幽霊犬の備忘録

某市の職員。政治学を齧りジェンダーや経済思想に関心。

『暇と退屈の倫理学』についてメモ  その2 (訓練について、また、倫理学について)

本書の結論部で、訓練が必要、ということが書いてあった。

だが、ここを読んで「もし訓練が退屈だったら、どうすればいいのか?」という疑問を持った。

國分氏は、どう答えるのだろうか。
「退屈かもしれないが、頑張って訓練せよ」と答えるのだろうか?
退屈の回避のために、新たな退屈を甘んじて引き受ける必要があるのだろうか?

例えば、美術館でアートを楽しめるようになるために、鑑賞の仕方を学ぶ必要がある?
それは、解決策足り得ているのだろうか?

そもそも、訓練と退屈は、本当に関係があるのか?

まず、訓練をしたとして、それが実を結ぶとは限らない。
例えば、自分は、もともとアートにほとんど全く興味が無かった。
しかし2年前から、文化振興を司る部署で仕事をすることになった。
当初は「せっかくこの部署に配属されたのだから」と、美術館で作品を観たり、美術鑑賞関係の本を読んだりもした。
しかし、アートを好きになろう、興味を持とうと思っても、自分はどうしても興味が持てない。
美術館で作品を観ていても、退屈してしまう。ギャラリーを歩きながら、足が疲れたな、腰が痛いな、喉が渇いたな、今日の晩御飯はどうしようかな、といった別の考えばかりが頭に浮かび、全然、目の前のアートに没頭できない。
「それは、訓練が足りないからだ」ということかもしれないが、これ以上訓練したって、心の底から楽しめるようになれるような気がしない。

逆に、「訓練」をせずとも、何かを好きになる人もいるだろう。
自分は、アートは好きではないが、ロック音楽は好きだ。
最近は行けていないが、10年くらい前は、ライブに行ったり、フェスに行ったりもしていた。でも、訓練を受けてロックを好きになった覚えはない。

極端な話、訓練の必要性を述べることは、究極的には、「楽しめ」「好きになれ」という言説に他ならないのではないだろうか。
しかし、当たり前だが、「楽しい」「好き」という感情は、自分ではコントロールできない。
そうである以上、「訓練が必要」という結論には、意味があるのだろうか?

そして、國分氏こそ、こういう問題について、もっとも真剣に考えてきた人だったのではないか。
例えば、國分氏は『中動態の世界』などにおいて、「意思」について考察している。例えば、「謝る」という行為について。単に謝罪の言葉を発して頭を下げるにとどまらず、心から反省して「謝る」という行為に至るには、「謝ろう」という「意思」は意味をもたない。真の反省は、「謝りたい」という心が自ずと立ち上がっていくプロセスであるはず、と。(詳細は『中動態の世界』や『スピノザ』を参照)

■「退屈かもしれないが、頑張って訓練せよ」という厳しいスタンスは取らず、「無理せず、自分が楽しい、好きと思えることを見つけましょう、それを育てましょう」という落としどころもあるのかもしれない。
「これは訓練だ」と自覚しながら行うような退屈な訓練のイメージではなく、自ら没頭できるような「訓練」のイメージ。これならば、退屈の回避のために新たな退屈を甘んじて引き受ける、ということにはならない。

例えば、語学の勉強。
一般的に、語学の勉強は「訓練」だし、特に、受験や仕事などのための勉強は、訓練そのものだろう。

しかし、例えばこのCMのように、誰かに強制されるものではなく、自発的に行うものもある。


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彼女は、決して無理していないし、自分が楽しい、好きと思えることを見つけて、それを育てただけ。彼女にとっては、きっと韓国語の勉強も「退屈」ではない。

でも、語学の勉強をせざるを得ない人の中には、こういう人は稀だろう。

「訓練が必要だ」というメッセージは、楽しめない人に対して、有効なメッセージ足り得ないのではないだろうか?
それは如何なる意味で「倫理学」なのだろうか?

訓練を経れば、物事をより楽しいと思えるようになる。

仮にそうだとしても、それは、ある意味で結果論に過ぎず、楽しむ、楽しみが深くなる当たり前のプロセスを、単に記述し、説明しただけではないだろうか。

■「結果論に過ぎず、倫理学と言いながら、単に記述しただけなのではないか」という疑問は、実は、國分氏の『中動態の世界』や『スピノザ』を読んだときにも感じたことだった。

スピノザは自由意思を否定している、という。
例えば「トンカツを食べよう」という例。その「意思」は、一見、自分が決定したものかのように思われるが、実際には、その日の体調とか、前日に食べたものとか、トンカツの広告が目に入ったとか、そういう原因があってこそ、我々が「意思」と呼ぶところの「トンカツを食べよう」という考えが、いつの間にか形成されている、と言わざるを得ない。「自由意思」という概念は、そういった原因の「切断」を伴う。


この考えを突き詰めていくと、我々人間の思考、行動は、全て、何らかの過去の原因にコントロールされた結果にしか過ぎず、人間には自由など一切なく、ロボットにしか過ぎないかのように思えてしまう。
しかし、スピノザは(國分氏は)、人間には自由があるし、ロボットではない、と言う。
そもそも、スピノザの主著の題名はまさに『エチカ』であり、これは「倫理」を指す。
例えば、中動態の世界には、下記のような一説がある。
「自由は、自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由であるのだ。(p.262)」

この部分が、どうしても理解できていない。

「法則に基づいて・・・行為するとき、自由である」とある。

しかし、「行為する」ということも含め、原因に縛られているというわけではないのか?

 

また、「法則に基づいて・・・行為せよ」と書かれるならば、それはたしかに「倫理学」的のように思える。

しかし、実際は國分氏は「法則に基づいて・・・行為するとき、われわれは自由である」と述べるにとどまっている。

 

これは、あくまで結果論に過ぎず、倫理学と言いながら、単に記述しただけなのではないか、と思えてしまう。

 

スピノザの哲学は、理解が難しい。

『暇と〜』の議論をきちんと納得するためには、スピノザをきちんと理解できるように「訓練」する必要があるのかもしれない・・・。

『暇と退屈の倫理学』についてメモ  その1 (消費/浪費の区別について)

先日、『暇と退屈の倫理学』を読む政治学ゼミに参加した。

 

この本、読みやすい語り口だし「注は読まなくても良いからとにかく、まずは通読せよ」という著者のメッセージもあるのでガンガン読み進んでしまうが、いざ議論してみると、色々な疑問や解釈が生まれる本だったな、と改めて思う。実際、「読みやすかった」という感想は多かったが、そういう読み方だともったいない気がする(國分さんの著書は、いずれもそう?)。

 

書きたいことは色々あるが、とりあえず、今回は浪費/消費の区別に関して考えたこと、当日、ゼミで議論したことについて、備忘録として書き残しておきたい。

 

ゼミでの議論を経て自分なりに確認できたことの結論をとりあえず書くと、それは「商品やサービスに内在している客観的な性質によって、浪費/消費が区別されるようなものと考えるのはおそらく違う」ということになる。

 

前提として、國分氏の議論の前に、マルクス経済学における、使用価値/交換価値について改めて触れておきたい(当日は簡単にしか言及できていなかった)。

例えば、マルクス研究者の斎藤公平氏は、『人新世の資本論』(以前、ゼミで読んだ本)において、使用価値経済への転換などを含む脱成長コミュニズムが必要だと述べている。

 


※ちなみに、マルクス経済学者のデヴィッド・ハーヴェイが資本主義の17の矛盾を描いていく『資本主義の終焉』(これも以前、ゼミで読んだ本)においても「使用価値と交換価値」は矛盾の1つ目として取り上げられていた。

マルクスについてさほど詳しい訳ではないが、使用価値/交換価値の概念は、マルクス主義経済学において重要なものの1つであるようだ。

 

斎藤氏の説明を借りれば、使用価値はすなわち「有用性」であり、交換価値は「商品」としての価値である。つまり、交換価値は、市場における交換、つまり貨幣取引における価値=値段というところか。

使用価値/交換価値という分析枠組みを用いて、斎藤氏は、例えば下記のように述べていく。

生産の目的を商品としての「価値」(※筆者注:交換価値のこと)の増大ではなく、「使用価値」にして、生産を社会的な計画のもとに置くのだ。・・・これこそ「脱成長」の基本的立場にほかならない。・・・人々の繁栄にとって、より必要なものの生産へと切り替え、同時に自己抑制していく。これが「人新世」において必要なコミュニズムなのだ。(人新世の「資本論」p.302)

 

これに対して、経済学者の 柿埜真吾氏は、『自由と発展の経済学』において斎藤氏を痛烈に批判している。

 

その趣旨は以下のようなものだ。

ソ連の計画経済においては、国が必要と判断、計画したものが生産されたが、そこには自由も発展もなかったではないか、ファッションも文化も抑圧されていたではないか。
他方、資本主義においては、個人が何に価値を見出すのかは、まさに個人の自由だ。資本主義はゼロサムゲームではなく、プラスを生み出していくプラスサムゲームだ。資本主義こそが、自由と発展をもたらすのだ、と。

 

念のため、斎藤氏は、ソ連に戻れ、計画経済に戻れ、なんてことは言っていない。

しかし、他方で、たしかに斎藤氏は先ほどの引用にもあるように「生産を社会的な計画のもとに置く」と言ったり、実質的な「使用価値」(p.256)、商品そのものの「使用価値」は、結局、なにも変わらないのである(p.257)といった表現をしたりしている。これらを読んでいると、斎藤氏が、使用価値を客観的に設定可能なものと捉えていて、しかも、あまりに機能主義的というか、有用性を超えたもの(例えば過度に美的なもの)に否定的なスタンスであるかのように思えてしまう。

結局、「何に価値を見出すのかは決められない。あくまで個人に委ねられている」という柿埜氏の議論に、自分は一定の説得力を感じていた。
(柿埜氏の議論に全て賛同する訳ではない。例えば、斎藤氏はソ連への回帰を否定しているにも関わらず、柿埜氏の議論は、あまりにもソ連批判に依っている。また、環境問題について技術発展に期待するなど、資本主義を過剰に擁護し、資本主義の課題にきちんと向き合っていないように思える。

そもそも、自分自身、単に斎藤氏の議論を理解しきれておらず、誤解しているだけ、という可能性もある。その点悪しからず。改めて斎藤氏の本は再読せねばなるまい)

 

さて、ここでようやく『暇と退屈の倫理学』に話を戻せる。

『暇~』における消費/浪費の区別の部分を読んだとき、自分は、使用価値/交換価値の議論をなんとなく思い出していた。

『暇~』では、SNSで流行っている飲食店を追い求めるような消費のあり方を、「浪費」ではなく「消費」であると呼び、否定的に捉えていた。簡単にまとめると下記のような内容。

「浪費」は物を受け取る行為で、受け取れば満足を得られる一方で、「消費」は単なる観念、記号の消費であり、それには終わりが無く、いつまで経っても満足することがない。そして、消費ではなく、浪費こそが贅沢であるにも関わらず、現代の消費社会は、この消費のサイクルが支配的である、と。消費ではなく物を受け取れるようになり、贅沢を取り戻そう。

 

ゼミで先生にも指摘された通り、消費/浪費の区別と、使用価値/交換価値の区別の議論は位相が異なる問題ではある。ただ、「我々には”本当に必要なもの”が足りていないのではないか」ということを問い直そうとしている点では、共通しているのではないか、と思えた。

 “本当に必要なもの”は、誰によって、どうやって、決められるというのか?それを客観的に決めることは不可能なのではないか?(それをやろうとして失敗したのが、ソ連の計画経済だったのではないか?)

先日、ゼミで「消費/浪費」の区別について問題提起したのは、こういう文脈、意図があってのことだった。

 

ゼミでの議論を経て、今は、自分なりに下記のように理解している。

 

國分氏は、商品やサービスに内在している客観的な性質によって区別されるようなものとして、浪費/消費をおそらく考えていない。そうではなく、浪費なのか消費なのかは、主体や状況によって変わり得るものとして考えている。
その上で、國分氏の狙いは「その商品を買い求めるのは消費に過ぎない!」と客観的に断定したり、そのための基準を設けたりしようとするのではなく、あくまで「あなたの行っているのは、浪費なのか、消費なのか、点検してみてはどうですか?」と考えさせることだったのではないか。

もし、当事者が、消費と浪費の区別を理解したうえで「私にとってこれは必要なもので、浪費だ」と感じるならば、それを否定する必要はない。
(もちろん、仮に点検を促したとして「実は私がやっていたのは消費に過ぎなかった・・・」と気づく人がそれなりに多いことを、國分氏は期待していると思うが)

 

例えば、最新のiPhoneを買うAさんとBさんがいるとしよう(現状、最新はiPhone16らしい)。
例えばAさんが、iPhone15とiPhone16の機能の違いを、まったく理解しないまま、「最新のiPhone」という「記号」を追い求めて買い求めるのだとしたら、それは消費にしか過ぎないだろう。Aさんは、仮に次のiPhone17が出た暁には、その追加機能が何だろうが、また新しく買い求めていくことになり、この消費には終わりがない。
(こういう人は実際にいる。例えば、今一緒に働いている同僚は、エアコンとか洗濯機とかの家電を買う際、とりあえずそこにある高いものから選んでいる、と言っていた。例えば去年は30万円の洗濯機を買った、と。妹との2人暮らしなのに。30万円ということで、具体的にどこが優れているのか、と聞くと、何一つ答えは返ってこなかった。まさにAさん的。)
他方で、具体的な機能をしっかりと理解したうえで、「まさにこのiPhone16が欲しい」と買い求めるBさんがいたとしたら、Bさんはそれを買った時点で満足するのであり、この購買は消費ではなく浪費と評価できるだろう。

要は、同じ商品を買ったとしても、その動機によって、それが消費的か浪費的かが、分かれるということになる、ということ。

 

斎藤氏の使用価値/交換価値という議論については、結局、消化不良の部分が残っているものの、少なくとも、國分氏の消費/浪費の議論については、一人で読む前より、多少は消化できた気がする。

 

■ここまでが、概ね、ゼミの際に話していた内容。

しかし、これを文章としてまとめながら、1つ、違う論点に行きついた。

それは、國分氏は消費/浪費の区別を「満足」「終わり」の"有無"の観点で説明するが、それは不正確ではないか、というものだ。むしろ、「満足」の基準の更新のあり方の違いとして説明したほうがいいのではないだろうか。

生意気甚だしいが、せっかくなので書き留めておきたい。

 

國分氏に従えば、浪費、満足、終わりの関係は以下のようになっている。

 浪費=満足が訪れる=終わりがある

 消費=満足が訪れない=終わりがない

しかし、果たしてそうだろうか。もう少し詳しく考えたい。

 

先ほどの例で考えてみる。

Aさんが行っていたのは消費であったが、それでも、次のiPhone17が出るまでの間は、一応ではあるが、満足していて、購買行動にも一応区切りがついて終わりが訪れている、と言えないだろうか。さらに言えば、もし、iPhone17がこの先もずっと出ないならば、Aさんの消費は終わりである。

逆に、Bさん。もし、更に新たなiPhone17が出たとして、それにBさんを惹きつける新たな機能が実装されれれば、Bさんはまた新たなiPhone17を買うことになるかもしれない。そう、新商品が出続ける限り、Bさんは満足せず、浪費も終わらないかもしれない。

 

要するに、終わる消費もあるし、終わらない浪費もあるのではないか。

 

では、Aさんの消費も、Bさんの浪費も、「満足」「終わり」という点で、結局同じものなのか?いや、そこには確かに違いがあるように思える。

では、どこに違いが求められるか。

 

これについて、消費と浪費の違いは、満足や終わりの「有無」というより、それがいかにして更新されるのか、と言う点に求めた方がいいのではないだろうか、という解釈を提案したい。

 

AさんはiPhone17が出た場合、機能の中身に関係なく、基本的に買うことになる。Aさんが期待するのは、あくまで「iPhone17」なるものだからだ。
他方で、Bさん。もし新たなiPhone17の新機能がBさんにとって不要なものであったら、Bさんにとっての「満足」は既にiPhone16を買った時点で訪れており、BさんはiPhone17を買う必要はない。というか、Bさんのような人にとっては、機能が大事なのであり、iPhoneではなく名もなきスマホでもいいのかもしれない。

つまり、Aさんにとっては、「満足」の水準は、iPhone17の登場により、自動更新されるものである。次の記号が現れれば、満足の水準が自動的に更新され、それまでの満足はキャンセルされてしまう。
他方で、Bさんにとって「満足」の水準が更新されるかどうかは自動では決まらない。Bさん自身が、満足の水準を自ら更新しない限りにおいては、購買に区切りをつけて、終わらせることができる(「今回のiPhoneは要らないかな、と言える)。

 

浪費と消費は、このように説明できるし、そのように説明すべきではないだろうか。

 

國分氏の説明に代えて、このように説明していく意味はある。

それは、浪費=物を受け取る=満足する というあり方を基本としつつ、更新(発展、進歩と言ってもいい)を排除しないというスタンスが、國分氏自身の議論にとって重要だと考えられるからだ。


浪費=満足=終わりがあるという説明、理解は、どうても、現状追認や停滞をイメージさせてしまう。

しかし、國分氏は、清貧を理想としているのではない。贅沢を、バラを求めるのが國分氏の議論の重要なポイントであったはずだ。

である以上、浪費の説明も、そのようなものであるべきではないだろうか。

 


浪費を肯定し、満足を求める人生を生きることは、現状を受け入れ、進歩も更新もしないような人生を生きることを意味しない。

ただ、その更新を、消費のように際限なく自動更新させるのではなく、自らコントロールしながら行うのが、浪費のあり方だ。そのように説明すべきではないだろうか。

 

この他、ゼミの際には言えなかった、言わなかった論点がいくつかあるが、それはまた別の機会に書くかもしれないし、書かないかもしれない。とりあえず、消費/浪費の区別についてはこれくらいにしておきたい。

コミュニズム/交換(競争)の効率性についてメモ

とても興味深い呟きを見つけたので、備忘的に思うところを書いておく。

デリーで10年以上働いて確信を持って言えるのは日本と比べたらこの国には「相互信頼」がないんだよな。あるとすれば家族や一族の間だけ。これが本当にあらゆる場面場面で非効率を生み出して国全体の成長を阻害していると思う。

契約書はやり取りのたびに全文確認しないといけない、癒着がないように商品に問題なくてもベンダーは定期的に変えないといけない、前工程が信用できないので次工程になるたびに品質チェックしないといけない、この辺で生じる非効率さね。

インドに製造業が勃興しない理由、「分断」だと思ってるんだよね。何か作業をやっても「次工程」「前工程」に全く興味がない。自分作業が終わればそれで終わりという思考。あとは7割くらいの完成度で「早くお金欲しいからもうこれでいいだろ」と出荷してしまう感じ。

野瀬大樹 on Twitter: "デリーで10年以上働いて確信を持って言えるのは日本と比べたらこの国には「相互信頼」がないんだよな。あるとすれば家族や一族の間だけ。これが本当にあらゆる場面場面で非効率を生み出して国全体の成長を阻害していると思う。" / Twitter

 

これ、『負債論』や『ブルシットジョブ』にも通じる大事な論点だと思う。


「交換」、「支配」に並ぶ人間関係の諸原理としてグレーバーは「コミュニズム」を挙げ、彼はコミュニズムについて、短期的な損得計算を不要とする点で「効率的」と評価していた。

損得のみで客観的な決断を導ける「交換」の原理や、それをシステム化した資本主義を「効率的」と評価するのが一般的な感覚だろうと思うが、グレーバーはその虚構性を指摘した訳だ。

 

なお、グレーバーが、コミュニズムが基盤となる原理である、と指摘している点も重要。それは「市場」においても同様。例えば、中世イスラムにおける市場について、グレーバーは相互扶助の拡張と評価している。

 

効率化の名の下に「競争」が志向されると、競争における勝者判定のための指標や評価、管理が必要となり、結果として、全般的官僚化が進行し、ブルシットジョブが生み出され、増殖する。
逆説的だが、効率化を求めて「交換」の原理に依ろうとするほど、「コミュニズム」の効率が失われ、非効率になる。

 

さっき述べたとおり、グレーバーは『負債論』において人間関係の諸原理をコミュニズム、交換、支配と類型化したが、官僚制は間違いなく支配の体系だろう。

コミュニズムが敵視され、交換を貫徹しようとした結果、たどり着くのは支配である、と図式化できるのではないか。

 

かなり抽象的な議論に見えるかもしれないが、指定管理者制度などを念頭に置くと、言わんとしていることが分かってもらえるのではないか、と思う。

 

 

ふるさと納税の問題点(嶋田暁文氏論文への補足)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/chihoujichifukuoka/69/0/69_95/_pdf/-char/ja

 

嶋田暁文氏のこの論文は、ふるさと納税の沿革や問題点等についてかなり網羅的に書かれていて、とても参考になる。断片的にしか知らなかったことが全体として理解できた。

 

今回は、地方自治体で働く「中の人」として、何点か、付け加えたい点について書く。

 

まず、論文では、ふるさと納税の「問題点」が挙げられているが、自治体職員のマンパワー及び人件費の問題について述べたい。

 

もともと行革の流れでマンパワー・人件費には余裕が無く、更に現在はコロナ対応という非常事態の中で、人は足りない。

そんな中、ふるさと納税関連業務に少なからぬ人的コストが割かれており、この状況は決して肯定できないのではないか。

自治体によっても変わってくるが、ふるさと納税関連業務は以下のように非常に多岐にわたっており、人件費は決して安くない。

 

(1)返礼品拡充関連業務

自治体の側から企業等に営業をかける

②公募で提案があったものを審査する

③返礼品を企業等と共同開発する

等の手法が考えられるが、いずれにしても楽な業務ではない。

場合によっては、ふるさと納税制度の担当部局(総務系、企画系が多い印象)だけではなく、農林水産、商工、観光といった様々なセクションの関りが必要になってくる(特に①や③)。

 

(2)寄付受入先調整業務

ふるさと納税の「使い道」は様々である。環境、経済、福祉、医療、文化、動物愛護、まちづくり、etc.。まさにあらゆる事業が対象になり得る(特定の事業に紐付けしない寄付も可能)。これらの部署において「基金」を管理する業務や、種種の調整作業が必要になってくる(例えば寄付金の使途についての説明資料作成など)。

 

(3)寄付受入実務

実際に寄付を受け入れる業務はもっとも大変な業務の1つだろう。ワンストップ特例制度等により手続きが簡略化されている部分があるとはいえ、書類の内容確認や補正、添付書類との突合などの実務が発生する。書類に不備があれば修正のためのやり取りが必要だし、個人情報の管理にも気を遣う。中には「通販」感覚で返礼品にクレームが入るケースもあるようで(ひどい場合だと、思ってたものと違うから金を返せ、とか)、まさにブルシットである。

自治体によっては職員だけでは賄いきれずに委託するケースもあるが。委託については後述。

 

(4)PR業務

寄付集めには、PRも欠かせない。新聞、テレビ、ネット、街中のサイネージ、催事といったあらゆる場面でPRを行っていくことになる。もちろん、デザインや企画等、広告代理店等の力を借りるケースが大半だろうが、それでも大変な仕事である。

厄介なのは、ふるさと納税は、住民以外から寄付集めが中心のため、既存の住民向け広報媒体は無意味であり、新たな媒体を見つけるところから始めなければいかないということだ。なお、日本全国へのPRであり、他自治体も同様にPR合戦をするので、コスパが非常に悪いPRになってしまいがちだ。

(移住定住の促進PRも同様の構図)

なお、(1)や(3)で関わった各所管課は、このPRにも関わることがある。

 

(5)控除関連業務

そして見逃してはいけないのが「自分の所得だと、いくらまでなら、ふるさと納税した分の控除が受けられるのか」という「ふるさと納税の上限額」への問い合わせに対応する業務だ。上限額は、寄附をしたい自治体ではなく、自分が住んでいる自治体の税務担当部署でないと答えられない。特に、ふるさと納税の「タイムリミット」が近づく年末に、この問い合わせは増える。私は税務の経験がなく詳細は知らないのだが、年収だけではなく、家族構成や他控除等も含めて複雑な計算をしたうえで上限額が決まるため、上限額を正確に答えるのは楽ではないと聞く。

そもそも「ふるさと納税をしたい」という住民は「自分が住んでいる自治体への納税額を寄付先の自治体へ移したい」と言っているに等しいわけで「きっちり税を納めさせる」ことを目的とする税務担当部署が、こんな相談を受けなければならないこと自体が、ブルシットと言わざるを得ない。1~4に比べれば、業務のボリュームとしてはそこまで大きくないのかもしれないが、質的には最もブルシットなのではないかと思う。

 

思いつく限り書き出したが、きっともっと色々な業務が発生している。

ふるさと納税制度は地方議員の関心も高く、おそらく、多くの自治体で議会・質問案件にもなっているだろう。議員のスタンスも「そもそも制度自体の見直しを国に迫れ」というものから「もっと拡充しろ(返礼品を充実させろ、PRをもっと頑張れ)」というものから、色々とありそうだ。それらに対応するのも、決して楽ではない。

 

保健所の業務負担が取り沙汰される中、これらの業務にリソースを割かなければいけない状況は、悲劇である。

(かと言って、黙って指を咥えて何もしなければ、税が流出していくだけだし、議会からも「きちんと充実させろ」と批判されることになるのだが)

 

 


思ったより長くなったため、続きはまた別記事で書こうかな。

「意識高い系」の友人が「自然療法」にハマってしまった

◆大学時代の友人で、「朝活さん」ともひそかに揶揄されていたほど「意識高い系」の女性がいる。

 

Facebook等を見ていると、大学時代から朝活に参加したり、就職してからはよくわからない異業種交流会※に参加したり、事業構想大学院大学※に行ってみたり、読んでる本がペラッペラのビジネス本だったりと、ここまで型通りの「意識高い系」の人も珍しいんではないか、というタイプの人。

 

※消費者センター勤務時代に、異業種交流会がマルチや詐欺の温床になっていたことを知り、あまり良い印象を持っていない。すべての異業種交流会がダメとは言わないが。


事業構想大学院大学のことを詳しく知っているわけではないが、ふるさと納税制度の根本的な欠陥を無視して、制度を活用した地方創生事業等を謳う寄稿記事等をたびたび書いていることから、ここのことをあまり信頼していない。

 

そんな彼女が、このたび手を出していたのが、自然療法、アロマテラピー
国際アロマテラピストの認定(ディプロマ)を受けたんだと。

 

 

あー・・・うん・・・なるほどね、そう来たか。

 

 

彼女がセミナーを受けていた団体のページを見たが、東洋医学、解剖生理学などのそれっぽい専門用語が散りばめられている一方で、「医療占星術(チラシには「12星座を知ることが健康と病気の理解に繋がる?!」との煽り)やら、「発達障害自閉症ADHDアロマセラピー」やら「マクロビオティック」等への言及もあり、胡散臭さが拭えない。

 

自然療法界隈では「がんが治る」という類の詐欺的商法のものもあり(以前、消費者センター勤務時代に被害事例を見聞きした)、ここがそういうところかまではネットでは分からないが、ただ、少なくとも「似非科学」の可能性を疑ってかかるべき案件であり、そういう意味では「黒に近いグレー」であるように見える。

 

 

◆彼女のような、朝活、異業種交流会、事業構想大学院大学、ビジネス本などに傾倒している「意識高い系」の人たちは、どういう行動原理で動いているのだろうか、と考えてみる。

 

推測だが、まず、彼女たちは、ストーリーとして魅力的であることを期待し、目の前でキラキラしている人たちの「経験値」に期待している。そして、出会いによる「化学反応」が起きて「目から鱗が落ちる」快感を期待している。

これと対照的なのが「専門知」の領域だろう、と思う。
体系的な、巨人の肩に乗るような「専門知」には、必ずしも魅力的な分かりやすいストーリーは付いてこない(全く無いとも言わないが)。
また、「専門知」の追求においては、「化学反応」や「目から鱗が落ちる」快感ばかりが都合よく期待出来るものではなく、地道な積み重ねが必要となる。

 

実は、彼女はもともと、薬学部に在籍して薬剤師を目指していた。それが、国家試験を結局受けずに、一般企業に営業職として文系就職し、今に至っている。
別に、彼女が薬剤師にならなかった選択を誤りだと言うつもりはないが(職業に貴賤は無い)、彼女はきっと、専門知の価値を体得できないまま、ここまで来てしまったんだろうな、とは思う。

彼女は、巨人の肩に乗り損ねたのだろう。だから、根無し草のように、漂い続けてしまっている。
そんな風に考えていると、彼女が自然療法に「引っ掛かって」しまったことも、何となく納得してしまった。

SDGsの環境問題偏重について

2021年末の紅白でSDGsが取り上げられたが、やはりそのテーマは環境問題だった。

 

紅白に限らず、SDGsには色んな要素がある中、環境だけがここまでメディアや行政などで取り上げられるのって「政治色」が見えないからなんだろうなぁ、と思う。


環境という非人間「みんな」という人間の二者の問題であるかのように描くのであれば、「カド」が立つことを恐れずに触れることができる。

 

その点、例えばジェンダーや貧困といった問題群は、抑圧者(人間)非抑圧者(人間)という構図を避けずに描くことは困難だ。取り上げるに際には政治色が出ざるを得ない。

 

加えて、大手メディアや行政などの「権力」サイドは、このような問題群に対して「抑圧者」サイドであったり、問題群の存在自体に責任を問われるべき立場にあったりすることが多い。必然、「権力」サイドは、これらの問題群に言及しづらい立場にある。

 

例えば、与党政治家が「貧困が問題だ」と述べたとしたら「それはお前らの責任だろう。」、「何とかしろ」と突き上げを喰らうのは目に見えている。
その点、環境問題は「みんなの問題」という描き方で、権力サイドの責任を曖昧にしたまま言及することができる。

 

しかし、当然、環境問題が「政治色」が無い課題かというと、決してそうではない。
被害の側にも加害の側にも、具体的な人間がいる。
例えば、ツバルのような国は被害の側。環境負荷をかけながら経済的利益を追求する多国籍企業やそれらと結託する政治家は加害の側。

 

こう考えていくと「日本においてはSDGsについて環境問題ばかりが取り上げられる」というよりは「日本においては政治色が出にくい問題ばかりが取り上げられる(結果として環境問題が取り上げられやすい)」というのが正確なのかもしれない

 

 

ドラマ『相棒』と『義母と娘のブルース』における社会運動の描かれ方

ドラマ『相棒』は観てないが、「訴訟を起こした当事者である非正規の店舗のおばさんたちが、あのようにいきり立ったヒステリックな人々として描かれ」た点が問題視されたようだ。

相棒20元日SPについて(視聴を終えた方々へ) | 脚本家/小説家・太田愛のブログ

 

マスメディアは社会運動をどのように報道・描写してきたのか?(富永京子) - 個人 - Yahoo!ニュース


その点、1/2の夜にやってた綾瀬はるか主演の『義母と娘のブルース』は対照的だった。 

あらすじ|TBSテレビ:『義母と娘のブルース』2022年 謹賀新年スペシャル

 

(元々ドラマを観てた訳でもないし、昨日も途中からの「ながら観」だったから、不正確かもしれないが)

 


【以下、ネタバレ注意】

ながら観だったから正確じゃないかもしれないが、確か、こんな感じの話。

・小規模パン屋が詐欺的なやり口で大手パン屋(及び結託したハゲタカファンド)に事業を乗っ取られた。

・winwinと偽わられて合併の契約書に判を押したが、実際は事実上、大手資本の傘下に入る合併契約だった。

・それにより、小規模パン屋は、店名やブランド名を利用する権利の一切を使えなくなった

・小規模パン屋の名前を冠したパンが、大手パン屋主導のもと全国のスーパーなどで流通されることになり、大手パン屋の株価は急上昇

・これに対し小規模パン屋は「あいつら(ハゲタカファンド)はパンの1つも焼けないくせに」と憤ったが、それが抵抗の契機になった。

約1000人の小規模パン屋の工場の従業員は、一斉にストライキ+デモすることで合併契約の解消を要求し、詐欺的な合併を押し戻すことに成功した。

ハゲタカファンドは「自力では大好きな株価を1円も上げられない」と喝破された。

 

 


最近読んでた『ブルシットジョブ』で、「価値」を作り出しているのは資本家ではなく労働者であるという「労働価値説」について論じられていた箇所があるが、今回のドラマはそれを彷彿とさせる内容だった。

ある意味古典的なテーマなんだろうが、こういう展開のドラマが、令和の時代に放送されたというのは興味深い。