幽霊犬の備忘録

某市の職員。政治学を齧りジェンダーや経済思想に関心。

アンサーブログ その3 生産性と社会適合者

1 前置き

 

Mistir氏のブログを受けてのブログ(3回目)。

ちょっとネットストーカーみがあって、気持ち悪いなオレ。

ただ、今回のブログに限らず、氏の問題意識には凄く共感できるところがあって、氏のブログを読むと自分も書きたくなるんだよな。

本題に入ろう。

まずは氏のブログを読んでほしいが、必ずしも読まなくても大丈夫だろう。

僕は落合陽一 (的な価値観)と戦うことにした - MistiRoom


当初このブログに対して、以前オレが書いたこのブログの論点との共通点があるのでは、とコメントした。

 

落合・古市氏の対談に関する考察―「トリアージ」という例えの不適切さについて - ghost_dog’s blog

 

だが、ちょっと、的を外しているような気がしていた。

(という訳で、上のトリアージの件のブログも読まなくても先には進めます)


それに対して、Mistir氏から、このようなコメントを貰った。

 

とにかく「生きるためのコスト(努力等含む)」を著しく軽視している気がします。

 

なるほど違和感の正体はこれだ、と感じた。

自分が漠然と覚えたいた違和感を、氏は的確に言語化してくれた気がする。

という訳で、今回は改めて、落合氏の言及に感じた違和感の所在について語る。


というものの、実は、このテーマはここ数年燻っていたもので、どこかで一度書きたいとずっと思っていたものではある。

 

2 「細切れ時間に仕事ができるか」問題


改めてMistir氏が問題視していた落合氏の発言を引用したい(孫引きは本来禁じ手なんだが、私的なブログなので勘弁されたい。)


今でも僕は、都内ではタクシーでしか移動しませんが、タクシー代は大体月に20万円くらいです。タクシーを使うことで時間を捻出していて、車中ではずっと仕事をするか仮眠しています。そう考えると、1日2時間を捻出でき、単純計算で月に3日分くらい人より長いことになります。労働時間に換算すると5日くらい人より長いことになります。それで1日4万円くらいの仕事ができるなら採算に合います。


こういう「タクシー利用はもったいなくない、何故なら、それで生まれた時間で、自分は更に生産性を上げられるからだ」というような意見、時折目にする。

タクシー利用とまでは言わないけど、こういうのも同じ。

 

駒崎弘樹 ( Hiroki Komazaki )@病児保育入会受付中 on Twitter: "これは本当にそう。食洗機導入は、家事の生産性を大きく高めます。 日本の場合、妻に家事負担が極端に寄っていて、妻の時間は無料だと思っている夫が多いこと。また、妻自身も「手をかけないと」と過剰品質を志向してしまいがちなことが要因では。… "

 

これ、ちょっと自分自身に置き換えて考えてみたらすぐに直感的に分かるんだが、彼らが言うほど、上手くはいかないものだ。


一般人、例えばいわゆるサラリーマン(賃労働者)とか家事従事者が、タクシー利用とか食洗機利用とかで5分とか10分とか1時間とかの細切れ時間を貰ったらどうするか。

タクシー内なら、SNS、ソシャゲ、よくて読書ってところか?何もせずに車窓を眺めるなんてこともあるだろう。

家なら、それに加えて、ボーっとテレビやYouTubeでも観るとか、ちょっとオヤツを食べるとか、当たるかどうかわからない懸賞目当てにクロスワードパズルを解いてみるとか、スマブラするとか、そんな感じ?

そういう行為が悪いとは 毛頭言うつもりはない。

そういう行為をやって、その人が豊かに幸せに生きられるならどんどんやればいい。

だが、こういう行為にはいわゆる「生産性」が無い。

 

「生産性」厨だ!燃やせ!・・・と怒ってブラウザバックするのをちょっと待って、続きを聞いてほしい。


自分が言いたいのは、そういう「細切れ時間に仕事ができるか」という単純なことだ。結論を言えば、当然できないこともある。

 

研究者、経営者、フリーランサーノマドワーカーなど、生活の時間全てが仕事、生産に繋がり得る人はいるのだろう。

 

だが、賃労働者の多くは「決まった時間に決まった場所に出勤している」ことでしか賃金を得られない。社用のPCや電話が無いと仕事が出来ないとか(雇われSEやコールセンター)、店舗スタッフだと店にいないと当然仕事にならないとか、そういうことは容易に考えられる。家事従事者とか無職の場合だって、時間があっても金は稼げない。

自分は、副業が事実上禁止されている公務員だから特にそうだ。持ち帰り仕事は基本的にNGだ。(守秘義務に抵触しない範囲で持って帰るのはアリなんだろうが、その分は当然給料は出ない)。

 

こうした層にとっては、いくら時間があったとしてもその時間=「コスト」は生産=「パフォーマンス」に繋がらない。そもそも「コスト」にすらならない。いわば時間の「コスパ」が悪いということだ。

 

そもそも、総額では確かに得するかもしれなくても、庶民はその費用を簡単には捻出できない。電気代が節約できるエコなハイテク家電を変えるのは高所得者で、低所得者は電気代を食う安い家電しか買えない、というジレンマ。


※「スマホだけで簡単副業」みたいなヤツあるじゃん、という意見もあるだろうが、一般的ではないだろう。そもそも、そういう手合いのヤツは詐欺的なものも少なくない。消費生活センターの中の人としては、あまり勧めたくない。

 

※「一見無駄なことをしてリフレッシュするのも、生産性を上げることにつながりますよ」というのは趣旨とは違うクソリプなので、一旦脇に置く。

 

アンペイドワークが過重で,女性に偏っているのは何とかしないといけない、という駒崎さんの意図には120%同意していて、駒崎さんの意見を否定したい訳ではないので、あしからず。ただ、そこで「生産性」という言葉を使うことへの違和感はある。


3 落合氏は「社会適合者」である

 

そもそも「生産性」とは何だ?

ここで大事な事実をおさえておきたい。

そもそも「生産」という営み自体が、社会の関係性の中でしか成立しないものであるということだ。「生産」の定義は社会が決めると言い換えてもいい。

 

例えば、天才物理学者と言われた故・ホーキンス氏が身分が固定化されていた時代(中世)に、農家の子供として生まれていたとしたら。健康な肉体こそが働くのに必要な時代、環境だったなら、彼は、ただの麻痺者として何らの「貢献」も「生産」もすることなく人生が終わっていたかもしれない。

例えば、世界恐慌後、野菜が売られることなく、畑で腐っていった、という歴史なども自分たちは知っている。ちょっとだけ齧ったマルクス経済学流に言うならば、農民たちは、使用価値を備えた野菜は生産したのに、交換価値は生産できなかったのだ。

杉田議員のように「生産」という言葉を「子供を産む」という意味合いで捉えたとしても、やはり話は同じだ。人口減少時代の日本では子どもを産むことは生産的と思われるかもしれない。「子供を産むことは人類にとって普遍の素晴らしいことだ」という価値観も確かにあろう(自分個人はこれを推したい)。しかし、人口増が課題の国では実際に産児制限が行われていて「生産的」どころか、社会にとっての負荷とみなされることもある(日本における優生保護法の時代、中国における一人っ子政策etc.)。

このブログそのものも、昔なら何の「価値」も無かっただろうが、今は自分がこうしてブログを書いて、このツールを利用しているということそれ自体が、ブログ管理会社の利益につながっている。オレは今、この瞬間にも価値を生産している!?(他にもYoutubeしかり、ニコ動しかり、pixivしかり・・・)。

この点について大塚英志は『感情化する社会』でこう述べた。Web利用者は「フリーレイバー」として消費すると同時に労働をさせられている。そういった「創作」に限らず、自覚はされないが、消費行動でビッグデータという価値や価値基準を提供し続ける限り「消費」すらすなわち「労働」となっている。

感情化する社会

感情化する社会

 


こうした状況を指して、アントニオ・ネグリという思想家は<生>=労働とも述べている(らしい)。ネグリは難解なのでほとんどちゃんと読めてないのだが。

“帝国”―グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性

“帝国”―グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性

 

 

だが、その「対価」をオレらは必ずしも貰っていない(アフィリエイトで稼ぐこともあり得るだろうが、自分自身はしていない。そもそもアフィリエイトは対価とは言えない)。これは自分自身の行為が「社会的」に「無価値」とみなされているということだ。少なくとも、市場における交換価値は無い。ある意味で搾取されていると言えるのかもしれない。


このように「価値」や「生産」とは何かということは結構難しい。少なくとも「価値」の源泉は思った以上に不明瞭である、ということは言えるだろう。

だからこそ「生産」という営み自体が社会の関係性の中でしか成立しないものである、という先ほどの結論に至るわけだ。

ゆえに「生産性」を内在的、本質論的に捉えようとすることは誤りか、少なくとも視野狭窄的なのである。


さて、それを踏まえた上で、落合氏のような人物のことを考えてみよう。

落合氏のような人物は、自分が持つ「時間」を自分一人の裁量で生産に結び付けられている。

「コスト」を全て「パフォーマンス」に結びつけると言う意味で、最強のコスパとも言える。

もっと言えば「時間」をコントロールできるということは、すなわち「人生」をコントロール出来ることだとすら言えるだろう。

 

そういう落合氏みたいな人を、強者、勝ち組、と言わずして何と言う。

いや、正確に問題意識の所在を言語化するなら「社会適合者」とでも言えばいいだろうか。

 

※「社会適合者」という言葉は、奈須きのこ氏の伝奇小説『空の境界』で、浅上藤乃というキャラクターが「社会不適合者」と特徴づけられていたことから着想。

【追記】浅上藤乃は、社会不適合者じゃなくて、存在不適合者だった。。。訂正します。存在不適合の方がエグいな。

 

落合氏が社会適合者であること、それ自体を批判したい訳ではない。

人間は様々である以上、適合者、不適合者はそれぞれ絶対に生じるだろう。

持っている才能が社会に求められることと幸運にも一致するのであれば、それを活かしてはいけないという道理もないだろう(金が金を生み出すような仕組みを全肯定していいのか、という問題意識はあるとはいえ)。

だが、それでも、オピニオンリーダーたる人物には「自分が社会適合者である(でしかない)」という自覚を持っていて欲しいのだ。 

 

社会にバッチリと適合している人が、

社会に何とかしてしがみついて適合しようとする一般人を嗤うこと。

これこそがオレやMistir氏が覚えた嫌悪感なのではないだろうか。

 

4 後発者の悲壮なクレーム

 

今回覚えた違和感は、日本におけるシニア世代の左派が語る「脱成長」に対する苛立ちと同根かもしれない。

社会にバッチリと適合している人が、その社会を批判し、変えようと主張することに対する苛立ち。

例えばこれ。(Mistir氏も痛烈に批判していた)

https://twitter.com/mistclast/status/886499461433892865

 

Mistir氏は以前ブログでも書いていた(前半部分)。

 

上野千鶴子氏の発言に、僕らはどう向き合えばいいのか - MistiRoom

 

既存のシステムの中で優位に立ち、さんざん利益を享受してきた先発者が「そのシステム自体がこのままだともたない」と説いたとしても、既存のシステムの中でその利益を享受して来れなかった後発者は「まずはお前らが得てきた利益を俺らにも享受させろ」と思って足掻いてしまうのだ。それは俯瞰して見れば「浅ましい」のかもしれない。だが、後発者は必死なのだ。後発者が叫ぶのは、悲壮なクレームなのだ。

 

これは環境問題における南北の断絶と同じ構図でもある。

散々CO2を排出して経済的に成功して先進国になった列強が「もうこのままじゃ地球ヤバいからCO2出さないでね」と言ったとして、後進国が素直に納得できるか。

 

 

・・・かといって、そのままにしていては崩壊するかもしれないシステムを後発者のために変えずに維持していくことが正しいわけではない。

 

この問題についてどうすればいいのか、自分もよく分からない。

だが、一つだけ言えることがある。

 

繰り返しになるが、せめて、自分が「自分が社会適合者(勝ち組、先発者、強者)である」という自覚を持っていて欲しい、ということだ。

嗤わないで欲しい、「浅ましい」なんて言わないで欲しい。

 

無力なオレらが高層マンションの上階を見上げて思うのは、つまるところ、そういうことだ。

 


5 おまけ 「溜め」と逃げ切れた自分

小学高学年のとき親父が鬱になった。

元々転勤族だったんだが、子どもの学校への影響を考慮して、親父は初めて単身赴任を選択して、そこでちょっと病気(腸閉塞だったかな)を患い、それが一つのきっかけになったものと思う(大人になって母親から聞いて初めて知ったんだが、元々親父は精神科に通院していたらしいが)。


その後、鬱が悪化し、中学生くらいのときには休職・復職を繰り返した挙句で結局退職し、別居を経て、高校生のときには両親が離婚した。


しかし幸い、不自由をほとんど感じずに、大学にも行かせてもらったりして、ここまで育ててもらった。母親には頭が上がらない。

そして、今思うと、本当の意味での窮地に立たされることが無かったのは、幸いにも形成されていたあらゆる「溜め」のおかげだと思う。

「溜め」についてはここで簡単にだが解説されている。

 

https://haken-news.com/3%25E3%2581%25A4%25E3%2581%25AE%25E6%25BA%259C%25E3%2582%2581/

 

親父は公務員だったから即クビになる訳ではなく、休職扱いでしばらくは休業保障が受けられたし、住宅ローンも支払中だったとはいえ持ち家もあった。母親はクリスチャンで教会での親しい人間関係もあったし、実家の親戚にも色々と相談できていたようで、辛かったとはいえ、精神的な支え、逃げ場があった。オレ自身も元々学校の勉強は出来たほうで、高校受験を機に勉強が楽しくなって、高校では高成績を維持して、部活も楽しくて、大きな喪失感やストレスもなく、むしろ良い学生生活を送ることが出来た。大学も費用が安い国立に無事に受かることができた(ペーパーテストは昔から得意だった)。


ただ、そういった「溜め」が足りず、親父の病気をきっかけに全てが崩壊していた可能性だって当然ある。

発病があと5年早かったら。

親父が民間企業だったり、自営業だったりで、病気が致命的な減収に即座に繋がっていたとしたら。

母親が相談できるコミュニティーが無かったら。

勉強が苦手で、熱中できる部活にも出会えず、学校生活に充足感を得られず、グレていたら。

そういった境遇に陥らなかったというのは,「幸運」なのだ。


こういうことは途中までは全く意識してなかったんだが、大学4年の時に、政治学のゼミの中で生活保護について勉強していたときに「自分は運が良かったんだ・・・」と初めて身につまされた。


そんなこんなで、自分が無事に就職先を決めた(役所の最終試験に合格した)ときには、正直「逃げ切った・・・!」という感覚を覚えた。嬉しさというより、安堵感。


何が言いたいかというと、公務員になれたオレだって、落合氏などと同様に「社会適合者」だということだ。適合の度合いは違うかもしれないが。

 

だからこそ、オレだって、自省、自制をしなければいけないと思うのだ。

何度も繰り返すが、自分がここまでたどり着けたのは、幸運でしかない。

それを肝に銘じて、謙虚さを心に刻みつけておかなければならない。


自分は「社会」に生かされた。だから、狭量な「自己責任論」には反対するし、「溜め」が多い社会を望む。


全ての人が適合する社会なんてものは理想論かもしれないが、適合できない人がなるべく減るように、適合しようともがく人を嗤わないように、そして、適合できない人の存在を忘れないように、と心に留めておかねばならないと思う。