幽霊犬の備忘録

某市の職員。政治学を齧りジェンダーや経済思想に関心。

『負債論』第2章 物々交換の神話 要約

貨幣と負債は同時に登場しており,負債の歴史は必然的に貨幣の歴史である。
しかし,主流派経済学のどの教科書にも載っている「貨幣」についての常識は,①原始的な物々交換→②「二重の一致」の問題→③貨幣の発明→④信用経済への発展,であり,負債は二次的なものとされている。
文化人類学の知見では,そういった発展経路を辿ったという証拠は発見されておらず,この常識はあくまで「神話」である。実際は,まず発生したのは,信用経済のシステムである。
「二重の一致」の問題も,継続的に関係を持つ間柄であるならば,さしたる問題ではなくなる。例えば,「私は靴が欲しい。手元に芋を持っている。田中さんは靴を持っているが,彼は今,芋を必要としていない」というのは典型的な「二重の一致」の問題だ。これを解消するために貨幣が登場した,というのが主流派経済学の説明だが,実際のところ,「いずれ田中さんが芋を必要とした時には,私は田中さんに芋をあげる」という暗黙の了解があれば,田中さんは問題なくすぐに私に靴をくれるのであり,二重の一致は問題にならない。
ただし,ここで計量の問題が生じる。靴1足は,芋何kg相当なのか?そこで,「計量する単位」としての貨幣が登場する。そして,その登場は,主流派経済学とは相性が悪いが,実のところ「国家」と不可分である。メソポタミアの会計体系は,明らかに商取引の産物ではなく,官僚が貯蔵管理と差配のために発明したものだった。そして,その当時の銀はほとんど利用されず,実際は「信用」システムが基盤だった。
 そして,物々交換は,現金取引に慣れた人々が通貨不足に直面したときに実践したものだった。

もし、2〜4歳くらいの男の子が「スカートを履きたい」と言ってきたらどうする?

タイトルのとおり、もし、2〜4歳くらいの男の子が「スカートを履きたい」と言ってきたらどうする?という思考実験的な疑問が湧いた。
思考実験というか、いつか実現しても全然おかしくないことだが。

 

 

女児を育てる中では、そういう悩みはあまり生じなかった。女児は、スカートを履くことも、ズボンを履くことも、社会的に許されている。他方、男児がスカートを履くことのハードルは、女児がズボンを履くハードルと比べて、途方もなく高い。

 

「スカートは女の子が履くものなんだよ」という返答は考えられるんだが、それは色んな意味で暴力的になりかねない。

 

例えば、自身の性別を「女性」だと認識している、いわゆるトランスジェンダーだという可能性はありえる。  


そもそも、「女性の服」、「男性の服」というのが固定化されていることがおかしい、と友人の路地裏氏なんかは言うだろうな。それは、とても正しい指摘。性自認にかかわらず、一般的に「女装」と呼ばれる行為とか、「女性(用とされている)服」を着るのが、本人にとって「自然」でしっくり来る、ということも考えられる(趣味としての女装もこれも含まれる)。

 

 

●しかし、だ。
そこまで、大げさに捉えないといけない問題なのかどうか、という疑問がある。
単純に、それくらいの子供は、何でもかんでもやりたいだけ、ということかもしれないのだ。

例えば、親が料理にワサビとか唐辛子とかの辛い調味料をかけているのを見たら、自分もやりたいと言う。
例えば、親が腕立て伏せや腹筋をしているのを見て、真似してみたりする。
例えば、クレヨンしんちゃんを観たら「お尻フリフリ」して爆笑したりする。
例えば、テレビのCMを見て「URであ〜る」と歌っていたりする。

子どもの「やりたい」には、特に深い意味がなく、直感的・反射的なものも多い。
他の誰かがやっているのを見て自分もしてみたい、という単なる模倣欲(?)ということもある。子供は「ごっこ遊び」大好きだ。
正直、子供の「やりたい」はその程度のことが実際問題、多いのだ。

 

 

●さて、2、3歳くらいの男の子が「スカートを履きたい」と言ってきたとして、その真意というか、本気度というか、それはどうなんだろう。

スカートを履きたいというのが、彼なりの真摯な欲求なのかもしれない。
そこに、性自認など、アイデンティティの大きな領域を占めるものがあるのかもしれない。
しかし、全然そうではなく、「僕もワサビ入れたい」というレベルで、単なる模倣欲(?)のレベルなのかもしれない。

 

 

●また、いずれにしても、「スカート履きたいの?どうぞ」と、全てを本人の思うがままにさせるべきか、という疑問はある。

 

 

不合理であり、あやふやなものではあるが、それでも「男の子は一般的にはスカートを履かない」という常識、ルールは実際に存在するから、まずはそれを教えてあげるのが親の役目、という気もする。

 

単なる模倣欲でスカートを履いて外に出て、「おかしい」と周りから笑われて、傷つくのは彼かもしれないのだ。

 

 

人間は、社会は、多様だ。
二分論ではなく、グラデーションに満ちた世界に自分たちは生きている。
しかし、幼児に、いきなりそのグラデーションを教えていくことは現実的に難しい。
現実問題として、最初のうちは、二分論を教えていかねばならない場面は大いにある。
それこそ、男子トイレと女子トイレの区別を覚えなければ、社会で円滑に生活していくことは難しいのだ。

そのところの塩梅は、とても難しい問題だ。

 

 

厳密な「ルール」ではないが、「念のため」とか「そんなことで悩みたくない」と思ってネクタイを仕事でつけておくのか、それとも、上司や顧客からクレームを受けるのを覚悟で、ノーネクタイで働くのか、という問題も根っこは同じかもしれない。  

 

理不尽なルールに、多少妥協して波風立たないように生きるか、軋轢や衝突、嘲笑を覚悟のうえで理不尽なルールに抗うか。

どちらが正解なんてことはないのだ。

 


ネクタイ問題で言えば、「とりあえず付けておく」というのが無難でラクという人が多いだろう。そういう選択をしている人を責められはしない。

同じように、男児のスカートについて「とりあえず避けておく」という選択肢も当然あってしかるべき、とも思うのだ。少なくとも、理不尽と戦い、抗う「チカラ」や覚悟が身につくまでは。


しかし、それを絶対不変の「ルール」だと思ってほしくはない。抗うという選択肢を無いものと思ってほしくはない。

育休について(その1) 「なぜ育休を取るのか」と聞かれて戸惑ったという話

自分はかつて(2015年)に育休を取った。

2019年現在、共働き(フルタイム)の妻と一緒に保育園児の子供を育てている。
自分が育休を取ったとき、まだまだ育休を取る父親が多数ではない職場で「育休を取って何をするのか?」という意見もあった。そういうこともあって、「男が育休を取る意味は何なのか?」ということをたびたび考察して文章を書いてきた。

 

これまではFacebookに書くことが多かったが、せっかくなので、ブログにもいくつか転記しておこうと思う。

 

以下に書くのは、その1つ目。
これからいくつか記事をアップしていこうと思う。

 

●以下、転記(元の投稿は2016/10/21)

「何で育休を取ると?」という質問をされて、質問の意味が分からなくて、戸惑った、という話。

上司との面談でも聞かれたし、先輩の男性職員からも聞かれた。
先輩職員の方は、そもそも、制度上、配偶者の両方が同時に育休を取れないと思ってて、嫁が育休を取らないから、代わりに、自分が育休を取るのだ、と思い込んでいた(過去にはそうだったという話を聞いたことがある)。で、そうじゃないことがわかっても、育休を取ろうとすることが理解できない、育休を取って何をするのか、という感じだった。決して、批判的ではないけど、終始「要るのかなぁ?よくわからんなぁ?」という感じだった。ちなみに、その人は子持ち。結構、良いパパらしい。

上司の方は、さすがにそういう感じではないけど、面談の時に「何がきっかけで」とか「何をしようと思って」とか、そういう質問をされた。

自分としては、「取るのが当然」くらいに思っていたから、あえて「なぜ」と聞かれるとうまく答えられてなかったなぁ、と振り返って思う。
あとから振り返ると、「なぜ育休を取るのかって、女性職員には聞かないのに、なぜ男性職員に聞くのか?」って上司に逆に聞いてみればよかったなぁ、とも思ったりした。
まぁ、取る男性職員が圧倒的に少なくて、取得が当然でない現状で、「なぜ取るのか」と疑問に思うのも無理はないという気もするが。

とにかく、まだまだ「育休を取るのが当たり前ではない」ということ。

先輩職員については、自分の育休をきっかけに、その人が考えるきっかけを与えられたので、育休を取った甲斐があったな、と思う。基本的にはいい人なので、今後、「よくわからん」とは思いながらも、「男性の育休」については意固地に否定し続けるのではなく、柔軟に考えてくれる人だと思う。
ただ、先輩職員の名誉の為ではないが、彼は、実際、ほんとに良いパパらしい(同僚に聞いたことがある)。何も、育休が、イクメン度合いを測る全てではない。(イクメンという言葉は嫌いだが、伝えやすいのでこう言う)

 

 ●もらったコメントと、それへの返答も全部ではないが書いていく
※名前等は伏せておく

 

①Fさん(50代経営者)からのコメント

このコメントは、誤解を招く可能性がありますが、あえて書きます。
私たちの世代が入社した頃は、産休というのがあったくらいで育児休暇という言葉は無かったので、「なぜ?」という言葉が出たのだと思います。それは決して育休に対して否定的なものではなく、異文化(この言葉も適切ではないかもしれません。)に初めて触れるような。。。
子育てに対する新しい心構えを聞きたい(ある意味私たち世代は後進的な環境におかれてきたと言えるでしょうし。)という感じだったのではないかな。私も、身近にいませんし勇気ある取得だったのではないかと思います。(●●君本人にとっては当たり前のことだったようですが。。。(^^))今後、そんな勇気が必要ではない当たり前の社会になる必要があるのでしょうが、実際に取得者からの話を聞くというのは当たり前な社会にする上でとても貴重なことだと思います。
全てにおいて、物事を最初に始めるということは少数者ですが、いずれそれが当たり前の時代がいつか来るのではないかと思います。そういった点で色々と語ってもらえることは大切なことだと思います。

それへの自分のコメント

どういう意図や文脈で「なぜ?」という質問がされたのかについては、きっと、まさしくFさんのおっしゃる通りだと思います。上手く自分で表現できなかったところを、代弁して頂いてありがたいです笑
僕としても、「なぜ」と聞かれることがないような時代が来てほしいなぁ、とは思いつつ、聞く人が間違っているとか、批判したい、とか、そういうことを言いたい訳ではありません。当時は、そういう気持ちが無いではなかったですが、今振り返ると、そりゃあ、気になるよなぁ、と思います。きっと、実際に取得する男性を目の当たりにしたのが、僕が初めてのケースだったのだろうし・・・

 

②友人Sのコメント

なぜってそれは、葬式に行くために忌引きするのと同じレベルで、育児をするために育休とるんだぜってド正論ぶち込みたいとこやけど、自分がその立場なら言えないんだなぁ、、、

必要かどうかと言われたら、両親の片方しか、最低限の期間の育休しか取らずに育児してる人もいるんやろうから、「必要」ではないんやろうから、こっちは反論しづらいし、たぶん反論の方向に進むと負け戦になる

それへの妻のコメント

普通に「自分も毎日子育てしたいから」じゃ、ダメなんやろうね。
私はむしろ、なんで「育休いつまで?」って当然のように聞くのって思ってた。

更にSのコメント

「いつまで」っていうこと自体は、上司が労務管理する以上は必要な情報だし、聞いちゃうだろうなーと思う
言い方とか、文脈によるけど。

あと、俺が先輩職員と話してる時、「ふたり同時に育休を取得する必要があるのか」って話になった。
いや、わかる。言いたいことはわかるんやけれども、この論理だとパートナーが「専業主婦(夫)」であれば育休はとるべきでないってことになる。

更に妻のコメント

んー、というか、女性も育休は必須じゃないわけで……
でも取ると思ってるから、いつまで?って聞くんだろうな、と。

あと、二人同時でも、結構大変だったから、必要はあるけど必須ではないってかんじなのかな

更に自分のコメント

ぶっちゃけ、生保世帯だったら「保育園預けて働きなさい」って指導するだろうな、って思ったことはある。

 

ファザーリングジャパンの安藤さんとかは、「育児は楽しいし、期間限定なんだからやらないと勿体無い!仕事にも活きてくる」って言ってて、概ね同意してる。
あと、育休取って育児に専念することで、ぶっちゃけ、授乳以外は母親並に出来るようになった。育休取ってなかったら、そこまではいってないかも、とは思う。

続くSのコメント

あぁ、誤読してた
育休をとるという話をしている中で「いつまで」と聞かれたことに対する疑問ではなく、産休をとるにあたって育休の「い」の字も出してねぇのに、「育休いつまで」って聞かれたことに対する疑問ってことか。それならまぁわかる。

こないだ●●もどっかで書いてたけど、「仕事に活かす」ために育児するみたいになるのは気持ち悪い
気持ち悪いけど、過渡期にはそんな説明をして周りを納得させるという戦略が必要なんやろうなー

 

③Sのコメント

アタマの固いオッサンをド正論で各個撃破したところで禍根を残すだけで社会は変わらないし、やっぱ大事なのはオッサンひとりあたりの労働(狭義)量を減らすことなんだろうなぁ。オッサンてのは比喩ね。企業戦士あるいは社畜の比喩 。

 それへの自分のコメント

それもあるし、考えられる戦略的にはアタマの固いオッサンが少数派になるように、ニュートラルな位置にいる人とか、やりたいけど迷ってるような人たちを取り込んでいくことが大事ではないかと思う。
その為には、Fさんが言うように、取っかかりを作る場面では勇気が必要。 

『負債論』第1章モラルの混乱の経験をめぐって 要約

積読だった『負債論』をこれから読んでいく。

負債論 貨幣と暴力の5000年

負債論 貨幣と暴力の5000年

 

 

本文だけで600ページ弱、注なども含めれば800ページを越えるような大著だ。読むのに1年くらいかかるかもしれない。

そこで、なるべく細かめに、小出しで要約(というかただの抜書き?)をつけていくことにする。

 これを土台に、いずれ自主ゼミが出来れば理想的・・・?


以下、要約(第1章)

・「ともかく借りたお金は返さないと。」という言明が強力なのは、それが経済的な言明ではなく、モラルの言明だからである。この自明さこそが、この言明を厄介にしている。

・負債とは何かについてわたしたちが理解していないということこそが、負債の力の基盤である。暴力の正当化とモラルによる粉飾には、負債が最も有効だ。マダガスカル等の最貧債務国は、かつて攻撃、征服された国々だ。他方、同じ債務国でもアメリカは事情が違う。マフィアが銃を持って「貸してくれ」と言い「みかじめ料」を取っていくのと同様、アメリカは「融資」という事実上の「貢納」を得ている。マダガスカルアメリカの違いは銃、軍事力だ。

・債務の歴史やあらゆる宗教をみると、①借りた金を返すのは純粋にモラルの問題という考えと②金貸しは邪悪、という考えが共存しており、モラル上の混乱がある。

・貨幣は、モラル上の「義務」の数量化を可能とし、「負債」とする。そこで負債は冷酷、非人格的となり、譲渡可能になる。この数量化には暴力が結びついている。暴力が人間関係を数学に変えてしまう仕組みこそが、負債に関するモラルの混乱の源泉である。

・2009年からの金融危機のあと、金融市場の民主的な管理、債務者への救済は実現しなかった。IMFでさえ、このままでは更なる金融破局、ひいては民主主義(資本主義)への脅威となるという懸念を持っている。その今、負債の歴史を再検討するのは重要だ。

・この本は負債の歴史だけではなく、人間とは、人間社会とは何か、という問いを投げかける。その中で、すべての人間関係を交換へと還元してしまうというのが、誤った見方であるということをみていく。交換の原理は、暴力の帰結として登場した。つまり、貨幣の期限は、犯罪と賠償、戦争と奴隷制、名誉、負債、そして救済のうちにみいだしうる。

映画『Suffragette』(邦題『未来を花束にして』)の感想

AmazonPrimeビデオで配信されていたので、観た。

邦題がクソだという前評判を知っていたが、たしかに、この邦題はミスリード過ぎるので、こういうタイトルにした。

未来を花束にして [DVD]

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『未来を花束にして』は、2015年制作のイギリスの歴史映画。 1910年代のイギリスで婦人参政権を求めて闘った女性たちの姿を描いた作品。原題のSuffragetteとは、20世紀初頭のイギリスの参政権拡張論者、特に婦人参政権論者を指す言葉(Wikipediaより)

以下、若干のネタバレあり。

謎解きや伏線、奇想天外なストーリーを楽しむタイプの映画ではないものの、どうしてもネタバレが許せないという方は、ブラウザバックをお勧めします。

多少はいいかな、という方は、読み進めてください。

1 訪れないカタストロフ


例えば、『ボヘミアン・ラプソディ』は、完全にストーリーがキレイな起承転結になっている。

 

起・・・クイーン結成~飛躍

承・・・メンバー不和等の予兆

転・・・フレディどん底

結・・・ライブエイドで奇跡の復活

『セッション』や『ブラック・スワン』も一緒だ。

主人公は、どん底を味わったあと、圧倒的なクライマックスを迎え、観る者はそれによってカタストロフを感じるのだ。

ブラック・スワン (字幕版)

セッション(字幕版)


しかし、この『サフラジェット』は、そのようなクライマックスではなく、カタストロフは訪れない。主人公たちの行動で、運動が一歩、歩みを進めたところで映画は終わり、実際の参政権獲得は、後日談として文章で説明されるのみだった。

ゆえに、自分は、観終わったあとは「スッキリしなかった」という感想を正直抱いた。

ストーリーとして「面白く」はなかったのだ。

 

だが、そこで「スッキリ」させてくれないことこそが、この映画の狙いなのかもしれない、とあとから考えた。

「スッキリ」するはずもないのだ。

その成功を見る前に、散っていった女性たちがいる。

そして、まだ女性たちの戦いは終わっていない。

後日談では、イギリスの参政権獲得に留まらず、現在に至るまでの女性参政権獲得の軌跡が挙げられている(直近では、2015年!のサウジアラビア)。


主人公のモードはこう言った。
私たちが勝つわ」


この「私たち」は、彼女の仲間である運動員のみを指しているのではない。

現在に生きる視聴者までも含めて、「私たち」と言っているのだ。

そう、この映画は歴史を描いたものであるとともに、「スッキリ」させて終わらせてはいけない「現在進行形」の物語なのだ。


2 彼女たちの行動は「正しかった」のか?
<以下、特にネタバレ注意。>
 劇中、某邸宅を爆破するという計画が実行に移された。

 これは、それまでに実行されたショーウィンドウのガラスへの投石破壊や早朝の郵便ポストの爆破などに比べて、規模も大きく過激度が高い計画で、活動家の中でも、やり過ぎだとして、消極的な意見が出ていたものだった。

 結局、「その時間は人がいない」ということで、計画は実行に移されたんだが、その後、主人公は警察に逮捕され、取調べを受けることになった。

 そのやり取りを以下に引用したい。


刑「爆破の時家政婦が邸内にいた

  忘れ物を取りに

  あと2分遅かったら・・・

  何のための爆破だ

  爆弾は相手の区別などできないんだ

  お前に命を奪う権利が?」

主「あんたには女性への殴打を傍観する権利でも?

  偽善者」
刑「法に従う」

主「男の法など無意味よ

刑「逃げ口上だ

主「窓を割り爆破しないと男は耳を傾けないから

  殴られ裏切られた女の最後の手段よ

刑「止めてやる」

主「どうやって?全員刑務所に入れる?

  人類の半分は女よ?止められる?」

刑「それまで体がもつか?」

主「私たちが勝つわ」

引用ココまで。

 

ここは、まさしく映画のメッセージの核心に迫った部分だろう。
Twitterの自分のタイムラインを見ていた限りでは、この映画は、いわゆるリベラルな界隈からの絶大な支持を得ていたように思う。
社会運動、活動に対しての冷ややかな目線に対し、権利を獲得するための「闘争」をあくまで肯定する論調が多く聞かれた。

 

しかし、自分は、未遂に終わったものの、故なく爆破されかけた家政婦のことを考えざるを得ない。


極論かもしれないが、「目的」のための第三者を犠牲にすることが許されるのならば、どうやって、イスラム過激派のテロを否定できる?

 

以前、下記のブログで

手段は目的を正当化しない

という主張をした。 

ghost-dog.hatenablog.com

 

彼女たちがいなければ、女性の参政権獲得という「正しい」未来は訪れなかったのかもしれない。

 

しかし、その未来の「正しさ」は、彼女たちの行動そのものを正当化しうるのだろうか。

手段が目的を正当化しないのであれば、彼女たちがとった手段はやはり正当化されないのだろうか。
しかし、彼女たちが平和的に言葉のみを紡いでいたら、今の女性たちはやはり参政権獲得に至っていなかったかもしれず、それもやはり「正しさ」を欠いてしまう。

この映画の製作者は、どのような意図で映画を作ったのだろう。

「彼女たちが正しかったのは歴史が証明している!」と述べたかったのではないのではないだろうか。

映画を観た人は分かると思うが、上の問答をした刑事は、捜査当局が行った不当な「治療」への苦言を呈するなど、割とまとも(?)な人物として描かれていた。少なくとも、法を振りかざして、男の既得権益を固守しようとするような人物ではなく、彼なりの「正義」を行おうとしている人物だった。本当にクソヤローだったのは、使用者のオッサン。問答の相手があの使用者のオッサンだったなら、主人公のモードの自己弁護は、もっとストレートに納得と共感に繋がったかもしれない。

しかし、あの刑事とモードの問答は、まさに「正しさ」の衝突だったのだ。


まきむぅさんは、あの映画を観たのだろうか。そして、彼女ならどう思うのだろうか。
聴いてみたい。

行政法の勉強 行政行為の取消についての疑問

先日,法務の勉強会があった。そのうち,行政行為の取り消しという論点があった。
判例は,本来の土地所有者Aと,瑕疵ある行政手続きによって土地を取得するに至ってしまったBとの利害が鋭く衝突する事例だった。(最判昭和43年11月7日)

 

判旨の要点の1つとして,取り消しが許容されるか否かは,取り消した場合と取り消さなかった場合の比較考量をすべき,という考え方が示された。

 

ここで,1つ疑問がある。比較考量を行政内部でやった結果,50:50にしか思えないような状態で,判断に悩む場合はどうすればいいのだろうか。更に言えば,取り消した場合も,取り消さなかった場合も,どちらの当事者も訴訟を辞さない,という態度だった場合はどうすればいいのだろうか。


AもしくはBのいずれかから訴訟が提起されるということが分かっておきながら,それでも,取り消すか,取り消さないか,ゼロサムでどちらかの判断(行政処分)をしなければいけないのだろうか。そのうえで,訴訟が提起されるのを座して待たなければいけないのだろうか。

 

それとも,何かしら,ADR的なものを活用して,ゼロサムにならない解決に導くということはあり得るのだろうか。

 

本来,行政処分は法に則って画一的に実施しなければいけないだろうから,安易に,当事者の意を汲んだりする決定は行うべきではない。それは,恣意的な行政運用につながる危険をはらむ。恣意的な運用を排除することによって,法的安定性が担保され,法制度,統治システムへの信頼につながる。
しかし,判旨では,取り消すかどうかという判断に「比較考量」というある意味法外の要素(?)を考慮すべき,されているのだから,そこに至ってしまっては,杓子定規に法的基準をあてはめず,ADR的なものを導入してもいいのではないだろうか。

 

更に問題は,仮に,そういう当事者同士の合意にたどり着いたとして,それを紛争を終局的に解決する決定,判決と同じ効力と位置付ける方法があるかどうか。【合意→行政処分→取り消し訴訟→いやいや,お前,合意したやん!→あれは口約束で,紛争を提起する権利は失われない】なんてことになったらイヤだな。合意→裁判上の和解,的なルートはあるんだろうか。このへんは,民事訴訟法の論点なのかな。超苦手分野(大学でも選択しなかった)。

 

 

時間があれば,調べるかなぁ(と言いつつ,多分調べないパターン)。

ケースワークでの「訪問」についての持論

2012年度から2015年度までの3年間、ケースワーカー生活保護給付業務)を経験した。

 

あまたの論点や思うところはあるが、今回は、CWの中心業務である「訪問」を効率的、効果的に行うやり方について、持論を書いておきたい。

 

3年目に、自分自身が課したルールというか、考え方がある。
それは

「訪問は基本的に短くして3分を目標とする」ということだ。

 

もともと、自分は、仕事を効率的に進められておらず、残業も多かった。
記録を書くのも遅かったし、訪問率も高くはなかった。
それを打開するための方策が、上記の「訪問は3分」だった。

一言で言うと「訪問は3分」なんだが、ちょっと言葉として乱暴なので、細かく意図を書いておく。

 

 

そもそも、この目標は、1・2年目のときの失敗、反省が元になっているので、そこから書くことにしよう。

1・2年目は訪問件数が増やせずに、残業も多く苦しんでいた。
その原因の一つとして、知識不足や、冗長な記録を書いていたことなどがあるが、1件あたりの訪問時間が長かったことも大きな要因だった。
特に課題もないCケースの訪問でも、30分くらいかかることも少なくなかった。

なぜ長くなっていたかといえば、それは「訪問が短かったら失礼」とか「話の切り方がわからない」と思っていたからだ。初めて訪問する世帯や、なかなか会えていない世帯は、特に長くなる傾向にあった。いつ終わるとも分からない世間話に延々付き合うことも多かった。

しかし、これは悪循環を生んだ。

訪問が長い→件数が稼げない→なかなか会えてない世帯が増える→その世帯の訪問時間が長くなる。

最も悪かったのが、スキマ時間の訪問ができなかったことだ。
例えば、4時には帰りのバスに乗りたいが、あと10分ある、というとき。そういうスキマ時間も、「10分では訪問は終わらないな」と思って、訪問できてなかった。

こういうやり方を、3年目からやめた。

まず、訪問を短くしようと決めた。具体的には3分を目標とした。
意図せず長い訪問とならないよう「長い時間は話せないですが、近くに来たので顔を見に来ました!」とか、「4時から別の人のアポがあるので(4時のバスに乗らないといけないので)、2、3分しか話せないんですけど、まだお顔を見れてなかったので、とりあえずお会いしたいと思ってきました!」と先に言うようにした。

 

短い訪問だと、相手に失礼では?
→また、会いに行けばいい。そういう風に考えを切り替えた。実際、「短い時間でも、会おうとしてくれる」という印象を向こうに持ってもらえれば、失礼にはならない。長い訪問が数少ないより、短い訪問が数多いほうが、信頼関係はつくれる。そして、そうやって顔を見せる習慣をつくっていれば、その次行くときにも、「あんまり会ってないから、すぐに帰るのは失礼かな」と思わなくて済む。

 

2、3分で、確認事項すべて聞けないのでは?
→それでもいい。なんなら、「さっき聞き損ねたんですけど」とあとから電話で聞いたっていい。「訪問で聞くべきことを整理できてないなぁ」と思って訪問しない、というのが一番ダメ。不完全でもいいから、とにかく訪問する。例えば,親族との交流が活発で問題もない、ってことが分かっていれば、毎回その話はしなくてもいいし。

 

一回一回の訪問のハードルを上げすぎないことで、記録を書くのも楽になる。こういう訪問であれば、訪問したその日に速攻で記録が書ける。

 

ただし、もちろん、なんでもかんでも3分にしていい訳ではない。
むしろ、こだわるところにはこだわる。

その時間を捻出するために、メリハリをつけることが重要。
例えば、福祉業種の人たちでのカンファレンスも積極的に顔を出す。
呼ばれたら行く、にとどまらず、資料をつくって臨んだこともある。
(全てではないが)手続きのために「〇課に行ってきて下さい」だけではなく、そこまで同行して担当者に引き継ぐ、という一手間もときにはかける。