だが、最近、「かんばん方式」という言葉を相次いで目にした。
「かんばん方式」とは、全く過去の遺物などではなく、「働き方改革」が謳われている今にこそ、(今更ながら)必要なものなのではないか。
悲しいかな、平成が終わろうとしているこの時代、80年代の日本の経営のエンジンになったという「かんばん方式」についてその弊害を論じる以前に、自身が所属している役所の仕事には、信じられない非効率な部分が未だに温存されているのではないか。
ということで、自分は、「かんばん方式」に代表されるような、業務の効率化の手法を学びたい。研究したい。
という訳で、繰り返しになりますが、誰か、書籍など、知っている情報があれば提供してもらえませんでしょうか。
80年代の後半に生まれた自分が、80年代にとどまっている場合ではない。
「仕事のための仕事」なんて願い下げだ。
「市民のための仕事」がしたい。