先日、『暇と退屈の倫理学』を読む政治学ゼミに参加した。
この本、読みやすい語り口だし「注は読まなくても良いからとにかく、まずは通読せよ」という著者のメッセージもあるのでガンガン読み進んでしまうが、いざ議論してみると、色々な疑問や解釈が生まれる本だったな、と改めて思う。実際、「読みやすかった」という感想は多かったが、そういう読み方だともったいない気がする(國分さんの著書は、いずれもそう?)。
書きたいことは色々あるが、とりあえず、今回は浪費/消費の区別に関して考えたこと、当日、ゼミで議論したことについて、備忘録として書き残しておきたい。
ゼミでの議論を経て自分なりに確認できたことの結論をとりあえず書くと、それは「商品やサービスに内在している客観的な性質によって、浪費/消費が区別されるようなものと考えるのはおそらく違う」ということになる。
前提として、國分氏の議論の前に、マルクス経済学における、使用価値/交換価値について改めて触れておきたい(当日は簡単にしか言及できていなかった)。
例えば、マルクス研究者の斎藤公平氏は、『人新世の資本論』(以前、ゼミで読んだ本)において、使用価値経済への転換などを含む脱成長コミュニズムが必要だと述べている。
※ちなみに、マルクス経済学者のデヴィッド・ハーヴェイが資本主義の17の矛盾を描いていく『資本主義の終焉』(これも以前、ゼミで読んだ本)においても「使用価値と交換価値」は矛盾の1つ目として取り上げられていた。
マルクスについてさほど詳しい訳ではないが、使用価値/交換価値の概念は、マルクス主義経済学において重要なものの1つであるようだ。
斎藤氏の説明を借りれば、使用価値はすなわち「有用性」であり、交換価値は「商品」としての価値である。つまり、交換価値は、市場における交換、つまり貨幣取引における価値=値段というところか。
使用価値/交換価値という分析枠組みを用いて、斎藤氏は、例えば下記のように述べていく。
生産の目的を商品としての「価値」(※筆者注:交換価値のこと)の増大ではなく、「使用価値」にして、生産を社会的な計画のもとに置くのだ。・・・これこそ「脱成長」の基本的立場にほかならない。・・・人々の繁栄にとって、より必要なものの生産へと切り替え、同時に自己抑制していく。これが「人新世」において必要なコミュニズムなのだ。(人新世の「資本論」p.302)
これに対して、経済学者の 柿埜真吾氏は、『自由と発展の経済学』において斎藤氏を痛烈に批判している。
その趣旨は以下のようなものだ。
ソ連の計画経済においては、国が必要と判断、計画したものが生産されたが、そこには自由も発展もなかったではないか、ファッションも文化も抑圧されていたではないか。
他方、資本主義においては、個人が何に価値を見出すのかは、まさに個人の自由だ。資本主義はゼロサムゲームではなく、プラスを生み出していくプラスサムゲームだ。資本主義こそが、自由と発展をもたらすのだ、と。
念のため、斎藤氏は、ソ連に戻れ、計画経済に戻れ、なんてことは言っていない。
しかし、他方で、たしかに斎藤氏は先ほどの引用にもあるように「生産を社会的な計画のもとに置く」と言ったり、実質的な「使用価値」(p.256)、商品そのものの「使用価値」は、結局、なにも変わらないのである(p.257)といった表現をしたりしている。これらを読んでいると、斎藤氏が、使用価値を客観的に設定可能なものと捉えていて、しかも、あまりに機能主義的というか、有用性を超えたもの(例えば過度に美的なもの)に否定的なスタンスであるかのように思えてしまう。
結局、「何に価値を見出すのかは決められない。あくまで個人に委ねられている」という柿埜氏の議論に、自分は一定の説得力を感じていた。
(柿埜氏の議論に全て賛同する訳ではない。例えば、斎藤氏はソ連への回帰を否定しているにも関わらず、柿埜氏の議論は、あまりにもソ連批判に依っている。また、環境問題について技術発展に期待するなど、資本主義を過剰に擁護し、資本主義の課題にきちんと向き合っていないように思える。
そもそも、自分自身、単に斎藤氏の議論を理解しきれておらず、誤解しているだけ、という可能性もある。その点悪しからず。改めて斎藤氏の本は再読せねばなるまい)
さて、ここでようやく『暇と退屈の倫理学』に話を戻せる。
『暇~』における消費/浪費の区別の部分を読んだとき、自分は、使用価値/交換価値の議論をなんとなく思い出していた。
『暇~』では、SNSで流行っている飲食店を追い求めるような消費のあり方を、「浪費」ではなく「消費」であると呼び、否定的に捉えていた。簡単にまとめると下記のような内容。
「浪費」は物を受け取る行為で、受け取れば満足を得られる一方で、「消費」は単なる観念、記号の消費であり、それには終わりが無く、いつまで経っても満足することがない。そして、消費ではなく、浪費こそが贅沢であるにも関わらず、現代の消費社会は、この消費のサイクルが支配的である、と。消費ではなく物を受け取れるようになり、贅沢を取り戻そう。
ゼミで先生にも指摘された通り、消費/浪費の区別と、使用価値/交換価値の区別の議論は位相が異なる問題ではある。ただ、「我々には”本当に必要なもの”が足りていないのではないか」ということを問い直そうとしている点では、共通しているのではないか、と思えた。
“本当に必要なもの”は、誰によって、どうやって、決められるというのか?それを客観的に決めることは不可能なのではないか?(それをやろうとして失敗したのが、ソ連の計画経済だったのではないか?)
先日、ゼミで「消費/浪費」の区別について問題提起したのは、こういう文脈、意図があってのことだった。
ゼミでの議論を経て、今は、自分なりに下記のように理解している。
國分氏は、商品やサービスに内在している客観的な性質によって区別されるようなものとして、浪費/消費をおそらく考えていない。そうではなく、浪費なのか消費なのかは、主体や状況によって変わり得るものとして考えている。
その上で、國分氏の狙いは「その商品を買い求めるのは消費に過ぎない!」と客観的に断定したり、そのための基準を設けたりしようとするのではなく、あくまで「あなたの行っているのは、浪費なのか、消費なのか、点検してみてはどうですか?」と考えさせることだったのではないか。
もし、当事者が、消費と浪費の区別を理解したうえで「私にとってこれは必要なもので、浪費だ」と感じるならば、それを否定する必要はない。
(もちろん、仮に点検を促したとして「実は私がやっていたのは消費に過ぎなかった・・・」と気づく人がそれなりに多いことを、國分氏は期待していると思うが)
例えば、最新のiPhoneを買うAさんとBさんがいるとしよう(現状、最新はiPhone16らしい)。
例えばAさんが、iPhone15とiPhone16の機能の違いを、まったく理解しないまま、「最新のiPhone」という「記号」を追い求めて買い求めるのだとしたら、それは消費にしか過ぎないだろう。Aさんは、仮に次のiPhone17が出た暁には、その追加機能が何だろうが、また新しく買い求めていくことになり、この消費には終わりがない。
(こういう人は実際にいる。例えば、今一緒に働いている同僚は、エアコンとか洗濯機とかの家電を買う際、とりあえずそこにある高いものから選んでいる、と言っていた。例えば去年は30万円の洗濯機を買った、と。妹との2人暮らしなのに。30万円ということで、具体的にどこが優れているのか、と聞くと、何一つ答えは返ってこなかった。まさにAさん的。)
他方で、具体的な機能をしっかりと理解したうえで、「まさにこのiPhone16が欲しい」と買い求めるBさんがいたとしたら、Bさんはそれを買った時点で満足するのであり、この購買は消費ではなく浪費と評価できるだろう。
要は、同じ商品を買ったとしても、その動機によって、それが消費的か浪費的かが、分かれるということになる、ということ。
斎藤氏の使用価値/交換価値という議論については、結局、消化不良の部分が残っているものの、少なくとも、國分氏の消費/浪費の議論については、一人で読む前より、多少は消化できた気がする。
■ここまでが、概ね、ゼミの際に話していた内容。
しかし、これを文章としてまとめながら、1つ、違う論点に行きついた。
それは、國分氏は消費/浪費の区別を「満足」「終わり」の"有無"の観点で説明するが、それは不正確ではないか、というものだ。むしろ、「満足」の基準の更新のあり方の違いとして説明したほうがいいのではないだろうか。
生意気甚だしいが、せっかくなので書き留めておきたい。
國分氏に従えば、浪費、満足、終わりの関係は以下のようになっている。
浪費=満足が訪れる=終わりがある
消費=満足が訪れない=終わりがない
しかし、果たしてそうだろうか。もう少し詳しく考えたい。
先ほどの例で考えてみる。
Aさんが行っていたのは消費であったが、それでも、次のiPhone17が出るまでの間は、一応ではあるが、満足していて、購買行動にも一応区切りがついて終わりが訪れている、と言えないだろうか。さらに言えば、もし、iPhone17がこの先もずっと出ないならば、Aさんの消費は終わりである。
逆に、Bさん。もし、更に新たなiPhone17が出たとして、それにBさんを惹きつける新たな機能が実装されれれば、Bさんはまた新たなiPhone17を買うことになるかもしれない。そう、新商品が出続ける限り、Bさんは満足せず、浪費も終わらないかもしれない。
要するに、終わる消費もあるし、終わらない浪費もあるのではないか。
では、Aさんの消費も、Bさんの浪費も、「満足」「終わり」という点で、結局同じものなのか?いや、そこには確かに違いがあるように思える。
では、どこに違いが求められるか。
これについて、消費と浪費の違いは、満足や終わりの「有無」というより、それがいかにして更新されるのか、と言う点に求めた方がいいのではないだろうか、という解釈を提案したい。
AさんはiPhone17が出た場合、機能の中身に関係なく、基本的に買うことになる。Aさんが期待するのは、あくまで「iPhone17」なるものだからだ。
他方で、Bさん。もし新たなiPhone17の新機能がBさんにとって不要なものであったら、Bさんにとっての「満足」は既にiPhone16を買った時点で訪れており、BさんはiPhone17を買う必要はない。というか、Bさんのような人にとっては、機能が大事なのであり、iPhoneではなく名もなきスマホでもいいのかもしれない。
つまり、Aさんにとっては、「満足」の水準は、iPhone17の登場により、自動更新されるものである。次の記号が現れれば、満足の水準が自動的に更新され、それまでの満足はキャンセルされてしまう。
他方で、Bさんにとって「満足」の水準が更新されるかどうかは自動では決まらない。Bさん自身が、満足の水準を自ら更新しない限りにおいては、購買に区切りをつけて、終わらせることができる(「今回のiPhoneは要らないかな、と言える)。
浪費と消費は、このように説明できるし、そのように説明すべきではないだろうか。
國分氏の説明に代えて、このように説明していく意味はある。
それは、浪費=物を受け取る=満足する というあり方を基本としつつ、更新(発展、進歩と言ってもいい)を排除しないというスタンスが、國分氏自身の議論にとって重要だと考えられるからだ。
浪費=満足=終わりがあるという説明、理解は、どうても、現状追認や停滞をイメージさせてしまう。
しかし、國分氏は、清貧を理想としているのではない。贅沢を、バラを求めるのが國分氏の議論の重要なポイントであったはずだ。
である以上、浪費の説明も、そのようなものであるべきではないだろうか。
浪費を肯定し、満足を求める人生を生きることは、現状を受け入れ、進歩も更新もしないような人生を生きることを意味しない。
ただ、その更新を、消費のように際限なく自動更新させるのではなく、自らコントロールしながら行うのが、浪費のあり方だ。そのように説明すべきではないだろうか。
この他、ゼミの際には言えなかった、言わなかった論点がいくつかあるが、それはまた別の機会に書くかもしれないし、書かないかもしれない。とりあえず、消費/浪費の区別についてはこれくらいにしておきたい。