幽霊犬の備忘録

某市の職員。政治学を齧りジェンダーや経済思想に関心。

コミュニズム/交換(競争)の効率性についてメモ

とても興味深い呟きを見つけたので、備忘的に思うところを書いておく。

デリーで10年以上働いて確信を持って言えるのは日本と比べたらこの国には「相互信頼」がないんだよな。あるとすれば家族や一族の間だけ。これが本当にあらゆる場面場面で非効率を生み出して国全体の成長を阻害していると思う。

契約書はやり取りのたびに全文確認しないといけない、癒着がないように商品に問題なくてもベンダーは定期的に変えないといけない、前工程が信用できないので次工程になるたびに品質チェックしないといけない、この辺で生じる非効率さね。

インドに製造業が勃興しない理由、「分断」だと思ってるんだよね。何か作業をやっても「次工程」「前工程」に全く興味がない。自分作業が終わればそれで終わりという思考。あとは7割くらいの完成度で「早くお金欲しいからもうこれでいいだろ」と出荷してしまう感じ。

野瀬大樹 on Twitter: "デリーで10年以上働いて確信を持って言えるのは日本と比べたらこの国には「相互信頼」がないんだよな。あるとすれば家族や一族の間だけ。これが本当にあらゆる場面場面で非効率を生み出して国全体の成長を阻害していると思う。" / Twitter

 

これ、『負債論』や『ブルシットジョブ』にも通じる大事な論点だと思う。


「交換」、「支配」に並ぶ人間関係の諸原理としてグレーバーは「コミュニズム」を挙げ、彼はコミュニズムについて、短期的な損得計算を不要とする点で「効率的」と評価していた。

損得のみで客観的な決断を導ける「交換」の原理や、それをシステム化した資本主義を「効率的」と評価するのが一般的な感覚だろうと思うが、グレーバーはその虚構性を指摘した訳だ。

 

なお、グレーバーが、コミュニズムが基盤となる原理である、と指摘している点も重要。それは「市場」においても同様。例えば、中世イスラムにおける市場について、グレーバーは相互扶助の拡張と評価している。

 

効率化の名の下に「競争」が志向されると、競争における勝者判定のための指標や評価、管理が必要となり、結果として、全般的官僚化が進行し、ブルシットジョブが生み出され、増殖する。
逆説的だが、効率化を求めて「交換」の原理に依ろうとするほど、「コミュニズム」の効率が失われ、非効率になる。

 

さっき述べたとおり、グレーバーは『負債論』において人間関係の諸原理をコミュニズム、交換、支配と類型化したが、官僚制は間違いなく支配の体系だろう。

コミュニズムが敵視され、交換を貫徹しようとした結果、たどり着くのは支配である、と図式化できるのではないか。

 

かなり抽象的な議論に見えるかもしれないが、指定管理者制度などを念頭に置くと、言わんとしていることが分かってもらえるのではないか、と思う。

 

 

ふるさと納税の問題点(嶋田暁文氏論文への補足)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/chihoujichifukuoka/69/0/69_95/_pdf/-char/ja

 

嶋田暁文氏のこの論文は、ふるさと納税の沿革や問題点等についてかなり網羅的に書かれていて、とても参考になる。断片的にしか知らなかったことが全体として理解できた。

 

今回は、地方自治体で働く「中の人」として、何点か、付け加えたい点について書く。

 

まず、論文では、ふるさと納税の「問題点」が挙げられているが、自治体職員のマンパワー及び人件費の問題について述べたい。

 

もともと行革の流れでマンパワー・人件費には余裕が無く、更に現在はコロナ対応という非常事態の中で、人は足りない。

そんな中、ふるさと納税関連業務に少なからぬ人的コストが割かれており、この状況は決して肯定できないのではないか。

自治体によっても変わってくるが、ふるさと納税関連業務は以下のように非常に多岐にわたっており、人件費は決して安くない。

 

(1)返礼品拡充関連業務

自治体の側から企業等に営業をかける

②公募で提案があったものを審査する

③返礼品を企業等と共同開発する

等の手法が考えられるが、いずれにしても楽な業務ではない。

場合によっては、ふるさと納税制度の担当部局(総務系、企画系が多い印象)だけではなく、農林水産、商工、観光といった様々なセクションの関りが必要になってくる(特に①や③)。

 

(2)寄付受入先調整業務

ふるさと納税の「使い道」は様々である。環境、経済、福祉、医療、文化、動物愛護、まちづくり、etc.。まさにあらゆる事業が対象になり得る(特定の事業に紐付けしない寄付も可能)。これらの部署において「基金」を管理する業務や、種種の調整作業が必要になってくる(例えば寄付金の使途についての説明資料作成など)。

 

(3)寄付受入実務

実際に寄付を受け入れる業務はもっとも大変な業務の1つだろう。ワンストップ特例制度等により手続きが簡略化されている部分があるとはいえ、書類の内容確認や補正、添付書類との突合などの実務が発生する。書類に不備があれば修正のためのやり取りが必要だし、個人情報の管理にも気を遣う。中には「通販」感覚で返礼品にクレームが入るケースもあるようで(ひどい場合だと、思ってたものと違うから金を返せ、とか)、まさにブルシットである。

自治体によっては職員だけでは賄いきれずに委託するケースもあるが。委託については後述。

 

(4)PR業務

寄付集めには、PRも欠かせない。新聞、テレビ、ネット、街中のサイネージ、催事といったあらゆる場面でPRを行っていくことになる。もちろん、デザインや企画等、広告代理店等の力を借りるケースが大半だろうが、それでも大変な仕事である。

厄介なのは、ふるさと納税は、住民以外から寄付集めが中心のため、既存の住民向け広報媒体は無意味であり、新たな媒体を見つけるところから始めなければいかないということだ。なお、日本全国へのPRであり、他自治体も同様にPR合戦をするので、コスパが非常に悪いPRになってしまいがちだ。

(移住定住の促進PRも同様の構図)

なお、(1)や(3)で関わった各所管課は、このPRにも関わることがある。

 

(5)控除関連業務

そして見逃してはいけないのが「自分の所得だと、いくらまでなら、ふるさと納税した分の控除が受けられるのか」という「ふるさと納税の上限額」への問い合わせに対応する業務だ。上限額は、寄附をしたい自治体ではなく、自分が住んでいる自治体の税務担当部署でないと答えられない。特に、ふるさと納税の「タイムリミット」が近づく年末に、この問い合わせは増える。私は税務の経験がなく詳細は知らないのだが、年収だけではなく、家族構成や他控除等も含めて複雑な計算をしたうえで上限額が決まるため、上限額を正確に答えるのは楽ではないと聞く。

そもそも「ふるさと納税をしたい」という住民は「自分が住んでいる自治体への納税額を寄付先の自治体へ移したい」と言っているに等しいわけで「きっちり税を納めさせる」ことを目的とする税務担当部署が、こんな相談を受けなければならないこと自体が、ブルシットと言わざるを得ない。1~4に比べれば、業務のボリュームとしてはそこまで大きくないのかもしれないが、質的には最もブルシットなのではないかと思う。

 

思いつく限り書き出したが、きっともっと色々な業務が発生している。

ふるさと納税制度は地方議員の関心も高く、おそらく、多くの自治体で議会・質問案件にもなっているだろう。議員のスタンスも「そもそも制度自体の見直しを国に迫れ」というものから「もっと拡充しろ(返礼品を充実させろ、PRをもっと頑張れ)」というものから、色々とありそうだ。それらに対応するのも、決して楽ではない。

 

保健所の業務負担が取り沙汰される中、これらの業務にリソースを割かなければいけない状況は、悲劇である。

(かと言って、黙って指を咥えて何もしなければ、税が流出していくだけだし、議会からも「きちんと充実させろ」と批判されることになるのだが)

 

 


思ったより長くなったため、続きはまた別記事で書こうかな。

「意識高い系」の友人が「自然療法」にハマってしまった

◆大学時代の友人で、「朝活さん」ともひそかに揶揄されていたほど「意識高い系」の女性がいる。

 

Facebook等を見ていると、大学時代から朝活に参加したり、就職してからはよくわからない異業種交流会※に参加したり、事業構想大学院大学※に行ってみたり、読んでる本がペラッペラのビジネス本だったりと、ここまで型通りの「意識高い系」の人も珍しいんではないか、というタイプの人。

 

※消費者センター勤務時代に、異業種交流会がマルチや詐欺の温床になっていたことを知り、あまり良い印象を持っていない。すべての異業種交流会がダメとは言わないが。


事業構想大学院大学のことを詳しく知っているわけではないが、ふるさと納税制度の根本的な欠陥を無視して、制度を活用した地方創生事業等を謳う寄稿記事等をたびたび書いていることから、ここのことをあまり信頼していない。

 

そんな彼女が、このたび手を出していたのが、自然療法、アロマテラピー
国際アロマテラピストの認定(ディプロマ)を受けたんだと。

 

 

あー・・・うん・・・なるほどね、そう来たか。

 

 

彼女がセミナーを受けていた団体のページを見たが、東洋医学、解剖生理学などのそれっぽい専門用語が散りばめられている一方で、「医療占星術(チラシには「12星座を知ることが健康と病気の理解に繋がる?!」との煽り)やら、「発達障害自閉症ADHDアロマセラピー」やら「マクロビオティック」等への言及もあり、胡散臭さが拭えない。

 

自然療法界隈では「がんが治る」という類の詐欺的商法のものもあり(以前、消費者センター勤務時代に被害事例を見聞きした)、ここがそういうところかまではネットでは分からないが、ただ、少なくとも「似非科学」の可能性を疑ってかかるべき案件であり、そういう意味では「黒に近いグレー」であるように見える。

 

 

◆彼女のような、朝活、異業種交流会、事業構想大学院大学、ビジネス本などに傾倒している「意識高い系」の人たちは、どういう行動原理で動いているのだろうか、と考えてみる。

 

推測だが、まず、彼女たちは、ストーリーとして魅力的であることを期待し、目の前でキラキラしている人たちの「経験値」に期待している。そして、出会いによる「化学反応」が起きて「目から鱗が落ちる」快感を期待している。

これと対照的なのが「専門知」の領域だろう、と思う。
体系的な、巨人の肩に乗るような「専門知」には、必ずしも魅力的な分かりやすいストーリーは付いてこない(全く無いとも言わないが)。
また、「専門知」の追求においては、「化学反応」や「目から鱗が落ちる」快感ばかりが都合よく期待出来るものではなく、地道な積み重ねが必要となる。

 

実は、彼女はもともと、薬学部に在籍して薬剤師を目指していた。それが、国家試験を結局受けずに、一般企業に営業職として文系就職し、今に至っている。
別に、彼女が薬剤師にならなかった選択を誤りだと言うつもりはないが(職業に貴賤は無い)、彼女はきっと、専門知の価値を体得できないまま、ここまで来てしまったんだろうな、とは思う。

彼女は、巨人の肩に乗り損ねたのだろう。だから、根無し草のように、漂い続けてしまっている。
そんな風に考えていると、彼女が自然療法に「引っ掛かって」しまったことも、何となく納得してしまった。

SDGsの環境問題偏重について

2021年末の紅白でSDGsが取り上げられたが、やはりそのテーマは環境問題だった。

 

紅白に限らず、SDGsには色んな要素がある中、環境だけがここまでメディアや行政などで取り上げられるのって「政治色」が見えないからなんだろうなぁ、と思う。


環境という非人間「みんな」という人間の二者の問題であるかのように描くのであれば、「カド」が立つことを恐れずに触れることができる。

 

その点、例えばジェンダーや貧困といった問題群は、抑圧者(人間)非抑圧者(人間)という構図を避けずに描くことは困難だ。取り上げるに際には政治色が出ざるを得ない。

 

加えて、大手メディアや行政などの「権力」サイドは、このような問題群に対して「抑圧者」サイドであったり、問題群の存在自体に責任を問われるべき立場にあったりすることが多い。必然、「権力」サイドは、これらの問題群に言及しづらい立場にある。

 

例えば、与党政治家が「貧困が問題だ」と述べたとしたら「それはお前らの責任だろう。」、「何とかしろ」と突き上げを喰らうのは目に見えている。
その点、環境問題は「みんなの問題」という描き方で、権力サイドの責任を曖昧にしたまま言及することができる。

 

しかし、当然、環境問題が「政治色」が無い課題かというと、決してそうではない。
被害の側にも加害の側にも、具体的な人間がいる。
例えば、ツバルのような国は被害の側。環境負荷をかけながら経済的利益を追求する多国籍企業やそれらと結託する政治家は加害の側。

 

こう考えていくと「日本においてはSDGsについて環境問題ばかりが取り上げられる」というよりは「日本においては政治色が出にくい問題ばかりが取り上げられる(結果として環境問題が取り上げられやすい)」というのが正確なのかもしれない

 

 

ドラマ『相棒』と『義母と娘のブルース』における社会運動の描かれ方

ドラマ『相棒』は観てないが、「訴訟を起こした当事者である非正規の店舗のおばさんたちが、あのようにいきり立ったヒステリックな人々として描かれ」た点が問題視されたようだ。

相棒20元日SPについて(視聴を終えた方々へ) | 脚本家/小説家・太田愛のブログ

 

マスメディアは社会運動をどのように報道・描写してきたのか?(富永京子) - 個人 - Yahoo!ニュース


その点、1/2の夜にやってた綾瀬はるか主演の『義母と娘のブルース』は対照的だった。 

あらすじ|TBSテレビ:『義母と娘のブルース』2022年 謹賀新年スペシャル

 

(元々ドラマを観てた訳でもないし、昨日も途中からの「ながら観」だったから、不正確かもしれないが)

 


【以下、ネタバレ注意】

ながら観だったから正確じゃないかもしれないが、確か、こんな感じの話。

・小規模パン屋が詐欺的なやり口で大手パン屋(及び結託したハゲタカファンド)に事業を乗っ取られた。

・winwinと偽わられて合併の契約書に判を押したが、実際は事実上、大手資本の傘下に入る合併契約だった。

・それにより、小規模パン屋は、店名やブランド名を利用する権利の一切を使えなくなった

・小規模パン屋の名前を冠したパンが、大手パン屋主導のもと全国のスーパーなどで流通されることになり、大手パン屋の株価は急上昇

・これに対し小規模パン屋は「あいつら(ハゲタカファンド)はパンの1つも焼けないくせに」と憤ったが、それが抵抗の契機になった。

約1000人の小規模パン屋の工場の従業員は、一斉にストライキ+デモすることで合併契約の解消を要求し、詐欺的な合併を押し戻すことに成功した。

ハゲタカファンドは「自力では大好きな株価を1円も上げられない」と喝破された。

 

 


最近読んでた『ブルシットジョブ』で、「価値」を作り出しているのは資本家ではなく労働者であるという「労働価値説」について論じられていた箇所があるが、今回のドラマはそれを彷彿とさせる内容だった。

ある意味古典的なテーマなんだろうが、こういう展開のドラマが、令和の時代に放送されたというのは興味深い。

 

 

 

対話は「有効な手段」なのか「倫理的な使命」なのか

岩波新書の『SDGs』を読んでいる。

 

自治体職員としては、第3章の、「SDGs未来都市」の取り組みがとても興味深い。


住民など様々なステークホルダーとのパートナーシップや協働といった取り組みは、SDGsのゴール16にも沿うし、自分が目指す地方自治のあり方の1つの目標でもある。

 

しかし、自分が所属する自治体で似たようなことができるのかと考えると、なかなか難しいと感じる。

 

先述の「SDGs未来都市」には、首長を始め、行政が住民について信頼を寄せており、真のパートナーシップを確立しようと言う本気度が見える。その本気度は特筆すべきで、だからこそSDGs未来都市に選出されたのだろう、と納得できる。

 

しかし、自分の自治体には、そこまでの本気さがあるのだろうか。

 

例えば、公共サービスのコストについて、どれくらいの負担を利用者に求めるのか(反対にどれくらいを税金で賄うのか)、といういわゆる受益者負担の問題がある。
※例えば、水道料金といったインフラや体育館等の公共施設の使用料、市営バスといった公共交通の料金などの問題。国レベルでは、医療費負担、社会保険料といった論点も考えられる。

これに関して、例えばヒラの職員である自分が「住民を中心とした対話集会を設けましょう」と意思決定層に提案したとしても、その提案が通るのかどうか・・・。

 

 

●このことを考えていた時、この本のことが思い出された。

 


この本では、対話がいかに魅力的か、対話をどうやって実践していくのか、という論点のほかに「なぜ対話が必要なのか」という論点にも言及されている。

この本では、大きく2つのスタンスが提示される。
1つは、対話は、手段として有効だ、というもの。
もう1つは、対話は、そもそも公務員に課されている倫理的な使命だ、というもの。

 

「対話の場づくりをどうやって進めていくのか」という点について、同僚と議論したことがあるのだが、彼女は後者のアプローチの方が個人的には腑に落ちる、と述べていた。


たしかに、公務員は基本的には生真面目だし、草の根的、日常居に対話の場を増やしていくフェーズでは、この倫理アプローチは有効だろうと思う。


しかし「どうやって意思決定層に対話やパートナーシップの意義を説得するのか」ということを考えるフェーズでは、後者の倫理アプローチは有効ではない気がする。

 

「対話や住民参加、パートナーシップの重視が、公務員に求められる倫理的な振る舞いである、だからやるべきである(やらせてくれ)」と説得し、「せやな」と言ってくれるような意思決定層ならば問題ない。というか、そういう人ならば、そもそも「説得」する必要が無い。

 

しかし、仮に食い違いがあり、意思決定層が、対話や住民参加を不確実性、リスクの視点で消極的に捉えるような立場であった場合、そこには事実認識というレベルを超えた「価値観の違い」という断絶が存在する。
これに対し、自らの主張を倫理と言う名で正当化しようとすることは、翻って、そうではない側について「あなたの価値観は非倫理的だ」と断罪することに等しい。
これは、圧倒的に権力が上回る意思決定層に対しての攻め方としては、悪手である。

 

むしろ、対話が目的達成のための手段として有効だ、と割り切って説得する方が、上は「合理的」に判断することができる。

 

 

とはいえ、対話やパートナーシップは、行政目線だと、必ずしも手段として有効ではないかもしれない。少なくとも、面倒だし、予測可能性が担保できないし、住民参加で汗をかいたからと言って、議会が最終的に首を縦に振ってくれなければ無意味(議員が、住民参加を議会軽視とみなすことすらある)という課題がある。
それでも、対話やパートナーシップでないと開けない地平があること—その実績、手ごたえや確信、期待や信頼を積み上げていくしかないのだろうか。

ふるさと納税でコロナ対策費を集めるという「禁じ手」

ふるさと納税(寄付)でコロナ対策費を集める自治体が出始めている。

 

こういうふるさと納税では、通常、返礼品がもらえない。

 

これを活用する人の多くが、自分が返礼品を受け取っていないことから、純粋に「良いこと」をしていると認識しているものと思う。

 

しかし、言うまでもなく、ふるさと納税の「原資」は、本来納めるはずだった居住地への住民税であり、住民がふるさと納税を他自治体にすればするほど、居住地の税収は「流出」していくという事態を見逃すことはできない。

toyokeizai.net

 

つまり、コロナ対策の為に善意で寄付をしたつもりでも、それにより、自分が住んでいる自治体のコロナ対策費が減っているかもしれない、ということだ。

これは、本当に「良いこと」なのか?

 

百歩譲って、災害支援では、こういうふるさと納税も「アリ」なのかもしれない。
居住地(非・被災地)と被災地を天秤にかけて、後者への寄附の方が公益性が高い、という価値観も理解はできる。

 

しかし、コロナに関しては、言うまでもなく、困っていない自治体など無い。居住地のコロナ対応と、寄附先のコロナ対応とで、公益性に果たして差はあるのだろうか。私は、無いと思う。

 

この件について、善意の寄付者を責めることは難しい。
問題なのは、寄付者の善意を梃子にして、他自治体の税源に手を突っ込もうとする政策立案者のなりふり構わない姿勢である。ゆえに、私は、このスキームを「禁じ手」だと断じる。
そして、言うまでもなく、こんないびつ極まりない制度を作った総務省(というか菅総理)にその責任がある。

※限られたもの(人、税金)を自治体間で奪い合う、といういびつさは、地方創生政策全般に言えるもの。

 

要するに、返礼品競争がふるさと納税を歪なものにしている、というのが一般的な理解だと思うが、控除の仕組みがある以上、ふるさと納税自体が、根本的に歪なものでしかない、ということだ。
むしろ、無知なる「善意」を利用する点で、返礼品が無い寄付の方が、よりいびつさが剥き出しになっているようにも思える。

 

※寄附そのものを否定する意図はないし、寄附の受け皿として、自治体が基金を創設することは必要なことだろうと思う。問題は、それをふるさと納税のスキームで集めることだ。

  

なお、実は、企業版ふるさと納税というものもある。
こちらは、もともと返礼品が想定されていないが、最大で寄付額の約9割が控除されるという税制上の効果があり、CSR活動PRとしてのメリットが期待できる、というもの。
CSR活動PRとしてのメリット、というのは、マジで「ふるさとチョイス」のHPに書いてある)

これ、要するに、100万を身銭として用意さえしておけば、所在地に本来払う法人関係税900万円を足し合わせて水増し(あえてこう呼ぶ)し、「1000万円を○市に寄附しました!」と宣伝できるという代物だ。

 

この仕組みに、一体、どのような公益性が見いだせるのだろうか。

 

 なお、企業版ふるさと納税の一つの特徴は、寄付の対象が自治体ではなく個別の地方創生事業である、ということだ。この事業は国が認定するものだが、認定のハードルを下げるべく、令和2年度の法改正で、総合戦略などを包括で認定+事後承認というスキームが可能になっている。自治体関係者以外はよく知らないかもしれないが、総合戦略などは基本的に網羅的なものなので、このスキームだと、あらゆる事業が「地方創生に資する」として認定の(潜在的な)対象になり得る。

 

これにより、例によって、企業版ふるさと納税でコロナ対策費を集めている自治体が存在する。つまり、コロナ対策は、地方創生に資する事業だ、ということ。

 

ははっ、地方創生って、一体、何なんだ?

 

 

※似たような趣旨の記事は、過去にも書いている。

ghost-dog.hatenablog.com